4 仁兵衛。スペクトラ
仁兵衛は謡の上手で、それに話上手であつた。仁兵衛はいつも日の暮方になると丘陵にのぼつて川に沿うた村だの山ふところに点在してゐる村だのを眺める。村の家から豊かに煙の立ちのぼるのを見極めると、仁兵衛はいつも著換してその家に行く。その家には必ず婚礼があつた。祝言の座に請ぜられぬ仁兵衛ではあるが、いつも厚く饗せられ調法におもはれた。仁兵衛は持前の謡をうたひ、目出度や目出度を諧謔で収めて結構な振舞を土産に提げて家へ帰るのであつた。村の人々はその男を『煙仁兵衛』と云つた。
その仁兵衛が或る夜上等の魚を土産に持つて帰途に著くと、すつかり狐に騙されてしまふところを父はよく話した。どろどろの深田に仁兵衛が這入つて酒風呂のつもりでゐる。そして、『あ、上燗だあ、上燗だあ』と云つてゐるところを父は話した。そこのところまで来ると父のこゑに一種の勢が加はつて子供等は目を大きくして父の顔を見たものである。父は奇蹟を信じ妖怪変化の出現を信じて、七十歳を過ぎて此世を去つた。
寺小屋が無くなつて形ばかりの小学校が村にも出来るやうになつた。教員は概ね士族の若者であつた、なかには中年ものも居た。『窮理の学』といふことがそれらの教員の口から云はれた。父は冬の藁為事の暇に教員のところに遊びに行くと、今しがた届いたばかりだといふ三稜鏡を見せられた。さうして日光といふものは斯うして七色の光から出来て居る。虹の立つのはつまりそれだ。洋語ではこれをスペクトラと謂つて七つの綾の光といふことである。旧弊ものは来迎の光だの何のと謂ふが、あれは木偶法印に食はされてゐるのだ。教員は信心ぶかい父のまへにかう云つて気焔を吐いた。
父は切りにその三稜鏡をいぢつてゐたが、特別に為掛も無く、からくりも見つからない。しかしそれで太陽を透して見ると、なるほど七綾の光があらはれる。
父は暫く三稜鏡をいぢつてゐたが、ふと其を以て炉の火を覗いた。すると意外にも炉の炎がやはり七つの綾になつて見える。父は忽ち胸に動悸をさせながら、これは、きりしたん伴天連の為業であるから念力で片付けようと思つた。
教師様。お前はきりしたん伴天連に騙されて居るんではあんまいな。これを見さつしやい。お天道さまも、ほれから囲炉裏のおきも、同じに見えるのがどうか。からくりが無いやうにして此の中に有るに違ひないな。きりしたん伴天連おれの念力でなくなれ。
かういつて、父は三稜鏡をいきなり炉の炎の中に投げた。教員は驚き慌ててそれを拾つたが、忿怒することを罷めて、やはり父がしたやうに炉の炎をしばらくの間三稜鏡で眺めてゐた。教員は日光と炉の焚火と同じであるか違ふものであるかの判断はつかなかつた。教員の窮理の学はここで動揺した。父は威張つてそこを引きあげた。
後年父は屡その話をした。文明開化の学問をした教員を負かしたといふところになかなか得意な気持があつた。けれども単にそれのみではなかつたであらう。神を念じて穀断塩断してゐたやうな父は、すぐさまスペクトラの実験の腑におちよう筈はないのである。腑に落ちるなどと謂ふより反撥したといつた方がいいかも知れない。
それからずつと月日が立つて、父は還暦を過ぎ古稀をも過ぎた。父は上山町のとある店先で、感に堪へたといふ風で、蓄音機の喇叭から伝つてくる雲右衛門の浪花節を聞いてゐたことがある。けれども、父はその蓄音機は窮理の学に本づくものだといふことなどは追尋しようともしなかつた。スペクトラを退治した写象なども無論意識のうへにのぼつて来なかつたのである。
5 漆瘡
村の学校が隣村の学校に合併されて、そこに尋常高等小学校の建つたのは、森文部大臣が殺されて、一二年も経つたころであつただらう。
学校まで小一里あつた。雪の深い朝などには、せいぜい炭つけ馬が一つ二つ通るぐらゐなところで、道がまだ附いてゐない。雪が腰を没すといふやうなことは稀でなかつた。子供等は五六人固まつてその深雪を冒して行くのであるが、ひどく難儀をしたものである。途中で泣出して学校に行著くまで黙らなかつた子などもゐた。
けれどもそこを辛抱すれば、柳に銀色の花が咲くころから早春が来て、雪の降るのがだんだん少くなつて来る。それから一月も立てば、麗かな天気が幾日も続いて、雪がおのづと解けてくる。道は『雪解みち』になつて、朝のうちは氷つても午過ぎからは全くの泥道で、歩くのにまた難儀なのが幾日も幾日も続く。さういふ時には草鞋は毎日一足ぐらゐづつ切れた。八つか九つになつた僕はかうして毎日学校へ通つた。
それを通越すと、道の片隅の方などに乾いたところが見え初めてくる。それが日一日と大きくなり、向うの方に見えてゐた乾いたところと連続してしまふ。さういふ土の乾いたところを、子ども達は『草履道』と云つて、そこを踏んで躍上がつて喜んだ。
街道の雪が消え、日あたりの林の雪が消え、遠山を除いて、近在の山の雪が消えると、春が一時に来てしまふ気持である。太陽はまばゆいやうに耀く。木の芽がぐんぐん萌えはじめる。苞をやうやく破つたばかりの、白つぽいやうな芽だの、赤味を帯びたやうなものだの、紫がかつたものだの、子供等は道ぐさ食ひながらさういふ木の芽をぽきりと摘んで口の中で弄ぶものもゐる。雲雀は空気を震動させて上天の方にゐるかとおもふと、閑古鳥は向うの谿間から聞こえる。楢、櫟の若葉が、風に裏がへるころになれば、そこに山蚕が生れて、道の上に黒く小さい糞を沢山おとすのであつた。
五六人総勢十人ぐらゐの子供等が、さういふ日に恣に道草を食つて毎日おなじ道を往反する。蟻の穴に小便をしたり、蛇を殺してその口中に蛙を無理におし込んだり、さういふ悪戯をしながら、時間が迫つてくると皆学校まで駈出して行つた。
然るにそれらの子供を威圧してゐる童子がひとりゐた。年はそのころ十一ぐらゐであつた。年かさも大きいし猛烈なところがあつて、村の学校の子供等を征服してゐた。周囲の子供等を引率して学校の授業も何もかまはずに山や沢に出掛けるので、そのやり方が何処か猛烈なところがあつた。一度教員は忿怒して学校の梁木にその童子をつるして折檻したことがある。それは森文部大臣が東北の学校を視察して、山形から上山に行くために早坂新道を通られるといふ日であつた。僕らは文部大臣を敬礼するために四五日の間その稽古をし、滅多に穿くことのない袴を穿き、中にはこれも滅多には著ぬ襯衣を著たりなどして学校に行つたのであつたが、童子は何時の間にかさういふ子供等を引率して山に遊びに行つてしまつた。それであるから、文部大臣を敬礼する時がだんだん近づいてくるのに子供等が帰つて来ないといふのであつた。併し文部大臣の敬礼がどうにか間に合つて、僕等は早坂新道に整列し、人力車で通つた文部大臣森有礼に小さいかうべをさげた。教員はその日は平穏な風をしてゐた。が、次の日にその童子を学校の梁木に吊して、鞭で続けざまに打つてみんなに見せたのであつた。それから間もなく森文部大臣が殺されたのだといふやうな気がする。さういふことは総てまだ学校の合併されない前のことである。学校が合併されてからは、その童子もやはり学校に通つて、おのづから周囲の子供どもを威圧してゐた。
美しく晴れた朝、その童子は僕らを合せた七八人の中心になり、思ふ存分道ぐさを食ひながら学校へ出掛けて行つた。硫黄泉を源とする酢川の橋から石を投げたりなんぞして、しばらく歩くと、道端に五六本の漆の木がある。これは秋には真赤に紅葉したのであつたが、今は小さい芽が枝の尖端のところから萌えいでてゐる。
その漆の木のところに行くと、童子はみんなに列ぶやうに言附けた。そして自分で漆の芽を摘み取ると芽の摘口から白い汁が出て来た。童子はみんなに腕をまくらせて、前膊の内面のところに漆の汁で女陰と男根とを画いた。女陰などといふとすさまじく聞こえるが、実は支那の古篆の『日』の字のやうな恰好をしてゐるものに過ぎない。男根でもさうである。皆 Prputium などが無く思ひきり単純化されたものである。中江兆民は癌に罹つて余命いくばくもないといふとき、「一年有半」といふ随筆を書いた。そのなかに慥か、『陰陽二物』の何のと云つて日本国を貶してゐたとおもふが、あれは無理だ。羅馬は無論巴里に行つても、倫敦、伯林に行つても、さういふ邪気の無い絵はいくつも描いてある。この童子もただ邪気の無い絵をかいたに過ぎない。童子はそれでも漆の芽を幾つか取換へたりなどしてそれを描いた。描いて貰ふと皆が声を挙げて笑つた。そして汁の乾くのを促すために息を吹きかけたりなどした。
大小いろいろと描いて来て、僕の腕に小さいのを描いてくれた。それは今からおもへば降誕八日めに割礼した耶蘇の男根のやうな恰好であつたとおもへばいい。童子は最後に自分の腕に思ひ切り大きいのを描いておしまひにした。
次の日の朝みんなが集まつて腕の絵を見せ合つて大声で笑つた。絵のところだけが黒くなつて乾いたから、きのふに較べてはつきりして来てゐる。然るに僕のだけは絵のところが黒くならずに赤くなつて少し腫れあがつてゐる。
その次の朝もみんなが絵を見せあふと、絵のところが益黒くなつて乾いてゐるのに、ただ僕のだけはゆうべから癢味が増して来、それに痛味が加はつて絵のところから汁が出はじめた。僕は授業をうける時にも癢いのと痛いのとでなやんで居た。さうすると、沢蟹をつぶしてつけると直るといふものがあつた。学校の裏は直ぐ沢になつてゐて、石を一寸避けると小さい蟹を幾つも捕へることが出来る。僕はそれをつぶして臓腑をかぶれかかつてゐる腕になすりつけたけれども、赤く腫れて汁の出て来たところは今度は結痂して行つた。
絵のところだけが黒く結痂したから、直つたのかといふとさうでない。それだから風呂に入つた時などに、秘かにその痂を除いてみると、その下は依然として爛れて居つて深い溝のやうになつてゐる。そして次の日には二たびそこに結痂するといふ具合でなかなか直らない。ほかの子供等は、さういふ女陰・男根図のことなどはいつのまにか忘れて行つた。それはその筈で描いて貰つてからすでに一ヶ月余も経過したのであるから剥げて取れてしまつたのが多かつた。縦ひ残つてゐてもそんなものはもう珍らしくはなかつた。ただ僕ひとりは毎日そのことで苦しんだ。そして痛いのを我慢して痂を除いてはそこに蟹の臓腑をつけてゐるに過ぎなかつた。痂を取つたところの溝がだんだん深くなるのに気付いてもそれを母や父に打明けることが出来ない。僕は空しく二月を過ごした。
けれども、或時たうとうそれを母から見付けられその成行を一々白状してしまつた。母は僕を父のところに連れて行つた。僕は恐る恐るすでに結痂した男根図を父に見せた。父も母も共に笑つた。叱られるつもりのところ叱られなかつたので僕も大きなこゑを立てて笑つた。その晩に父はどろどろした油薬のやうなものを拵へて来て塗つて呉れた。さうすると二三日で痂が取れて行つた。そこへまた油薬のやうなものを塗つて呉れた。ひどく苦んだ漆瘡の男根図はかくのごとくにしてつひに直つた。瘡は極く『平凡』に癒えた。
『はじめは脱兎の如く』と云つておいて、そして、『をはりは処女のごとし』と云ふあたりは、味つてみるとどうも旨いところがある。ただ余り陳腐になつてゐるから、今までそれを味はぬのであつた。その陳腐さは、レオナルド・ダ・ヴインチの画いた、モナ・リザ・ジヨコンダの像のやうなものであつた。そして僕の漆瘡物語の結末が消えるやうにして無くなつてしまつたときに、この諺、警句をおもひ起したのであつた。おもひ起して味つてみるとどうも言方に旨いところがあつた。僕は心中ひそかに満足をおぼえた。レオナルド・ダ・ヴインチをおもひ起したのはかういふ訣である。
『凡そ児童はその父の能力に就いてどう思惟してゐるか』といふことに就いて、ある時期には児童は父の万能を信ずることがある。さて時が経つと、児童のまへには父は追々と平凡化されて行く。僕の父もその数に漏れなかつた。僕が少しづつ大きくなるに連れて僕の父も益平凡化されたから、父が三稜鏡を炎のなかに投じた話などをしても僕は心中感服したことはない。然るに僕が漆瘡であれほど苦しんだ時に、父は極めて平凡にそれを直して呉れた。僕はその時、父には何か知らんやはり特殊の『能力』があるのではあるまいかと思つたのである。ここで父の平凡化は別な色合を以て姿を変へたのであつた。それから『平凡治癒』といふ概念である。これは実地医家は必ず思当るに違ひない。疾は幾ら骨折つても癒えぬときがある。さうしてゐて癒ゆるときには極めて平凡に癒えてしまふ。即ち疾を『平凡治癒』の機転に導くのが名医である。
彼の童子から漆の汁で描いて貰つた絵がかぶれて二月も苦しんだけれどもそれは癒えた。癒えたが痂を結んだところが瘢痕組織で補はれたと見えてそこに痕が残つた。その小さい男根図の痕は、小学校を出て中学校に入り中学校を出て高等学校に入るころまでは残つてゐた。僕は風呂に入つたりするとその痕を凝視して追憶にふけることもあつた。然るにその痕はいつのまにかおぼろになつて行き今ではもはやその形を認めることが出来なくなつた。僕もそろそろ初老期へ近づいて来た。南独逸の客舎で父の死報に接した時も僕は忽然として漆瘡のことを想出し、床のなかで前膊の内面を凝視したけれども形はすでになくなつてゐた。
漆瘡に、生蟹黄調塗とか、蟹沫塗之とか、または蟹殻滑石研細※[#「てへん+參」、121-下-9]之乾者蜜和塗などといふ療方のあるのは漢医方に本づくのであつた。和文に漆まけを癒しとあるのも亦さうである。父の拵へて呉れたものはそんなものではなかつた。油薬のやうなどろどろしたものであつたが、その薬の色やなんかはどうしてもおもひ起すことが出来ない。そのあたりの父の顔も分からない。努めておもひ浮べようとすると、晩年の老いた父の顔のみが浮んでくるのである。
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