赤染右衛門は斯様いう女である。こういう女が身体の血の気も漲っていれば、心の火の熱も熾んな若盛りで、しかも婚後の温い生活を楽んでいる際に当って、近親の定基の家には、卑しい身分の一艶婦のために冷雨悲風が起って、其若い妻が泣きの涙でいるということを知っては、其儘に他所の事だと澄ましかえっては居にくいことである。まして段々と風波が募って、定基の妻が日に日に虐められるようになっては、右衛門に対して援を求めるように何等かのことをしたかも知れない。そこで何も弁護士然と出かけた訳では無かろうが、右衛門は定基の妻のために、折にふれて何かと口をきいたことは自然であったろう。定基の家と右衛門とは、ただ一家というばかりの親しさのみでは無かったようである。これは少し言過ぎるかも知らぬが、定基の兄の為基、これは系図には、歌人とあり、文章博士、正五位下、摂津守とある。此人と右衛門との間には、何様もなみならぬ心のゆきかいが有ったかと見ゆるのである。此の頃の雑談を書記した類の書籍にも、我が知れる限りでは右衛門為基の恋愛譚は見当らず、又果して恋物語などが有ったのか否かも不明であるが、為基と右衛門との間に、歌の贈答が少くなかったことは、顕証が存している。ただし其恋があったとしても、双方ともに遠慮がちで終ったのかも知れないし、且又為基は病弱で、そして蚤く亡くなったことは事実である。とにかく、此の事は別にして其儘遺して置くことにする。が、為基定基兄弟の母と右衛門との間にも後になって互に問いおとずれし合ったことのあったのは、これも贈答の歌が幾首も残っているので分明である。梅の花、常夏の花などにつけて、定基の母の歌をおこしたのに右衛門の返ししたのもあり、又右衛門の家に定基の母が宿って、夜ふかき月をながむるに虫の声のみして人皆寝しずまりたるに、「雲ゐにてながむるだにもあるものを袖にやどれる月を見るらむ」と老女の悲愴の感をのべたのがある。為基定基の弟に成基、尊基が無かった訳ではないが、頼もしくした二人に離れて、袖にやどれる月を見るかな、とは何という悲しい歌だろう。右衛門も感傷にたえで、「ありあけの月は袂にながれつゝかなしき頃の虫の声かな」と返している。此歌は続古今集に載せられている。一家の事だから、交通もかくの如く繁かったことだろう、何も不思議はない。
かかる一家の間柄である。かかる人品の赤染右衛門である。虐げられた定基の若妻に同情し、又無論のこと力寿の方の肩を持ちそうもない定基の母にも添うて、右衛門は或日定基にむかって、美しいのみの力寿に溺るることの宜からぬことを説き、妻をやさしくあつかうべきことを、説きすすめたのである。実にそれは、言葉にそつは無く、情理兼ね到って、美しくもまたことわりせめて上手に説いたことであったろう。元来財力あるものは財を他に貸して貧者を扶けることが出来る、才力ある者は才を他に貸して拙者を助けることが出来、自然と然様いうことの生ずるのが世の自然のありさまである。それで赤染右衛門ほどになると、自分の子の挙周が恋に落ちていた時になって、恋には最大武器である和歌を挙周に代って作ってやって、それを相手の女に寄せさせたことが数々有った、実に頼もしい有難いお母さんで、坊ちゃん挙周はお蔭で何程好い男になっていたか知れない。其歌は今に明らかに残っているから、嘘でも何でもない。ところが相手の女もまだ若くて、中々赤染右衛門の代作の手はしの利いている歌に返歌は出来なかったが、幸に其の姉分に和泉式部という偉い女歌人があったから、それに頼んで答をして貰った。和泉式部の代作の恋の歌も今確存しているのである。双方手だれのくせものであるから、何の事は無い恋愛弁理士同士の雄弁巧説、うるわしかりける次第なりと云った形で、斯様いうことのつづきの末が、高ノ武蔵守師直という厭なじじいが、卜部の兼好という生ぐさ坊主に艶書の注文をしたなどという談を生ずるに至っているのである。小倉百人一首に載っている、赤染右衛門、やすらはで寝なましものを小夜ふけて傾くまでの月をみしかな、は実に好い歌であるが、あれも右衛門自身の情から出た歌では無くて、人に代って其時の情状を写実に詠んだものである。恐れ入った妙作で、綿々たる情緒、傾くまでの月を見しかな、と彼の様に「かな」の二字のピンと響く「かな」は今に至るまで百千万度も使われたかなの中にも滅多には無い。あのような歌をよこされては、男子たるもの蜘蛛の糸に絡められた蜻蜒のようになって了って、それこそカナ縛りにされたことだったろう。これほどの赤染右衛門に出て来られて、有り余る才を向う側に用立てられて、しかも正しい道理のある方に立って物を云われては、定基たるものも敵う筈は無い、差当りだけでも、如何にも御もっともと、降伏せざるを得ないところであった。
ところが然様はいかなかった。定基に取っては力寿のかわゆさが骨身に徹していたのである。イヤ、骨身に徹するどころではない、魂魄なども疾くに飛出して終って、力寿の懐中の奥深くに潜り込んで居たのである。妻は既に妻ではないのであった、袖の上の飛花、脚の下の落葉ほどにも無いものであったのである。妻に深刻な眼で恨まれたこともあったろうが、それは籬の外の蛍ぐらいにしか見えなかったであろう。母に慈愛のまなざしで諭されたことも有ったろうが、それも勿体ないが雲辺の禽の影、暫時のほどしか心には留まらなかったのであったろう。如何に歌人でも才女でも、常識の円満に発達した、中々しっかり者の赤染右衛門でもが、高が従兄弟の妻である。そんなものが兎や角言ったとて、定基の耳には頭から入らなかったのであろう。別に抗弁するのでも無ければ、駁撃するというでも無く、樹間の蝉声、聴き来って意に入るもの無し、という調子にあしらって終った。右衛門も腕の力を暖簾にごまかされたようになっては、流石にあれだけの器量のある女だから、やっきとなって色々にかき口説いたろうが、人間には生れついて性格技能のほかに、丈の高さというものがあるのだから、定基の馬鹿に丈の高いのには、右衛門の手が届きかねたのであろう、何の手応えも生じかねたのである。世の中には何も出来ないで丈ばかり高いものがあるが、それは戦乱の世なら萱や薄のように芟り倒されるばかり、平和の世なら自分から志願して狂人になる位が結局で、社会の難物たるに止るものだが、定基は蓋し丈の高い人だったろう。そこで右衛門は自尊心や自重心を傷つけられたに過ぎぬ結果になって、甚だ面白く無く、手持無沙汰になって、定基の妻や母にも面目無く、いささか器量を下げて、腹の中は甚だ面白からず、何様ぞ宜く御考えなされまして、という位を定基に言って引退るよりほか無くなった。此処で何様いう風に右衛門が巧みに訴え、上手に弁じ、手強く筋を通して物語ったかは、一寸書き現わしたくもあるところだが、負けた相撲の手さばきを詳しく説くのもコケなことだから省いて置く。
定基の方は、好かない煙が鼻の先を通った程の事で済ませて了ったが、収まらないのは右衛門の腹の中だった。右衛門に取って直接に苦痛が有るの無いのということでは無いが、自分の思ったことが何の手応えも無く、風の中へ少しの灰を撒いたように消えて終ったというようなことは、誰に取っても口惜しいものである。まして相当の自負心のあるものには、自分が少しの打撃を蒙ったよりも忌わしい厭わしい感じを生じ勝のものである。それに加えて、相互の間に敬愛こそは有れ、憎悪も嫌悪もあるべき筈は無い自分に対してさえ、然様いう軽視若くは蔑視を与える如き男が、今は嫌厭から進んで憎悪又は虐待をさえ与えて居る其妻に対しては、なまじ横合からその妻に同情して其夫を非難するような気味の言を聞かされては、愈々其妻に対して厭悪の情を増し虐待の状を増すことであろうと思うと、其妻に対しても気の毒で堪らぬ上に、其男の憎らしさが込みあげて来てならぬ。吾が心の平衡が保てぬというほどでは無いが、硬粥が煮えるときにブツブツと小さな泡が立っては消え、消えては復立つというような、取留めのない平らかならぬものが腹中に間断なく起滅するのを免れなかったことだったろう。そこで右衛門は遂に夫の匡衡に委曲を語って、定基の近状の良くないことを云い、其妻のあわれなことを告げ、何とかしてやって欲しいことを訴えた。男は男で、他の斯様なことには取合いたがらぬものである。匡衡は一応はただ其儘に聞流そうとした。しかし右衛門は巧みに物語った。匡衡はここで取合わずに過して了えば、さも自分も定基と同じような場合にあっては吾が妻に対して冷酷である男のように、自分の妻から看做さるるであろうかのように感じずには居られなかったであったろう。そこで定基に対してよりは、自分の妻に対しての感じから動き出して、よし、それでは折を見て定基に話ししよう、ということになった。匡衡と右衛門との間は実に仲が好かったのであった。
男と女との間のきあったところへ口を出すほど危険なことは無い。もし其男女の仲が直れば、後で好く思われる筈は無い、双方の古疵を知っている一の他人であるからである。又仲直りが出来ずに終れば、もとより口をきいた甲斐もないのであるからである。しかし親類合のことであって見ると、又別である。が、匡衡も定基も血の気の多い、覇気満々の年頃ではあり、双方とも学問はあり才器はあり、かりそめの雑談を仕合っても互に負けては居ぬ頃合であるから、斯様いう談などは、好い結果を生じそうにないのが自然であった。然し双方とも幸に愚劣な高慢的な人で無かったから、何等の後の語り草になるほどのことも無くて済んでしまったが、互の感情は離し、そして匡衡は匡衡、定基は定基で、各々峭立して疎遠になるに終ったことだったろう。察するに一方は、路花墻柳の美に目を奪われるの甲斐無きことをあげて、修身斉家の大切なことを、それとなく諷したに違いない。それに対し反対の仕ようは無いから、一方は黙っていたに違いない。此の黙っているというのは誠に張合の無い困ったことだから、又更に一方は大江の家が儒を以て立っているのだから、家の内の斉わないで、妻を去るに至るの何のということは、よくよくの事でなければ、一家一門に取って取分け世間の非難を被って、非常に不利であることを云いもしたろう。これに対しても一方は又黙っていたろう。七出の目に就いても言議に及んだことであろう。七出というのは、子無きが一、淫佚が二、舅姑に事えざるが三、口舌多きが四、盗窃が五、妬忌が六、悪疾が七である。これに対しては定基の方からは、口舌、妬忌の二条を挙げて兎角を云うことも出来るわけだが、定基今差当って必ずしも妻を出そうと主張しているのでも無いから、やはり何も云わず黙っていたろう。何を云っても黙って居られる。自分も妻の右衛門同様、相手にされずに黙過されるに至っては匡衡も堪えきれなくなったろう。遂に力寿が非常に美い女だということが定基耽溺の基だというのに考えが触れて、美色ということに鉾が向いたろう。妲己や褒のような妖怪くさい恐ろしい美人を譬えに引くのも大袈裟だが、色を貪るという語に縁の有るところがら、楚王が陳を討破って後に夏姫を納れんとした時、申公巫臣が諫めた、「色を貪るを淫と為す、淫を大罰と為す」と云ったのを思い出して、色を貪るのを愚なことだと云いもしたろう。貪色の二字は実に女の美いのを愛ずる者にはピンと響かずには居ない語だ。夏姫というのは下らない女ではあったが、大層美い女だったには疑無い。荘王は巫臣の諫を容れて何事も無く済んだが、巫臣が不祥の女だと云った如く、到るところに不幸を播いた女であった。夏姫に力寿を比したでも何でも無かったろうが、貪色というが如き一語は定基には強く響いたことだろう。全く色を貪って居たには違無いのだから。すべて人は何様いう強いことを言われても、急所に触れないのは捨てても置けるものであるが、たまたま逆鱗即ち急所に触れることを言われると腹を立てるものである。グッと反対心敵対心の火炎を挙げるものである。ここまでは好くない顔はしていても、別に逆らうでもなく、聞流しに聞いていた定基も、ここに至って爆発した。一ツは此頃始終足の裏に踏付けた飯粒のような古女房を、何様しようか何様しようかと思って内々は問題にしていたせいでもあったろう、又一ツには譬えば絹の糸の結ばれて解き兼ねるようになっているのを如何に処理しようかと問題にして惑って居る時、好意ではあるにしても傍より急に其一端を強く引かれて愈々解き難くなったので、ええ面倒ナ切って終え、と剪刀を取出す気になるような、腹の中で決断がついて終ったせいもあったろう。定基は突然として、家にも似合わず、如是因、如是縁、如是因、如是縁、と繰返して謂って、如何にしても縁というものは是非の無いものと見えまする、聖人賢人でも気に入らぬ妻は離別された先蹤さえござる、まして我等は、と云って、背筋を立てた。匡衡は、ヤ、と云って聊か身を退いた。定基は幾月か扱っていた問題だったから、自然と後が口を衝いて出て来た。檀弓に見えて居る通り、子上の母死して喪せずの条によれば、孔子の御孫の子思子が妻を去られたことは分明である。又其章の、門人が子思子に問われた言葉に、「昔は子の先君子出母を喪せる乎」とあるによれば、子思子の父の子伯魚も妻を去られたようである。イヤ、それよりも同じ章の別の条に、「伯魚の母死す、期にして而して猶哭す」の文によれば、伯魚の母即ち孔子の妻も、吾が聖人孔夫子に去られたことは分明である。何様いう仔細あって聖人が子まであった夫人を去られたか、それはそれがし不学で未だ見及ばず聞及ばぬが、孔子は年十九にして宋の幵官氏を娶られ、其翌年に鯉字は伯魚を生ませたもうたのである。伯魚が出母の死に当り期にして猶哭せるは、自然であるが、孔子が幵官氏を出し玉うたのは、因縁不和とよりそれがしには合点がならぬ。聖人の徳、家を斉うるに足らなかったとは誰も申し得ぬ。しかし夫子も上智と下愚とはうつらずと申して居らるる。うつらずとは徳化も及ばざることでござろう。聖人の盛徳といえども、御年猶若かりし頃には、堪えかねて見放したもうて去られしもの歟、或は幵官氏に宜しからぬことのありし歟。すべて遠き古の事、考え知らんにも今如何ともし難けれど、我等凡愚にはただ因縁不可思議とのみ存ずる、何様いうものでござろうか、と意外な逆手に出られた。これは何も定基が匡衡より学識が勝れていた故というのでは無いが、定基の方は自分の境遇の現在から斯様いうことを実際の問題にして、いろいろ苦悩して考えていたからである。匡衡は一寸身を退かずには居られなかった。相撲なら、ここで定基の出足さえ速かったら、匡衡は手もなく推出されて終うところだったが、何も定基は勝負を争うつもりのわけでは無かったから、追窮するような態度に出無かった。が、匡衡の方では、明らかに自分が推戻されてたじたじとなったのを感じた。けれども匡衡も鳶肩倔強の男児だ、斯様なると話が学問がかったところで推出されじまいになるのには堪えられなかった。何も争いを仕に来たので無いのは知れきったことだが、負けたようになって引退ることは厭だった。そこは流石に才子で、粟津の浜に精兵を率いて駈通るような文章を作る男だけに、檀弓は六国の人、檀弓一篇は礼記に在りと雖も、もと伝聞に出ずるもので、多く信ず可からず、というような論は、云えば云えぬでは無いが、そんな迂なことを馬鹿正直に云うよりも、相手の推しを其儘にいなせて、「如何にも」と云ったまま少時考えたが、忽ち思い得たところがあったか薄笑いして、成程、聖人も性の合わぬ妻を去られたということは有ったでもござろう、然し聖人は妻を去られたにしても、其後他の婦人を迎えて妻とせられたことは無いように存ずる、其証は孔子の御子は伯魚一人限りで、幵官氏の出ただ一人、其他に伯魚の弟、妹というものは無かったのでござる、又孔子が継室を迎えられた、それは何氏であったということも、それがし不学で未だ見及ばず聞及ばぬでござるが、と談話は実に斡旋の妙を極めた。此度は定基の推した手を却って軽く引いて置いて、側から横へ推したようなものだった。定基は抵抗されたのでは無いが、思わぬ方へ身を持って行かれたのであった。妻を去るのは去るにしても、力寿を其後へ入れることは無くてあるべきように云われたのである。元来聖人などを持出したのが、変なことだったので、変なことの結果は変なことになって終ったのである。双方の話は生活の実際に就てであったのだが、歯に物の挟まった物の云い方を仕合った結果は、書物の古話になってしまった。しかしそれも好かった、書生の閑談で事は終って了って、何等のいさくさも無く稜立つことも無く済んで了った。
但し双方とも、平常の往来、学問文章の談論でなくて有ったことは互の腹に分って居ない筈は無かったのだから、匡衡の方は人が折角親切気で物を云ってやったに、分らぬ男だと思えば、定基の方は大きな御世話で先日は生才女、今日は生学者が何を云って来居るのだ、それも畢竟は家の女めが何か彼か外へ漏らすより、と腹なりを悪くしたに違無い。物の因縁というものは、善くなるのも悪くなるのも、都べて斯様いうもので、親切は却って仇となり、助けは却って障りとなって、正基は愈々妻を疎み、妻は愈々夫を恨み、無言の冷眼と嫉妬のひぞり言とは、日に戦ったが、定基は或はずみに遂に妻を去ろうと云い出して了った。女は流石に泣いたり笑ったりしたが、何様も仕方無く、遂に家を出て終った。当時の離別の形式などは今これを詳知する材料に乏しいが、いずれ美しく笑って別れるということは有ろう筈無く、男の瞋眼、女の怨気、あさましく、忌わしい限りを尽して別れたことであったろう。それで無くては別れられる訳も無いのだから。特に女に取っては、一生を全く墨塗りにされるのだから、定基の妻は恨みもしたろう、悪みもしたろう、人でも無いもののように今までの夫を蔑視もしたろう、行末悪かれ、地獄に墜ちよ、畜生になれ、修羅になって苦め、餓鬼になって悩め、と呪いもしたろう。そして自分の将来、何の光も無く、色も無く、香も無い、ただ真黒な冷い闇のみの世界を望み視ては、愴然栗然として堪えきれぬ思いをしたことであったろう。
およそ人間世界に夫婦別れをする女ほど同情に値するものはあるまい。それは決して純善から生ずるものでは無かろうから、同情に値しない個処が存在することを疑わない。たとえば定基の妻にしても妬忌の念が今少し寡かったら如何に定基が力寿に迷溺したにせよ、強いて之を去るまでには至らなかったろうと想われる。然し何が何様あろうとも、一生の苦楽を他人に頼る女のことであるから、善かれ悪かれ取宛てた籤の男に別れては堪るものではない。そこへ行くと男の方は五割も十割も割がよい。甚だしいのになると、雨晴れて簑を脱ぎ、水尽きて舟を棄つるような気分で女に別れて、ああせいせいしたなどと洒落れているのである。それでいて其男が甚い悪人でも無いというのが有るのだから、一体愛情というものの上には道徳が存するものか何様かと疑われるほどで、何にしても女は不利な地に立っている。定基は勿論悪人というのではないが、つまりは馬で言えば癇強な馬で、人としては生一本の人であったろう。で、女房を逐出し得てからは、それこそせいせいした心持になって、渾身の情を傾けて力寿を愛していたことであろう。任地の三河にあっては第一の地位の三河守であり、自分のほかは属官僕隷であり、行動は自由であり、飲食は最高級であり、太平の世の公務は清閑であり、何一ツ心に任せぬことも無く、好きな狩猟でもして、山野を馳駆して快い汗をかくか、天潤いて雨静かな日は明窓浄几香炉詩巻、吟詠翰墨の遊びをして性情を頤養するとかいう風に、心ゆくばかり自由安適な生活を楽んでいたことだったろう。ところが、それで何時迄も済めば其様な好いことは無いが、花に百日の紅無し、玉樹亦凋傷するは、人生のきまり相場で、造物豈独り此人を憐まんやであった。イヤ去られた妻の呪詛が利いたのかも知らぬ。いつからという事も無く力寿はわずらい出した。当時は医術が猶幼かったとは云え、それでも相応に手の尽しかたは有った。又十一面の、薬師の、何の修法、彼の修法と、祈祷の術も数々有った。病は苦悩の多く強いものでは無かったが、美しい花の日に瓶中に萎れゆくが如く、清らな瓜の筺裏に護られながら漸く玉の艶を失って行くように、次第次第衰え弱った。定基は焦躁しだした。怒りを人に遷すことが多くなった。愁を独りで味わっていることが多くなった。療治の法を求めるのに、やや狂的になった。或時はやや病が衰えて元気が回復したかのように、透徹るような瘻れた顔に薄紅の色がさして、それは実に驚くほどの美しさが現われることも有ったが、それは却って病気の進むのであった。病人は定基の愛に非常な感謝をして、定基の手から受ける薬の味の飲みにくいのをも、強いて嬉しげを装うて飲んだ。定基にはそれが分って実に苦かった。修法の霊水、本尊に供えたところの清水を頂かせると、それは甘美の清水であるので、病人は心から喜んで飲んで、そして定基を見て微かに笑う、其の此世に於て今はただ冷水を此様に喜ぶかと思うと、定基は堪らなく悲しくて腹の中で泣けて仕方がなかった。病気は少しも治る方へは向かなかった。良い馬が確かな脚取りを以て進むように、次第次第に悪い方へのみ進んだ。其の到着点の死という底無しの谷が近くなったことは定基にも想いやられるようになったし、力寿にもそれが想い知られているようになったことが、此方の眼に判然と見ゆるようになった。しかし二人とも其の忌わしいことには、心をも言葉をも触れさせないように力めた。互に相棄てたくない、執着の心が、世相の実在に反比例して強く働いたからである。
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