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教祖の文学(きょうそのぶんがく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-5 10:09:35  点击:  切换到繁體中文


 わが教祖、小林氏も芸術は自我の創造発見だと言ふのである。紙に向つた時には何もない。書くことによつて、創造され、見出されて行くものだ、と言ふのだ。私も大いに賛成である。
 然し、紙に向つて何もないといふことは自分に就いて何も知らないといふことではない。ある限度までは知つてゐる。自分といふものをある限度まで知悉しない人間が、小説を書ける筈のものではない。一応自分といふもの、又、人間といふものに通じてゐなくて、小説の書けるわけはないのだ。尚、そのうへに発見するのであり、創造するのだ。なぜなら、作家といふものは、今ある限度、限定に対して堪へ得ないといふことが、作家活動の原動力でもあるからだ。
 モオツァルトの作品は殆どすべて世間の愚劣な偶然な或ひは不正な要求に応じてあわたゞしい心労のうちになつたもので、予め目的を定め計画を案じて作品に熟慮専念するやうな時間はなかつたが、モオツァルトは不平もこぼさず、不正な要求に応じて大芸術を残した。天才は外的偶然を内的必然と観ずる能力が具はつてゐるものだ、と言ふ。それはモオツァルトには限らない。チエホフの戯曲も不正な要求に応じて数日にして作られ、近松の戯曲もさうだ。ドストエフスキーも借金に追はれて馬車馬の如く書きまくり、読者の嗜好に応じてスタヴロオギンの歩き道まで変へて行くといふ己れを捨てた凝り方だ。いかにも外的偶然を内的必然と化す能力が天才の作品を生かすものだ。
 然しながら、作品に就いて目的を定め計画を案じ熟慮専念する時間がなくとも、少くとも小説作者の場合に於いては、一応人間に通じてゐることは絶対の条件であり、人間通の裏附は自我の省察で保たれるもの、そして常に一つの作品を書き終つたところから、新らたに出発するものだ。一つの作品は発見創造と同時に限界をもたらすから、作家はそこにふみとゞまつてはゐられず、不満と自己叛逆を起す。ふみとゞまつた時には作家活動は終りであり、制作の途中に於いても作家をして没頭せしめる力は限界をふみこし発見に自ら驚くことの新鮮なたのしさによる。
 生きた人間を自分の文学から締め出してしまつた小林は、文学とは絶縁し、文学から失脚したもので、一つの文学的出家遁世だ。私が彼を教祖といふのは思ひつきの言葉ではない。
 彼はもう文学を鑑賞し詩人を解するだけだ。歴史の必然とか人間の必然といふ自分勝手な角度によつて、彼はもう文学や詩人と争ひ、格闘することがないのである。争ふとか格闘するといふことは、自分を偶然の方へ賭けることだから、彼はもう偶然などは俺にはいらないといふ悟りをひらいてゐるのだ。詩人のつとめて隠さうとし忘れようとしたものを暴くのは鑑賞のためや詩人を解するためではなく、自分の仮面をはがさうとする同じ働きが他へ向けられただけのことで、普遍的な真理といふやうなものを暴くんぢやない。仮面を脱ぐといふことも真理を暴くといふのぢやなくて、たゞさうせずにゐられぬからだといふやうな罰の当つた苦悩格闘、そんなものはもう小林には用はない。
 常に物が見えてゐる。人間が見えてゐる。見えすぎてゐる。どんな思想も意見も彼を動かすに足りぬ。そして、見て、書いただけだ。それが徒然草といふ空前絶後の批評家の作品なのだと小林は言ふ。これはつまり小林流の奥義でもあり、批評とは見える眼だ、そして小林には人間が見えすぎてをり、どんな思想も意見も、見える目をくもらせず彼を動かすことはできない。彼は見えすぎる目で見て、鑑定したまゝを書くだけだ。
 私は然し小林の鑑定書など全然信用してやしないのだ。西行や実朝の歌や徒然草が何物なのか。三流品だ。私はちつとも面白くない。私も一つ見本をださう。これはたゞ素朴きはまる詩にすぎないが、私は然し西行や実朝の歌、徒然草よりもはるかに好きだ。宮沢賢治の「眼にて言ふ」といふ遺稿だ。

だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず
血も出つゞけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといい風でせう
もう清明が近いので
もみぢの嫩芽わかめと毛のやうな花に
秋草のやうな波を立て
あんなに青空から
もりあがつて湧くやうに
きれいな風がくるですな
あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄こんぱくなかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを言へないのがひどいです
あなたの方から見たら
ずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やつぱりきれいな青ぞらと
すきとほつた風ばかりです


 半分死にかけてこんな詩を書くなんて罰当りの話だけれども、徒然草の作者が見えすぎる不動の目で見て書いたといふ物の実相と、この罰当りが血をふきあげながら見た青空と風と、まるで品物が違ふのだ。
 思想や意見によつて動かされるといふことのない見えすぎる目。そんな目は節穴みたいなもので物の死相しか見てゐやしない。つまり小林の必然といふ化け物だけしか見えやしない。平家物語の作者が見たといふ月、ボンクラの目に見えやしないと小林がいふそんな月が一体そんなステキな月か。平家物語なんてものが第一級の文学だなんて、バカも休み休み言ひたまへ。あんなものに心の動かぬ我々が罰が当つてゐるのだとは阿呆らしい。
 本当に人の心を動かすものは、毒に当てられた奴、罰の当つた奴でなければ、書けないものだ。思想や意見によつて動かされるといふことのない見えすぎる目などには、宮沢賢治の見た青ぞらやすきとほつた風などは見ることができないのである。
 生きてゐる奴は何をしでかすか分らない。何も分らず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリ/\のところを這ひまはつてゐる罰当りには、物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。芸術とはさういふものだ。歴史の必然だの人間の必然などが教へてくれるものではなく、偶然なるものに自分を賭けて手探りにうろつき廻る罰当りだけが、その賭によつて見ることのできた自分だけの世界だ。創造発見とはさういふもので、思想によつて動揺しない見えすぎる目などに映る陳腐なものではないのである。
 美しい「花」がある、「花」の美しさといふものはない、などといふモヤモヤしたものではない。死んだ人間が、そして歴史だけが退ッ引きならぬぎりぎりの人間の姿を示すなどとは大嘘の骨張こつちようで、何をしでかすか分らない人間が、全心的に格闘し、踏み切る時に退ッ引きならぬぎり/\の相を示す。それが作品活動として行はれる時には芸術となるだけのことであり、よく物の見える目は鑑定家の目にすぎないものだ。
 文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるといふことは必ずしも行ふといふことでなくともよいかも知れぬ。書斎の中に閉ぢこもつてゐてもよい。然し作家はともかく生きる人間の退ッ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚づつはぎとつて行く苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌ひだすのでなければダメだ。生きる人間を締めだした文学などがあるものではない。
 小説は十九世紀で終つたといふ、こゝに於いて教祖はまさしく邪教であり、お筆先きだ。時代は変る、無限に変る。日本の今日の如きはカイビャク以来の大変りだ。別に大変りをしなくとも、時代は常に変るもので、あらゆる時代に、その時代にだけしか生きられない人間といふものがをり、そして人間といふものは小林の如くに奥義に達して悟りをひらいてはをらぬもので、専一に生きることに浮身をやつしてゐるものだ。そして生きる人間はおのづから小説を生み、又、読む筈で、言論の自由がある限り、万古末代終りはない。小説は十九世紀で終りになつたゾヨ、これは璽光様の文学的ゴセンタクといふものだ。

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