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念珠集(ねんじゅしゅう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-5 9:31:28  点击:  切换到繁體中文


    2 痰

 父は長い間、たんを煩つてゐた。小男でせた父が咳込せきこんで来ると、少し前かがみになつて、何だかおなかの皮でもよぢれるやうに咳込むのがいかにも苦しさうであつた。ところが、その苦しさうな咳が一とほり済むと、イツヘ、イツヘ、イツヘ、イツヘといふ咳が幾つか続いて、それから、イツシ、イツシ、イツシ、イツシといふ咳になる。その工合がどうもをかしいので、幼童の僕がその真似まねをしたものであつた。仏壇の勤めなどがまだ終らぬうちに父が咳込んで来てさういふ異様な咳になると、勝手元で働く母の傍にくつついてゐながら僕がイツシ、イツシ、イツシ、イツシといふ真似をして、母からにらまれたりするけれども、母もたうとう笑つてしまふのであつた。
 年に一度、多くは冬を利用して人形芝居が村にかかつた。夕飯を終へてから、翁媼をうあうも、をんなも孫も、みんな、深く積つた雪がかんかんと氷る道を踏んでその人形芝居を見に行つた。時にはひどい吹雪の夜のことなどもあつた。その人形芝居には、美しい娘をさらつてゐる大猿を一人のさむらひが来て退治したり、松前屋五郎兵衛ごろべゑ折檻せつかんされて血を吐いたり、若い女房がひとりの伴を連れて峠を上つて行くと、そこに山賊さんぞくが出て来たりした。杉の木立の向うは暗闇くらやみで星が輝いてゐるやうにもこしらへてあつた。ある晩に父は僕を背中に負つてその人形芝居を見に行つたときにも、父はひどく咳込んでいかにも困つた様子であつたが、僕がまたそれの真似して、それでもをさなごころに悪いことをしたやうな気持でゐたことをおぼえてゐる。
 父の痰持たんもちは僕の生れる前からであつた。祖父が隠居してから楽みに飼つたこひが、水が好いので非常に殖え、大きな奴がいつも沢山泳いでゐた。雪がもう二三度降つてからのことであつたさうである。大雪にならぬ前に、その鯉池のさらひをする方がいいといふので、寒さの厳しい日に父は若者を督促して働いたのがもとで、たうとう痰になつてしまつたといふことであつた。痰になつてからも父はやはり働いてゐた。僕の生れたのは父が痰になつてから後のことである。僕は小さい時は腺病質せんびやうしつでひよろひよろしてゐた。父が痰でなやんでゐたときの子だからだなぞと祖母の云ふのを聞いたことがある。
 父は痰持であつたから、水飴みづあめだの生薑しやうが砂糖漬さたうづけなどを買つてしまつて置いた。水飴は隣の宝泉寺からよくもらつて来たやうである。宝泉寺では村人がもちくたびに持つて行くので、餅の食べきれないときにはそれを水飴に作つた。いつか宝泉寺では、琥珀こはく色の透とほる水飴がかめに一ぱいあるのを持つて来て分けて呉れたことを僕は覚えてゐる。父の居ないときに時折兄と僕とがその水飴を盗んでめた。
 或る時僕は生薑の砂糖漬をも盗んで来たことがあつた。そして砂糖だけを嘗めて生薑を外にてた。外には雪が一めんにふり積つて居る。生薑が雪の上におちると三四のすずめが勢よく飛んで来てそれを争つたことをおぼえてゐる。痰と生薑とに何かの因縁いんねんがあるやうにも思へたがそれがをさない僕には分からない。それから大分だいぶつて僕は東京にのぼるやうになり、好んで浪花節なにはぶしを聞いた。浪花節かたりは、『せめて生薑の一へげも』といふことをうたふ。その度ごとに僕は父の痰のことを追憶した。医学を学んでから僕は漢方かんぱうまたは民間医方いはうに興味をもつたこともある。さて生薑のことを注意するに、『※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)しばくいはく。八九月に多く食へば、春にいたりて眼を病む。寿いのちを損じ筋力を減らす。妊婦はらみをんなこれを食へばその子六指むつゆびならしむ』なんぞと説明したのもあつて僕を驚かしたが、多くの漢医方には、生薑に開痰かいたんの作用あることが説いてある。痰火たんくわくだりに薑汁を用ゐることもあり、治寒痰咳嗽といふ句もあり、導痰丸だうたんぐわん、導痰たうなどの処方もあるので、父が砂糖生薑をしまつてゐたことが、何だか一種のあはれふかいやうな気持で僕の心に浮んでくることもあつたのである。
 父は三山さんざん蔵王山ざわうさんあたりを信心して一生四足しそくを食はずにしまつた。僕の寝小便がなかなか直らぬので、ぎうが好い、が好い、いぬが好いなどと教へて呉れるものがあつたが、父はわざわざ町まで行つて、朝鮮人蔘にんじん二三本買つて来てくれたことをおぼえて居る。それであるから、兄が十五になつて、若者仲間に入つてから間もなく、大雪が降つてそれの固まつた或る晩に、さけの頭に爆発する為掛しかけをして、きつねぴきを殺した。六疋の狐は銘々行くところに行つて死んでゐたさうである。垂れてゐる血を辿たどつて行くと其処そこに狐が死んでゐるので、一つなどはそれでも、林の中の泉の傍まで行つてゐたさうである。兄達五六人の若者は夜業の藁為事わらしごとが済んでからそれを煮て食つた。兄は爆発為掛のうまく行つたことを得意に話しながら、どうも少し臭くて駄目だな。ぎうよりも旨くないな。こんなことを話した。それを次の日父が聞きつけて非常に怒り、何でも狐のことをひどく勿体無もつたいながつたことをおぼえてゐる。
 父は痰を病んでから、いつのまにか何かの神にぐわんを掛けて好きなものを断つことをちかつた。ただ、酒も飲まず煙草たばこも吸はぬ父は、つひに納豆なつとうを食ふことをめた。幾十年も納豆を食ふことを罷めて、もう年寄になつてから或る日納豆を食つたが、どうも痰に好くない。また痰がおこりさうだなどと云つたことがある。父はその時から命のをはるまで納豆を食はずにしまつただらうと僕はおもふ。父は食べものの精進しやうじんもした。しかしさういふ普通の精進の魚肉ぎよにくを食はぬほかに穀断ごくだち塩断しほだちなどもした。みんなが大根を味噌みそで煮たり、鮭の卵の汁などをこしらへて食べてゐるのに、父はただ飯に白砂糖をかけて食べることなどもあつた。併し僕には何のために父がそんな真似をるかが分からなかつた。

    3 新道

 六歳ぐらゐになつた僕を背負つて、父は早坂新道はやさかしんだうを越えて上山かみのやまへ向つて歩いた。雨あがりの道はよく固まつて、天がよく晴れてもちりの立ちのぼるやうなことはない。両側に密生した松林がしばらくの間続いてゐて寂しいやうである。人どほりのすくない朝のうちで、街道は曲折のなるべく無いやうについてゐるから、はるか向うから人の来るのが見えてその人にふまでには大分かかる。それからその人が後の林の角に見えなくなるまでも大分かかる。さういふ街道かいだうを父はいい気持で歩いて行つた。時節は初夏の頃ではなかつたらうかと思はれる。さういふ記憶は朦朧もうろうとしてゐるが、松蝉まつぜみでも鳴いてゐたやうな気持もする。
 上山かみのやまは温泉場で、松平藩主の居城きよじやうのあつたところである。御一新ごいつしん後はその城をこはして、今では月岡つきをか神社の鎮座になつてゐる。後年俳人の碧梧桐へきごどうがここを旅して、『出羽では最上もがみ上山かみのやまの夜寒かな』といふ句を残した。僕の村からこの広い新道を通つて上山まで小一里ある。そこまで村の人が大概買物などに行つた。
 さういふ街道を父は独占したやうなつもりで街道の真中まんなかを歩いて行つた。然るにややしばらくすると、僕のうしろの方で人力車じんりきしやの車輪のきしる音がした。さうしてヘエ、ヘエ、といふ懸声かけごゑがした。これはけろといふ合図に相違ないから、父は当然避けるだらうとおもつてゐると依然として避けない。その刹那せつなにどしんといふ音がして人力じんりき梶棒かぢぼうがいきなり僕の尻のところに突当つた。父は前にのめりさうになつた。
 すると父は突嗟とつさに振向きしなに人力車夫のうなじのところをつかまへて、ぐいぐい横の方に引いたから人力車がくつがへりさうになつた。人力車夫は慌しく梶棒をおろさうとしたが父はなほ攻勢をゆるめない。人力車夫はつひに左方になつて倒れた。父は人力車夫ののどのあたり項のあたりを二三度こづいたが、それでも人力車夫は再び起き上つて父と争はうとした。そのとき乗つてゐた老翁がしきりにそれを止め父にわびをした。
 父は威張つた恰好かつかうで尻を高くはしより再び街道の真中を歩いた。その老翁を乗せて後から来た人力車は今度は僕らをけて追越して行つた。追越すときに車夫は何か口の中で云つてゐたが父はそれにはかまはなかつた。僕は事件のあつた時父の背中で声を立てて泣いたことをおぼえてゐる。
 僕は明治四十二年に熱を病んで、赤十字病院の分病室にゐたときに、終日少年の頃の回想にふけつたことがある。そしてなぜあの時、人力車夫が梶棒をあんなにひどく突当てたであらうと考へたことがある。この文章を書いてゐる現在の僕がやはりそのことを思ふのと同じであつた。
 この街道の開通されるまでは、小山を幾つも越えてやうや上山かみのやま行著ゆきつくのであつた。そこは如何いかにも寂しい山道で、夜遊よあそびに上山まで行く若者が時々道が分からなくなつて終夜そのあたりをさまよふといふやうなことがあつた。上山から魚を買つて夜道すると屹度きつと道が分からなくなるといふこともいはれた。夜更けてから、ほうい、ほうい、といふこゑがその山道あたりから聞こえるのはさうまれなことではなかつた。
 一つの小山の中腹に大きな石が今でもある。それを狼石おほかみいしとなへてゐるのはそこには狼が住んでゐて子を生むと、村の人が食べ物を持つて行つてやる。小さい狼の子が出て来て遊ぶといふやうなことがあつて、夜半などに鋭い狼のこゑがよく聞こえたものださうである。その石の近くを上山へ行く山道が通つてゐた。この山道には狐狸こり変化へんげに関する事件がなかなか多く、母も度々さういふ話をした。
 そこへ御一新ごいつしんが来、開化のこゑがかういふ山の中にも這入はひつて来るやうになつた。三島みしま県令が赴任するとたうとう小山の中腹を鑿開きりひらいて山形から上山を経て米沢よねざはの方へ通ずる大街道が出来た。早坂新道と村の人がとなへたのはこの新道である。この新道は僕の生れるずつと前に開通されたものだが、連日の人足にんそくで村の人々の間にも不平の声が高かつた。ある時、県令の臨場りんぢやうの際に人足に寝そべつてゐる者のあるのを役人がとがめると、『人としてねぶたきことはあるものをわれにはゆるせ三島県令』といふ一首を差上げたなどといふ逸話も伝へられた。その男は僕が東京に来てからも年取つて未だ存命して居つたが余程前に亡くなつた。
 さて新道が出来ると人力じんりきが通る。荷車は干魚ほしうをなどを積んで通る。郵便脚夫きやくふが走る。後には乗合馬車のりあひばしやが通り、新発田しばたの第十六聯隊れんたいも通つた。たまには二頭馬車などの通ることもあり、騎馬の人の通ることもある。珍らしいものの通るときには、宝泉寺まで走つていつて遠目鏡とほめがねでそれを見た。
 人力車夫がの大街道を勢づいて走つてゐるときには心中に一種のほこりがあつただらう。あたかもヴアチカノの宮殿を歩いてゐるときに何か胸が開くやうに感ずるが如きものである。僕の父にしてもさうである。父がこの大街道を独占したやうにして歩いてゐたときには、そこにやはり不意識の矜尚きようしやうがあつたに相違ない。父の剛愎がうふくな態度は人力車夫の矜尚の過程に邪魔をしたから、梶棒をどしんと僕の尻に突当てたのである。その不意打ふいうちの行為が僕の父の矜尚の過程に著しいさまたげを加へたから父は忽然こつぜんとして攻勢にでたのではなかつたらうか。

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