斎藤茂吉選集 第八巻 |
岩波書店 |
1981(昭和56)年5月27日 |
1981(昭和56)年5月27日第1刷 |
1998(平成10)年8月7日第2刷 |
那智には勝浦から馬車に乗つて行つた。昇り口のところに著いたときに豪雨が降つて来たので、そこでしばらく休み、すつかり雨装束に準備して滝の方へ上つて行つた。滝は華厳よりも規模は小さいが、思つたよりも好かつた。石畳の道をのぼつて行くと僕は息切れがした。
さてこれから船見峠、大雲取を越えて小口の宿まで行かうとするのであるが、僕に行けるかどうかといふ懸念があるくらゐであつた。那智権現に参拝し、今度の行程について祈願をした。そこを出て来て、小さい寺の庫裡口のやうなところに、『魚商人門内通行禁』と書いてあり、その側に、『うをうる人とほりぬけならん』と註してあつた。
滝見屋といふところで、腹をこしらへ、弁当を用意し、先達を雇つていよいよ出発したが、この山越は僕には非常に難儀なものであつた。いにしへの『熊野道』であるから、石が敷いてあるが、今は全く荒廃して雑草が道を埋めてしまつてゐる。T君は平家の盛な時の事を話し、清盛が熊野路からすぐ引返したことなども話して呉れた。僕は一足毎に汗を道におとした。それでも、山をのぼりつめて、くだりにならうといふところに腰をおろして弁当を食ひはじめた。道に溢れて流れてゐる水に口づけて飲んだり、梅干の種を向うの笹藪に投げたりして、出来るだけ長く休む方が楽であつた。
そこに一人の遍路が通りかかる。遍路は今日小口の宿を立つて那智へ越えるのであるが、今はかういふ山道を越える者などは殆ど絶えて、僕等のこの旅行なども寧ろ酔興におもへるのに、遍路は実際ただひとりしてかういふ道を歩くのであつた。遍路をそこに呼止め、いろいろ話してゐると、この年老いた遍路は信濃の国諏訪郡のものであつた。T君はあの辺の地理に精しいので、直ぐ遍路の村を知ることが出来た。併しこの遍路は一生かうして諸国を遍歴してどこの国で果てるか分からぬといふのではなかつた。国には妻もあり子もあつたが、信心のためにかうして他国の山中をも歩き、今日は那智を参拝して、追々帰国しようといふのであるから前途はさう艱難ではなかつた。T君は朝鮮飴一切れを出して遍路にやつた。遍路はそれを押しいただき、それを食べるかと思ふと、胸に懸けてある袋の中に丁寧にしまつた。
僕などは、この遍路からたいへん勇気づけられたと謂つていい、さうして遂に大雲取も越えて小口の宿に著いたのであつた。実際日本は末世になつても、かういふ種類の人間も居るのである。遍路は無論、罪を犯して逃げまはつてゐる者などではなかつた。遍路のはいてゐる護謨底の足袋を褒めると『どうしまして、これは草鞋よりか倍も草臥れる。ただ草鞋では金が要つて敵ひましねえから』といふのであつた。これは大正十四年八月七日のことである。
一夜明けて、僕等は小口の宿を立つて小雲取の峰越をし、熊野本宮に出ようといふのである。そこでまた先達を新規に雇つた。川を渡つたりしてそろそろのぼりになりかけると、細い雨が降つて来た。僕等はしばし休んで合羽を身に著はじめた。その時遙向うの峠を人が一人のぼつて行くのが見える。やはり此方の道は今でも通る者がゐるらしいなどと話合ひながら息を切らし切らし上つて行つた。
三十分もかかつて、やうやく一つの坂をのぼりつめるとそこで一段落がつく。そこに一人の遍路が休んでゐた。さつきの雨が既にあがつてゐるので遍路は茣蓙を敷いてそのうへで刻煙草を吸つてゐた。見晴らしが好く、雲がしきりに動いてゐる山々も眼下になり、その間を川が流れて、そこの川原に牛のゐるのなども見えてゐる。
僕等もそこで暫時休んだ。遍路は昨日のと違つて未だ若い青年である。先程見た一人の旅人はこの遍路であつたのだから、遍路は彼此三十分も此処に休んで居るのであつた。遍路は眼が悪いといふことを云つた。なるほど彼の眼は一眼全く濁り、片方の瞳にも雲がかかつてゐた。遍路の話を聴くに、もとは大阪の職人であつた。相当に腕が利いたので暮しに事を欠くといふことが無かつたのだが、ふと眼を患つて殆ど失明するまでになつた。そこで慌てて大阪医科大学の療治を乞うたけれども奈何にも思はしくない、そのうち一眼はつぶれてしまつた。それのみではなく、片方の眼もそろそろ見えなくなつて来た。彼はせつぱつまつて思ひ悩んだ揚句、全く浮世を棄てて神仏にすがり四国遍路を思立つた。然るに、居処不定の身となり霊場を巡つてゐるうちに、片方の眼が少しづつ見えるやうになつて来た。彼は益神仏にすがつて到頭四国の遍路を了へた。その時には眼が余程好く見えるやうになつた。
その時彼は、もうこれぐらゐで沢山である。もうそろそろ信心の方も見きりをつけて浮世の為事をして見ようと思つたさうである。そして逡巡してゐるうちに、眼は二たび霞んで来てもとのやうになりかけたさうである。
彼は驚き心を決して二たび遍路の身になつてしまつた。そして既に数年を経た。けふは小口の宿を立つて熊野の方へ越えようとしてゐるのだと、かういふのであつた。
彼はさういふ事を事こまかに大阪弁で話した。併し僕は大阪弁を写生することが得手でないから、その儘書くことが出来ない。
遍路は、けれども現在の状態に安住してはゐなかつた。若い身空を働きもせず、現世の慾望をも満たさうともせずにゐることが残念でならなかつた。彼は『いまいましい』といふ言葉を使つた。T君は遍路に五十銭呉れたが遠慮をしながら丁寧にそれをしまつた。それから遍路はM君の呉れた紙巻煙草を一本その場で吸つた。
僕等は遍路をそこに残して一足先に出発した。一山巡つて、も一つ山にさしかからうとする頃うしろの方で鈴の音が幽かに聞こえてゐた。
『奴も歩き出したね』
『あの奴なかなか面白いね。ぷりぷり云つてゐるところなんか面白いぢやないですか』
『いまいましいなんて云ひましたね』
『いまいましくても、遁世の実行家だね。あれだけの生活は加特利教徒の労働者なんかでは出来ないよ』
『強ひられた実行なんですね』
『さうかも知れない。併し観音力にすがるところに盲目的な強味があるとおもひますね。一時流行した覚めた人間にはああいふ苦行生活は到底出来ませんよ』
『しかしみんな遁生菩提でも困りますからね』
『さうかも知れない』
僕等は疲れきつて熊野本宮に著いたのは午後二時ごろであつた。そこで熊野権現に参拝した。熊野川は藍に澄んで目前を流れてゐる。けふの途中に、山峡からたまたま熊野川が見え出し、発動機船の鋭い音が山にこだまさせながら聞こえてゐたが、あれも山水に新しい気持を起させた。
この山越は僕にとつても不思議な旅で、これは全くT君の励ましによつた。然も偶然二人の遍路に会つて随分と慰安を得た。なぜかといふに僕は昨冬、火難に遭つて以来、全く前途の光明を失つてゐたからである。すなはち当時の僕の感傷主義は、曇つた眼一つでとぼとぼと深山幽谷を歩む一人の遍路を忘却し難かつたのである。然もそれは近代主義的遍路であつたからであらうか、僕自身にもよく分からない。
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