斎藤茂吉選集 第八巻 |
岩波書店 |
1981(昭和56)年5月27日 |
1981(昭和56)年5月27日第1刷 |
1998(平成10)年8月7日第2刷 |
おなじ結核性の病で歿した近ごろの文学者でも、やはり行き方に違ふところがあるやうに思ふ。正岡子規とか国木田独歩とかを一つの型と看做せば、高山樗牛とか綱島梁川とかは又一つの型のやうに思はれる。
総じて結核性の病に罹ると神経が雋鋭になつて来て、健康な人の目に見えないところも見えて来る。末期になると、病に平気になり、呑気になり、将来に向つていろいろの計画などを立てるやうになるが、依然として鋭い神経を持つてゐる。それであるから、健康の人が平気でやつてゐることに強い『厭味』を感じたり、細かい『あら』が見えたりする。
正岡子規なんかは、三十六歳の若さで死んでゐるが、やはりその『厭味』といふことが強く身に答へたものらしい。現在の私はもう子規よりも十年生きのびてゐるが、いかにしても子規よりも甘いところがあり、厭味から脱することが出来ない。子規も病気になるまへには露伴の風流仏などに傾倒したこともあり、西鶴ばりの文章なども書いたのであつたが、晩年の随筆では、当時、露伴が非常に骨折つて書いた「二日物語」の文章をば貶してゐる。
子規の随筆「墨汁一滴」には、『露伴の二日物語といふが出たから久しぶりで読んで見て、露伴がこんなまづい文章(趣向にあらず)を作つたかと驚いた。それを世間では明治の名文だの修辞の妙を極めて居るだのと評して居る。各人批評の標準がそんなに違ふものであらうか』。かう子規が云つてゐる。子規が写生文を創め、細かく平淡なものを書いてゐた時であるから、「二日物語」の文章に厭味を感じたのであらうか。
子規のものは、センチメンタリズムから脱却してゐるが、感慨が露はでなく沈痛の響に乏しいのは、単に俳人としての稽古から来てゐるのでなく、疾病から来てゐるのである。このへんが芭蕉のものと違ふ点であつて、子規は芭蕉の句にも随分厭味と思はせぶりとを感じてゐるのである。このへんの事は私にはなかなか面白い。
独歩も、もとは甘い恋の新体詩なども作つたのであるが、それがだんだん除かれて行つた。子規ほど病牀生活で苦しまなかつただけ、呑気ではなく、鋭いところが未だ消えずにゐる。石川啄木などでもやはり同じ径路を取つてゐる。
そこに行くと樗牛とか梁川などは、趣が違ふ。「我が袖の記」から「清見潟の記」になると余程平淡になつて来てゐるが、やはり感慨が露はに出てゐる。前二者の客観的なのに較べて主観的であり、抒情的である。樗牛がニイチエから日蓮に行つて、アフオリスメン風の文を書いてゐるとき、梁川は荘重で佳麗な見神の文章なんかを書いてゐる。是等はおなじく、神経の雋鋭になつたための一つの証候であるが、これは気稟に本づく方嚮の違ひであると謂つていいだらう。樗牛でも梁川でも若くて死んでゐるが、健康な人には出来ない点がやはり存じてゐる。
森鴎外が、『遺言には随分面白いのがあるもので、現に子規の自筆の墓誌抔も愛敬が有つて好い。樗牛の清見潟は崇高だらうが、我々なんぞとは、趣味が違ふ』云々と云つたのは、たいへん面白い。子規の墓誌は簡明な履歴で、日本新聞社員タリ月給四十円などと書いた文章をいふので、樗牛のは、有名な『吾人はすべからく現代を超越せざるべからず』をいふのである。
若し結核性の病で倒れずに、病に罹りながら五十年も文学者的活動を続けられるものならば、興味あることに私は思ふが、佳境に入れば死んでしまふし、癒つてしまへば平凡になつてしまふからやはり駄目である。
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