三 大宮と吉田
東から南へと、富士を四分の一ばかりめぐっても、水々しい裾野はついて廻った。大宮町への道も、玉を転がす里の小川に沿うてゆく、耳から眼から、涼しい風が吹き抜ける。その水は、御手洗川であった。旅館梅月へ着く。割烹を兼ねた宿屋で、三層の高楼は、林泉の上に聳え、御手洗川の源、湧玉池に枕しているから、下の座敷からは、一投足の労で、口をそそぎ手が洗える。どこかの家から、絃歌の声が水面を渡って、宇治川のお茶屋にでも、遊んでいるような気がする。恐らく富士山麓の宿屋としては、北の精進ホテル以外において、もっとも景勝の地を占めたものであろう。池は浅間大社のうしろの熔岩塊、神立山の麓から噴き出る水がたたえたもので、社の神橋の下をすみ切って流れる水は、夜目にも冷徹して、水底の細石までが、うろこが生えて、魚に化けそうだ。金魚藻、梅鉢藻だのという水草が、女の髪の毛のようになびいている中を、子供たちが泳いでいる。明朝の登山準備を頼んで、宿の浴衣を引っかけたまま、細長い町を散歩する。女学生の登山隊が、百人ほど、町の宿屋にいるのだそうで、チンチクリンの男の浴衣を、間に合せに着て、歩いているのもある。宿屋の店頭には、かがり火をたき、白木の金剛杖をたばに組んで、縄でくくり、往来に突きだしてある。やはり「山」で生活している町の気分がする。
それよりも、大宮町になくてかなわぬものは浅間神社である。流鏑馬を行ったというかなりに幅のある馬場の両側に、糸垂桜だそうなが、桜の老樹が立ち並び、蛍の青い光りが、すいすいとやみを縫って行く間を、朱塗りの楼門に入れば、五間四方あるという向入母屋造の拝殿があり、その奥には浅間造なる建築上の一つの形を作ったところの、本殿の二重楼閣が、流るる如き優美なる曲線の屋根に反りを打たせ、一天の白露を受けて冴えかえり、大野原から来る秋の冷気は、身にしむばかり、朱欄丹階は、よしあったところで、おぼろげな提燈の光りで、夜目にも見えないが、一千一百年以前からあったという古神社を継承した建築の、奥底に持つ深秘の力は、いかにも富士の本宮として、人類が額ずくべき御堂を保ち得たことを喜ぶばかり。神さびた境内にたたずんで、夜山をかけた参詣の道者が、神前に額ずいての拍手を聞きながら、「日本の山には、名工の建築があるからいいなあ」と思った。まして大宮浅間の噴泉の美は、何とであろう、磨きあげた大理石の楼閣台も、その庭苑に噴泉がなかったら、頓に寂寞を感ずるであろう。富士の白雪のもたらす噴泉美は、シャスタ火山あたりにないでもないが、富士の水の滾々として、無尽蔵なるにおよばない。シエラ・ネヴァダの連峰が概して富士山を抜くこと、二千尺の高さがあっても、カスケード火山に、氷河脈が寒剣をきらめかせていても、小社一つ建たず、石塔一つないではないか。それに反して、日本の山々は、富士、白山、立山、三禅定の神社はいうも更なり、日本北アルプスの槍ヶ岳や常念岳の連山にしてからが、石垣を積み、櫓をあげ、層々たる天主閣をそびやかした松本城を前景に加うることなしに、人間味と原始味の併行した美しさを高めることは出来ない。木曾川を下って、白帝城に擬せられた犬山城があるために、日本ラインの名を、(好むにせよ、好まざるにせよ)いかに適切にひびかせるであろう。
その名工の建築を懐かしむ想いは、再度の富士旅行に、吉田の宿に足をとめた時に、更に新しくさせられた。私が吉田へ着いた時は午を過ぎていた。どの宿という心当りもなかったが、無作法なる宿引きが、電車の中の客席へ割り込んで、あまりにツベコベと、一つの宿屋を吹聴するので、宿引の来ない宿屋にゆくに限ると決め、電車の窓から投げ込まれた引札の中から選り取って、大外河を姓とする芙蓉閣なる宿屋へ、昼飯を食べに入った。この宿の中には建久館と称する七百三十年も前の古家が、取いれられている趣であるが、玄関には登山用の糸立、菅笠、金剛杖など散らばっている上に、一段高く奥まったところに甲冑が飾ってあり、曾我の討入にでも用いそうな芝居の小道具然たる刺叉、袖がらみ、錆槍、そのほか種ヶ島の鉄砲など、中世紀の武器遺物が飾ってあるのを尻目にかけて、二階に上り、雲に包まれた富士と向き合って、ボソボソした冷飯を、味のない刺身で二杯かッ込み、番頭に頼んで、二階下の建久館なるものを案内してもらったが、奥庭に面した普通の客座敷で、ただ戸棚や、天井板などに色の黒ッぽくくすんだ、時代の解らぬ古木が使ってあるのと、そのころは一切鉋を用いず、チョウナを使って削ったのだという、荒削りのあとに、古い時代のおのずからなる持味がうかがわれただけだ。引札の説明では、建久四年、頼朝富士裾野、牧狩の時の仮家を、同家の先祖、大外河美濃守がもらい受けて住家として、旧吉田の郷に置いたのを、元亀三年、上吉田の本町に移し、慶長十五年、更に現在のところに転じたのだそうで、吉田にたびたび火災はあっても、不思議に建久館だけは、焼け残ったという話であるが、その黒く光った板だけが、古代動物の肉の腐蝕し去った後の骨枠のように、残存しているだけで、果して建久の遺物であるか否を私には極めようもないが、室には文久元年、萩園主人千浪という人が、祝大外河美濃守という建物の由来を書いた扁額がかけてあった。それと隣って、一段高く梯子段を上ったところに、浅間神社を勧請した離屋が、一屋建ててあり、紀伊殿御祈願所の木札や、文化年間にあげたという、太々神楽の額や、天保四年と記した中山道深谷宿、近江屋某の青銭をちりばめた奉納額などがあった。そこから廻り縁になって、別の一室にも、槍、薙刀、鉄砲などが「なげし」にかけられて、山東京伝的草艸紙興味を味わせるのに十分であった。
室へ戻って、友人にハガキを書いていると、富士の雲が引いて取ったように幕を明け、銀磨きの万年雪が、巨獣の斑紋のように二筋三筋キラリと光って、夏の富士にして始めて見るところの、威嚇的な紫色が、抜打に稲妻でもひらめかしそうに、うつぼつと眉に迫って来る。「夕立気味あり」と書いてハガキを伏せたが、ほんとうに後になって思い知った。
頼んだ強力のくるまで、欄干によって庭を見ている。枝振りのいい松に、頭を五分がりにした、丸々しいツツジや、梅などで囲んだ小池があって、筧からの水がいきおい込んで落ちている。ことしの春遊んだ吉野山中の宿坊に似た庭景色だと思うが、あの色つやのいい青苔と、座敷一杯に舞い込む霧のわびしさは、およぶべくもない。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] 下一页 尾页