坂口安吾全集 04 |
筑摩書房 |
1998(平成10)年5月22日 |
1998(平成10)年5月22日初版第1刷 |
1998(平成10)年5月22日初版第1刷 |
読売新聞 第二五〇九九号 |
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1946(昭和21)年11月18日 |
私はサルトルについてはよく知らない。実存は無動機、不合理、醜怪なものだといふ。人間はかゝる一つの実存として漂ひ流れ、不安恐怖の深淵にあるといふ。
「我々は機械的人間でもなければ、悪魔に憑かれたものでもない。もつと悪いことには、我々は自由なのである。」実際、自由といふ奴は重苦しい負担だ、行為の自由といふ奴を正視すれば、人間はその汚さにあいそのつきるのは当然だ。こゝまでは万人の思想だけれども、サルトルは救ひを「無」にもとめる。これはサルトルの賭だ。かういふ思想は思想自体が賭博なので、彼自身の一生をはる。サルトルの魅力は思想自体の賭博性にもあるのだと私は思ふ。
サルトルは小説が巧い。この小説を彼の哲学の解説と見るのは当らない。解説的な低さはない。彼の思想は肉体化され、小説自体、理論と離れて実在してゐるものだ。
「水いらず」のリュリュの亭主は不能者だ。リュリュは喧嘩別れして他の男とホテルに泊るが、男が技巧が達者でリュリュはボッとなつてしまふけれども、達者の男はいや、ボッとなるのも嫌ひ、リュリュは不能者の亭主が好きなのである。そして一日ホテルへ泊つただけで、亭主のところへ帰つてしまふ。
この小説には倫理などは一句も説かれてゐない。たゞ肉体が考へ、肉体が語つてゐるのである。リュリュの肉体が不能者の肉体を変な風に愛してゐる。その肉体自体の言葉が語られてゐる。
我々の倫理の歴史は、精神が肉体に就て考へてきたのだが、肉体自体もまた考へ、語りうること、さういふ立場がなければならぬことを、人々は忘れてゐた。知らなかつた。考へてみることもなかつたのだ。
サルトルの「水いらず」が徹頭徹尾、たゞ肉体自体の思考のみを語らうとしてゐることは、一見、理知がないやうだが、実は理知以上に知的な、革命的な意味がある。
私は今までサルトルは知らなかつたが、別個に、私自身、肉体自体の思考、精神の思考を離れて肉体自体が何を語るか、その言葉で小説を書かねばならぬ。人間を見直すことが必要だと考へてゐた。それは僕だけではないやうだ。洋の東西を問はず、大体人間の正体といふもの、モラルといふものを肉体自体の思考から探しださねばならぬといふことが、期せずして起つたのではないかと思ふ。
織田作之助君なども、明確に思考する肉体自体といふことを狙つてゐるやうに思はれる。だから、そこにはモラルがない。一見、知性がない。モラルといふものは、この後に来なければならないのだから、それ自体にモラルがないのは当然で、背徳だの、悪徳だのといふ自意識もいらない。思考する肉体自体に、さういふものはないからだ。一見知性的でないといふことほど、この場合、知的な意味はない。知性の後のものだから。
これからの文学が、思考する肉体自体の言葉の発見にかゝつてゐるといふこと、この真実の発見によつて始めて新たな、真実なモラルがありうることを私は確信するのであるが、この道は安易であつてはならぬ。織田君、安易であつてはならぬ。
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