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「胃袋を大切にしなさい。胃袋を。大学をでる。役人になる。一週五回以上の鯨飲馬食に耐えねばならぬ。頭は必要ではない。中国、ニッポン、朝鮮。主として胃袋のぜい弱なる者は指導者の位置につけない国。頭を使うと胃ブクロへ行く血液がへる。危険。胃ブクロを使うと頭に行く血液がへる。安全。要するに頭を使うと不幸になる。だから、立派な部屋には、いつも胃ブクロがいる」(アサヒグラフ「魚眼レンズ」より)
これはジャーナリズムの諷刺であるが、この結論にしたがって、立派な部屋に胃ブクロの絵を書いているのが、二科の謎々だと思えば、まず間違いはない。
もっと高尚で複雑だという作者があれば、イヤ、それはもっとデタラメで本人もワケが分らんという意味だ、と私は言いかえすツモリなのである。
「魚眼レンズ」の諷刺は、文章によって巧みに戯画を描いてみせている。最後の結論に至って、諷刺の本領を発揮し、巧みに視覚的な幻像を与えている。しかしこれは文章に構成され、最後に視覚に訴えるまでの文章の綾があって、はじめて戯画が生きてくるのだ。これは視覚に訴えるにしても、文章の力であり文章の世界なのである。
試みに、「魚眼レンズ」に最後の結論だけをのせて、「立派な部屋にはいつも胃ブクロがいる」と云ったところで、なんの力もない。諷刺にもならなければ、謎々の問題にもなりやしない。この謎々をとけ、それが文化というものだ、知識というものだ、とでも考える仁があるとすれば、滑稽怪奇ではないか。
ところが、二科の教祖ならびに弟子は、概ね、これをやらかしているのである。
絵は言葉によって語るものではなくて、色によって語るものだ。しかし二科の謎絵はそうではない。彼らの観念は、絵に至るまでには言葉によって導入されており、そして導入された最後だけを言葉から切り離して、色の世界に置きかえようと試みているにすぎないのである。
私の隣に見ていた二人の学生は、東郷青児の絵を、横目でチョイと見ただけで、
「こいつ、甘ったるいなア」
と云って、近所の謎絵の方に腕を組んで見入っていたが、いくら甘いったって、東郷青児の絵は、その観念の構成が、始めから純粋に色である。言葉の借り物がないだけでも、謎絵よりは大そう良かろう。絵の展覧会というものは、教祖や弟子から謎をかけてもらいに行くところではないのである。
これら謎絵の狂信者の大元の大教祖はとたずねれば、ピカソあたりになるのだろうが、ピカソという人は、日本の弟子とは大ぶ違っているようだ。第一に、この先生はすでに絵描きではないし、そのことを自覚している先生である。この教祖は絵画を下落させた。つまり、絵画というものを独立して存在する芸術から下落させて、建築の一部分、実用生活の一部分に下落させた人である。しかし、これが下落か上昇かは、にわかに断定ができないが、彼は芝居の背景もコスチュームも構成するし、陶器も焼くし、椅子や本箱のデザインでも、なんでもやる。彼の絵の観念的先駆をなしているものは、実生活の実用ということで、絵という独立したものではない。
日本の小教祖や小弟子の絵や彫刻にも、ピカソの自覚があれば、まだ救われると思う。私が見たものの中でも、これはフロシキか、これは帯の模様か、これはイスか、これはジュウタンか、と思うようなのはタクサンあった。謎をかけようなどという妙な根性は忘れ、専一に実用品の職人になれば、まだしも救われるであろう。すくなくとも、彼らのつくるものは、全く絵ではない。
ラジオに「私は誰でしょう」というのがあるが、二科の謎絵は「私は何でしょう」という第一ヒントを題名でだしているようなものである。おまけに、そのあとが、つづかない。フロシキや帯の模様としてはデザインが見苦しいし、色が汚いし、製作がゾンザイである。
一つとして、良いとこがない。実用品の職人になるにも、一人前になるまでには、まだまだ前途甚だ遠い。
彼らの制作態度は、まさしく教祖的の一語につきているようだ。いたずらに大を狙う。この大が、タダゴトではない。二ツの蕪のようなオッパイを空中にとばせるために十尺四方も色をぬたくる必要があるか。空中はたしかに広いものであるが、一尺四方でも表現できるし、オッパイなんてものは、吊り鐘のように大きく書くものではないですよ。造化の神様が泣くと思うよ。
次に、いたずらに、不可解を狙う。コケオドシという教祖の手である。曰く言いがたし、この門をくぐる者には幸がある、という怪しき一手でもある。これを腕をくみ、小首をかしげて、神妙に対座して謎をとこうという書生がいるから、教祖は常によい商売なのである。
次に、在来のものを否定する。これぐらいカンタンな手はない。
私がせめて彼らに願うことは、ともかく実用品たれ、ということである。腰かけることのできるイス、物をつつめる一枚のフロシキをつくる方が、諸君の絵や彫刻よりもムダではない。
絵の感覚は似たようでも、もっぱら実用品の新案のために妙テコレンな、しかし熱心な工夫をこらしている花森安治の仕事の方が、私にはどれぐらい高尚に、又、大切に見えるか分らない。たとえ二科の教祖諸氏が彼を絵の素人とよぶにしても、私は彼を実用生活の芸術家とよび、諸氏を単なるニセモノ山師とよぶであろう。
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