三
埃及カイロー博物館にある、王アメノフイス四世が児を抱いて接吻しようとしてゐる、細部が見えなくなつた石の彫刻も僕の注意を牽いた。王も児も裸形のやうに見える。巌丈な椅子に腰かけてゐて、児は王の膝の上に乗りゐる。王は右の手で児の膝のところを抱き、左の手が児の後ろに廻つて頸のところを支へてゐる。そして接吻するところである。全体が単純でも、旅人の僕の注意を牽いた。
おなじくカイローの博物館に、ゼンヲスレト一世がプタ神を抱いて接吻するところがある。これは石柱の一部分で浮彫になつてゐる。王は神の腹のところを両手で抱いてゐる。神は右手を挙げ右を向き、王は左を向いて、鼻と鼻が既に接してゐるが、埃及流の直線的構図では唇を接せしめることが出来ない。そこで、唇と唇とが未だ少しく離れてゐる。国王が神明に接吻する図なども、旅を来てまたこれから旅をしようとする僕にはめづらしかつた。
ある時、朝はやくヴエネチアを立つてパドワに来た。そこで基督一代の事蹟をあらはしたジオツトの壁画を見てゐた。そこで二つの接吻を見た。
一つは、聖ヨアヒムに聖アンナが接吻してゐる図である。石門がかいてあるのは、それは即ち黄金門である。門の口は穹をなしてゐる。それが石橋に続き、石橋の終るあたりで、老いて髯の長い聖ヨアヒムと未だ若い聖アンナとが接吻してゐる。アンナは左手でヨアヒムの頤のへんをおさへ、右の手で後頭をおさへてゐる。ヨアヒムは右手をアンナの左の肩にかけてゐる。その容子がいかにも好い。
穹をなした門の口のところに若い女が四人ゐて皆微笑してゐる。その嬉しさうな面相が四人とも皆違つてゐて、実にいいものである。若い四人は聖アンナの友である。その四人のほかに黒い蔽衣で頭まで蔽うた媼がゐる。それは接吻を見ない振してゐる。左方に若い男が右手に籠をさげ左の肩に何か鍬のやうなものを担いでゐる。これもやはり微笑してゐる。聖ヨアヒムと聖アンナの唇は全く触れて描いてゐるが、二人とも目つきは笑つてはゐない。
二つは、ユダが基督に接吻する図である。炬をかかげてゐるもの、竹槍、棒などを持つてゐるもの沢山、角笛を吹いてゐるもの一人などがかいてあつて、中央にユダが基督の両肩に抱付いて、唇を尖げて接吻しようとしてゐる。二人が目と目とを合せてゐるところである。その左手に短刀で人の耳朶を切落したところがかいてある。その短刀の絵具が半ば剥げてゐる。この図は、
起きよ、我儕往くべし。我を売すもの近づきたり、此如いへるとき十二の一人たるユダ剣と棒とを持ちたる多くの人人と偕に祭司の長と民の長老の所より来る。イエスを売す者かれらに号をなして曰ひけるは我が接吻する者は夫なり之を執へよ。直にイエスに来りラビ安きかと曰て彼に接吻す。イエス彼に曰けるは、友よ何の為に来るや。遂に彼等進み来り手をイエスに措て執へぬ。――馬太伝廿六章
ここのところを描いたのであつた。ジオツトの、単純で古雅で佳麗で確かな技倆は、接吻の図に於てもその特徴を失はない。聖アンナの接吻図などは実に高い気品を有つてゐると僕はおもふ。それのみではない。彼の四人の女の微笑をば、僕は日本国君子に伝へたいと思うたこともあつた。今はそれをも諦めて、泥濘の道を歩くにも憤の起るやうなことはなくなつた。
四
「接吻」の語はすでに陳腐に属する通語であるが、佩文韻府にも、字典にも此の成語の無いところを見ると、どうも近世の造語ではあるまいかといふ気がする。僕は嘗てかう想像したことがある。「接吻」の語は、聖書の飜訳を企てたとき、上海あたりで新に造つた語ではあるまいか。すなはち、「接吻」の語は中華人の造つた飜訳語で、日本人はその儘採つて来たにすぎないとかう思つたのである。
然るに近年版の広東話もしくは官話の漢訳聖書には、「接吻」ではなくて、「親嘴」としてある。たとへば、馬太伝第廿六章のところを次の如くに書いてゐる。売耶蘇※[#「漑」のさんずいに代えて「口」、317-下-11]也曾俾個記号※[#「にんべん+巨」、317-下-11]※[#「口+地」、317-下-11]話我所親嘴※[#「漑」のさんずいに代えて「口」、317-下-11]就係※[#「にんべん+巨」、317-下-12]咯※[#「口+地」、317-下-12]捉住※[#「にんべん+巨」、317-下-12]就即刻到耶蘇処話夫子平安就同※[#「にんべん+巨」、317-下-12]親嘴。そこで僕は目下、もつと旧い漢訳聖書をしらべてもらふやうに友人に頼んでゐる。中華は古来いはゆる道徳の国であるから、たとひ古くから、「吻合」などの成語があつても之を接吻とは別の意味に用ゐ来つてゐた。以上の如く僕は想像したが、近頃日本で出来る漢和字典には既に「接吻」をば熟語として採録してゐる。そこで、ひよつとしたら「接吻」の語は、近世の和製語であるかも知れないと思ふこともある。なほしばらく考ふべきである。
「接吻」の語を、聖書では「くちづけ」と訓じてゐること上記のごとくである。しかし、古来日本では「口づけ」をば口癖と同じ意味に使つて来たけれども、接吻の意味には用ゐなかつたやうである。
秘かに思ふに、接吻を「口づけ」と訓ませたのは、聖書の飜訳以来のことではなからうか。そこで、言海でも、辞林でも、言泉でも、稍古いところで雅言集覧、俚言集覧、倭訓栞あたりでも「口づけ」を接吻の義には取つてはゐない。然るに近頃新しい辞書が出来、古い辞書も増補された。その新しい辞書、増補された辞書を見ると、「口づけ」の条に、接吻に同じなどと瞭然書き記してあるやうになつた。中には、キス或は接吻に同じといふものもある。これは言語変遷の一つの例と謂つて好い。
そんなら、接吻に相当する日本語は古来なかつたかといふに、それはあつた。而して、「口すひ」といふ語で代表されてゐた。秀吉が小田原陣から大阪へ送つた手紙に、「くちをすはせ」といふのがある。つまりあれである。それから、「二つ並んで舞ふ独楽のちよつとさはつて退いたるは人目忍んで口吸ひ独楽」などいふのもある。なほ端的なのには、「すはせつすひつしごきあひ」などといふのもある。なほ求むれば幾らでもある。ただ、これを万葉、古今、八代集、十三代集の和歌などに見出すことが出来ないのである。
日本古来の文学には、「いざせ小床に」「七重著るころもにませる児らが肌はも」「根白の白ただむき」「沫雪のわかやる胸を」「真玉手、玉手さしまき、ももながに、いをしなせ」「たたなづく柔膚すらを」「にひ膚ふれし児ろしかなしも」などとは云つてゐても、官能を局部的にあらはす「口吸」の用語例は殆ど皆無と謂つてよい。おもふに古代の日本人も「口吸」をあからさまにいふことが、得手でなかつたのかも知れぬ、宇治拾遺あたりの「口すひ」の語は、近世の洒落文学の方嚮に発達して行つた。
然るに、明治の文学は西洋流を交へたから、与謝野鉄幹さんあたりの国詩革新のこゑを急先鋒として、「あまき口づけ」といつた調べの短歌なり新体詩なりが、幾つも出た。
接吻のことを漫然と書いて来て、sittliche Entrstung といふ語を僕は聯想すべきであらうか否かとふと思つたが、それは恐らく無益であらう。大地震で日本はひどい目にあつて、僕も少しはもののあはれを感じたやうな気がするからである。ただ僕は「口づけ」といふ日本語はどうもまづいと思つてゐたから、いまだにそれが気にかかつてゐる。
そんなら、「口すひ」を活かすかと謂ふに、神の額に接吻したり、女の手をおし戴いて接吻したりする場合には「口すひ」ではなくなつて来る。僕はいつぞや、「おきな草にくちびる触れてかへりしが」などといふ歌を拵へたことがあり、ある詩人は既に「くちふれよ」「くちふれあひて」とも用ゐて居る。
補遺。耶蘇降生千八百八十三年米国聖書会社明治十六年日本横浜印行。訓点旧約全書には「其子に吻接せよ」「我に吻接せよ」「父に吻接す」などとあつて、ここでは「吻接」になつて居る。この漢訳から思付いて、邦訳が「接吻」としたのかも知れぬ。右、長崎高等商業学校武藤教授の教示を忝うした。なほ大方博学君子の教示を冀つて僕の文を補はうと思ふ。
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「漑」のさんずいに代えて「口」 |
|
317-下-11、317-下-11 |
「にんべん+巨」 |
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317-下-11、317-下-12、317-下-12、317-下-12 |
「口+地」 |
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317-下-11、317-下-12 |
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