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連環記(れんかんき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 10:20:05  点击:  切换到繁體中文


 寂照は宋に入って、南湖の知礼に遇い、恵心の台宗問目二十七条を呈して、其答を求めた。知礼は問書を得て一閲して嘆賞し、東方にかくの如き深解じんげの人あるか、と感じた。そこで答釈を作ることになった。これより先に永観元年、東大寺の僧※(「大/周」、第3水準1-15-73)ちょうねん入宋にっそう渡天のがんを立てて彼地かのちへ到った。其前年即ち天元五年七月十三日、※(「大/周」、第3水準1-15-73)然は母の為に修善しゅぜん大会だいえを催した。母は六十にして既に老いたれど、身は万里を超えて遠く行かんとするので、再会のし難きをおもい、逆修ぎゃくしゅの植善を為さんとするのであった。丁度慶滋保胤が未だ俗を脱せずに池亭を作り設けた年であったが、保胤は※(「大/周」、第3水準1-15-73)然の為に筆をふるって其願文を草したのであった。中々の長文で、灑々さいさい数千言、情を尽し理を尽し、当時の社会を動かすには十分のものであった。それから又※(「大/周」、第3水準1-15-73)然上人の唐に赴くをせんして賦して贈る人々の詩の序をも保胤がせんした。今や其寂心は既に亡くなっているが、不思議因縁で寂心の弟子寂照が独り唐土に渡ったのである。※(「大/周」、第3水準1-15-73)然は印度へ行くのは止めて、大蔵だいぞう五千四十八巻及び十六羅漢像、今の嵯峨清涼院しょうりょういん仏像等を得て、寛和元年に帰朝したのであった。それよりのち十六七年にして寂照は宋に入ったのであるが、寂照は人品学識すべて※(「大/周」、第3水準1-15-73)然にはまさって見えたので、彼土かのどの人々も流石さすがに神州の高徳と崇敬そうけいしたのであった。で、知礼は寂照を上客として礼遇し、天子は寂照を延見せらるるに至った。宋主が寂照を見たまうに及びて、我が日本の事を問いたもうたので、寂照は紙筆を請いて、我が神聖なる国体、優美なる民俗を答えべた。文章は宿構の如くに何の滞るところも無く、筆札は遒麗しゅうれいにして二王の妙をあらわした。それは其筈で、何もこしらえ事をして飾り立てて我国のことを記したのでもなく、詞藻はもとより大江の家筋を受けていた定基法師であり、又翰墨かんぼくの書は空海くうかい道風とうふうを去ること遠からず、佐理さりを四五年前に失ったばかりの時代の人であったのである。そこで宋主(真宗)は日本の国体に嘆美あたわず、又寂照の風神才能に傾倒の情を発して、おおいにこれをよろこび、紫衣束帛しえそくはくを賜わり、上寺じょうじにとどめ置かせたまいて号を円通大師と賜わった。前世因縁値遇だか何だかは知らぬが、此頃寂照は丁謂ていいと相知るに至った。
 丁謂は恐しいような、又然程さほどでも無いような人であるが、とにかく異色ある人だったに違い無く、宋史の伝は之をへんするに過ぎている嫌がある。道仏の教が世に出てから、道仏にるの人は、歴史には大抵善正でない人にされていると解するのが当る。丁謂が寂照と知ったのは年なお若き時であり、後に貶所へんしょに在りて専ら浮屠ふと因果の説を事としたと史にはある。さすれば謂は早くより因果の説を信じていたればこそ、後年貶謫へんたくされるに至って愈々いよいよ深く之を信じたので、或は早く寂照に点化てんけされたのかも知れない。楊億ようおく談苑だんえんによれば、丁謂が寂照を供養したとある。何時から何時まで給助したのか知らぬが、有力な檀那だんなが附かなくては、寂照も長く他邦には居れまいから、其事は実際だったに違無い。
 丁謂は蘇州長州の人、わかい時孫何そんかと同じく文をそでにして王禹※(「稱」の「のぎへん」に代えて「人べん」、第3水準1-14-35)おううしょうに謁したら、王は其文を見て大に驚き、唐の韓愈かんゆ、柳宗元の後三百年にして始めて此作あり、と褒めたという。当時孫・丁と称されたということだが、孫、丁の名は少し後に出た欧陽修・王安石・三蘇の名におおわれて、今は知る者も少い。淳化三年進士及第して官に任じて、其政事の才により功を立てて累進して丞相じょうしょうに至り、真宗の信頼を得、乾興元年には晋国公にほうぜらるるに至った。蘇州節度使だった時、真宗の賜わった詩に、

践歴せんれき 功皆いちじるしく、諮詢しじゆん つとめ必ずす。
懿才いさい 曩彦なうげんし、佳器かき 時英じえいつらぬく。
よく経綸けいりんの業をべ、めぐりのぼ輔弼ほひつえい
嘉享かきやう 盛遇せいぐうよろこび、尽瘁じんすゐ純誠じゆんせい※(「馨」の「香」に代えて「缶」、第4水準2-84-70)つくす。


の句がある。これでは寇準こうじゅんの如き立派な人を政敵にしても、永い間は勝誇った訳である。政治は力を用いるよりも智を用いるを主とし、法制よりも経済を重んじ、会計録というものを撰してたてまつり、賦税ふぜい戸口ここうの準を為さんことを欲したという。文はもとより、又詩をも善くし、図画、奕棋えきき、営造、音律、何にもにも通暁して、茶も此人から蔡嚢さいじょうへかけて進歩したのであり、蹴鞠しゅうきくにまで通じていたか、其詩が温公詩話と詩話総亀とに見えている。真宗崩じて後、其きさきにくしみを受け、ほしいままに永定陵を改めたるによって罪をこうむり、且つ宦官かんがん雷允恭らいいんきょうと交通したるを論ぜられ、崖州に遠謫えんたくせられ、数年にして道州にうつされ、致仕して光州に居りてしゅつした。つまり政敵にたたき落されて死地に置かれたのである。謂はかくの如きの人なのである。
 知礼の答釈は成った。寂照はこれを携えて、本国へと帰るべきことになったのである。然るに何様どういうものだったか、其時は勢威日に盛んであった丁謂は、寂照をとどめんと欲して、しきり姑蘇こその山水の美を説き、照の徒弟をして答釈をもてかえらしめ、照を呉門寺に置いて、優遇至らざるなくした。寂照は既に仏子である。一切の河川が海に入ればただ是れ海なるが如く、一切の氏族が釈門に入れば皆釈氏である。別に東西の分け隔てをして日本に帰らねばならぬという要も無いのであるから、寂照は遂に呉門寺にとどまった。寂照は戒律精至、如何にも立派な高徳であることが人々に認められたから、三呉の道俗ようやく多く帰向して、寂照の教化きょうけは大に行われたと云われている。そして寂照は其儘そのままに呉に在ったこと三十余年、仁宗の景祐元年、我が後一条天皇の長元七年、「雲の上にはるかに楽の音すなり人や聞くらんそら耳かもし」の歌を遺して、莞爾かんじとして微笑みしょうして終った。
 丁謂もこれに先だつこと一年か二年、明道年間に死んだのであるが、寂照が平坦へいたんな三十年ばかりの生活をした間に、謂は嶮峻けんしゅんな世路を歩んで、上ったり下ったりしたのであった。別に其間に謂と照とのはなしはない。謂は謂であり、照は照であったであろう。最初に謂がしきりに照を世話した頃、照は謂に其のっていた黒金の水瓶すいびょうに詩を添えて贈った。

提携ていけい三五載さんごさい、日に用ゐてかつて離れず。
暁井げうせい 残月をみ、寒炉かんろ ※(「さんずい+斯」、第3水準1-87-16)さいしく。
※(「番+おおざと」、第3水準1-92-82)はぎん ををまぬかれ難く、莱石らいせき し易し。
此器 堅くまた実なり、こうす まさに知る可きなるべし。


 答詩が有ったろうが、丁謂集を有せぬから知らぬ。謂に対しての照の言葉の残っているのはただこれだけである。謂が流された崖州は当時は甚だしい蛮島であった。謂の作、

いま崖州に到る 事なげく可し、夢中むちゅう常に京華けいくわに在るが如し。
程途ていと何ぞたゞ一万里のみならん、戸口べて無し三百家。
夜は聴くましら孤樹こじゆいて遠きを、あかつきにはうしほのぼって瘴煙しやうえんなゝめなるを。
吏人りじんは見ず中朝ちゆうてうの礼、麋鹿びろく 時々 県衙けんがに到る。


 かかるところへ、死ねがしに流されたのである。然し其処に在ること三年で、内地へかえるを得た時、

九万里 ほう 重ねて海を出で、一千里 つる 再びに帰る。


の句をなした。それのみか然様そういう恐ろしいところではあるが、しかし沈香じんこうを産するの地に流された因縁で、天香伝一篇を著わして、めぐみを後人におくった。実に専ら香事を論賛したものは、天香伝が最初であって、そして今に伝わっているのである。かくて香に参した此人の終りは、宋人魏泰ぎたいの東軒筆録に記されている。いわく、丁晋公臨終前半月、すでくらはず、ただ香をいて危坐きざし、黙して仏経をじゆす、沈香の煎湯せんたうを以て時々じゞ少許せうきよあふる、神識乱れず、衣冠を正し、奄然えんぜんとして化し去ると。





底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷
底本の親本:「露伴全集」岩波書店
   1978(昭和53)年
※底本では、右寄せ小書きになっている「ノ」と、やや大きく中央に来ている「ノ」が混在していますが、底本の扱いをなぞり、前者のみを訓点送り仮名として処理しました。
入力:kompass
校正:今井忠夫
2003年5月28日作成
2006年5月19日修正
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    「匈/月」    922-上-15、927-中-15、928-下-18、930-上-5、936-中-8、944-下-25、945-上-22、946-下-14
    「謬」の「言」に代えて「女」    928-中-18
    「士/毋」    928-中-18
    「女+今」    932-中-26

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