10[#「10」は縦中横] 念珠集跋
「念珠集」は、所詮『わたくしごと』の記に過ぎないから、これは『秘録』にすべきものであつた。それであるから、僕の友よ、どうぞ怒らずに欲しい。
ミユンヘンに留学中は、主に実験脳病理学のことをやつた。少い暇に読む書物も、それから考へることもさういふことが主になつてゐた。ischmische Zellvernderung といふやうなこと、Kolliquations-Nekrose とか、koagulierende Nekrose とか、例へばさういふ概念が頭を領してゐるのであつた。そのまた暇に僕は心理書を読んでみた。Hylopsychismus といふことだの、Zerlegung der Gignomene とか、Unbewusstheit der Reduktionsbestandteile とかいふことだの、さういふことが頭を悩ましたのであつた。
ところが、僕の下宿に馬琴のものが置いてあつた。もう古びて、何代もの留学生が異郷の寂しさをそれで紛らしたといふことを証拠立ててゐた。馬琴のものなどはこれまで読んだことのない僕が、ある時ふとそれを読んでみた。久遠のむかしに、天竺の国にひとりの若い修行僧が居り、野にいでて、感ずるところありてその精を泄しつ、その精草の葉にかかれり。などといふやうなことが書いてあつた。僕は計らずも洋臭を遠離して、東方の国土の情調に浸つたのであつた。さういふ心の交錯のあつたときに、僕は父の訃音を受取つた。七十を越した齢であるから、もはや定命と看ても好いとおもふが、それでもやはり寂しい心が連日湧いた。夜の暁方などに意識の未だ清明にならぬ状態で、父の死は夢か何かではなからうかなどと思つたこともある。併し目の覚めて居るときには、いろいろと父の事を追慕した。それは尽く東海の生れ故郷の場面であつた。「念珠集」は所詮、貧しい記録に過ぎぬ。けれどもさういふ悲しい背景をもつてゐるのである。僕を思つてくれる友よ。どうぞ怒らずに欲しい。
大正十四年八月に、比叡山のアララギ安居会に出席して、それから先輩、友人五人の同行で高野山にのぼつた。登山自動車の終点で駕籠に乗らうとした時に、男が来て北室院といふ宿坊を紹介してくれた。それから豪雨の降るなかを駕籠で登つて宿坊へ著いた。そこに二晩宿り、貧しい精進料理を食つた。饅頭が唯ひとつ寂し相に入つてゐる汁で飯を食べたことなどもある。而して、そこで勧められる儘に、父の追善のために廻向をして貰つた。その時ふと僕は父が死んでからもう三回忌になると思つたのであつた。
本来からいへば七月に三回忌の法事をするのであるが、稲作の為事が終へてから行ふことになり、八月、九月、十月と過ぎて、十月のすゑに行つた。けれども僕は東京の事情に礙げられて列席することが出来ないので、そのことをも僕はひどく寂しくおもつた。法事終へてから家兄が父の小さい手帳を届けて呉れた。これは大正四年に西国に旅した時の父の日記である。
五月六日。旧三月廿三日。天気吉。吉野町より、朝六時吉野山のぼり、午前十一時吉野駅発。高野口駅え午後一時三十分著。是より五十丁つめ三里高野山え上り、午後八時頃北室院に著。一円、吉野町宿料払。五十銭、吉野山見物車ちん。五十銭、同所寺に参詣費。三十銭、吉野口駅より高野口駅迄切符代。五十銭、昼飯料。二円六十銭、籠に乗賃払。七円五十銭、日ぱい料北室院に上げる。
五月七日。旧三月廿四日。晴天。朝の八時より参詣致。総参詣人一日へいきん二万人以上づつ有由。午後一時より高野山より下り高野口駅え午後四時に著。是より粉河駅え著。かなも館支店宿泊。一円、参詣費。一円五十銭、北室院宿料。五十銭、荷物負賃。一円、途中小使。五十銭、昼飯料。五十銭、車賃。四十銭、汽車賃。
これを見ると、父は十年前に高野山にのぼり偶然にも北室院に宿泊して、宿料が一円五十銭なのに、日牌料七円五十銭も上げてゐる、これは、僕の母のために供養して貰つたのに相違ない。母は大正二年に歿したのだから、大正四年は三回忌に当る都合である。父の日記に拠ると、高野山を半日参詣して直ぐその午後には下山して居る。仏法僧鳥を聞かうともせず、宝物も見ず、大門の砂のところからのびあがつて、奥深い幾重の山の遙か向うに淡路島の横ふのも見ようともせず、あの大名の墓石のごたごたした処を通り、奥の院に参詣して半日つぶして直ぐ下山して居る。道中自慢であつた父も、その時は既に六十四五歳になつて居り、四十歳ごろから腰が屈つて、西国の旅に出るあたりは板に紙を張りそれを腹に当てて歩いてゐた。さうすれば幾分腰が延びていいなどと云つてゐたのだから、高野の旅なども矢張り難儀であつたらうと僕はおもふ。そして、僕らが食べたやうな、汁の中にしよんぼりと入つた饅頭を父も食べたのだらうとおもふと、何だか不思議な心持にもなるのであつた。これを「念珠集」の跋とする。(大正十五年二月記)
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「てへん+參」 |
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「やまいだれ+(「堊」の「王」に代えて「田」)」 |
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124-下-1 |
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