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推理小説論(すいりしょうせつろん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-5 10:17:07  点击:  切换到繁體中文

底本: 坂口安吾全集 09
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1998(平成10)年10月20日
入力に使用: 1998(平成10)年10月20日
校正に使用: 1998(平成10)年10月20日


底本の親本: 新潮 第四七巻第四号
初版発行日: 1950(昭和25)年4月1日

 

日本の探偵作家の間に、探偵小説芸術論という一風潮があって、ドストエフスキーは探偵小説だというような説があるが、こういうのを暴論と称する。
 すべて、すぐれた文学は人間をトコトンまで突きつめていくものだから、犯罪、それから、戦争、という大きな崖に突きあがってしまう。これは当然の成行で、犯罪や戦争は人間の追求から必然的に到達するものであり、決して犯罪は探偵小説の専売ではない。又、犯罪を取り扱うに当って、それが人間追求の手段としてであっても、読者の興をひくために探偵趣味をそそるような展開法を用いるのも、文学本来の技巧であって、バルザックやドストエフスキーはこういう手法の名手でもあった。谷崎、芥川、佐藤春夫なども、小型ではあるが、この技法を縦横に使いこなしている。だいたい小説に於て「おあとは如何になりゆくか」ということ自体が探偵的なものであって、大小説家はこの技法を天分的に身につけているものであるから、探偵小説専門家よりも本質的に、探偵小説的技法の骨子を会得しているのが当然なのである。
 推理小説というものは推理をたのしむ小説で、芸術などと無縁である方がむしろ上質品だ。これは高級娯楽の一つで、パズルを解くゲームであり、作者と読者の智恵くらべでもあって、ほかに余念のないものだ。
 しかし、日本には、探偵小説はあったが、推理小説は殆どなかった。小栗虫太郎などはヴァン・ダインの一番悪い部分の模倣に専一であって、浜尾四郎や甲賀三郎の作品も、謎解きをゲームとして争う場合の推理やトリックの確実さがない。終戦前の探偵文壇は怪奇趣味で、この傾向は今日も残り、推理小説はすくないのである。
 近代文学ではヴォルテールの「ザジッグ」などが素人探偵のハシリかも知れないが、ザジッグが探偵眼を働かせると女房の間男を発見するていのニヒリズムの産物で、探偵小説ではない。
 探偵小説の祖はポオだが、ドイルのホームズ探偵までは、推理小説の初期である。
 ドイルまでの世界は今日の日本では、捕物帖に移植されている。捕物帖には指紋や科学的な鑑識は現れないが、推理やトリックの手法はドイルで、ドイルは捕物帖の祖であり、推理小説よりも捕物帖的である。
 今日の推理小説の形式は、ガボリオのルコック探偵から始まっている。これが「黄色い部屋」のルレタビーユに発展して、推理小説の現代式の骨格やトリックの在り方は、ほゞ確定したようである。しかし「黄色い部屋」には新奇のトリックを狙いすぎて不合理があり、確実さや合理性に於てはルコックよりも退歩していると見てよい。これからあとは現代である。
「黄色い部屋」は密室殺人の元祖でもある。このトリックは簡単ではあるが、それだけ現実的でもあって、犯人は犯行が発見されたとき、鍵のかけられた密室の現場にいたのである。扉があけられたとき、扉の裏側にブラ下って隠れ、やがて見物人がきたとき、自分もその一人のフリをして、室内に現れていたのである。
 密室はヴァン・ダインによって、糸を利用した工夫や、蓄音機を利用した工夫や、兇器を仕掛によって自然に室外に隠す工夫や、手を代え品を代えてトリックが施され、これは今日では常識となり、特に日本では濫用されすぎているようである。
 だいたい推理小説というものは、トリックの新発明が主要な課題となり、これによって読者と智恵くらべをするものだ。読者は、又、作者と智恵くらべをたのしむに当って、従来のトリックを多く知るはど興味が深まるものであり、こうして従来のトリックをマスターしたアゲクには、自分もひとつ推理小説を書いて未知の友に挑戦したいと考える。これが推理作家の生れる自然の順序で、本来アマチュア、愛好家という素人によっで新分野のひらかれるべき世界だ。
 推理小説というものは、常に新しい工夫、新トリックの発見によって挑戦するところに妙味があるのだから、そうヒョイ/\と卵を生むようなワケには行かず、厳密な意味では職業作家としては成り立たないのが自然なのである。濫作して、マンネリズムにおちいっては、ゲームの妙味が失せてしまう。
 ヴァン・ダインも、愛好家から、挑戦を思いたって自ら作品を書くようになったもので、アマチュアあがりらしく挑戦をたのしんでいる素人のよさや、ついでに衒学をひけらかして読者を煙にまいている稚気のほども面白くはあるが、素人の悲しさに文章がヘタで冗漫すぎること、したがって、衒学ぶりが軽快さを失って、作品を重くし、退屈にしていること、素人の良さ悪さが差引きマイナスになっている。このマイナスのところを主として模倣して、重さ退屈さに輪をかけてしまったのが小栗虫太郎であり、これが後日の日本の推理小説の新人に主たる悪影響を及ぼしているのである。
 しかし、根からの推理作家という天分にめぐまれた人もないことはない。どんなに濫作しても、謎ときのゲームに堪えうるだけの工夫と確実さを失わないという作家である。アガサ・クリスチー女史とエラリイ・クイーンが、そうである。
 クリスチー女史の華麗多彩な天分に至っては、驚嘆のほかはない。あれほどの濫作をして、一作毎に工夫があり、トリックにマンネリズムが殆どなく、常に軽快な転身は驚くばかりである。文章も軽快、簡潔であって、謎ときゲームの妙味に終始し、その解決に当って、不合理によって読者を失望させることが、先ず、すくない。ただクリスチー女史には、優雅な美人は絶対に犯人にならないという女らしい癖があって、この癖が分ると、謎ときがよほど楽になるのである。
 一般に「アクロイド殺し」をもって代表させているが、却々なかなかもって一作二作で片づけられるようなボンクラではなく、「スタイルズ荘」「三幕の悲劇」その他傑作は無数であるが、特に「吹雪の山荘」は意表をつくトリックによって、軽妙、抜群の発明品であり、推理小説のトリックに新天地をひらいたものとして、必読をおすすめしたい。
「吹雪の山荘」のトリックほど平凡なものはない。現実に最もありうることで、奇も変もないのであるが、恐らく全ての読者がトリックを見のがしてしまうのである。読者は解決に至って、あまりにも当然さにアッと驚き、あまりにも合理性の確実さに舌をまいて呆れはてるであろう。しかし、読みすすんで行くうちは、この悠々と露出しているトリックに、どうしても気附くことができないのである。このトリックの在り方は、推理作家が最大のお手本とすべきものであろう。
 クイーンも亦、クリスチー女史につぐ天才であり、筆も軽く、謎ときゲームの妙味に終始し、濫作しつつ、駄作のすくない才人であるが、トリックや推理の確実性、合理性という点で、クリスチー女史に一歩をゆずる。読者に決定的な証拠を与えていない場合が多く、組み立てに確実さが不足している。それが犯人であってもフシギではなかった、という程度にしか読者が納得させられない場合が多いのである。
 この二人をのぞくと、あとは天分が落ちるようだ。一二の傑作はあって、全作にわたっては駄作が多く、合理性が不足して、解決を読んで納得させられない場合が多い。概ね解決が意外であるが、合理的に意外であること、納得のゆく意外であることの重要な要素が欠けているのである。推理小説の解決は意外でなければならないが、不合理に意外ではゼロであり、不合理の意外さだったら、どんなボンクラでも不意打をくらわせることが出来るのは当然である。
 クロフツの作品は推理小説の型としては異色あるものだが、「樽」のような名作をのぞくと、駄作が多く、不合理に意外であったり、はからざる大集団の犯罪であったり、そのヒントが与えられておらず、謎ときゲームとしては、最後に至って失望させられることの方が多いようだ。
 カーも意外を狙いすぎて不合理が多すぎる。「魔棺殺人事件」は落第。
 個々の傑作としては、クリスチー女史、クィーン、ヴァン・ダインの諸作は別として、「矢の家」「観光船殺人事件」「ヨット殺人事件」「赤毛のレドメイン」ほかに思いだせないが、まだ私の読んだ限りでも十ぐらいは良いものがあったはず、しかし、百読んで、二ツか三ツ失望しないものがある程度だ。世界的に名の知れた人々の作品で、そうなのである。
 日本では横溝正史が抜群であり、作家としての力量は世界のベストテンに楽にはいりうるものである。特に「蝶々殺人事件」は傑作であり、終戦後の作品には、愚作がすくない。最もつまらないのが「本陣殺人事件」で、「蝶々」をおさえて「本陣」に授賞した探偵作家クラブの愚挙は歴史に残るものであろう。
「蝶々」はすばらしいものだ。東京と大阪を往復しての相つぐトリックの華麗さは特筆さるべきものであり、展開の妙もめざましい。トランクを東京駅へ運んだ友人には船酔いの薬と称して毒薬を与えて軽く片づけているあたり、末端に至るまで捌きが軽妙をきわめて快い。
 一つ難を云えば、犯人の志賀が大阪のホテルに於て第二の殺人を犯したとき、アリバイをつくるために屍体を縄でよじって、よじれが戻って屍体が街路へ落ちるまでの時間に階下へ降りるトリックであるが、これは単に殺して何喰わぬ顔をしている方が無難で、いつ殺したか、その時間に誰がどこにいたか、殆ど分らなくなるはずである。却って、アリバイをつくろうとして妙に手のこんだ仕掛をするだけ、発見される危険が多いのである。仕掛の縄をあとで片づける危険だって大変だし、それらが人目につかない方が妙だ。

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