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天竜川(てんりゅうがわ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-5 8:59:06  点击:  切换到繁體中文

底本: 現代日本紀行文学全集 中部日本編
出版社: ほるぷ出版
初版発行日: 1976(昭和51)年8月1日
入力に使用: 1976(昭和51)年8月1日初版


底本の親本: 現代日本文学全集 第36巻
出版社: 改造社
初版発行日: 1929(昭和4)年8月

 

  一

 山又山の上を、何日も偃松はひまつの中に寝て、カアキイ色の登山服には、松葉汁をなすり込んだ青い斑染まだらぞめが、消えずに残つてゐる、山を下りてから、飯田の町まで寂しい宿駅を、車の上で揺られて来たが、どこを見ても山が重なり合ひ、顔を出し、肩を寄せて、通せん坊をしてゐる、これから南の国まで歩くとすれば、高い峠、低い峠が、鋭角線を何本も併行させたり、乱れ打つたりして、疲れた足の邪魔をする。山越しに木曾路へ出て、汽車に乗るとすれば、トンネル又トンネルがあつて、この温気に、土竜のやうに、暗のあなを這ひ、石炭の粉の雨を浴びなければならない。
 けれども、山の町から一直線に、傍目も触らず、広々とした南の国の、蜜柑が茂り、蘇鉄そてつが丈高く生えてゐる海岸まで、突き抜ける天竜川てんりゆうがはといふ道路があることを私は知つてゐる、しかも日本アルプスで、最も美しい水の道路であり、水の敷石であることを知つてゐる、この道路はどんなことがあつても、酸化したり腐蝕したりすることは先づ無い、今まで頑なな、鉄糞のやうに、兀々こつ/\した石の上で、寝起してゐた身が、濃青こさをの水、情緒の輝やきに充ちてゐる自由な川波に乗つて、何千尺の高さから、大洋の水平線まで、一息に下り切るといふことが、「船さして雲のみを行く心地しぬ、名も恐ろしきあめの中川」といふ、この川を詠んだ古歌の心を、味ふのに十分であらう、金剛杖の代りに櫂、馬車や汽車の代りに、亜米加利の印度人が、操つたやうな、原始的な、軽い、薄ッぺらの板舟で、五十里の峡谷、それもおそらく日本に類のない深谷を下られるといふ道路は、他のいかなるそれよりも、美しい幻影に富んでゐるに違ひない。
 今でこそ衰滅の俤しか残さないが、覊旅きりよの人たちに、古典的の壁画を見つめさせるやうに、すがれた色彩と、暗い陰影を味はせる東海道にあつても、この天竜川は、音に名高い大河であつた、小天竜大天竜は、川筋の変つた今では、その跡をたづねられないが、名だけは古い地理書に残つてゐる、
十六夜いざよひ日記につき」の女詩人は、河畔に立つて西行さいぎやう法師ほふしの昔をしのび、「光行紀行みつゆききこう」の作者は、川が深く、流れがおそろしく、水がみなぎつて、水屑みくずとなる人の多いのにおびえてゐる。
 日本の歴史の恐怖時代といふべき、平家の末路から、鎌倉の執権政治にかけて、悲壮なる運命劇は、何故か東海道の河畔で演ぜられたのが多い、承久の乱に鎌倉に囚はれて、東下あづまくだりの路すがら、菊川きくがはの西岸に宿つて、末路の哀歌を障子に書きつけた中御門なかみかど中納言ちうなごん宗行むねゆききやうもさうである。「菊川に公卿衆泊りけりあまがは」(蕪村ぶそん)の光景は、川の面を冷いやりと吹きわたる無惨の秋風が、骨身に沁みるのをおぼえようではあるまいか、更にそのむかし、平家の公達きんだち重衡しげひら朝臣あそんが、西海さいかいの合戦にうち負け、囚はれて鎌倉へ下るときに、この天竜川の西岸、池田の宿に泊つて、宿の長者熊野ゆやむすめ、侍従の許に、露と消え行く生命の前に、春の夜寒の果敢ない分れを惜しんだことは、「平家物語」に物哀しくしるされてある。
 かの近松の道行振りなどの、始祖をなしたかとおもはれる「太平記」の、俊基としもと東下あづまくだりは、私などが少年時代に、よく愛誦したものであるが「旅館の燈幽にして、鶏鳴暁を催せば、匹馬風に嘶いて、天竜川をうち渡り、小夜さよの中山越え行けば、白雲路を埋み来て、そことも知らぬ夕暮に……」といふ七五調の、メロヂアスな文句は、いかに大河を横切つて、死にに行く身の悲壮なる光景を、夢幻的に現はしてゐるであらうか、東海道の美しい歴史は、文化の京都から、野蛮の関東へと、廃頽して行く筋道となつて開展される、王朝時代のデカダン詩人、業平なりひらの東下りは、哀れにも華やかな序幕を明けた、さうしてそれから後に、多くの「東下り」なる悲劇が、殊に多く川の岸を舞台として、演ぜられてゐるのは、注意すべきことであらう、行きて返らぬ川の姿と、石にせゝらぐ水の啜り泣きと、荒涼として河原よもぎの風にそよぎ、蘆花の衰残する川景色は、さなきだに寂滅為楽の虚無思想を、背景としてゐる当時の人たちに、いかにやるせない心の悶えを起させたであらう。されば大河を前に、うつろひ易い人生の姿を見てあれば、「水無月みなづきや人の淵瀬の大井川」(蓼太れうた)といつたやうな感じに打たれないものはなかつたであらう。
 かくの如きは、古くから日本の文学を裏付けてゐる無常観で、あまりに常套な、又あまりに感傷的な句ではあるが、しかも時の姿、流れの姿は、人の身の上ばかりでなく、川それ自身の栄華をすら、鼠色に暮れゆく川上の、遠山とほやまに沈む斜陽のうす黄色の中に、うすら寒い谷の影を、描き出されるやうになつた。
 未だ木曾街道に、汽車の出来なかつた頃は、河舟の数二千五百艘、搭載量二万七千四百石と唄はれた、下り船上り船の往き交ふ繁昌も、今では火の消えたやうに寂びれ切つて、たまたまに川下りをしようとして、河畔に立つ旅人があつても、船が出ないために、空しく失望して引き返さねばならなかつた、私も二度ばかりさうした憂き目を見て、心ならずも傍路へ外らされた。
 しかもこの儘に、埋没させるには、あまりに華やかに、あまりに麗はしく、若々しい川の姿である、Rev. LO, Roke といふ[#「ふ」は底本では脱落]日本へ来たことのある英国人は、五六年前、倫敦の王立地学協会で、講演して、「およそ全世界に見られ得るほどの川の純美は、凡て天竜川にあつまつてゐる。ライン河を下り、ダニューブ河を下つたが、到底天竜川に及ばない」とたゝへてゐる、私はライン河もダニューブ河も知らないが、天竜川の延長五十四里、その中の三十里は日本アルプスの屋棟やねともいふべき信州を流れて、川幅が最も狭く、傾斜が最も急で、岩石の中でも、最も堅硬な花崗岩や、結晶片岩の中を流れてゐるといふ浸蝕谷であるから、この川の特色としては、かの欧洲アルプスから、地層の走向に沿つて流れ出るローンや、ラインのやうな、水平らかにして、幅濶く、流れの遅々とした谷に比べて、もつとフレッシュで、もつと純粋で、もつと深谷的ゴルジ・ライクなものであらうとおもはれる。
 しかのみならず、私は憫れなほど、水に欠乏してゐる都市に住んでゐる、水も何米突若干銭と、秤量しやうりやうにかけるやうにして、高い租税を払はなければ飲めないばかりか、川水の姿を見ようとすれば、鉄橋の下の、鉄漿溝おはぐろどぶのやうに、どす黒く濁つた水を、夕暮の空に、両岸の燈火の幻影で、美しく粉飾して、眺めくらして、はかない欲望を充たすのである、さもなければ、たまに古城の御濠の水を、石垣の曲りくねつた黒松の行列や、埃だらけで、灰色に化けてゐる名ばかりの、青柳の樹影に、透かし見て、水藻や、バクテリアで、毒々しく淀んだ、沈滞腐敗した水のおもての青みどろの色に、淡い哀愁の情を寄せてゐなければならない。私たちの祖先は、森蔭に眠り、水辺に浴みしたであらう、水を追うて都市に出て来たであらう、もし私たちに水の都を慕ふ情緒を、許されるならば、日本アルプスの雪の山、氷の山で、閉された、厚ぼつたい、森厳にして冷酷な周囲の中から、きはめて繊細な、しかしながら尖鋭な、鎌の刃を閃かし、この鉄壁を突き通し、縫ひ通し、岩石の心臓から、谷間の狭い喉頭を通過して、深い深い、大きい大きい、太平洋へ出る銀色の川の姿に、見惚れないで何としよう、見惚れるばかりでなく、たとひ一日二日なりとも、絶えず動揺し、奔放する水の線の上に、住まつて見たい、一髪の間を隔てゝ、耳許に水音を聞くだけの、生活をして見なければならぬ。
 私は飯田から二里ばかりある、時又ときまたといふ船の出るところまで、車を走らせた。

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