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太平はさうせずにはゐられない力に押されて庄吉を訪ねた。もしやそこにキミ子がゐるかも知れぬといふことが希ひであつたが、同じ苦悶を見つめてゐる庄吉の顔を見ることがせめての希ひの一つでもあつた。キミ子はそこにもゐなかつた。
「生方さん。外を歩いてみないか。歩きながら話したいこともあるのだが」
庄吉はついでに仕事に行かうといつて、洋服に着換へ、カバンを下げて出てきた。芝浦の岸壁の方へでて、太平はキミ子が彼のもとにゐた顛末を打ちあけた。
「その引越したあとへ俺は一度君を訪ねて行つたのだ」
それから庄吉は長いあひだ無言に肩を並べて歩いてゐた。
「あゝ!」
たまりかねた小さな呻き声が庄吉の口からもれた。庄吉は緩かに片手を顔に当てた。庄吉の腸をつきぬけて出る棒のやうな何物かがあつたやうな気がすると、彼の顔には壮烈に涙が走り、彼は鞄を落してゐた。
庄吉は狂つたやうに太平にとびかゝつた。太平の喉を押へて両の拳でグイグイ突きあげた。
「この野郎! この野郎! この野郎!」
太平は倉庫のコンクリートに押しつけられて、拳に頤を突きあげられてゐた。その痛さに一瞬気を失ひさうになりかけたが、その時チラと見た泌みるやうな青空の中に、キミ子の真白な腕と脚を見たのであつた。
庄吉は手を放すと、今度は倉庫のコンクリートを両手で押してゐるやうな姿で身体を支へて、呼吸ををさめながら暫く茫然としてゐた。太平は青空の中に見たキミ子の肉体を反芻しながら、あの肉体はすでに去つたといふことを妙に爽やかに思ひつゞけてゐるのであつた。
太平はひと月あまりトランクを眺めて暮した。奇妙に虱はもうゐなかつた。そのことが時々変な気がするのであつた。虱の中に可愛い女が棲んでゐた。いつか洗濯してあげるわねと言つたが、洗濯などはしてくれなかつた。
このトランクを庄吉に返してやらうと太平は思つた。なぜなら、トランクを眺めて暮してゐる太平の姿を、キミ子の目が見てゐることを太平は感じるからだつた。キミ子がトランクを取りに来て、それが庄吉にとゞけられてゐることを知つた時のキミ子の当て違ひを考へて、太平は満足を感じた。けれどもキミ子がそのために怒ることを考へると、不安と満足と対立するので苦しんだ。
太平はトランクをぶらさげて庄吉を訪ねた。
「どうだい。温泉へでも行つてみないか」
と庄吉がいつた。
「どこへ行つても同じことぢやないかな。我々は」
「ハッハッハ」
庄吉は箪笥の戸棚から幾つかの人形をとりだしてきた。それは綿をつめて作つた布の人形で、みんな女体であるが、頬紅をぬつたり大きな眼が油つぽく澱んでゐたり、腹だの脚だの腕だのが変にぶよぶよと肉感的で、腕をまげたり腰をくねらせたりして見てゐると生物に見えてくるのであつた。
「みんなキミ子の作品だ」
「こんな芸がある人かねえ」
それらはたしかに相当の作品だつた。どこかしらキミ子に似てゐるやうに思はれた。どの人形も理智よりも肉体の情慾ばかりであつた。絡みつくやうなしつこさと、狙つてゐる肉慾の目があつた。
「好きなのを取りたまへ。部屋の飾り物には不向きかも知れないがね。変に息苦しいやうなところがあるなア」
と庄吉がいつた。
けれども太平は人形を貰はずに戻つてきた。いとまを告げるまでは矢張り貰つて帰らうかと思ひ迷つてゐたのであるが、外へでるとその迷ひは消えてゐた。低俗な魂への憎しみが高まつてゐた。暗闇を這ひずるやうな低い情痴と心の高まる何物もない女への否定が溢れ、その暗闇を逃れでた爽かさが大気にみちて感じられた。あの人形もずゐぶん奇妙な肉感に溢れてゐたが、そして、どこかしらキミ子に似てゐたが、と、太平はゆとりの籠つた追想に耽つた。だが、冬の夜更けの外套と青空の下の情熱はさすがに見当らない。あの外套とあの青空がなければ――そしてその外套もその青空もすでに戻らぬことに思ひ至ると、鋭い痛苦が全身を砕き、太平はたゞ千丈の嘆息のみを知るのであつた。
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