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日本の水泳が世界記録を破るようになってから、日本水上聯盟はやたらに、そして不当に世界新記録を製造しすぎるようである。終戦後は殊のほか、それが甚しい。日本の記録が公認されないところからくるカラクリ、詐術と云っては酷かも知れぬが、これも一つの非スポーツ的な詐術であると断定してさしつかえないと私は思う。
古橋が四百で四分三十三秒という世界記録をつくったのは三年前のことだ。そのとき破られた従来の記録が、何分何秒だか知らないが、かりに四分三十六秒とでもしておこう。それからこッち、四分三十三秒を破らないに拘らず、三十三秒から六秒の間は、いつも世界新記録のアナウンスである。三秒から四秒、五秒と破るたびに新記録が下るから妙だ。
未公認新記録と、新記録の関係がアイマイであり、おまけに短水路の記録というものを、長水路のプールに換算してみたり、時にはこれを勝手に黙殺して、長水路世界新記録と叫んでみたり、ムリヤリ世界記録をアナウンスするために、秘術これつとめているのである。世界新記録病という精神病患者であり、世界新記録宗という一派をひらいて古橋でも教祖にしかねないコンタンのように見うけられる。
一度四分三十三秒がでて、世界新記録をアナウンスした以上は、その後に三十四秒や五秒がでても、世界新記録とアナウンスしないのが当然だろう。
一般人間の生活には生きた血が流れている。それと同じように、市井の真実は生きた血が流れていなければならないものだ。古橋が四分三十三秒の記録をだした時には名実とも大記録であり、この世界新記録には生きた血がながれていた。
ところが、その後のレースに、三十四秒と一秒さがっても、世界新記録、その又あとで三十五秒とさがっても、これ又世界新記録。知らない人はホントにしますよ。そして、たいがい、そんなカラクリとは知らないから、古橋はじめ日本の水泳選手はいつも世界記録を破っていると思っている。
三十三秒も四秒も公認されていないから、三十五秒も世界新記録だという理窟であろうが、公認というハンコがおしてないからったって、三十三秒と四秒と五秒のレースのタイムをはかって真実コレコレでございと発表したのは、お前さんじゃないか。お前さんは、自分のはかって発表したタイムを忘れる筈はなかろう。ハンコに対する官僚的な忠誠や正確さの問題ではなくて、簡単に良心の問題であり、算術の問題であるよ。三十三秒と四秒と五秒と三ツのうちで、三十三秒が一番なのは明かであるし、おまけに、そッちの方が時日的に早く記録されているのだから、お前さんの発表に関する限りは、三十三秒をわらない限り、新記録ではありません。公認記録をタテにとって、内容の下落した新記録を重複させるのは、新記録詐欺というものだ。
庶民というものは、もっと無邪気なものだ。彼らは本当の真実を知りたがり、、その正当なものに、無心に拍手を送りたがっているだけのことだ。大本営発表みたいな特殊な算術で、是が非でもカラクリの戦果をあげて、君が代をやろうというコンタン、実にどうも、大本営発表は、官僚精神のあるところ、昔から日本に存在し、今もかくの如くに存在している。
「一着アーク。古橋クン。ニッポン。時間。四分三十三秒二。世界新記録」
今度の日米水泳の四百米のアナウンスである。こういう新記録病的算術は、理にかなったものでもないし、礼儀にもかなってもいない。言葉というものは、つくす方がよろしい。真実を語るために、言葉があるのだから。これは、こう言えば足りるのである。
「これは公認世界記録を破ってはおりますが、自己のつくった未公認の最高記録四分三十三秒には及びません」
しかし、もっと親切に言えば、これにつけ加えて、
「未公認最高記録は、マーシャル君の四分二十九秒五であります」
ここで、やめてくれると立派なのだが、日本水上聯盟のアナウンサーは必ずこう附け加えるに極ってるんだね。
「ただし、この記録は、短水路プールでつくられたもので、長水路におきましては、古橋君の四分三十三秒が最高であります」
どうしても、日本の新記録ということに持ってかないと承知しないんだね。
そして、彼は遂に次のような算術を教えてくれることシバシバである。
「この短水路プールの記録は、長水路に換算いたしますと、何分何秒になります。したがって日本の何々君の記録が、実質的に世界最高記録であります」
短水路を長水路に換算するというのは、ターン一回につき何秒かもうけているとみて、ターンでもうけた時間を短水路の記録につけ加えるのである。ターンでもうける時間を何から割りだしたのか知らないが、記録保持者当人のターンの速力でないことは確かである。こういう手前勝手な算術をしてでも、日本の何々君を新記録にしないと気がすまないのが、日本水聯というところである。
そんな私製のニセ算用をしなくとも、短水路の記録が憎けりゃ、お前さんも、短水路で記録会をやるがいゝじゃないか。そして毎年、現にそれをやっているのだけれども、いい記録はでていない。古橋の短水路の記録は四分三十二秒六で、マーシャルの二十九秒五には相当のヒラキがある。記録の好きな日本水聯流に云えば、マーシャルの二十九秒五が最高記録になるのだが、こまったことに、日本水聯は記録好きでも、短水路の記録はキライで、手前勝手に長水路に換算してしまうのである。
しかしながら、レースというものは、せりあいにあるのである。決して単にタイムが相手ではない。タイムが相手なら、日米一堂に会してレースをやる必要はない。銘々各地で記録をとって、くらべ合って、オレが一番だ、アレは二番さとウヌボレておればすむことなのである。
日本水上聯盟は、この理を忘れている。タイムを比較していつも勝つツモリでいながら、クラブやメディカに負けたのは、せり合いの力で負けたのだ、ということを、本質的な問題として、考察することを忘れているのである。
キッパス監督はマーシャルを評して、千五百の出だしにあんなに速くては続かないのが当然だと云った。日米水泳界の先輩連は、これについては一言も語らず、この説に賛同するかに見えるけれども、実はさにあらず、出だしの四百ぐらいを四百レースのつもりで全力で泳いで、あとは流すことによって、さらにタイムを短縮できるという説が今まで多かったのである。つまりマーシャルは四百を四分四十三秒ぐらいで泳いでキッパス氏に速すぎると批難されているのだが、日本流に云うと、古橋なら四分三十四五秒で四百を泳がせて、あとを流させようというわけだ。これも一つの方法ではあるが、タイムということを考えて、せり合いを忘れている方法なのである。そして、力の強い選手の追いこみにあうと、負ける性格でもある。アルネ・ボルグのラップタイムはこれ式であった。千五百の最初の百を一分二秒ぐらいで泳いでいる。彼の場合は、二着と一分の差があり、追われる心配はなかったが、彼とマーシャルは体格や泳ぎ方にも、ちょッと似たところがあるようだ。
古橋を千五百に出さずに二百に出して、全世界のファン待望のマーシャルとの決戦を実現させなかった日本水聯は、対抗競技の意識が強すぎると云って、批難されたが、私はこれも、日本式タイム流のあやまった考えからだと思うのである。彼らの意識下には、水泳はタイムだから、せり合わなくとも、いずれはタイムが証明する、という鷹揚な気持があってのことだろうと思う。
しかし、レースはせり合いだという勝負の本質を知る者にとっては、古橋とマーシャルの今度のせり合いぐらい待望のものはなかった。マーシャルは意外に不振であったが、それは結果が判明してからの話で、マーシャル自身もレース前には好調のつもりでいた。古橋はすでに年齢で、これから降り坂になるかも知れない時であり、全盛の古橋と好調のマーシャルのレースというものは、両者これ以上のコンディションに於ては、あるいは不可能であるかも知れないと観測されないこともない。古橋は長距離王国の日本に於ても超特級品であるが、マーシャルは、日本独壇場の千五百で、はじめて日本の王座をおびやかす欧米の超特級品。欧米ではアルネ・ボルグ以来の二十数年ぶりの天才で、この種目では今後なかなかこれだけの選手が現れなかろうと思うのが至当な稀有な場合である。
この決戦を平然として棄権させた日本水聯の愚行は論外である。結果はマーシャルが不振のために救われたようなものではあるが、これだけの大レースを実現させるためには借金を質においても、というほどの、水泳の正しい教養が身についていれば、当然そうでなければならないことであった。つまり彼らの水泳家としての教養はコチコチの日本主義者ではあるが、紳士の域に至らぬことを明かにしているのである。レースはせり合いだという事の本質を知らないのである。そのために、過去の四百レースでいつも苦杯をなめていながら。はじめて古橋という国産のせり合いの特級品を持ちながら。
しかし、今度の日米競泳は面白かった。今までの日本は箱庭式のタイム派で、キレイに相手を離して勝つか、追いこまれるか、一方的で、自分が追いこんだことがない。今度に限って古橋が相手を追いこむ。すると、又、これに追いこみをかけるマクレンもあり、コンノもありというわけで、レースにこもった力というものは、すごかった。抜いたり、抜かれたりである。日本にも、古橋式のレース強い馬力型の選手がたくさん出てくれると国内競技でこれが見られるが、目下古橋一人であり、元々食物が粗悪なところへ、戦争このかたの欠食状態であるから、馬力型の特級品が現れる可能性は当分甚しく心ぼそい。しかし、レースをたのしむ者の身にしてみると、抜かれたり、抜きかえしたりの力、あの振幅の限度にみなぎる力の大きさ、美しさに目を奪われるのである。箱庭式のタイム派からは、こんな美を感じることはできない。力というものを見ることができないのだから。それは、せり合いがあり、選手の身にしてみれば、賭の上にも無慈悲な賭が重なって、そして現れてくるものだから。
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