斎藤茂吉選集 第八巻 |
岩波書店 |
1981(昭和56)年5月27日 |
1981(昭和56)年5月27日第1刷 |
1998(平成10)年8月7日第2刷 |
一
大正十五年三月十八日の朝、東京から行つた藤沢古実君が、蔭山房に赤彦君を見舞つた筈である。ついで摂津西宮を立つた中村憲吉君が、翌十九日の午ちかくに到著した筈である。廿日夜、土屋文明君が東京を立つた。
翌廿一日の午過ぎに、百穂画伯、岩波茂雄さんと僕とが新宿駅を立つた。たまたま上京した結城哀草果君も同道した。少しおくれて東京から高田浪吉、辻村直の両君が立ち、神戸から加納暁君が立つた。
上諏訪の布半旅館で、中村憲吉君、土屋文明君、上諏訪の諸君と落合つて、そこで一夜を過ごした。中村、藤沢両君の話に拠ると、十七日に、主治医の伴鎌吉さんが、赤彦君の黄疸の一時的のものでないことの暗指を与へたさうである。その夜、夕餐のとき赤彦君は『飯を見るのもいやになつた』といつたさうである。十八日に摂津国を立つた中村君は、十九日に蔭山房に著いた。その時赤彦君は、『煙草ももう吸ひたくなくなつた』『ただ静かにしてゐるのが何よりだ』と云つたさうである。翌廿日、中村、藤沢の両君が諏訪上社に参拝祈願して護符を奉じて来た。赤彦君は、『ありがたう。おれにいただかせろ』といつた。こゑは既にかすかで、一語一語骨が折れる風であつた。夫人の不二子さんは護符を以て俯伏してゐる赤彦君の頭を撫でた。赤彦君は、『ありがたう』といつた。そして、『きたないとこに置くなよ』と云つたさうである。その夜、藤沢古実君に、言葉が跡切れ跡切れに、『己はな、いかんとも疲労してしまつてなあ。余病のために、黄疸のために、まゐるかも知れん』と云つた。その終の『まゐるかも知れん』のところが急に大ごゑになつて、健康な時の朗々たるこゑを思はせたので、胸がぎくりとしたと古実君が語つた。
廿一日朝、赤彦君は首をあげて、皆に茶を飲みに来るやうに云つた。中村憲吉、藤沢古実、丸山東一、久保田健次の諸君、不二子さん、初瀬さんが集まつた。その時、藤沢君の美術学校卒業製作塑像の写真を見せると、『ありがたう。素直だな。しづかなのは一層むづかしいものだ』と云つたさうである。それから、『どうもな。本病より余病の方がえらいやうだ。斎藤もさう云つて来たよ。伴も同じ意見だ。余病が。余病が余病だけですめばいいが、本病にはとりつけないで』とも云つたさうである。僕は、神保博士の意見として、どうも黄疸は単純な加答児性のものでなく肝の方から来てゐることを手紙に書いたのであつた。それでも癌の転移証状であることは書けなかつたのである。赤彦君はそれゆゑ飽くまで黄疸を余病と看做し、余病を先づ退治して置いて、そして生きられるだけ生きようと覚悟したのであつた。それであるから、極力友人に会ふことを厭うて、静かに身を保たむとしたのであつた。赤彦君は四五月の候になれば余病を退治して、今度は楽しく友にも会はうと思つてゐたのである。赤彦君はその夜こんなことをも云つた。『伴さんは本当に熱心だからな。己ははじめは知らなんだ。一遍見て貰つたらもう伴さんに限るやうになつた』『自分ひとりではと思ふときには屹度ほかの人にも相談してなあ』『腕はあるんだからなあ』などとも云つたさうである。
二
廿一日に、中村憲吉君は校歌の話を為出した。校歌といふのは、秋田県角館中学校の校歌を平福百穂画伯から嘱付して赤彦君に作つて貰ふことになつてゐた。それを謂ふのである。すると赤彦君は、『北日本の脊梁の。千秋万古やまのまに。偉霊の水を湛へたる。田沢の湖の水おちて。鰍瀬川とながれたり』云々と低いこゑで云ひ、憲吉君の批評をも求め、もう七分どほりは出来てゐることを云つた。その時、藤沢古実君が傍から、『ちよつと其を書いて置きませうか』と云つて、それから不二子さんもそれをすすめると、『書いちやいかん。それだでこまる』『みどころを取つて行かれるやうだ』と云つたさうである。
そのうち腰の痛みが出て来た。『水脈坊水脈坊。お客様がゐていやかも知れんがおさへて呉れなくちや』と云つた。それから、『飲物も食物も皆さげてくれ。目のまへにあると溜まらんから』と云つたさうである。その時按摩が来たので皆が部屋を退いた。その時古実君に、『訂正を送つて呉れたか』と云つた。『はい、送りました』と答へると『確だな』と念を押したさうである。この訂正といふのは、雑誌改造に出した、『風呂桶に触らふ我の背の骨のいたくも我は痩せにけるかな』の下の句を『斯く現れてありと思へや』と直し、憲吉・古実君の意見をも徴して、其をアララギの原稿にしたのである。それを謂ふのである。尚今雑誌を調べて見ると改造に出した歌をアララギでは少しづつ直してゐる。
信濃路に帰り来りてうれしけれ黄に透りたる茎漬のいろ (改造)
信濃路に帰り来りてうれしけれ黄に透りたる漬菜のいろは (アララギ)
神経の痛みに負けて泣かねども夜毎寝られねば心弱るなり (改造)
神経の痛みに負けて泣かねども幾夜寝ねねば心弱るなり (アララギ)
廿一日夕七時ごろ、古実君との問答がある。
古実『中村さんは明日か明後日帰ると云つてゐました。どうも己が行つて赤彦を興奮させて済まなかつたといつてゐました』
赤彦『中村は己が相手をしなんで不服らしかつたかな』
古実『そんなことはありません』
赤彦『己は一言いふにもつかれるのだ』
古実『……』
赤彦『もう一度会ふさ』
古実『それでは明日でもお会することにしませう』
かういふ会話などがあつた。それから八時頃かういふことを云つたさうである。『画伯、斎藤、岡、土屋、岩波――五人だなあ。……それへおれの病を君から委しく書いてやつて呉れ。まだ容態をくはしく書いてやらうとしてゐて書いてやらないから。……身のおきどころがない。……坐つてゐても玉のやうな汗が額から出る。いかんとも為様がないとさう書いてくれ。……そして物をいふと、それだけ疲労するから、静かにしてゐると書いて呉れ、医者もさういつてゐるし、それが己には薬だ』かう云つた。古実君は『かしこまりました』といふと、『用件はそれだけ』『あつちで寝て行つて呉れ』と云つた。
その夜の十時頃、妹の田鶴さん、不二子さん、水脈さん、初瀬さん、健次君、丸山君、藤沢君等を部屋に呼び、『おれはなるべく物を云はぬから、そつちでお茶を飲んで呉れ』と云つた。間もなく、辛うじて身を起し、『明治四十一年浅間山へのぼる。雲の海の上にあらはるる信濃のやま上野のやま下野の山』『明治四十一年十一月とおぼえておけ。日本新聞に出てゐる』と云つた。
その時、赤彦君のうしろに猫がうづくまつて咽を鳴らしてゐた。これは赤彦君がいつも猫を可哀がるので傍に来てゐるのであつた。皆が、猫の話をし、夏樹さんの猫をいぢめる話などをしてゐると、赤彦君は、『初瀬、歌の原稿を書け』と云つた。そして、『わが家の猫はいづこに行きぬらむこよひもおもひいでて眠れる』と云つた。暫くして、『ちがつた。ちがつた。猫ぢやない。犬だわ』と云つて笑つた。これは数日前に居なくなつた犬のことを気にして咏んだ歌である。
わがいへの犬はいづこにゆきぬらむこよひもおもひいでてねむれる
その後は遂に歌を作らずにしまつた。この歌が赤彦君の最終の吟となつたのであつた。
三
廿二日朝、土屋君は僕を伴さんのところに連れて行つて呉れた。僕は初対面の挨拶をし、初診以来熱心の治療に対して謝した。伴さんはその前にも、赤彦君の病状に就いて委しく通信され、また黄疸のあらはれた三月一日には態々電話で知らせて呉れたのであつた。午過ぎに、平福・岩波・中村・土屋の諸君と伴さんと僕と蔭山房に出かけた。
家に入るところの道は霜解がして靴がぬかつた。松樹はもとの儘だが、庭は広げられてあつた。大正十年の夏に僕夫婦の一夜宿つた部屋には炬燵がかけてあつて、そこに諏訪の諸君があたつてゐた。暫くして先づ伴さん、中村憲吉君、僕の三人が部屋に入つて行つた。部屋は新築したばかりの書斎である。いままでのは、書斎も客間も一しよで、書きものなどの散らばつてゐる時には困るといふので、元の土間の処に書斎を造つたのであつた。そこの炬燵に赤彦君は俯伏して、頭のところに両手を固く組んでゐる。伴さんは来意を告げた。すると赤彦君は辛うじて顔をあげ、それから両手を張つて姿勢を正し、そして、『ありがたう』と云つた。こゑは低くそして幽かであつた。そしてその儘また俯伏してしまつた。赤彦君の顔面は今は純黄色に変じ、顔面に縦横無数の皺が出来、頬がこけ、面長くて、一瞥沈痛の極度を示してゐた。
『だいぶ痩せたなあ』と僕は云うた。すると赤彦君は、『冷静だ。極めて冷静だ』と云ひながらその儘俯伏してゐた。僕は咽のつまるやうにおぼえて唯『うん』と云うたのみであつた。僕はその時、三月十二日に、古今書院主人橋本福松君が蔭山房をたづねた時に、赤彦君がこゑを挙げて泣いたといふことを思ひ出したのであつた。赤彦君は暫くして極く静かに、『伴先生は毎日診て下さるが斎藤君は久しぶりだから、どうか見て呉れたまへ』と云つた。僕は伴さんから聴診器を借りて型のごとくに診察をした。その間赤彦君は我慢をして起直つてゐた。それからまた俯伏してしまつた。暫くして僕は、『画伯も、岩波主人も来てゐるから、どうか会つて呉れたまへ』といふと、赤彦君は『どこに』と大きなこゑを出して顔をあげた。そして黄色の大きな眼をつた。『此処に一しよに来た』といふと、今度はただ点頭いた。そこに平福・岩波・土屋の三君が入つて来、中村・藤沢の二君も交つて談笑常の如くにした。赤彦君は新来の客には一々丁寧に会釈をし、をかしい時には俯伏した儘笑つた。それから、『若い連中も来てゐるから会つて呉れないか』といふと赤彦君はただ点頭いた。そこに加納暁、結城哀草果、高田浪吉、辻村直の諸君が入つた。赤彦君は一寸うなづき、『おれはなるたけ物を云はぬが、君等はいろいろ話してくれたまへ』と云つた。それでも種々歌柄についての短評などをも云つた。気になると見えて発行所のことなどをも云つた。それから、『おれも生きられるものなら生きたいのだが』といふ幽かなこゑも聞えた。その間に僕等に茶を饗することを命じたり、ぼんたんを持つて来て食はせることを命じたり、いろいろ細かいところに気が付いてゐた。そして僕等は諏訪湖からとれる寒鮒の煮たのを馳走になり、酒をも飲んだ。これは一々赤彦君の差図によつたのであつた。僕等は病床の邪魔をしたことを謝しながら、それでも二回まで会つた。その時赤彦君は『何だかこれではあつけないやうだな』と云つた。僕等は、明日二たび邪魔するだらうことを告げて蔭山房を辞した。
その晩、急に気のゆるんだやうにおぼえて、みんなは布半旅館で馬肉を食ひ、坐り相撲を取り、将棋などを差した。百穂画伯は赤彦君の病顔の写生図を作つた。夜更けて温泉に浴し、静かに眠らうとしたが、心が落付いて来ると赤彦君の顔容が眼前に髣髴としてあらはれて来た。諏訪の諸君も、それから中村憲吉君も、数日来の張りつめた心に幾分の緩みを得て、そして酒に酔うたのであつた。森山汀川君は今夜向うにつめてゐる。藤沢君は夜更けてから向うに宿りに行つた。
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