五
私が東京に来て、連れて来た父がまだ家郷に帰らぬうちから、私は東京語の幾つかを教わった。醤油のことをムラサキという。餅のことをオカチンという。雪隠のことをハバカリという。そういうことを私は素直に受納れて今後東京弁を心掛けようと努めたのであった。
私が開成中学校に入学して、その時の漢文は『日本外史』であったから、当てられると私は苦もなく読んで除ける。『日本外史』などは既に郷里で一とおり読んで来ているから、ほかの生徒が難渋しているのを見るとむしろおかしいくらいであった。しかるに私が『日本外史』を読むと皆で一度に笑う。先生は磯部武者五郎という先生であったがお腹をかかえて笑う。私は何のために笑われるかちっとも分からぬが、これは私の素読は抑揚頓挫ないモノトーンなものに加うるに余り早過ぎて分からぬというためであった。爾来四十年いくら東京弁になろうとしても東京弁になり得ず、鼻にかかるずうずう弁で私の生は終わることになる。
私は東京に来て蕎麦の種物をはじめて食った。ある日母は私を蕎麦屋に連れて行って、玉子とじという蕎麦を食べさせた。私は仙台の旅舎で最中という菓子を食べて感動したごとく、世の中にこんな旨いものがあるだろうかと思ったが、程経て、てんぷら、おやこ、ごもく、おかめなどという種蕎麦のあることを知って、誠に驚かざることを得なかった。
それから佐竹の通りには馬肉屋が数軒あったが、私はそういう処に入ることを知らなかった。ただ市村座の向側に小さい馬肉の煮込を食わせるところがあり、その煮方には一種の骨があって余所では味えない味を出していた。うちの書生の説に椿油か何かを入れるのではなかろうかというのであったが、よくは分からない。
夜十時過ぎになると書生も代診も交って籤を引いて当った者が東三筋町から和泉町のその馬肉屋まで買いに来る。今どきの少年は馬肉は軽蔑して食わぬし、ビステキなども上等のを食いたがるけれども、馬肉を食わぬからといって皆賢くなるというわけではない。また、大正十年の夏、私は信州富士見に転地していたとき、あの近在に或る神社の祭礼があって、そこでやはり馬肉の煮込を食べたことがある。その味は市村座の向側の馬肉屋の煮込そっくりであったから、煮込む骨に共通の点があったのかも知れない。
郷里を立つとき祖母は私に僅かばかりの小遣銭をくれていうに、東京には焼芋というものがある、腹が減ったらそれを食え。そこで私は学校の帰りには、左衛門橋の袂の焼芋屋によって五厘ずつ買った。そのころ五厘で焼芋三個くれたものである。
母は私を可哀がって学校から帰るとかけ蕎麦を取ってくれた。もりかけが一銭二厘から一銭六厘になった頃で大概三つぐらいは食った。
また、夜おそくなると書生と牛飯というのを食いに行き行きした。一碗一銭五厘ぐらいで赤い唐辛子粉などをかけて食べさせた。今でも浅草の観世音近くに屋台店が幾つもあるけれども、汁が甘くて駄目になった。その頃はあんなに甘くなかった。
私と同様出京して正則英語学校に通っていた従弟が、ある日日本橋を歩いていて握鮓の屋台に入り、三つばかり食ってから、蝦蟇口に二銭しかなくて苦しんだ話をしたことがある。その話を聞いて私は一切すしというものを食う気がしなかった。鰻丼なども上等なもてなしの一つで、半分残すのが礼儀のような時代であったところを思うと、養殖が盛になったために吾々はありがたい世に生きているわけである。
六
そのころ奠都祭というものがあって式場は多分日比谷だったようにおもう。紅い袴を穿いた少女の一群を見て非常に美しく思ったことがある。それから間もなく女学生が紅い袴を穿き、ついで蝦茶の袴がある期間流行して、どのくらい青年の心を牽つけたか知れぬが、そのころはまだそれが、なかった。
東三筋町に近い、鳥越町に渡辺省亭画伯が住んでおられて、令嬢は人力車でお茶の水の女学校に通った。その時は髪を桃割に結って蝦茶の袴は未だ穿いていなかったから私はよくおぼえている。俳人渡辺水巴氏は省亭画伯の令息で、正月のカルタ遊びなどにはよく来られたものである。もう夢のような追憶であるからおぼつかない点もあるが、水巴は俳人、茂吉は歌人となったわけである。
黒川真頼翁も具合の悪いときには父の治療を受けた。晩年の真頼翁はもう頭の毛をつるつるに剃っておられた。体が癢くて困るといわれてうちの代診の工夫で硫黄の風呂を立てたこともあり、最上高湯の湯花を用いたことなどもあった。いまだ少年であった私が縦い翁と直接話を交すことが出来なくとも、一代の碩学の風貌を覗き見するだけでも大きい感化であった。そのころの開業医と患家とのあいだには、そのような親しみもあり徳分もあったものである。しかし父も精神科専門になってからはそういう患家との親しみは失せた。このことには実に微妙なる関係があって、父は、「感謝せらるる医者」から「感謝せられざる医者」に転じたわけである。精神病医者というものは、患者は無論患者の家族からも感謝せられざる医者である。
私は東京に来て、浅草三筋町において春機発動期に入った。当時は映画などは無論なく、寄席にも芝居にも行かず、勧学の文にある、「書中女あり顔玉のごとし」などということが沁み込んでいるのだから、今どきの少年の心理などよりはまだまだ刺戟も少く万事が単純素朴であったのである。それでも目ざめかかったリビドウのゆらぎは生涯ついて廻るものと見えて、老境に入った今でも引きつけられる対象としての異性はそのころのリビドウの連鎖のような気がしてならないのである。そのころ新堀を隔てた栄久町の小学校に通う一人の少女があった。間もなく卒業したと見えて姿を見せなくなったが、私は後年年不惑を過ぎミュンヘンの客舎でふとその少女の面影を偲んだことがある。あるいは目前に私に対している少女にその再来なるものがいるかも知れない。
新堀といえば、新堀にはそのころ舟が幾艘も来て舫っていることがあった。幸田露伴翁の「水の東京」に、「浅草文庫の旧跡の下にはまた西に入るの小渠あり、須賀町地先を経、一屈折して蔵前通りを過ぎ、二岐となる。其の北に入るものは所謂、新堀にして、栄久町三筋町等に沿ひ、菊屋橋・合羽橋等の下に至る。此一条の水路は甚だ狭隘にして且つ甚だ不潔なれども、不潔物其他の運搬には重要なる位置を占むること、其の不快を極むるところの一路なるをも忌み厭ふに暇あらずして渠身不相応なる大船の数々出入するに徴して知るべし。且つ浅草区一帯の地の卑湿にして燥き難きも、此の一水路によりて間接に乾燥せしめらるること幾許なるを知らざれば、浅草区に取りては感謝すべき水路なりといふべし」とあるところである。まだ少年の私はパイレートという煙草を買って、その中の美人の絵だけをとって中味をこの堀の水に棄てたことがあった。新堀の名は三味線堀と共に私の記憶から逸し得ざるのもまた道理である。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] 下一页 尾页