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安吾巷談(あんごこうだん)07 熱海復興

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-5 9:47:02  点击:  切换到繁體中文


          ★

 熱海大火後まもなく福田恆存に会ったら、
「熱海の火事は見物に行ったろうね」
 ときくから、
「行ったとも。タンノウしたね。翌日は足腰が痛んで不自由したぐらい歩きまわったよ」
「そいつは羨しいね、ぼくも知ってりゃ出かけたんだが、知らなかったもので、実に残念だった」
 と、ひどく口惜しがっている。この虚弱児童のようなおとなしい人物が、意外にも逞しいヤジウマ根性であるから、
「君、そんなに火事が好きかい」
「あゝ。実に残念だったよ」
 見あげたヤジウマ根性だと思って、私は大いに感服した。
 私が精神病院へ入院したとき小林秀雄が鮒佐ふなさの佃煮なんかをブラ下げて見舞いにきてくれたが、小林が私を見舞ってくれるようなイワレ、インネンは毛頭ないのである。これ実に彼のヤジウマ根性だ。精神病院へとじこめられた文士という動物を見物しておきたかったにすぎないのである。一しょに檻の中で酒をのみ、はじめはお光り様の悪口を云っていたが、酔いが廻るとほめはじめて、どうしても私と入れ代りに檻の中に残った方が適役のような言辞を喋りまくって戻っていった。
 ヤジウマ根性というものは、文学者の素質の一つなのである。是非ともなければならない、という必須のものではないが、バルザックでも、ドストエフスキーでも、ヤジウマ根性の逞しい作家は、作家的にも逞しいのが通例で、小林と福田は、日本の批評家では異例に属する創造的作家であり、その人生を創造精神で一貫しており、批評家ではなくて、作家とよぶべき二人である。そろって旺盛なヤジウマ根性にめぐまれているのは偶然ではない。
 しかし、天性敏活で、チョコ/\と非常線をくぐるぐらいお茶の子サイサイの運動神経をもつ小林秀雄が大ヤジウマなのにフシギはないが、幼稚園なみのキャッチボールも満足にできそうにない福田恆存が大ヤジウマだとは意外千万であった。
 私は熱海の火事場を歩きまわってヘトヘトになり、しかし、いくらでもミレンはあったが、女房がついてるから仕方がない。終電車の一つ前の電車にのって伊東へ戻った。満員スシ詰め、死ものぐるいに押しこまれて来ノ宮へ吐きだされた幾つかの電車のヤジウマの大半が終電車に殺到すると見てとったからで、事実、私たちの電車は、満員ではあったが、ギュウ/\詰めではなかった。さすればヤジウマの大半が終電事につめかけたわけで、罹災者の乗りこむ者も多いから、終電車の阿鼻叫喚が思いやられた次第であった。
 網代の漁師のアンチャン連の多くは火事場のどこで飲んだのか酔っぱらっており、とうとう喧嘩になったらしく、網代のプラットフォームは鮮血で染っていた。
 伊東へついて、疲れた足をひきずり地下道へ降りようとすると、
「アッ。奥さん」
「アラア」
 と云って、女房が奇声をあげて誰かと挨拶している。新潮社の菅原記者だ。ふと見ると、石川淳が一しょじゃないか。
「ヤ、どうしたの」
 ときくと、石川淳は顔面蒼白、紙の如しとはこの顔色である。せつなげに笑って(せつないところは見せたがらない男なのだが、それがこうなるのだからなおさら痛々しい)
「熱海で焼けだされたんだ。菅原と二人でね。熱海へついて、散歩して一風呂あびてると、火事だから逃げろ、というんでね」
 文士の誰かがこんな目にあってるとは思っていたが、石川淳とは思いもよらなかった。
 彼らは夕方熱海についた。起雲閣というところへ旅装をといて、散歩にでると、埋立地が火事だという。そのとき火事がはじまったのである。
 火事はすぐ近いが、石川淳はそれには見向きもせず、魚見崎へ散歩に行った。菅原が罹災者の荷物を運んでやろうとすると、
「コレ、コレ。逆上しては、いかん。焼け出されが逆上するのは分るが、お前さんまで逆上することはない」
 と云って、たしなめて散歩につれ去ったのである。魚見崎が消えてなくなることはあるまいのに。しかし、火事は一度のものだ。その火事も相当の大火であるというのに、火の手の方はふりむきもせず、アベコベの方角へ散歩に行った石川淳という男のヤジウマ根性の稀薄さも珍しい。
 散歩から戻ってみると、火事は益々大きくなっている。しかしヤジウマ根性が稀薄だから、事の重大さに気づかない。
 一フロあびてお酒にしようと、ノンビリ温泉につかっていると、女中がきて、火の手がせまって燃えうつりそうだから、はやく退去してくれという。御両氏泡をくらって湯からとびだし、外を見ると、黒煙がふきこみ、紅蓮ぐれんの舌が舞い狂って飛びつきそうにせまっている。ここに至って、逆上ぎらいの石川淳も万策つきて顛動し、ズボンのボタンをはめるのに手のふるえがとまらず、数分を要したという菅原記者の報告であった。
 しかし、これからが石川淳の独壇場であった。
 身支度ととのえ終って、旅館をとびだす。宿へついて、お茶をのんで、お菓子をくって、温泉につかってとびだしただけだから、
「要するに、君、ぼくは熱海の火事で、菓子の食い逃げしたようなものさ。茶菓子代ぐらい払ってやろうと思ったが、旅館の者どもは逆上して、客のことなぞは忘却しているよ。アッハッハ」
 と、自分だけ逆上しなかったようなことを云っているが、なんと石川淳は菅原をひきつれ、十分ぐらいで到着できる来ノ宮駅へも、二十分ぐらいで到着できる熱海駅へも向わずに、ただヤミクモに風下へのがれ、延々二里の闇路を走って、多賀まで落ちのびたのである。
 彼の前方から、逆に熱海をさして馳せつける自動車がきりもなく通りすぎたが、同じ方向へ向って急ぐ者とては、彼らのほかには誰一人いなかった。彼らは一人の姿も見かけることができなかったが、事実に於て、この夜、彼らと同一コースを逃げた人間はたぶん一人もなかったはずだ。多賀へ行くには電車があるもの。電車はたった一丁場だが、これを歩けば錦ヵ浦から岬をグルグル大廻り、二里もあるのだ。土地不案内な人間なら、よけい雑踏の波から外れて逃げるものではなく、どう、とりみだしたって、こんなフシギな逃げ方をすることは考えられないのであるが、石川淳だけが、これを為しとげたのである。熱海の火事でも、いろんなウカツ者がいて、心気顛動、ほかの才覚はうかばず、下駄箱一つ背負いだしたとか、月並な慌て者はタクサンいたが、一気に多賀まで逃げ落ちたというのは他に一人もいなかったようだ。
 石川淳は菅原をひきつれ、風下へ、風下へ、ひたすら逃げた。それでも全部の人心地を失わなかった証拠には、錦ヵ浦の真ッ暗闇のトンネルに突き当ってはハタと当惑。ここくぐるべきや、立ちすくんで、考えこんだ。

もとへ戻れば火が食いつくし
先はマックラ、トンネルだア
どうしよう
神さま、きてくれ
石川淳を知らねえか

 ついに意を決してクラヤミのトンネルをくぐりぬけ、二里の難路を突破して、一命無事に伊豆多賀の里に辿り着くことができた。いにしえに三蔵法師あり。今に石川淳あり。かほどの苦難の路は、凡夫は歩くことができない。
 事の真相をここまで打ち開けて語るのはツレナイことかも知れないが、石川淳の逃げだした起雲閣という旅館は、隣まで焼けてきたがちゃんと残っているのであった。私は焼跡を見物して、焼け残った起雲閣を目にした時には、呆然、わが目を疑ったのである。偉なる哉、淳や、沈着海のごとく、その逃ぐるや風も及ばず。
 戦争中の石川淳は麻布の消防団員であった。警察へ出頭を命ぜられ、ムリに任命されてしまったので、
「むかし肺病だったが、それでも、よろしいか」
「結構である」
「下駄ばきで消火に当るのは、不都合であるから、靴を世話したまえ」
「下駄ばきでも不都合ではない。誰もお前が東京の火を消しとめるとは期待していない。すでに東京はあの通りだ」
 と云って焼野原の下町を示して見せたそうである。
 焼け残った銀座の国民酒場で、私はよく彼とぶつかった。我々は一パイのウイスキーをのむために必死であったが、彼は下駄ばきに、背に鉄カブトをくくりつけ、それが消防団員石川淳の戦備ととのった勇姿の全部であった。
 熱海の大火では、空襲下の火災の錯乱が見られた。つまり多くの人々は、避難ときくや、まッさきに、米、食物の類を小脇にかかえて走り去り、すでにそれらの物品の入手が容易であることを忘れていたのである。食物の次には、身の廻りの日常品。散々不自由した恐怖がぬけていないのだ。最初から金目の品物に目をつけたのは、相当落着いた人間か、火事場泥棒に限られていたそうだ。
 罹災者への救援はジンソクで、又至れり、つくせりであった。
 私は焼跡の林屋を見舞い、それから水口園へ行って仕事しようと思ったが、原稿紙は持って出たが、洗面道具を忘れてきたので、一式買ってきてくれと女中にたのむと、すぐ戻ってきて、
「ハイ、歯ブラシ、タオル、紙……」
「いくらだい」
「イエ、タダです。エプロンをきて、ちょッと、こう、リリしい姿で行きますとね。なんでもタダでくれます。熱海の罹災者は楽ですよ。一日居ないと損すると云って、みんな動きません」
 こんなわけで、私は熱海の罹災者の余沢を蒙った。
「こんなに日常品をジャン/\くれると知ったら、身の廻りの安物には目もくれず、重い家具類をだすんだった」
 というのが、熱海の罹災者の感想で、新しい現実の発見でもあったようだ。つまり、戦争時代の終滅と、新しい現実の生誕を、ハッキリと、改めて発見したのだ。
 しかしながら、戦争の終ったことを発見するということは、甘い現実を知ることではない。むしろアベコベに自由競争の厳しい現実を身にしみて悟ることでもあり、そこで熱海がこの焼跡から何を悟ったかというと、糸川の復興なくして熱海の復興はあり得ずということなのである。
 道学先生がいくら顔をしかめてみたって、現実はどうにもならない。遊ぶ中心を失うと遊覧都市は半身不随で、熱海は現に魂のない人形だ。熱海銀座と糸川がなくなると、この町は心臓を失ってしまうのだ。
 私の住む伊東では、風教上よろしくないというので、遊興街を郊外へ移しつつある。これでは話がアベコベだ。温泉地というものは中心が遊楽であるのが当然で、したがって街の中心も遊興街、温泉旅館街で構成さるべきであり、風教上よろしくないと思う人が、郊外へ退避すればよろしいのである。
 だいたい伊東というところは、団体客専門の旅館ばかりで新婚旅行や、私たちのようにそこで仕事をしようという人種の落着くことができるような設備をそなえた旅館が殆どない。
 熱海となると、新婚旅行や文士に適した静かな旅館も多く、それはおのずから中心を離れて、郊外に独自の環境を保っている。伊東はドンチャン騒ぎの団体旅館で構成されているくせに、風教上よろしくないというので、パンパン街を郊外へ移すというから笑わせるのである。
 先日も伊東のPTAの人が私に嘆いて曰く、
「伊東に温泉博物館と図書館をつくるという案があるのですが、そういった文化施設には殆ど金をかけてくれないのですな」
 これも妙な嘆きである。温泉へくる客はバカのようにノンビリと日頃の疲れを忘れようというわけで、勉強にくるわけではないから、博物館や図書館などに金を投ずるよりも、気持よく遊楽気分にひたらせる設備が大切なのだ。本を読むために温泉へ行く人もあろうが、読書家を満足させる本は図書館にはない種類のもので当人の書斎から持ってくる性質のものだ。
 文化ということは温泉に博物館や図書館をつくるということではなくて、温泉は遊びにくるところだから、気分のよい遊び場としての設備をととのえるべきで、博物館や図書館などは無用の長物だということなどを知ることにあるのである。物に即してそれぞれの独自の設備が必要なのだ。
 これにくらべると、熱海が自分の中心としてパンパン街をハッキリ認識したことは、正当な着眼だ。中心街の雑音がうるさかったり、風教上よろしくないと思う方が郊外へ退避すればよろしく、それが温泉都市の健全な在り方というものだ。
 現に私は静かな部屋で仕事をしたいと思う時には、熱海へ行く。熱海には、中心街の雑音を遠く離れた静かな旅館がいくつもあるのだ。街の中心は局部的にいくら雑音が多くても構わない。むしろ局部的に、雑音を中心街に集中するのが当然だ。

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