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連環記(れんかんき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 10:20:05  点击:  切换到繁體中文


 日影の動かない日は有り得ない。其時は来て其影は流れた。力寿は樹の葉が揺れ止んで風の無くなったのが悟られるように、遂に安らかに死んでしまった。定基は自分も共に死んだようになったが、それは一時いっときのことで、死なないものは死ななかった。たしかに生残っていた。別れたのだ。二つが一つになっていた魂が、彼は我を捨て、我は彼に従うことが叶わないで、彼は去り、我は遺ったのであった。ただ茫然ぼうぜん漠然としていたのみであった。
 生は相憐れみ、死は相捐あいすつということわざがある。其諺通りなら定基は早速に僧を請じ経をじゅさせ、野辺の送りを営むべきであった。しかし普通の慣例の如くに然様そういう社会事相を進捗しんちょくさせるには定基の愛着は余りにも深くて、力寿は死んで確かに我を捐てたけれども、我は力寿を捐つるには忍びなかった。さくき、花をくうし香をくような事は僕婢ぼくひの為すがままに任せていたが、僧をひつぎおさめることは、其命を下さなかったから誰も手をつけるものは無かった。一日過ぎ、二日過ぎた。病気の性の故であったろうか、今既に幾日か過ぎても、面ざしなお生けるが如くであった。定基は其のかたえに昼も居た、夜もして、やるせない思いに、が身の取置きも吾が心よりとは無く、ただ恍惚こうこつ杳渺ようびょうと時を過した。古き文に、ここを叙して、「悲しさの余りに、とかくもせで、かたらひ伏して、口をすひたりけるに、あさましきの口より出来いできたりけるにぞ、うとむ心いできて、なく/\はふりてける」と書いてある。生きては人たり、死しては物たり、定基はもとより人に愛着を感じたのである、物に愛着を感じたのでは無かった。しかし物猶人の如くであったから、いつまでも傍に居たのであろう。そして或時思いも寄らず、吾が口を死人の口に近づけたのであろう。口を吸いたりけるに、と素樸そぼくに書いた昔の文は実に好かった。あさましき香の口より出来りける、とあるが、それは実に誰もが想像し兼ねるほどのいとわしい、それこそ真にあさましい香であったろう。死に近づいている人の口臭は他の何物にも比べ難い希有けうの香のするもので、俗に仏様くさいと云って怖れ忌むものであるが、まして死んでから幾日か経ったものの口を吸ったのでは、如何に愛着したものでも堪らなかったろう。然し定基は流石さすがに快男児だった、愛も痴もここまでに到れば突当りまで行ったものだった。其時その腐りかかった亡者が、嬉しゅうござんす定基さん、と云って楊枝ようじのような細い冷い手を男のくびきつけて、しがみ着いて来たら何様どういうものだったか知らぬが、自然の法輪に逆廻りは無かったから、定基はあさましい其香におそおののいて後へ退すさったのである。人間というものは変なもので、縁もゆかりも無い遠い海のかつおまぐろの死骸などは、めて味わって噛んでんで了うのであるから、可愛いい女の口を吸うくらい、当りまえ過ぎるほど当りまえであるべきだが、然様は出来ないのである。ダーキーニなら、これは御馳走と死屍しかばねを食べも仕ようが、ダーキーニでは無かった定基は人間だったから後へ退って了ったのであった。ここを坊さんの虎関は、会失たま/\はいをうしなひ愛厚あいこうをもつてさうをゆるうし因観九相よりてきうさうをくわんじ深生厭離ふかくをんりをしやうず、と書いているが、それは文飾が届き過ぎて事実に遠くなっている。九相きゅうそうは死人の変化道程を説いたもので、膨張相ぼうちょうそう※(「やまいだれ+於」、第3水準1-88-48)せいお相、相、血塗けっと相、膿瀾のうらん相、※(「口+敢」、第3水準1-15-19)ちゅうかん相、散相、骨相、土相をいうので、何も如何に喪を緩うしたとて、九相を観ずるまで長く葬らずに居たのでは無い、大納言の「口を吸ひたりけるに」の方が遥かに好い文である。そこで定基は力寿を葬ってしまった。葬という字は、死屍を、上も草なら下も草、草むらの中に捨てて了うことであり、ほうむるという言葉は、ほうり放つことで、野か山へ抛り出して終うのである。何様も致しかたの無い人の終りは、然様するか然様されるのが自然なのである。生相憐み、死相つるのである、力寿定基はついに死相捐てたのである。
 力寿に捐てられ、力寿を捐てた後の定基は何様なったか。何様も無い、斯様こうも無い、ただそこには空虚があったばかりであった。定基は其空虚の中に、かしらは天を戴くでもなく、脚は地をむでも無く、東西も知らず南北もわきまえず、是非善悪吉凶正邪、何も分らずふらふらと月日を過した。其うちに四月が来て、年々の例式で風祭りということをする時が来た。風祭りと云っても、万葉の歌の、花に嵐を厭うて「風な吹きそと打越えて、名に負へる森に風祭りせな」というような風流な風祭りではない。三河の当時の田舎の神祭りの式で、生贄いけにえを神に献じて暴風悪風の田穀を荒さぬようにと祈るのであった。趣意はもとより悪いことではない、例は年々行われて来たことだった。定基は三河の守である、式には勿論あずかったのである。ただ其の生贄をささげるというのは、野猪いのししを生けながら神前に引据えて、男共が情も無くおろしたのであった。野猪は鈍物でも殺されるのを合点して忍従する訳は無いから、逃れようともすれば、抵抗もする。終にかなわずして変な声を出して哀しみくるしんで死んでしまうのであった。定基はこれを見て、いやに思った。が、それは半途で止める訳にはゆかぬから、自ら堪えて其儘そのままに済ませて終った。生贄ということは何時から始まったか知らぬが、吾がくにでは清らな神代のいにしえにはなかったようである。支那では古からあったことのようであるが、犠牲の観念は吾が神国にも支那の思想や文物の移入と共に伝わったのではないか、既に今昔物語には人身御供ごくうの物語が載っていて、遥かにのちの宮本左門之助の武勇談などの祖と為っている。社会組織の発達の半途にあっては、生贄の是認せらるべき趨勢すうせいは有りもしようが、※(「穀」の「禾」に代えて「角」、第4水準2-88-48)※(「角+束」、第4水準2-88-45)こくそくたる畜類の歩みなどを見ては、人の善良な側の感情から見て、神に献げるとは云え、何様も善いことか善くない事か疑わしいと思わずには居られないことである。換言すれば犠牲ということを可なりとする社会善というものが、果して善であろうか、然様で無かろうかも疑わしいことである。然し豪傑主義から云えば、勿論のこと、神に献げる犠牲などは論ずるにも足らぬことで、其様そんなことを否認などしては国家の組織は解体するのであるから、巌窟がんくつに孤独生活でも営んでいる者で無い限りは犠牲ということを疑ってはならぬのが、人間世界の実状である。さてそれから少しあとのことであった。今まで狩猟などをもよろこんでいたことであるから定基のところへ生き雉子きじを献じたものがあった。定基は、此の雉子生けながら作りて食わん、味やよき、心みん、と言い出した。奴僕ぬぼくうちの心のあらい者は、主人を神とも思っているから、然様さようでござる、それは一段と味も勝り申そうと云い、少し物わかりのした者は、それはむごいとは思ったが、いさとどめるまでにも至らなかった。やがてむしらせると、雉子はばたばたとするのを、取って抑えてむしりにむしった。鳥は堪らぬから、涙の目をしばたたきて、あたりの人々を見る。目を見合せては流石に哀れに堪兼ねて立退くものもあったが、鳴き居るは、などとかえって興じ笑いつつ猶もむしり立てる強者つわものもあった。※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしりおおせたから、おろさせると、とうに従って血はつぶつぶと出で、堪えがたい断末間の声を出して死んで終った。あぶり焼きして心見よ、と云うと、情無い下司男げすおとこは、其言葉通りにして見て、これはことの外に結構でござる、生身いきみあぶり焼きは、死したるのよりも遥かに勝りたり、などと云った。いずれは此世の豪傑共である。定基はつくづくと見て居たが、ついに堪えかねて、声を立てて泣き出して、自分の豪傑性を否認してしまって、三河守も何もあらばこそ、衣袍いほう取繕ういとまも無く、半天の落葉ただ風に飛ぶが如く国府をあとにして都へ出てしまった。
 勿論官職位階は皆辞して終った。疑いいぶかる者、引留める者も有ったには相違無い、一族朋友ほうゆうに非難する者も有ったには相違無い。が、もう無茶苦茶無理やり、何でも構わずに非社会的の一個のただの生物いきものになって仕舞った。犠牲をささげるのを正しいこととし、犠牲を献げるのを怠るごときは、神に対する甚しい非礼とし、不道とし、大悪とする。犠牲を要求するのは神の権威であり、高徳であり、一切を光被する最善最恵の神の自然の方則であり、或る場合には自ら進んで神の犠牲となり、自己の血肉肝脳を神に献げるのを最高最大最美最壮烈の雄偉な精神の発露として甘んずるのを純粋な道徳であるとする、従って然様そうして神に一致するを得るに至るを、ということで社会は勇健に成立っているのである。如何にもそれで無くては堅固な社会は成立たぬであろう。犠牲の累積と連続とで社会というものは成立っているのである。犠牲の否認というが如きは最卑最小最劣の精神である、犠牲の強要強求乃至ないし巧要巧求をするのは、豪傑乃至智者なのである。犠牲を甘受しなければ鮒一尾いっぴき、卵一箇もれぬのである。うまく味わうが為に雉子きじの一羽や二羽のいけづくりが何であろう。風の神にささげる野猪いのししの一匹や二匹の生贄いけにえが何であろう。易牙えきがが子をあぶり物にして君にささげたという。あの中間の犠牲取扱者は一体何様どういうものであるか、卑怯者ひきょうものなのか豪傑なのか。既に犠牲の累積と連続とで社会が成立っている以上は、おびただしい数の犠牲取扱人が居なければならぬが、イヤ、一切の人間が大抵相互に犠牲となり犠牲を取り犠牲取扱人となっているのが此の人間世界の実相なのである。人間同士、甘んじて犠牲となり合うのが愛であり、犠牲を強要しあうのが争闘であり、然様でない犠牲の自、他、中間の種々相は即ち娑婆しゃば世界の実相である。自分はもう幻影に過ぎなかった愛の世界を失って娑婆即ち忍苦の世界の者となったのみだ、其娑婆に在って又ふたたび幻影の世界を求めて、遅かれ速かれふたたび浅ましい物の香に接しようとも思わぬ、と取留めも無く、物を思うでもなく、思わぬでもなく、五月雨さみだれのしとしとと降る頃を、何か分らぬ時を過した。もう然様いう境界きょうがいを透過した者から云わせれば、所謂いわゆる黒山鬼窟裏の活計を為て居たのであった。そこへ従僕が突として現われて、手に何か知らぬ薄いかたみ様のものを捧げて来た。
「何か」と問うと、老いた其男の答は極めて物しずかであった。「其のさま卑しからぬ女の、物ごしもまことに宜しくはあれどいたく貧苦愁苦にやつれて見えたるが、願はくは此鏡を然るべくあがなひ取りてたまはれかしとて持参り深々と頼み入りましてのことに、きつくはこばみ兼ねて、要無きこととは存じましたれど、御眼の前にもてまゐりたり」という。鏡が今の定基に何のかかわりがあろう。然し定基は何彼なにかと尋ねると、いずれ五位六位ほどの妻であろうか、夫の長いわずらいの末か、或は何様いうかの事情の果にいたく窮乏して、如何ともし難くなって、が随一の宝の鏡を犠牲にして売って急をしのごうということらしい。鏡は当時なおなかなかに貴いものであったのである。定基は其筺を開いて鏡を見ようとすると、其包み紙のえたるに筆のあとも薄く、「今日けふのみと見るになみだのます鏡なれにし影を人にかたるな」と書いてあった。事情が何も分った訳ではないが、女の魂魄たましいとする鏡を売ろうとするに臨みての女の心や其事情がまざまざとむね[#「匈/月」、944-下-25]に浮んで来て、定基は闇然として眼をつむって打仰いで、堪えがたい哀れを催した。そこで、鏡はわれに要なければ返し取らせよ、定めて何彼と物の用あろうほどに、我がものは何なりと惜みなく其人に取らせよ、よくよくあわれびをかけよ、と吩附いいつけて、涙の漏る眼をおし拭うた。この鏡を売りに来た女は何様いうものであったか、定基に何か因縁のあったものか、文化文政度の小説ならば、何かの仔細しさいを附加えそうなところだが、それは何も分明していない。恐らくは偶然に斯様こういうことが湧いて来たのであろう。強いて筋道を求むれば、人が濁悪じょくあくの世界を離れようとする時には、不思議に上求菩提じょうぐぼだいの因縁となることが現出するもので、それは浄居天じょうごてんがさせるわざだ、という小乗的のはなしがあるが、仮りに其談に従えば、浄居天が定基をびに来てくれたものであったろう。定基は其婦人の窮を救うために、種々の自分の財物ざいもつを与え取らせた後不思議に清々すがすがしい好い心持になった。そして遂に愈々いよいよ吾が家を棄てて出た。勿論定基の母は恩愛の涙を流したことでは有ろうが、これをふさぎ遮ろうとするような人では無く、かえって其背影うしろかげに合掌したことであったろう。棄恩入無為、真実報恩者のは、定基の※[#「匈/月」、945-上-22]うちにも断えず唱えられたろうが、定基の母にも恩愛の涙と共に随喜の涙によって唱えられたことであったろう。
 定基は東山如意輪寺に走った。そこには大内記慶滋保胤のなれの果の寂心上人が居たのである。定基は寂心の前に端座して吾が淵底を尽して寂心の明鑑を仰いだのである。寂心は出塵しゅつじんしてから僅に二三年だが、今は既に泥水全く分れて、湛然たんぜん清照、もとより浮世の膠も無ければ、仏の金箔きんぱく臭い飾り気も無くなっていて、ただ平等慈悲の三昧ざんまいに住していたのである。二人の談話は何様どんなものだったか、有ったか無かったか、それも分らぬ。ただ然し機縁契合して、師と仰がれ弟子と容れられ、定基は遂に剃髪ていはつして得度を受け、寂照という青道心になったのである。時に永延二年、としはと云えば、まだ三十か三十一だったのである。よくも思いきったものであった。
 寂照は入道してから、ただもう道心を持し、道行どうぎょうを励み道義を詮するほかに余念も無く、清浄安静しょうじょうあんじょうに生活した。眼前は日に日に朗らかに開けて、大千世界を観ることようやくにして掌上の菓を視るが如くになり、未来は刻々に鮮やかに展じて、億万里程もただ一条の大路たいろの如く通ずるを信ずるに至ったでもあったろう。仏乗の研修は寂心の教導のみならず、寂心の友たり師たる恵心の指示をも得て、俊敏鋭利の根器に任せて精到苦修したことでもあったろう。恵心はもとより緻密厳詳の学風の人であったから、寂照はこれに従っておおいに益を得たことでもあろう、それで寂照を恵心の弟子のように云伝えることも生じたのであろう。しかも恵心はまた頭陀行ずだぎょうを厳修したので、当時円融院の中宮遵子ゆきこの御方は、新たに金の御器ども打たせたまいて供養せられたので、かくては却ってあまりに過ぎたりと云って、恵心は乞食こつじきをとどめたと云う噂さえ、大鏡にのこり伝わっているほどである。頭陀行というのは、仏弟子たるものの如法に行うべき十二の行をいうので、何も乞食をするのみが唯一の事ではないが、二、四、じゅう六の法式のうちの、第三、常乞食じょうこつじきの法が自然に十二行の中枢たるの観を為すに至っているので、頭陀行をすると云えば乞食をするということのようになっている。本来を云えば此の優美でも円満でも清浄でも無い娑婆世界を洗いかえそうというのが頭陀行で、そのために仏子となって仏法に帰依し、自分はむさい色目も分らぬ襤褸らんるを着て甘んじ、慾得ずくからの職業産業から得るのでない食物を食って足れりとし、他を排しおのれを護る住宅でもないところに身を安んじ、そして一念ただ清涼無熱悩の菩提に帰向しおわらんとするのが頭陀行である。其の頭陀行のうちの常乞食は、一には因縁所生しょしょうの吾が身を解脱に至らしむるまでの経程を為すのである、二には我に食を施す者をして仏宝法宝僧宝の三宝に帰依せしむ、三には我に食を施すものをして悲心を生ぜしむ、四には我に我心無し、仏の教行に順ずるなり、五には満ち易く養い易く、安易の法なり、六には諸悪の根幹たる※(「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61)きょうまんを破る、七には最卑下の法を行ずるに因りて最頂上相の感得を致す、八には他の善根を修する者のならうことを生ず、九には男女大小のもろもろの縁事を離る、十には次第に乞食こつじきするが故に、衆生のうちに於て平等無差別むしゃべつの心を生ず。これであるから余りに鄭重ていちょうな供養を提出された時に、恵心が其の燦爛さんらんたる膳部に対して「かくては余りに見ぐるし」と云ったのも無理はないことで、ぴかぴかきらきらしたものを「見ぐるしい」としたのは流石さすがに恵心であった。其の恵心の弟子同様の寂照である。これは三河守だった昨日に引かえて、今日は見るかげも無い青道心である。次第しだい乞食は之を苦しいとはせぬであったろうが、かなり苦しいことでもあったろう。次第乞食とは、良い家も貧しい家もえらまず、鉢を持して次第に其門に立ってを乞うのである。或日の事寂照は師の恵心の如く頭陀行ずだぎょうをした。一鉢三衣いっぱつさんえ、安詳に家々の前に立って食を乞うたのである。すると一軒の家にび入れられた。通って見ると、食物を体よくして「庭に畳を敷きて、供養しようとしたのである。何の心も無く其畳に居て、唱え言をして食わんとした。其時そこに向いておろしてあったすだれ捲上まきあげたので、そなたを見ると、好き装束した女の姿が次第にあらわれた。簾は十分に上げられた。誰に言うたのか、女は「あの乞丐かたい如是かくてあらんを見んと思いしぞ」と言った。寂照は女を見た。女も寂照を見た。眼と眼とは確かに見合せた。女はまさしく寂照が三河守定基であった時においいだした其女であった。女の眼の中には無量なものがあった。怨恨えんこんの毒気のようなものもあった、勝利をほこるようなものもあった、冷やかなものもあった、甚だしい軽蔑けいべつもあった、軽蔑し罵倒ばとうし去っての哀れみのようなものもあった、なお自己おのが不幸に沈淪ちんりんしている苦痛を味わいかえして居るが如きものもあった、又其の反対にあくまでも他をあざけりさいなむような、氷ででも出来た利刃の如きものもあって、それは定基の身体のあらゆるところを深く深く※(「宛+りっとう」、第4水準2-3-26)えぐりまわろうとした。割り口説いて云えば斯様こうでもあるが、何もそれが一ツ一ツに存在しているのではなく、皆が皆一緒になって、青黄赤白、何の光りともない毒火の※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおとなってほとばしり出ておおいかかるのであった。そして女は極めて緩く鈍く薄笑いに笑った。それは笑いというべきものであったか、何であったか分らぬ、如何なる画にも彫刻にも無い、妖異ようい凄惨せいさんなものであった。
 定基が定基であったなら、一石が池水に投ぜられたのであったから、波瀾淪※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6)はらんりんいはここに生ぜずには済まなかったろう。然し寂照は寂照であった、鳥影が池上にちたのみであったから、白蘋緑蒲はくひんりょくほ、かつて動かずであった。今は六波羅密ろくはらみつの薄いころもに身を護られて、風の射るもとおらざる境界きょうがいに在るものであった。忍辱にんじょく波羅密はらみつ、禅波羅密、般若はんにゃ波羅密の自然の動きは、せまり来る※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)まえんをも毒箭をも容易に遮断し消融せしめた。寂照はただ穏やかに合掌した。諸仏菩薩ぼさつの虚空に充満して居られて此方をていらるるに対し、奉恩謝徳の念のみの湧き上るに任せた。我に吹掛ける火※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)の大熱は、それだけ彼女の身を去って彼女に清涼を与えるわけになった。我に射掛くる利箭りせんの毒は、それだけ彼女の懐を出でて彼女の※裏きょうり[#「匈/月」、946-下-14]清浄しょうじょうにすることになった。我を切り、突き、※(「宛+りっとう」、第4水準2-3-26)らんとする一切兇悪きょうあく刀槍剣戟とうそうけんげきの類は、我に触れんとするに当って、其の刃頭が皆妙蓮華みょうれんげつぼみとなって地に落つるを観た。施行せぎょうは彼の我に与うるによって彼の檀波羅密だんはらみつじょうじ、我の彼に受けてむくいるに法を与うるを以てするの故に、我の檀波羅密を成じ、速疾得果の妙用を現ずるを観た。寂照は「あな、とうと」と云いて端然たんねんり、自他平等利益りやく讃偈さんげを唱えて、しずかに其処を去った。戒波羅密や精進波羅密、寂照は愈々いよいよ道に励むのみであった。彼女は其後何様どうなったかは伝わって居らぬが、恐らくは当時の有識階級の女子であったから、多分は仏縁に引かれて化度けどされたでもあったろう。

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