三
朝霧が山村を罩めて、鶏の声が、霧の底から聞える、黄色い南瓜の花に、まだ夢が残つてゐるかして、寝惚けた姿をしだらなく大地に投げ出してゐる、ぼツと白壁が明るくなる、森がうつすらと、烟つぽい緑を、向うの山の懐に、だんだら、染めに浮かせる、起き上つて支度をする頃は、方々の家から、軽い炊煙が立ちはじめた。
昨日は時又から、この村まで八里の間を、荷船に便乗したのであるが、その船はもう南へは下らないので、特別に一艘仕立てさせ、西の渡まで、九里の間を下すことにした、高価を払つて買ひ切りにしたのであつたが、船へ来て見ると、旅商人が二人、ちやんと乗つてゐる、のみならず人の行李、鍋、釜、白樺の皮(薪材)まで、幅を利かせて積み込んである、山間の船頭には、昔の雲助のやうな、押の強い風が残つてゐて、買ひ切りであらうが、何であらうが、一人でも余計に乗せて、賃銭を取れゝば取り得としてゐる、併し先を急ぐ旅であるのと、重荷をしよつた旅商人に、苦労をさせるでもなからうと思つて、強ひて咎め立てもしなかつた。
満島を放れるころ、朝日が東山の端を放れ、水の光が艶をもつて、石の傍を白くちよろ/\走るのが、魚のやうである、ふと見ると、西岸は日光を浴びて、樹の影が水に落ち、とろりと澄んだ濃藍の長瀞に、樹の梢は、すくすくと延び上つて、水鏡をしてゐる、川はひつそりと音もなく、蒸々と立ちのぼる峡谷の朝霧の底を、櫓の音が、ギイギイと静かにひゞく、森の下蔭を通りぬけ、浅瀬の上を乗越して、信州から遠州境へ近くなつて来た。
ふり仰げば、北方の緑に包まれた山々は、遠山川が深く侵蝕してゐるために、谷の通路に当るところだけが切り靡けたやうに低く開けて、北東に日本南アルプスの大主系赤石山脈の、そゝり立つ鋼鉄の大壁、夏を下界に封じて、天上の高寒は、はや冬のやうに、透明凛烈の青みどろに澄みわたり、乾きわたつてゐる虚無の中に、鋭角線を引き飛ばして、強い鋼筆で、透明な硝子板に傷をつけたやうに、劃然と大波を打つてゐる。
左岸に鶯巣の山村を眺めながら、いつしかこの地方特有の領家片岩の露出区域に、峡流を南へ南へと導いて、水神の大滝にかゝる、渦と渦とが、ぐるぐるめぐりに噛み合ひ、大気を含んだ透明の泡が花弁のやうに、むらむらと水底から湧きあがり、白く尖つた波が、ざわざわと鱗光りに光る中を、櫂を休めた船は、爬虫類のやうに、濡れ色になつて、するりと乗り上げては、ついと下る、一方は石で、一方は水、急潮と静流が、衝き当り、波頂と波底との両方の点の間に、凹み谷が出来て、平坦の波紋が、網を打つたやうに、のんびりとひろがり、それを中心にして、周囲から白い尖波が、爪立つやうに小刻みに擦り寄つて、二三尺の高さの、小さい夕立となつて、水柱がザアと音して、頽れ落ちる、その中を蹴立てる船の姿は、沙漠を走る駝鳥のやうで、乗つてゐる私の頭の中では、せゝらぐ水につれて千本の小さい針が、さらさらと揉み合つてゐる。
えいえい声に切り抜けると、小沢の急灘が待ち設けてゐる、白い旋波が、上下運動を起して、岩石を乗り越え、二三尺も裳裾を引いて、跳舞する中を、船は舳を垂れるやうにして乗り入れると、遁さじものと、船に添つて大浪の走ること、一反二反と、液体の自由の蜿りが、白蛇のやうに執念くも纒ひつき、逆流する波の速度と、正航する船の速度とが、一つに触れて、船は波頂の間に動揺するところを、黄蝶がふはりと舞ひ出で、波頭を掠めるばかりに低く水に影を映して、又ひらりと飛んでゆく。
眼の前を走りゆく両岸の光景は、川楊が押し流されて、河原へ仆れてゐる……葛の二ツ葉の細い蔓が、大石の上を捲いて、一端が川に垂れかゝつて、又反曲して空を握まうとしてゐる……崖の庇石には、ツツジが生えてゐる、川へ転げた石には、青苔がべツたりこびりついて、蘭科植物が、うつすらと生えてゐる……と見る間に、天竜川第一の難所と呼ばれた新滝の荒瀬にかゝると、川とは言へない大波が、むつくり起き上つて、鞳たる海潮音のやうに鳴りはためき、船は石と石との間に挟みつけられ、右巻左巻の大波小波の中で、押進の力を失ひ、漏斗の形をした中央の滅り込んだ波の底に落ちて、胴中から両断されるかと、冷いやりさせたが、さすがに海底と違つて、吸引力の無い浅瀬だから、又吐き出され、浮び上つて、ほつと一息吐いたかとおもふと、二三反するすると押し流された。それからしばらくは水の静けさ!
こゝなる東岸は、福島といつて、さしも日本のパミ-ル高原、本州を横断する日本アルプスの雪山があるために、日本の屋棟の中心となつてゐる信州の、最南点であり、最低地点でもある、海面からは僅かに二百米突の高さで、西岸は三河との、東岸は遠江との境界になつてゐる、船頭どもは、こゝまで来て、大役を済ませたやうに、帯締め直し、身を舷側にはみ出して、身体の重量で、船を一方に傾斜させ、閼伽水を酌み出して、船を軽くさせる。
福島からは略ぼ直流して来た川も、佐太と粟代とで、二回の屈曲をする、その間の高瀬では、川浪が白馬の鬣を振ひながら、船の中へ闖入して来た。水球が散弾のやうに炸裂し、霧だらけになつたが、舟は身を反らして、辷るやうに乗り越える、山国の信州を出たといふことが、直ぐにも平地か、海岸へ到着するやうに、思はせたが、そゝり立つ崖は、次第に高くなつて、水面との距離が遠くなり、石は海豚のやうに、丸い背を出し、重なり合つて水にひたつてゐる、峡谷が大きくふくれて、崖の上には、杉林がこんもりと茂つてゐるかとおもへば、赤松が直射する烈日の下で、熱病でも煩つたやうに、皮膚が焦げてひよろ/\と立つてゐる。平原の地平線も見えず、海の水平線も見えないから、体力にも魂にも休養のないやうに、水と船とは、同一の方向に連続運動をつゞけてゐる、空を見上げると、鋼線が両方の岸に張りわたして「もつこ」に入れた荷物が、揺られながら宙乗りをしてゐる、片肌を脱いで渡舟に腰をかけてゐる渡し守の老人がゐる、あの人はああやつて、川添ひの柳のやうに、一日水ばかり見て暮らしてゐるのだらうか。
大谷、河内などいふ山村を、西岸に見たが、未だ人の町へは遠い、川水は肩で呼吸をするやうに、ゴホゴホと咳きあげて、大泊門の急灘にかゝる、峡谷は一層に狭くなり、波の山が紫陽花のやうに、むらむらと塊まつて、頭を白く尖らして、側から側から隆起する、船は馬の背を分けるやうにその間を通行して、ふりかへれば、雲のくづれるやうな水の爆声を聞く、長灘だの、大瀬だのを、乱濤の間に通り抜けて、イオリが滝へかゝると、峡谷は蹙まつて、水は大振動を起した、遠くの空には高い峯々が、天を衝いて、ぐるぐると眼の前を回転する、崖の上からは、石が覗いて、峯の上へは白銀の雲が、鶏冠立ちに突つ立ち上つて、澄みわたつた深淵の空を掻き乱してゐる、長い峡流に、村落もなければ、人家もない、時々色の黒い土人が、裸で鳶口をかつぎながら、胸まで水にひたつて、漂流する材木を、掻き寄せてゐるのを見るばかりである。
上り船が一隻、三人の船頭が、崖の下をしがみつくやうにして、綱を肩にして引き上げ、一人が棹を弓のように撓はせて、遅々として水に逆つて来たが、私の乗つてる船と、行き違はうとして、ひどい波におつかぶせられ、向うもこつちも、ヅブ濡れになつて、両方の船が、急な角度で傾斜した、向うの船頭がポツリと黒い点になつて、乱濤の間に小さく立つてゐる、振り返ると、もう船も人も、影も形も見えずに打捨てられた、波は白い生毛のやうに、微かに彫刻した象牙のやうに、柔らかく泡立つて、大石の下の窪みに、逆さに落ちて、渦を巻き、反流を起したかとおもふと、波浪の特質の前進運動を沮められて、船はあふりを喰ひ、一二度振り廻される、「何しろ山室の滝せえつて、遠州一の難所だあね」と船頭は後で話した。
灘をこえて、水が静かになると、両方の岸を見廻すだけの余裕が出てくる、河原には材木を伐り出す小舎がある、岩石は上流の花崗岩と違つて、小さな褶曲や白や褐色の岩脈が、横に帯をしめたやうな、筋を入れたのが、美しく見える。
湯島大屈曲をしてからは、松島から中部まで、直下といつてもよかつた、東岸には中部の大村があつて、水楊は河原に、青々と茂つてゐる、裸体に炎天よけの絲楯を衣た人足が、筏を結んでゐる、白壁の土蔵が見える、紺の香のするばかりに、新らしく染め抜いた暖簾をかけた荒物屋が、町に見える、積荷はみんなこゝで揚げてしまつて、水洩れの出来た船底には、棕櫚繩をちぎつて、当てがひ、石で叩きこんで修繕をする。
川は中部の村を、包囲するやうに、北の一角だけを残して、三方を絎け、もう大分開けた河原の中を流れる、「豆こぼし」といふ灘は、水が急なので、二挺の櫂を一つに合せ、船頭二人の力をこめて取り縋るやうにして、漕いだが、それでも東岸には、一髪の道が通じて、旅人が通つてゐるのが、ふり仰がれる、その上に青緑の山は高くそびえ、川は勾配を急に、杉の培養林のある山を匝る、久根の銅山が見えて、その銅山を中心に生活してゐる人たちの家が、重なり合つて、崖腹に巣を喰つてゐる。
西の渡の簇々とした人家を崖の上に仰いで、船を着けた、満島からこゝまで九里の間を、三時間半。
糀屋といふ旅籠屋に、草鞋を釈いて中食を済ました、天竜川もこゝからは、先づ下流の姿になるので、交通もしげくなり、下り船も、毎日便宜がある、船を乗り替へるため、暫らく川に臨んだ茶屋で、時間を待つてゐると、八反帆を南風に孕ませた上り船が、白地に赤く目じるしを縫ひつけて、二帆三帆と、追つかけ追つかけ、上つて来る、久根銅山から、銅を積み出すために、来るのだといふ、さうしてその帆には、太平洋の海気と塩分が、一杯に含まれてゐる、南へ来たのだ、太平洋が近くなつたのだ、桔梗色の黒汐が走る八重の海路が、川の出口に横たはつてゐるのも、もう遠くはあるまい、日本アルプスおろしの北風は、冬でももう、この地までは来ない、私は山から遁れた、たしかに遁れた、しかしながら私は、恋々として悲壮の谷なる天竜川の上流を、振り返り、振り返り見ることなくして、次ぎに出る客船には乗れなかつた。
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