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雪の白峰(ゆきのしらね)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-5 9:03:49  点击:  切换到繁體中文


これより右、地蔵鳳凰を越えて、槍ヶ岳の駒ヶ岳と、峭立しては、絶景の極、駒と並べて見て、白峰はますます立派さを増すに候、農牛、農爺、蝶、白馬、これらが信甲駿の空に聳えて、相応ずる姿、鏡花の『高野聖』に、妖女が馬腹をくぐる時の文句に「周囲の山々は矗々すくすくくちばしを揃え、頭をもたげて、この月下の光景を、おぼろ朧ろとのぞき込んだ」とやらありしを思い出で、何やら山に霊ありて、相語るが如く、身ふるいられ申候、昨夜は明月凄じきばかりなりしに、九時頃より一人、うしろの天守台に上り、夜霧の彼方に朧ろなるの白色魔を眺め、気のまよいか、白鳥のあたりだけは、鮮やかなるようの心地いたし候。(十二月二十九日)


 その後もN君は、数葉のスケッチを送られた、N君が初めて物の本から読んで知った、農鳥の形を見つけ出して校堂に説くに至ってから、初めは信ぜざりし鳥形が、誰の目にも立派に分るようになり、七、八歳の小童から、中学生まで、往来を通るにも、西の大壁を仰向いて、足を緩めるようになった、初めはくさしていた大人も、南向きの白鳥の、優しく、長く、延べた頸の、曲線の美しさに、恍惚とするようになったという。
 しかし農鳥山は、白峰の雪を代表したものではない、農鳥山は三山の中、最も南に寄っているから、雪は最も少量である、この神秘な白鳥が消えても、あいたけは白銀のすじを入れている、間の岳は、登って見て解ったのであるが、全山裸出の懸崖と、絶壁とより成り、その上に一髪の山稜が北へと走っているので、焼刃の乱れたように、白くギラギラと輝いている、更に北岳は奥の奥だけあって山の胸にかけて、一里以上もある、凝れる氷を幾筋か白く引いている、自分は北方の白馬岳で、氷河的雪の壮観を説くのは、南の印度インドで、ジャングル的藪の美を説くのと同じく、当然と思っている、しかしながら偉なるかな南方の雪! 黒潮はしれる太平洋の海風を受けて、しかもラスキンのいわゆる、アルプスの魔女がつむげる、千古の糸にも似た雪の白い山! 讃嘆せよ、讃嘆せよ、太平洋岸の表日本には、東に富士あり、西に我白峰がある。
 N君からは――ちょうど亜米利加アメリカ人が、ルーズベルトの一挙一動を、電報で知らせてよこすように、白峰山脈の一陰一晴を知らせて来る、「一昨日朝、初めて西山一帯に降雪あり、今晩半時ばかり、日出前――日出――日出後の山と、その空との、色彩の変化を観察す」(十一月十七日)とある、そうかと思うと「灰汁あくのような色の雪雲、日に夜叉神やしゃじん(峠の名)のあたりより、鳳凰、地蔵より縞目をして立ち昇り、白峰を見ざること久し」(十二月十七日)とかつえた情をうったえて来る、「甲州は今雪の王国に御座候、四囲の山々、皆雪白、地蔵鳳凰の兀立こつりつ、殊に興趣あり、また雪ある山々の、相互の陰翳、頗る面白く候、東の方の山々の中、夕日の加減にて、或山のみ常は凡々たるが、真紅に、鮮やかに浮き立つことあり、珍しく人目をくさま、何かの象徴の如くに候」(一月十九日)と物思わせることもある、真夏の夕暮に、下のようなハガキも、舞い込んだ。「極暑九十七度九分、山々に未だ雪あるに呆れ候、一昨夕、稀なる夕映、望遠鏡にて西山一帯を眺めいたるところ、駒ヶ岳の絶巓ぜってん、地蔵の頭、間の岳、農鳥の絶頂なる、各三角測量標を、歴々と発見いたし候」(七月十八日)、この時の感じは、何だか自分が観て、N君に知らせているような気がした。
 秋も末になった、白峰の山色を想っていると、N君から、馬上の旅客を描いた端書が来た。

この月に入りては、甲斐が根颪一万尺余の絶巓より吹きなぐるに、目もあかれず、月の末あたりよりは、山男の鹿の片股、兎、猪の肉など、時々遥々とひさぎに参るべき由、さあらば、熊の皮の胴服などに、久しく無沙汰の芝居気取など致して見ばやと笑い居候、天長節より時雨つづき、雨やや上りて、雲がなき日の雪ある山の眺め、都人の想像及ばざるところに候、地蔵、鳳凰の淡き練絹ねりぎぬ纏いし姿は、さもあらばあれ、白峰甲斐駒の諸峰は、更に山の膚を見ず、ただ峻谷の雪かすかなる、朧銀の色をなして、鉛色なる空より浮き出で巨大なる蛇の舌ひらめいて、空に躍れる如し、何等のミレージ、何等のミラクル、今朝はやや晴れ、白峰満山の白雪、朝日に映じて瑪瑙めのうに金を含む、群山黙として黒く下に参す、富士も大なる白色魔の如く、鈍き空に懸れり、けいを招じて驚嘆の叫び承わり度候、山を見ては、兄を思う、昨日今日の壮観黙って居られず、かくは
  冬近き山家や屋根の石の数  (十一月六日)


 これを読まされると、自分はもうたまらなくなる、ふと目を挙げて「北に遠ざかりて雪白き山あり……」……、往きたいなあと、こぶしに力を入れて、机をトンと叩いた。





底本:「山岳紀行文集 日本アルプス」岩波文庫、岩波書店
   1992(平成4)年7月16日第1版発行
   1994(平成6)年5月16日第5刷発行
底本の親本:「小島烏水全集」全14巻、大修館書店
   1979(昭和54)年9月~1987(昭和62)年9月
入力:大野晋
校正:地田尚
1999年11月25日公開
2005年12月11日修正
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