寂照は宋に入って、南湖の知礼に遇い、恵心の台宗問目二十七条を呈して、其答を求めた。知礼は問書を得て一閲して嘆賞し、東方に是の如き深解の人あるか、と感じた。そこで答釈を作ることになった。これより先に永観元年、東大寺の僧然、入宋渡天の願を立てて彼地へ到った。其前年即ち天元五年七月十三日、然は母の為に修善の大会を催した。母は六十にして既に老いたれど、身は万里を超えて遠く行かんとするので、再会の期し難きをおもい、逆修の植善を為さんとするのであった。丁度慶滋保胤が未だ俗を脱せずに池亭を作り設けた年であったが、保胤は然の為に筆を揮って其願文を草したのであった。中々の長文で、灑々数千言、情を尽し理を尽し、当時の社会を動かすには十分のものであった。それから又然上人の唐に赴くを餞して賦して贈る人々の詩の序をも保胤が撰した。今や其寂心は既に亡くなっているが、不思議因縁で寂心の弟子寂照が独り唐土に渡ったのである。然は印度へ行くのは止めて、大蔵五千四十八巻及び十六羅漢像、今の嵯峨清涼院仏像等を得て、寛和元年に帰朝したのであった。それより後十六七年にして寂照は宋に入ったのであるが、寂照は人品学識すべて然には勝って見えたので、彼土の人々も流石に神州の高徳と崇敬したのであった。で、知礼は寂照を上客として礼遇し、天子は寂照を延見せらるるに至った。宋主が寂照を見たまうに及びて、我が日本の事を問いたもうたので、寂照は紙筆を請いて、我が神聖なる国体、優美なる民俗を答え叙べた。文章は宿構の如くに何の滞るところも無く、筆札は遒麗にして二王の妙をあらわした。それは其筈で、何もこしらえ事をして飾り立てて我国のことを記したのでもなく、詞藻はもとより大江の家筋を受けていた定基法師であり、又翰墨の書は空海道風を去ること遠からず、佐理を四五年前に失ったばかりの時代の人であったのである。そこで宋主(真宗)は日本の国体に嘆美措く能わず、又寂照の風神才能に傾倒の情を発して、大にこれを悦び、紫衣束帛を賜わり、上寺にとどめ置かせたまいて号を円通大師と賜わった。前世因縁値遇だか何だかは知らぬが、此頃寂照は丁謂と相知るに至った。
丁謂は恐しいような、又然程でも無いような人であるが、とにかく異色ある人だったに違い無く、宋史の伝は之を貶するに過ぎている嫌がある。道仏の教が世に出てから、道仏に倚るの人は、歴史には大抵善正でない人にされていると解するのが当る。丁謂が寂照と知ったのは年猶若き時であり、後に貶所に在りて専ら浮屠因果の説を事としたと史にはある。さすれば謂は早くより因果の説を信じていたればこそ、後年貶謫されるに至って愈々深く之を信じたので、或は早く寂照に点化されたのかも知れない。楊億の談苑によれば、丁謂が寂照を供養したとある。何時から何時まで給助したのか知らぬが、有力な檀那が附かなくては、寂照も長く他邦には居れまいから、其事は実際だったに違無い。
丁謂は蘇州長州の人、少い時孫何と同じく文を袖にして王禹に謁したら、王は其文を見て大に驚き、唐の韓愈、柳宗元の後三百年にして始めて此作あり、と褒めたという。当時孫・丁と称されたということだが、孫、丁の名は少し後に出た欧陽修・王安石・三蘇の名に掩われて、今は知る者も少い。淳化三年進士及第して官に任じて、其政事の才により功を立てて累進して丞相に至り、真宗の信頼を得、乾興元年には晋国公に封ぜらるるに至った。蘇州節度使だった時、真宗の賜わった詩に、
践歴 功皆
著しく、
諮詢 務必ず
成す。
懿才 曩彦に
符し、
佳器 時英を
貫く。
よく
経綸の業を
展べ、
旋陞る
輔弼の
栄。
嘉享 盛遇を
忻び、
尽瘁純誠を
す。
の句がある。これでは寇準の如き立派な人を政敵にしても、永い間は勝誇った訳である。政治は力を用いるよりも智を用いるを主とし、法制よりも経済を重んじ、会計録というものを撰して上り、賦税戸口の準を為さんことを欲したという。文はもとより、又詩をも善くし、図画、奕棋、営造、音律、何にも彼にも通暁して、茶も此人から蔡嚢へかけて進歩したのであり、蹴鞠にまで通じていたか、其詩が温公詩話と詩話総亀とに見えている。真宗崩じて後、其后の悪みを受け、擅に永定陵を改めたるによって罪を被り、且つ宦官雷允恭と交通したるを論ぜられ、崖州に遠謫せられ、数年にして道州に徙され、致仕して光州に居りて卒した。つまり政敵にたたき落されて死地に置かれたのである。謂は是の如きの人なのである。
知礼の答釈は成った。寂照はこれを携えて、本国へと帰るべきことになったのである。然るに何様いうものだったか、其時は勢威日に盛んであった丁謂は、寂照を留めんと欲して、切に姑蘇の山水の美を説き、照の徒弟をして答釈を持帰らしめ、照を呉門寺に置いて、優遇至らざるなくした。寂照は既に仏子である。一切の河川が海に入ればただ是れ海なるが如く、一切の氏族が釈門に入れば皆釈氏である。別に東西の分け隔てをして日本に帰らねばならぬという要も無いのであるから、寂照は遂に呉門寺に止まった。寂照は戒律精至、如何にも立派な高徳であることが人々に認められたから、三呉の道俗漸く多く帰向して、寂照の教化は大に行われたと云われている。そして寂照は其儘に呉に在ったこと三十余年、仁宗の景祐元年、我が後一条天皇の長元七年、「雲の上にはるかに楽の音すなり人や聞くらんそら耳かもし」の歌を遺して、莞爾として微笑して終った。
丁謂もこれに先だつこと一年か二年、明道年間に死んだのであるが、寂照が平坦な三十年ばかりの生活をした間に、謂は嶮峻な世路を歩んで、上ったり下ったりしたのであった。別に其間に謂と照との談はない。謂は謂であり、照は照であったであろう。最初に謂がしきりに照を世話した頃、照は謂に其の有っていた黒金の水瓶に詩を添えて贈った。
提携す三五載、日に用ゐて曾て離れず。
暁井 残月を
斟み、
寒炉 砕を
釈く。
銀 侈をを
免れ難く、
莱石 虧を
成し易し。
此器 堅く還実なり、公に寄す 応に知る可きなるべし。
答詩が有ったろうが、丁謂集を有せぬから知らぬ。謂に対しての照の言葉の残っているのはただこれだけである。謂が流された崖州は当時は甚だしい蛮島であった。謂の作、
今崖州に到る 事嗟く可し、夢中常に京華に在るが如し。
程途何ぞ啻一万里のみならん、戸口都べて無し三百家。
夜は聴く猿の孤樹に啼いて遠きを、暁には看る潮の上って瘴煙の斜なるを。
吏人は見ず中朝の礼、麋鹿 時々 県衙に到る。
かかるところへ、死ねがしに流されたのである。然し其処に在ること三年で、内地へ還るを得た時、
九万里 鵬 重ねて海を出で、一千里 鶴 再び巣に帰る。
の句をなした。それのみか然様いう恐ろしいところではあるが、しかし沈香を産するの地に流された因縁で、天香伝一篇を著わして、恵を後人に貽った。実に専ら香事を論賛したものは、天香伝が最初であって、そして今に伝わっているのである。かくて香に参した此人の終りは、宋人魏泰の東軒筆録に記されている。曰く、丁晋公臨終前半月、已に食はず、但香を焚いて危坐し、黙して仏経を誦す、沈香の煎湯を以て時々少許を呷る、神識乱れず、衣冠を正し、奄然として化し去ると。
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「匈/月」 |
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922-上-15、927-中-15、928-下-18、930-上-5、936-中-8、944-下-25、945-上-22、946-下-14 |
「謬」の「言」に代えて「女」 |
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928-中-18 |
「士/毋」 |
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928-中-18 |
「女+今」 |
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932-中-26 |
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