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不尽の高根(ふじのたかね)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-5 9:00:58  点击:  切换到繁體中文


    三 大宮と吉田

 東から南へと、富士を四分の一ばかりめぐっても、水々しい裾野はついて廻った。大宮町への道も、玉を転がす里の小川に沿うてゆく、耳から眼から、涼しい風が吹き抜ける。その水は、御手洗みたらし川であった。旅館梅月へ着く。割烹かっぽうを兼ねた宿屋で、三層の高楼は、林泉の上にそびえ、御手洗川の源、湧玉池にちんしているから、下の座敷からは、一投足の労で、口をそそぎ手が洗える。どこかの家から、絃歌げんかの声が水面を渡って、宇治川のお茶屋にでも、遊んでいるような気がする。恐らく富士山麓の宿屋としては、北の精進しょうじホテル以外において、もっとも景勝の地を占めたものであろう。池は浅間せんげん大社のうしろの熔岩塊、神立山の麓から噴き出る水がたたえたもので、社の神橋の下をすみ切って流れる水は、夜目にも冷徹して、水底の細石までが、うろこが生えて、魚に化けそうだ。金魚藻きんぎょも梅鉢藻うめばちもだのという水草が、女の髪の毛のようになびいている中を、子供たちが泳いでいる。明朝の登山準備を頼んで、宿の浴衣ゆかたを引っかけたまま、細長い町を散歩する。女学生の登山隊が、百人ほど、町の宿屋にいるのだそうで、チンチクリンの男の浴衣を、間に合せに着て、歩いているのもある。宿屋の店頭みせさきには、かがり火をたき、白木の金剛杖をたばに組んで、縄でくくり、往来に突きだしてある。やはり「山」で生活している町の気分がする。
 それよりも、大宮町になくてかなわぬものは浅間神社である。流鏑馬やぶさめを行ったというかなりに幅のある馬場の両側に、糸垂しだれ桜だそうなが、桜の老樹が立ち並び、蛍の青い光りが、すいすいとやみを縫って行く間を、朱塗りの楼門に入れば、五間四方あるという向入母屋造むこういりもやづくりの拝殿があり、その奥には浅間造なる建築上の一つの形を作ったところの、本殿の二重楼閣が、流るる如き優美なる曲線の屋根にりを打たせ、一天の白露を受けてえかえり、大野原から来る秋の冷気は、身にしむばかり、朱欄丹階しゅらんたんかいは、よしあったところで、おぼろげな提燈ちょうちんの光りで、夜目にも見えないが、一千一百年以前からあったという古神社を継承した建築の、奥底に持つ深秘の力は、いかにも富士の本宮として、人類がぬかずくべき御堂を保ち得たことを喜ぶばかり。神さびた境内にたたずんで、夜山をかけた参詣の道者が、神前に額ずいての拍手かしわでを聞きながら、「日本の山には、名工の建築があるからいいなあ」と思った。まして大宮浅間の噴泉の美は、何とであろう、磨きあげた大理石の楼閣台※(「木+射」、第3水準1-85-92)ろうかくだいしゃも、その庭苑ていえんに噴泉がなかったら、とみ寂寞せきばくを感ずるであろう。富士の白雪のもたらす噴泉美は、シャスタ火山あたりにないでもないが、富士の水の滾々こんこんとして、無尽蔵なるにおよばない。シエラ・ネヴァダの連峰が概して富士山を抜くこと、二千尺の高さがあっても、カスケード火山に、氷河脈が寒剣をきらめかせていても、小社一つ建たず、石塔一つないではないか。それに反して、日本の山々は、富士、白山、立山、三禅定ぜんじょうの神社はいうも更なり、日本北アルプスの槍ヶ岳や常念岳の連山にしてからが、石垣を積み、やぐらをあげ、層々たる天主閣をそびやかした松本城を前景に加うることなしに、人間味と原始味の併行した美しさを高めることは出来ない。木曾川を下って、白帝城に擬せられた犬山城があるために、日本ラインの名を、(好むにせよ、好まざるにせよ)いかに適切にひびかせるであろう。
 その名工の建築を懐かしむ想いは、再度の富士旅行に、吉田の宿に足をとめた時に、更に新しくさせられた。私が吉田へ着いた時はひるを過ぎていた。どの宿という心当りもなかったが、無作法なる宿引きが、電車の中の客席へ割り込んで、あまりにツベコベと、一つの宿屋を吹聴するので、宿引の来ない宿屋にゆくに限ると決め、電車の窓から投げ込まれた引札の中から選り取って、大外河おおとがわを姓とする芙蓉閣なる宿屋へ、昼飯を食べに入った。この宿の中には建久館と称する七百三十年も前の古家が、とりいれられている趣であるが、玄関には登山用の糸立いとだて菅笠すげがさ、金剛杖など散らばっている上に、一段高く奥まったところに甲冑かっちゅうが飾ってあり、曾我の討入にでも用いそうな芝居の小道具然たる刺叉さすまた、袖がらみ、錆槍さびやり、そのほか種ヶ島の鉄砲など、中世紀の武器遺物が飾ってあるのを尻目にかけて、二階に上り、雲に包まれた富士と向き合って、ボソボソした冷飯を、味のない刺身で二杯かッ込み、番頭に頼んで、二階下の建久館なるものを案内してもらったが、奥庭に面した普通の客座敷で、ただ戸棚や、天井板などに色の黒ッぽくくすんだ、時代の解らぬ古木が使ってあるのと、そのころは一切かんなを用いず、チョウナを使って削ったのだという、荒削りのあとに、古い時代のおのずからなる持味もちあじがうかがわれただけだ。引札の説明では、建久四年、頼朝富士裾野、牧狩の時の仮家かりやを、同家の先祖、大外河美濃守がもらい受けて住家として、旧吉田のごうに置いたのを、元亀三年、上吉田の本町に移し、慶長十五年、更に現在のところに転じたのだそうで、吉田にたびたび火災はあっても、不思議に建久館だけは、焼け残ったという話であるが、その黒く光った板だけが、古代動物の肉の腐蝕し去った後の骨枠のように、残存しているだけで、果して建久の遺物であるか否を私には極めようもないが、へやには文久元年、萩園主人千浪という人が、祝大外河美濃守という建物の由来を書いた扁額へんがくがかけてあった。それと隣って、一段高く梯子段はしごだんを上ったところに、浅間神社を勧請した離屋はなれやが、一屋建ててあり、紀伊殿御祈願所の木札や、文化年間にあげたという、太々神楽だいだいかぐらの額や、天保四年と記した中山道深谷宿、近江屋某の青銭をちりばめた奉納額などがあった。そこから廻り縁になって、別の一室にも、槍、薙刀なぎなた、鉄砲などが「なげし」にかけられて、山東京伝さんとうきょうでん草艸紙くさぞうし興味を味わせるのに十分であった。
 室へ戻って、友人にハガキを書いていると、富士の雲が引いて取ったように幕を明け、銀磨きの万年雪が、巨獣の斑紋はんもんのように二筋三筋キラリと光って、夏の富士にして始めて見るところの、威嚇いかく的な紫色が、抜打ぬきうちに稲妻でもひらめかしそうに、うつぼつと眉に迫って来る。「夕立気味あり」と書いてハガキを伏せたが、ほんとうに後になって思い知った。
 頼んだ強力ごうりきのくるまで、欄干によって庭を見ている。枝振りのいい松に、頭を五分がりにした、丸々しいツツジや、梅などで囲んだ小池があって、かけひからの水がいきおい込んで落ちている。ことしの春遊んだ吉野山中の宿坊に似た庭景色だと思うが、あの色つやのいい青苔と、座敷一杯に舞い込む霧のわびしさは、およぶべくもない。

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