坂口安吾全集 04 |
筑摩書房 |
1998(平成10)年5月22日 |
1998(平成10)年5月22日初版第1刷 |
1998(平成10)年5月22日初版第1刷 |
読売新聞 第二五一六一号 |
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1947(昭和22)年1月20日 |
織田作之助が死んだ。「可能性の文学」は日本文学に対する彼の遺書的な抗議であつたが、実は、これくらい当り前の言葉はない。
織田はアンチテエゼだと自ら述べているのだが、文学における可能性とかウソというものは、実はオルソドックスだつたので、そこに日本文学の悲劇もあつたし、織田の悲劇もあつた。
昔、オスカア・ワイルドがアンドレ・ジイドの口を指して、お前の口はいつも本当を語つていますと示威しているような厭味な口だ、ウソをつくことを知らない口だ、と罵倒した話がある。
そのジイドでも、文学は「実在の人生」でなければならぬ、などとは毛頭考えてはおらぬので、人間にはあらゆる通路が可能なのであり、考え得るあらゆる可能の人生が同時に実在の人生であることを、文学の最も当然な前提としている。それがなければ生活の進歩、モラルの進歩すらも考えられないではないか。
ところが、日本文学の伝統は、特に近代以降の日本文学の伝統は私小説、つまり、作家の生活の偽らざる複写をもつて文学の正統としている。志賀直哉を文学の神様と称したり、宇野浩二を文学の鬼と称したり、また、秋声を枯淡の風格とか神品と称し、そこに見られる文学精神とか精進とか、要するに過去の複写の図式を如何に真実めかすか、垢ぬけさせるか、ということだ。恋愛とか情痴とか時に肉体を描きながら、それを世俗的罪悪感によつて反撥の余地のない垢ぬけしたものに仕上げる。そういう最も職人的な技法だけが彼等のオルソドックスであつた。
彼等の技法は常にその眼が過去に向けられ、未来に向けられることがない。過去とは常に一私人の行為に限定せられるものであるが、それを称して「実人生」という。その実人生の真実を文学の本質とし、オルソドックスと心得ている。
然し、まことの文学は、常に、眼が未来へ向けられ、むしろ、未来に対してのみ、その眼が定着せらるべきものだ。未来に向けて定着せられた眼が過去にレンズを合せた時に、始めて過去が文学的に再生し得るのであつて、単なる過去の複写の如きは作文以外の意味はない。枯淡の風格、秋声の「縮図」の如き、作文技法の典型以外に意味はない。
眼が未来に定着せられた文学には、過去的実人生の真実は必ずしも真実ではない。過去とは、すでに行われたるものであり、その意味において不変であることによつてのみ、ウソをついておらぬだけで、かゝる真実は未来に就ての真実の保証ではあり得ない。
未来においては、あらゆるウソも可能であり、ウソと真実の区別はなく、あらゆるウソも、あらゆる可能性も、やがてそれが生活せられることによつて、全てが真実となるだけだ。そして、それが真実となり得るのは、生活せられることによつてゞはなく、何事も、生活すれば真実でありうるという可能性の中に、より大きな真実性が存する。過去的実人生の真実の如きは取るに足らぬ足跡にすぎぬ。
文学は未来の為にのみ、あるものだ。より良く生きることの為にのみ、あるものだ。人の考えうるあらゆる可能性が真実として作品中に行為せられるところに、文学の正しい意味がある。そこに人間の正当な発展が企てられ、実存している。その眼が未来に定着しない文学は作文にすぎないことを知るべきである。
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