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亡びゆく森(ほろびゆくもり)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-5 9:02:03  点击:  切换到繁體中文

底本: 日本の名随筆21 森
出版社: 作品社
初版発行日: 1984(昭和59)年7月25日
入力に使用: 1998(平成10)年1月30日第17刷
校正に使用: 1984(昭和59)年7月25日第1刷


底本の親本: 小島烏水全集 第八巻
出版社: 大修館書店
初版発行日: 1980(昭和55)年10月

 

伊勢山から西戸部の高地一帯(久保山を含んで)にかけて、昔は、可なりに深い森林があつたらうと思はれる、そのおもかげの割合に保存されてるのは、今私の住居してゐる山王山附近である、もとよりこれぞといふ目ぼしい樹木もなく、武蔵野や相模原に、多く見るやうな雑木林で、やはりならが一番多く、栗もかしもたまにはまじつてゐる。
 この頃のやうな若葉時になると、薄く透明な黄味を含んだ楢の葉が、柔々しい絹糸のやうな裏毛を、白く光らせて、あつちでも、こつちでも、ひら/\と波頭のやうに、そよ風に爪立つてゐる。傍に近寄つて見ると、土の匂ひのしさうな、黒ツぽくて浅い裂け目のある、無格好の幹から、滑べツこい灰白の小枝が、何本も出て、その小枝からは、鮮やかな薄緑の葉が、てのひらを返すやうに、取ツ組み合つて密集してゐる、同じ楢の中でも、私は殊にコナラの葉を美しいと思ふ、先のとがつたへら形の葉の縁辺を、のこぎりの目立のやうな歯と歯が内向きに喰い込んで、幾枚となく小さい掌を重ねたやうな若葉が、上になつたり下になつたりしてゐる戯れを、もどかしさうに見下して、黒松が大手をひろげて、虚空をぴたりと抑へつけてゐる、黒ツぽい程、濃緑の松の葉の傘は、大概楢よりも高くき上つて、光線を容易にとほしさうもなく、大空にひろがつてゐる、森の中をさまよひながら、楢の葉の大波をき分けて行くと、方々にこの黒松の集団が、印度藍インヂゴーの岩壁のやうに突つ立つてゐる、それがまばらの林を、怖ろしく厚ぼつたくも見せるし、又遠くからは、青空に黒くかたまつた怪鳥のやうにも見える。
 春の宵は、森の中が寝静まつたやうにひつそりとして、青葉若葉の面が、霞がかゝつたやうに曇つて来る、冷たい、水のやうな、浅黄色の空は、下弦の月が黄金色に光つたときは、柔かい吐息が、あの銀色をした温味のある白毛のしとねから、すやすやと聞えやうかと耳を澄ます、五月雨さみだれには、森の青地を白く綾取あやどつて、雨が鞦韆ブランコのやうに揺れる、椽側えんがはに寝そべりながら、団扇うちはで蚊をはたき、はたきする、夏の夜など、遠い/\冥途めいどから、人を呼びに来るやうな、ボウ、ボウと夢でも見るやうな声が、こんもりした杉の梢から、あたりの空気に沁み透つて、うつゝともなく、幻ともなく、神経にひゞく、「ふくろふき出したよ」と、宅の者はいふ、ほんとうに梟であるか、どうか、私は知らないが、世にも頼りのなさゝうな、陰惨たる肉声が、黒くなつた森から濃厚な水蒸気に伝はつて、にじみ出ると、生活から游離された霊魂が、浮ばれずにさまよつてゐるのではなからうかと思はれて、私は大地の底へでも、引きり入れられるやうに、たゞもう、味気あぢきなく、る瀬のない思ひになつてくる。
 それよりも秋の夜は、箱根大山辺からの、からツ風が吹きすさんで、森の中の梢といふ梢は、作り声をしたやうに、ざわ/\と騒ぎ立ち、落葉が羽ばたきをしながら、舞ひ立つて、夜もすがら戸をたゝき、屋根をひずり廻る、風の無い夜は、朝起きて見ると、森の中一杯に剣の光を含んだ霜が下りてゐる、その夕暮に、久保山の人焼く煙を、疎林の中の逍遥に見たこともある、秋の末から冬になると、何々谷戸といふ特種の部落に属する人たちの若い娘などが、落葉籠をしよつて薪を折りに、林の中をうろついてゐるのに出遇ふ。
 私は中学校の裏から、久保山へ抜ける森の中の落葉道で、その一人にひよつくり遇つたことがある、継ぎぎの衣物きものながら、くびから肩へかけて、ふつくらした肉の輪廓が、枯れ残つたはぜの赤い葉蔭に、うす暗く消えて、引き締つた浅黒い円味のある顔にパツチリとした眼が、物思はしげに見えた、無言で行き遇つて、無言で通り過ぎたが、ツルゲネフの少年時代に、森蔭で農奴サアフの少女に、髪の毛をいぢられたことを、四十年も後になつてから、生々と描いてゐることをおもひ出した。
 山王山から久保山に亘つて、森の中は静かではあるが、空気は冷たくない、森のドーアを開けて入ると、地形がおのづと幾つもの室を作つてゐる、森の茂つてゐるところは、大概高地で、そこから落ち窪んだところは、池になり、畑になり、又谷戸にもなつてゐる、豚谷戸だの、乞食谷戸だのといふ綽名あだながあつて、特殊の部落も、その窪地にある、かういふ部落が、新開港場の横浜にあるのは、珍しい、さうして下町の「文明人」よりは、彼等の方が、土地の草分けをした先入主人ではないかと思はれる。
 彼等は森林で衣食こそしてゐないが、大概森林の蔭で、ジメ/\した、生活をしてゐる、今でも森の下道の、谷に落ち込んだところを瞰下みおろすと、菜の花や青麦の畑が少しばかりあつて、その傍の一軒家には、風呂桶も置いてあれば、臼も転がつてゐる、森に人声がすると、飼犬がムヤミにえたてる、さうして森の侵入者を追ひ返さうとしてゐる。
 併し下町は、侵入者と侵入者が、しのぎを削つて、追ひつ追はれつ、入り乱れてゐる、電車線の一端が夕日に光つて、火にめられたやうに赤くなりながら、ずん/\森の中までしかゝつて来た、戸部線の電車が、ビユウ/\うなり初めてからといふものは、死滅を宣伝する皺嗄しやがれ声が、森の方々から走つて、鋸や規尺を持つて入り込むものが、毎日えて、森の中でも目ぼしい木は、鋭い利鎌とかまで草でもぐやうにたふされ、皮を剥がれ、傷つけられ、それから胴切にされてしまふ、今までは私の宅の周囲も、森林で厚肉の蒼黯あをぐろ染色硝子ステインドグラスを立てゝゐたが、一角だけを残して、殆んど全部が、滅茶滅茶に破壊された、亡び行く森の運命を予言して、引き留めるたもとを振りちぎつて、後をくらました巫女みこのやうに、梟も何処へやら影を隠したと見え、啼き声も、一両年前から聞えなくなつた。
 自然界にも怖るべき革命が来たのだ、森林といふ原始の自然は、今迄はこの山王山をめぐる外廓となつて、下町から来る塵埃ぢんあいを防いでゐた、烈しい生存競争から来る呻り声も、此森林の厚壁に突き当つては、手もなくね返されてゐた、したが人間の生活といふ濃厚な低気圧は、森の中を目がけて、面も振らずに突進する、森林の壁一重を隔てゝ、内には寺院があり、墳墓があり、孤児院と救護所があり、赤い旗を立てた、山桜の美しく咲く稲荷いなりがある、外には工場があつて、煙突から煙を吐き、自動車が臭い瓦斯ガスを放散して時には人を引き倒して、後をも見ずに駈け出す、芝居と、遊廓と、待合と、料理屋があつて、そこに、「悪の華」が咲いてゐる、森は動的生活と、静的生活を仕切る壁であつた。
 私が山王山を知つてから、いづれも生活の敗残者であらう、この森の中で、首縊くびくゝりが二人ばかりあつた、人目を避けるに、都合がいゝとは言ひながら、不思議なことに、死ぬ人は原始的に安息な自然を選ぶ、川や海に身を投げる人と森の中でくびる人と。
 今となつてみると、新雪の輝やく富士山がよく見えぬからと言つて、出洒張でしやばつた杉木立の梢をうらんだのは、勿体もつたいない気がする。
 私は毎朝起きると、二階の戸を一二枚開けては、向ふの森を見る、樫の木は黄味のつた、薄赤い葉をつけて、枝が傘をひろげたやうに、丸くなつてゐる、杉の鮮やかな新芽は、去年ながらの黒く煙つたい葉の上に、青いたまを吐いてゐて、腕ツ節の強さうな、こぶだらけの黒松が、五六本行列はしてゐるものゝ、その木と木の間ががらんとして、森にあるべき茂味しげみといふものがまるでない。
 さうして、その空地や、新しくらされた土の上には、亜鉛屋根だの、軒燈だの、白木の門などが出来て、今まで真鍮しんちゆうびやうを打つたやうな星の光もどうやら鈍くなり、電気燈が晃々くわう/\とつくやうになつた。
 どこを見ても家だ、人間だ、電線だ、塀だ、門だ、私の頭は楯で押されるやうな高圧力を感じてゐる、二階の書斎には、かういつた峻烈な空気を幾分か調停するつもりで、友人の描いた青々した信州高原の花野や、木曾の峡谷や、日本アルプスの万年雪などの水彩画をかけつらねてある、手作りのあらツぽい書棚には、ラスキンの論文集、ツルゲヱネフの小説、それから森林生活の聖老ソローの全集、コンラツドの海の文集、ラルフ・コンノルのスカイ・パイロツトのやうなものまで積み上げて、この窒素の多い空気の中から、しひても酸性の呼吸をつかうとした。
 前の晩に遅く帰つた、そのくる朝のこと、起き上つて、いつもの通り、二階から森を見ると、急に薄ら寒くなつて、羽目板へ押しつけられるやうな気がした、風情のよかつた樫の木が、伐り倒されて、紅を含んだ水々しい葉が消え失せ、森は前歯を抜かれたやうに、ガランとしてゐる、さうして灰色の空が、鈍い白壁のやうに、の抜けた顔をして、ぼうと立つてゐる、私の網膜には錯乱の影が映つた、もう残つてゐるものは、見る影もない松と杉が五六本あるばかりだ、その最後まで踏み留まつた戦士も、またゝく間に、塵埃にまかすることであらう、太古時代には、森林が人間を威嚇ゐかくした、その復讎ふくしうの旋律が、いまかへつて来るとともに、私の生活を、原始の自然につな紐帯ちうたいも、ズタズタに引きちぎられたのだ、人情の結氷点が近づいたのだ、曲もない白壁のやうな空を見るために、森林を犠牲にしなければならなかつたのであらうか、私は眼かくしの革を取り去られたときの、馬のおびえを感じた、森と私の交感を妨げやうとするのは、眼に見えない侵入者だ、その胸倉をつて、戸の外に突き出さなければ気が済まないやうに、ムシヤクシヤ腹になつて、二階の狭い椽側えんがはに立ち上りながら、向ふを睨みつけ、体操をするやうな手つきで、虚空を二三度突つ張つて見た。





底本:「日本の名随筆21 森」作品社
   1984(昭和59)年7月25日第1刷発行
   1998(平成10)年1月30日第17刷発行
底本の親本:「小島烏水全集 第八巻」大修館書店
   1980(昭和55)年10月発行
入力:門田裕志
校正:大野 晋
2004年11月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
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  • 「くの字点」は「/\」で表しました。


 

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