七
その頃の浅草観世音境内には、日清役平壌戦のパノラマがあって、これは実にいいものであった。東北の山間などにいてはこういうものは決して見ることが出来ないと私は子供心にも沁々とおもったものであった。十銭の入場料といえばそのころ惜しいとおもわなければならぬが、パノラマの場内では望遠鏡などを貸してそれで見せたのだから如何にも念入であった。師団司令部の将校等の立っている向うの方に、火災の煙が上って天を焦がすところで、その煙がむくむく動くように見えていたものである。
このパノラマは上野公園には上野戦争がかいてあったが、これは浅草公園のものほど度々は見ずにしまった。そのころ仲見世に勧工場があって、ナポレオン一世、ビスマルク、ワシントン、モルトケ、ナポレオン三世というような写真を売っていた。これらの写真は、私が未だ郷里にいたとき、小学校の校長が東京土産に買って来て児童に見せ見せしたものであるから、私は小遣銭が溜まると此処に来てその英雄の写真を買いあつめた。
そういう英雄豪傑の写真に交って、ぽん太の写真が三、四種類あり、洗い髪で指を頬のところに当てたのもあれば、桃割に結ったのもあり、口紅の濃く影っているのもあった。私は世には実に美しい女もいればいるものだと思い、それが折にふれて意識のうえに浮きあがって来るのであった。ぽん太はそのころ天下の名妓として名が高く、それから鹿島屋清兵衛さんに引かされるということで切りに噂に上った頃の話である。
そのうち私は中学を卒業し、高等学校から大学に進んだころ、鹿島氏は本郷三丁目の交叉点に近く住んでいるということを聞き、また写真屋を開業していて薬が爆発して火傷をしたというような記事が新聞に載り、その記事のうちに従属的に織交ぜられて初代ぽん太鹿島ゑ津子の名が見えていたことがあった。また、父の経営した青山脳病院では毎月患者の慰安会というものを催し、次ぎから次と変った芸人が出入したが、ある時鹿島ゑ津子さんがほかの芸人のあいまに踊を舞ったことがある。父がそのとき「なるほどまだいい女だねえ」などといって、私は父の袖を引張ったことがある。私のつもりではそんな大きい声を出しなさるなというつもりであった。遠くで細部はよく見えなかったが人生を閲して来た味いが美貌のうちに沈んでしまって実に何ともいえぬ顔のようであった。私が少年にして浅草で見た写真よりもまだまだ美しい、もっと切実な、奥ふかいものであった。私は後にも前にもただ一度ぽん太を見たということになるのであるが、この注意も上京当時写真で見たぽん太の面影が視野の外に全くは脱逸していなかったためである。私はその時のことを「かなしかる初代ぽん太も古妻の舞ふ行く春のよるのともしび」という一首に咏んだ。私のごとき山水歌人には手馴れぬ材料であったが、苦吟のすえに辛うじてこの一首にしたのであった。散文の達者ならもっと余韻嫋々とあらわし得ると思うが、短歌では私の力量の、せい一ぱいであった。また或る友人は、山水歌人の私が柄にも似ずにぽん太の歌などを作ったといったが、作歌動機の由縁を追究して行けば、遠く明治二十九年まで溯ることが出来るのである。歌は歌集『あらたま』の大正三年のところに収めてある。
それからずっと歳月が経って、私の欧羅巴から帰って来た大正十四年になるが、火難の後の苦痛のいまだ疼ずいているころであったかとおもうが、友人の一人から手紙を貰った中に、「ぽん太もとうとう亡くなりました」という文句があった。そしてこの報道は恐らく新聞の報道に本づいたものであったろうとおもうが、都下の新聞では先ず問題にするような問題にはしなかったようである。それで私も知らずにいたし、その報道の切抜なども持っていない。恐らく極く小さく記事が載ったのではなかっただろうか。
昭和十年になって、ふとぽん太のことを思いだし、それからそれと手を廻して友人の骨折によってぽん太の墓のあるところをつきとめた。墓は現在多磨墓地にある。
昭和十一年の秋の彼岸に私は多磨墓地に行った。雨のしきりに降る日で事務所で調べるのに手間どったがついにたずね当てることが出来た。墓は多磨墓地第二区八側五〇番甲種で、墓石の裏には大正十四年八月一日二代清三郎建之と刻してある。この二代鹿島清三郎氏は目下小田原下河原四四番地に住まれているはずである。此処に合葬せられている仏は、鹿島清兵衛。慶応二年生。死亡大正十二年十月十日。病名慢性腸加答児。ゑ津。明治十三年十一月二十日生。死亡大正十四年四月二十二日。病名肝臓腫瘍。大一郎。明治三十四年八月八日生。死亡大正十四年二月九日。病名慢性気管支加答児。静江。明治四十年二月九日生。死亡昭和三年一月二十九日。病名腎臓炎。京子。明治四十年生。死亡大正十三年九月二十七日。病名脊髄カリエス。云々である。
鹿島ゑ津さんは即ち初代ぽん太で、明治十三年生だから昭和十一年には五十七歳になるはずで、大正十四年四十六歳で歿したのである。ぽん太については、森鴎外の「百物語」に出ているが、あれはまだ二十前の初々しい時のことであっただろう。誰か小説の大家が、晩年におけるゑ津さんの生活のデタイルスを叙写してくれるなら、必ず光りかがやくところのある女性になるだろうと私は今でもおもっている。
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