十 八ヶ岳高原
富士を下りてから八ヶ岳に向った。まだ夜の明け切らぬうち、甲府で汽車を捨てた。甲斐山岳会長若尾金造氏が待ち受けて、一とまず常磐町の同氏邸宅前まで、自動車で伴い行かれ、ここで弁当などを積み込み、大沢照貞氏と、田富小学校長輿石正久氏が加わり、自動車で八ヶ岳の高原へと走らす。私がまだ米国に渡らぬ先に、甲府で山梨山岳会が設立せられ、講演会に引き出されたこともあったが、時非にして、永続きせず、その後甲斐山岳会が更生して、若尾氏をはじめ『日本南アルプスと甲斐の山旅』の著者平賀文男氏、白峰および駒ヶ岳に力こぶをいれる白鳳会の人たち、その他、甲府全市の知識階級の郷土愛は目ざましく、南アルプスの山々、昇仙峡の谷、八ヶ岳高原、富士五湖を紹介するに全力的になっていられる。甲斐絹、葡萄、水晶の名産地として、古くから知られた土地ではあるが、甲斐を顕揚するものは、甲斐の自然その物であらねばならぬ。瑞西が、一面工業国でありながら、山水美をもって、世界の旅客を引きつける魅力は、甲斐の自然が、またこれを備えている。今は甲斐の自然が、人文の上に輝き始める回春期である、甲斐の文芸復興は、恐らくその洪大なる自然の上に打ち建てられるであろう。私は帰朝以来、甲府に二回遊んだが、これらの人々の郷土愛の熱心さには、いつも若返る力を身内におぼえる。
この日は、前夜からの雨天で、八ヶ岳は、すッぽり雲に包まれ、目前にあって見ることが出来ない。安都玉村の素封家、輿水善重氏の宅で小休みする。善重氏は、文墨のたしなみがあり、菅原白竜山人のかけ幅や、板垣退助伯が清人霞錦如の絵に題字せられた幅物などを愛蔵せられて、私たちの見るに任せられた。ここから土地の案内に精しい輿水象次氏が一行に加わって、泥道を歩き始める。川俣川にかけた橋を渡って、大門川の峡流を見下しながら、弘法水に立ち寄り甘美な泉をむすんで飲む。そこから山路へかかって、落葉松の森にいる。糸の如くに降りしきる雨の中にたたずんで、モミや落葉松の美しい木立に見とれる、この辺から、裾野式の高原を展開して、桔梗がさき、萩がさき、女郎花がひょろひょろと露けく、キスゲが洞燈のような、明かる味をさしている。羽虫が飛び、甲虫が歩く。この旅行の目的は、八ヶ岳はもちろんとして、東麓の「美し森」の植物、殊に一千二、三百メートルから、一千七百メートル位までに、錦を流すところの、ドウダンツツジ、イワツツジ、山ツツジ、レンゲツツジなど石楠花科に属するツツジ類の大群落を探るにあったが、雨が降りしきるので、飯盛山のもうろうたる姿を見たばかり、八ヶ岳へ寄りつけないので、「美し森」は来るべき紅葉の季節を待つことにして、佐久街道に出で、名高い念場ヶ原を、三軒家あたりまで横断し、また安都玉村の輿水氏宅まで引返し、昼飯を済ませたりした。
私が八ヶ岳に興味を有するのは、あながちに富士火山帯の一高峰として、富士の姉妹山であるばかりでなく、そのくずれた火山形にある、即ち外輪山の火口壁が欠損して、最高点の赤岳をはじめ、硫黄岳、権現岳、擬宝珠岳、西岳などの孤立峰を作って、それが山名の八ヶ岳の数を、それぞれ満たしているが、富士の蓮華八葉の如き、浅い切り込でなく、深刻に切断されたところの八ヶ岳である。しかし、より多くの興味は、八ヶ岳の欠損した絶頂を、原形に還元して盛上げて見ると、恐らく富士山よりも、遥に高い山になりそうなことである。それは米国の「火口湖国立公園」を抱いているマザマ山の頂部が、今は陥没しているが、これを原形に還元すれば、一万四、五千尺の高さに達するであろう、といわれている如く、またタコマ富士と呼ばれているところの、レイニーア山の欠頂円錐を、原始の状態に回復すれば現在の一万四千尺が、一万六千尺以上の高さになるであろうと称せられる如きおもかげを、この八ヶ岳の空線にも存していることである。日本で富士山よりも高い火山を、欠損空線を継ぎ合せ、盛り上げることによって、創造してゆく快味は、八ヶ岳高原にたたずんで、始めて得られるのである。不幸にして、きょうは雨のために、この快味は総て失われた。が草木が洗われて、富士山と釜無川の大断層と、南アルプスや、関東山脈の高屏風に囲まれた日本最大の裾野が、大空を持ちあげるばかりの力をみなぎらして、若い力から溢れる鮮新味で輝きわたるのを見たことを悦ぶ。
帰りがけに、雨も小止みになったので、自動車で韮崎の町を突き切り、釜無川の東岸に沿うて、露出しているところの七里岩を、向う岸の美しい赤松の林から眺めた。八ヶ岳の泥流が作りあげた凝灰質、集塊岩の美事なる累積である。それが甲斐と信濃の境、鳳来附近から、一気に押し寄せて来ているのだから驚く。
帰り路に、若尾、輿石両君から、故大町桂月氏の、南アルプス登山旅行に同行した話を聞く。桂月氏の風采が、活けるが如く浮んで来る。南アルプス紀行が一枚も書かれないで、逝かれたため、桂月氏の簡潔なる名文を、永久に見ることが出来ないのは、甲斐の不幸ばかりでなく、山岳文学のためにも寂寥を感じる。甲府へ戻って、大宮吉田を振りだしに、富士山を「上り」とした道中双六の「さい」は、おのずと収められる。
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