坂口安吾選集 第十巻エッセイ1 |
講談社 |
1982(昭和57)年8月12日 |
1982(昭和57)年8月12日第1刷 |
1982(昭和57)年8月12日第1刷 |
最近私は、N・R・Fの新年号に於て、イリヤ・エレンブルグが「青年期ロシヤ」という一種の報告書を寄せているのを読んだ。U・R・S・Sも生誕十五年をむかえている。あそこでは、学生達は学ぶことの報酬として給料を貰い、その給料で老いたる両親を扶養することも出来るらしい。こんなに我々とかけ違った方法で成人した若いロシヤの青年達は、彼等の性格に於て、心理に於て、まるで変った人間が育ちはじめているのではないか? エレンブルグは新らしい性格と感情をロシヤから探りだすために、若い学生達との問答録と彼等の手紙、日記等を此の報告書の中へ提出している。私は興味をもって読んだ。
生憎、報告書の内容は私を失望させた。彼等の性格も心理も、まだ我等のままである。空疎な概念として心理の変化を主張していても、まだ身についていない。中には、嫉妬や愛情は、如何なる制度の変化の中でも、消滅したり変ったりすることはあるまいと述べている学生達も多かった。
しかし生誕十五年のロシヤでは急速に変化を断定することはできぬ。環境の力は必ず人を変化させる。やがてロシヤの人々は変化しよう。だが、その程度が問題である。
極めて急進的な、人間の完全なる変化を力説する一学生は述べている。人間には社会感情と動物感情とがあるが、ソビエットに於ては、動物感情は次第に消滅して、人は全て社会感情によって行動するに至るだろうと。
社会感情とは恐らく理性を言うものらしい。そして動物感情とは、嫉妬や愛情などの超理性的な感情を言うのである。
私は軽率に否定することも差控えるが、さりとて軽率に賛同することもなりがたい。人を美醜によって判断せずに、才能によって判断するということは、所詮同じことではないか。標準が美醜から才能へ変ったところで、五十歩百歩のことである。そこから動物感情の消滅する理由は見出しがたい。同時に動物感情の消滅が人生を豊富にするかどうかを、私は今判じがたい。しかし私は、私自身を実験台上へのせて、一人のテスト氏を私の中から出発せしめ、このことを考えてみようという気持ちになっている。所詮文学に解決はない。ただ作家は誰しも自分のテスト氏を育てつづけていなければなるまいと思う。
差当って、今私に動物感情の消滅を空想しうる一つの場合が可能のように考えられる。それは人間から「死」が完全に取り去られた時。そしてその時、人間は永遠に死滅し、新らしい理性的生物が誕生するかも知れない。
私は、我々の生活に解き難い神秘と超越を与える奇怪な魔物が、全てその不思議な源を遠く「死」に発しているように思えてならない。やがて死なねばならぬこと――生き生きとした生活の中では一見さらに問題でないこの事が、実は無限の錯雑と、思いがけない表情を、最も進化した文化の諸相へさえ滲みだし、根を張りめぐらしているように思えてならぬ。完璧の制度も、死を、順って、人間を解きがたいように思われてならぬのだ。
今、私にとって、死は我々の生活に最大のからくりを生む曲者に見えている。
『桜』昭8・5
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