保胤が池亭を造った時は、自ら記して、老蚕の繭(まゆ)を成せるがごとしと云ったが、老蚕は永く繭中(けんちゅう)に在り得無かった。天元五年の冬、其家は成り、其記は作られたが、其翌年の永観元年には倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)の撰者の源順(したがう)は死んだ。順も博学能文の人であったが、後に大江匡房が近世の才人を論じて、橘(たちばな)ノ在列(ありつら)は源ノ順に及ばず、順は以言と慶滋保胤とに及ばず、と断じた。保胤と順とは別に関渉は無かったが、兎死して狐悲む道理で、前輩知友の段々と凋落(ちょうらく)して行くのは、さらぬだに心やさしい保胤には向仏の念を添えもしたろう。世の中は漸(ようや)く押詰って、人民安からず、去年は諸国に盗賊が起り、今年は洛中(らくちゅう)にて猥(みだ)りに兵器を携うるものを捕うるの令が出さるるに至った。これと云って保胤の身近に何事が有ったわけでは無いが、かねてからの道心愈々(いよいよ)熟したからであろう。保胤は遂に寛和二年を以て、自分が折角こしらえた繭を咬(かみ)破(やぶ)って出て、落髪出家の身となって終(しま)った。戒師は誰であったか、何(ど)の書にも見えぬが、保胤ほどの善信の人に取っては、道の傍(かたえ)の杉の樹でも、田の畦(あぜ)の立杭(たちぐい)でも、戒師たるに足るであろうから、誰でも宜かったのである。多武峰(とうのみね)の増賀上人、横川(よかわ)の源信(げんしん)僧都(そうず)、皆いずれも当時の高僧で、しかも保胤には有縁(うえん)の人であったし、其他にも然るべき人で得度させて呉れる者は沢山有ったろうが、まさか野菜売りの老翁が小娘を失った悲みに自剃(じぞ)りで坊主になったというような次第でもあるまいに、更に其噂の伝わらぬのは不思議である。匡房が続往生伝には、子息の冠笄(かんけい)纔(わずか)に畢(おわ)るに及んで、遂に以て入道す、とあるばかりだ。それによれば、何等の機縁が有ったのでも無く、我児が一人で世に立って行かれるようになったので、予(かね)ての心願に任せて至極安穏に、時至って瓜が蔕(へた)から離れるが如く俗世界からコロリと滑り出して後生願い一方の人となったのであろう。保胤の妻及び子は何様(どん)な人であったか、更に分らぬ。子は有ったに相違ないが、傍系の故だか、加茂氏系図にも見当らぬ。思うに妻も子も尋常無異の人で、善人ではあったろうが、所謂(いわゆる)草芥(そうかい)とともに朽ちたものと見える。 保胤は入道して寂心となった。世間では内記の聖(ひじり)と呼んだ。在俗の間すら礼仏誦経(らいぶつじゅきょう)に身心を打込んだのであるから、寂心となってからは、愈々精神を抖(とそう)して、問法作善(さぜん)に油断も無かった。伝には、諸国を経歴して広く仏事を作(な)した、とあるが、別に行脚の苦修談(くじゅだん)などは伝えられていない。ただ出家して後わずかに三年目には、自分に身を投げかけて来た者を済度して寂照という名を与えた。此の寂照は後に源信の為に宋に使(つかい)したもので、寂心と源信とはもとより菩提(ぼだい)の友であった。源信の方が寂心よりは少し年が劣って居たかも知らぬが、何にせよ幼きより叡山(えいざん)の慈慧に就いて励精刻苦して学び、顕密双修(そうじゅ)、行解(ぎょうげ)並列の恐ろしい傑物であった。此の源信と寂心との間の一寸面白い談(はなし)は、今其の出処を確記せぬが、閑居之友であったか何だったか、何でも可なり古いもので見たと思うのである。記憶の間違だったら抹殺して貰わねばならぬが。 或時寂心は横川の慧心院(えしんいん)を訪(と)うた。院は寂然(じゃくねん)として人も無いようであった。他行であるか、禅定であるか、観法であるか、何かは知らぬが、互に日頃から、見ては宜からぬ、見られては宜からぬ如き行儀を互に有(も)たぬ同士であるから、遠慮無く寂心は安詳(あんじょう)にあちこちを見廻った。源信は何処にも居なかった。やがて、ここぞと思う室(へや)の戸を寂心は引開けた。すると是(こ)は如何に、眼の前は茫々漠々(ぼうぼうばくばく)として何一ツ見えず、イヤ何一ツ見えないのでは無い、唯是れ漫々洋々として、大河(だいが)の如く大湖の如く大海(だいかい)の如く、々(いい)たり瀲々(れんれん)たり、汪々(おうおう)たり滔々(とうとう)たり、洶(きょう)たり沸(ふつ)たり、煙波糢糊(もこ)、水光天に接するばかり、何も無くして水ばかりであった。寂心は後(あと)へ一ト足引いたが、恰(あたか)もそこに在った木枕を取って中へ打込み、さらりと戸をしめて院外へ出て帰ってしまった。源信はそれから身痛を覚えた。寂心が来て卒爾(そつじ)の戯れをしたことが分って、源信はふたたび水を現じて、寂心に其中へ投げ入れたものを除去させた。源信はもとの如くになった。 此の談は今の人には、ただ是れ無茶苦茶の譚(だん)と聞えるまでであろう。又これを理解のゆくように語りわけることも、敢てするに当るまい。が、これは源信寂心にはじまったことではなく、経に在っては月光童子の物語がこれと同じ事で、童子は水観を初めて成し得た時に、無心の小児に瓦礫(がれき)を水中に投げ入れられて心痛を覚え、それを取出して貰って安穏を回復したというのである。伝に在っては、唐の法進が竹林中で水観を修めた時に、これは家人が縄床上に清水(せいすい)があるのを見て、二ツの小白石を其中に置いたので、それから背痛を覚え、後また其を除いて貰って事無きを得たという談がある。日本でも大安寺の勝業(しょうごう)上人が水観を成(じょう)じた時同じく石を投げ入れられて、これは※(むね)[#「匈/月」、927-中-15]が痛んだという談があって、何も希有(けう)な談でも何でもない。清水だろうが、洪水だろうが、瓦礫だろうが、小白石だろが、何だって構うことは無い、慧心寂心の間に斯様(かよう)な話の事実が有ったろうが、無かったろうがそんなことは実は何様(どう)でもよい、ただ斯様(こう)いう談が伝わっているというだけである。いや実はそれさえ覚束(おぼつか)ないのである。ただ寂心の弟子の寂照が後に源信の弟子同様の態度を取って支那に渡るに及んでいるほどであるから、寂心源信の間には、日ごろ経律(きょうりつ)の論、証解(しょうげ)の談が互に交されていたろうことは想いやられる。勿論文辞に於ては寂心に一日の長があり、法悟に於ては源信に数歩の先んずるものが有ったろうが、源信もまた一乗要訣、往生要集等の著述少からず、寂心と同じように筆硯(ひっけん)の業には心を寄せた人であった。 寂心は弥陀(みだ)の慈願によって往生浄土を心にかけたのみの、まことに素直な仏徒ではあったが、此時はまだ後の源空以後の念仏宗のような教義が世に行われていたのでなく、したがって捨閉擱抛(しゃへいかくほう)と、他の事は何も彼も擲(なげう)ち捨てて南無阿弥陀仏一点張り、唱名三昧に二六時中を過したというのではなく、後世からは余業雑業(よごうざつごう)と斥(しりぞ)けて終(しま)うようなことにも、正道正業(しょうどうしょうごう)と思惟(しゆい)さるる事には恭敬心(くぎょうしん)を以て如何にも素直にこれを学び之を行(ぎょう)じたのであった。で、横川に増賀の聖が摩訶止観(まかしかん)を説くに当って、寂心は就いて之を承(う)けんとした。 増賀は参議橘恒平(たちばなのつねひら)の子で、四歳の時につきものがしたように、叡山に上(のぼ)って学問をしよう、と云ったとか伝えられ、十歳から山へ上せられて、慈慧に就いて仏道を学んだ。聡明(そうめい)驚くべく、学は顕密を綜(す)べ、尤(もっと)も止観に邃(ふか)かったと云われている。真の学僧気質(かたぎ)で、俗気が微塵(みじん)ほども無く、深く名利(みょうり)を悪(にく)んで、断岸絶壁の如くに身の取り置きをした。元亨釈書(げんこうしゃしょ)に、安和の上皇、勅して供奉(ぐぶ)と為す、佯狂垢汗(ようきょうこうかん)して逃れ去る、と記しているが、憚(はばか)りも無く馬鹿げた事をして、他に厭(いと)い忌まれても、自分の心に済むように自分は生活するのを可なりとした人であった。自分の師の慈慧が僧正に任ぜられたので、宮中に参って御礼を申上げるに際し、一山の僧侶(そうりょ)、翼従甚だ盛んに、それこそ威儀を厳荘にし、飾り立てて錬り行った。一体本来を云えば樹下石上にあるべき僧侶が、御尊崇下さる故とは云え、世俗の者共月卿雲客(げっけいうんかく)の任官謝恩の如くに、喜びくつがえりて、綺羅(きら)をかざりて宮廷に拝趨(はいすう)するなどということのあるべきでは無いから、増賀には俗僧どもの所為が尽(ことごと)く気に入らなかったのであろう。衛府の大官が立派な長剣を帯びたように、乾鮭(からさけ)の大きな奴を太刀(たち)の如くに腰に佩(お)び、裸同様のあさましい姿で、痩(や)せた牝牛(めうし)の上に乗(のり)跨(また)がり、えらそうな顔をして先駆の列に立って、都大路の諸人環視の中を堂々と打たせたから、群衆は呆れ、衆徒は驚いて、こは何事と増賀を引(ひき)退(さが)らせようとしたが、増賀は声を(はげ)しくして、僧正の御車の前駈(さきがけ)、我をさしおいて誰が勤むべき、と怒鳴った。盛儀も何様(どう)も散々な打壊(ぶちこわ)しであった。こういう人だったから、或立派な家の法会があって、請われて其処へ趣く途中、是は名聞(みょうもん)のための法会である、名聞のためにすることは魔縁である、と思いついたので、遂に願主と(むし)りあい的諍議(そうぎ)を仕出して終(しま)って、折角の法会を滅茶滅茶にして帰った。随分厄介といえば厄介な僧である。 かかる狂気(きちがい)じみたところのある僧であったから、三条の大きさいの宮の尼にならせ給わんとして、増賀を戒師とせんとて召させたまいたる時、途轍(とてつ)も無き言(そげん)を吐き、悪行をはたらき、殊勝の筵(えん)に列(つらな)れる月卿雲客、貴嬪采女(きひんさいじょ)、僧徒等をして、身戦(おのの)き色失い、慙汗憤涙(ざんかんふんるい)、身をおくところ無からしめたのも、うそでは無かったろうと思われる。それを記している宇治拾遺(うじしゅうい)の巻十二の文は、ここに抄出するさえ忌(いま)わしいから省くが、虎関禅師は、出麁語(しゅっそご)の三字きりで済ませているから上品ではあるが事情は分らぬ。大江匡房は詞藻の豊な人であって、時代も近い人だったから、記せぬわけにもゆかぬと思って書いたのであろうが、流石(さすが)に筆鋒(ひっぽう)も窘蹙(きんしゅく)している。放臭風の三字を以て瀉下(しゃか)したことを写しているが、写し得ていない。誰人以二増賀一為二※[#「謬」の「言」に代えて「女」、928-中-18]※[#「士/毋」、928-中-18]之輩一(たれびとかぞうがをもつてきうあいのはいとなり)、啓二達后一乎(こうゐにけいたつするものとなすか)、と麁語を訳しているが、これも髣髴(ほうふつ)たるに至らず、訳して真を失っている。仕方が無い。匡房の才の拙なるにあらず、増賀の狂の甚しきのみと言って置こう。釈迦(しゃか)の弟子の中で迦留陀夷(かるだい)というのが、教壇の上で穢語(えご)を放って今に遺り伝わっているが、迦留陀夷のはただ阿房(あほ)げているので、増賀のは其時既に衰老の年であったが、ふたたび宮などに召出されぬよう斬釘截鉄的(ざんていせってつてき)に狂叫したのだとも云えば云えよう。実に断岸絶壁、近より難い、天台禅ではありながら、祖師禅のような気味のある人であった。 此の断岸絶壁のような智識に、清浅の流れ静かにして水は玉の如き寂心が魔訶止観(まかしかん)を学び承(う)けようとしたのであった。止観は隋(ずい)の天台智者大師の所説にして門人灌頂(かんじょう)の記したものである。たとい唐の陵(びりょう)の堪然(たんねん)の輔行弘決(ぶぎょうぐけつ)を未だ寂心が手にし得無かったにせよ、寂心も既に半生を文字の中に暮して、経論の香気も身に浸々(しみじみ)と味わっているのであるから、止観の文の読取れぬわけは無い。然し甚源微妙(じんげんみみょう)の秘奥のところをというので、乞うて増賀の壇下に就いたのである。勿論同会の僧も幾人か有ったのである。増賀はおもむろに説きはじめた。止観明静(めいじょう)、前代未だ聞かず、という最初のところから演(の)べる。其の何様(どう)いうところが寂心の※(むね)[#「匈/月」、928-下-18]に響いたのか、其の意味がか、其の音声(おんじょう)が乎(か)、其の何の章、何の句がか、其の講明が乎演説が乎は、今伝えられて居らぬが、蓋(けだ)し或箇処、或言句からというのでは無く、全体の其時の気味合からでも有ったろうか、寂心は大(おおい)に感激した随喜した。そして堪(たま)り兼ねて流涕(りゅてい)し、すすり泣いた。すると増賀は忽(たちま)ち座を下りて、つかつかと寂心の前へ立つなり、しや、何泣くぞ、と拳(こぶし)を固めて、したたかに寂心が面を張りゆがめた。余の話の声など立てて妨ぐればこそ、感涙を流して謹み聞けるものを打擲(ちょうちゃく)するは、と人々も苦りきって、座もしらけて其儘(そのまま)になって終(しま)った。さてあるべきではないから、寂心も涙を収め、人々も増賀をなだめすかして、ふたたび講説せしめた。と、又寂心は感動して泣いた。増賀は又拳をもって寂心を打った。是(かく)の如くにして寂心の泣くこと三たびに及び、増賀は遂に寂心の誠意誠心に感じ、流石(さすが)の増賀も増賀の方が負けて、それから遂に自分の淵底を尽して止観の奥秘を寂心に伝えたということである。何故(なにゆえ)に泣いたか、何故に打ったか、それは二人のみが知ったことで、同会の衆僧も知らず、後の我等も知らぬとして宜いことだろう。 寂心が出家した後を続往生伝には、諸国を経歴して、広く仏事を作(な)した、とのみ記してあるばかりで、何様いうことがあったということは載せていないが、既に柔(にゅうなん)の仏子となった以上は別に何の事も有ろう訳も無い。しかし諸国を経歴したとある其の諸国とは何処何処であったろうかというに、西は播磨(はりま)、東は三河にまで行ったことは、証(しょう)があって分明するから、猶(なお)遠く西へも東へも行ったかと想われる。其の播磨へ行った時の事である。これは堂塔伽藍(がらん)を建つることは、法(のり)の為、仏の為の最善根であるから、寂心も例を追うて、其のため播磨の国に行(ゆ)いて材木勧進をした折と見える。何処(いずこ)の町とも分らぬが、或処で寂心が偶然(ふと)見やると、一人の僧形の者が紙の冠を被(き)て陰陽師(おんようじ)の風体を学び、物々しげに祓(はらえ)するのが眼に入った。もとより陰陽道を以て立っている賀茂の家に生れた寂心であるから、自分は其道に依らないで儒道文辞の人となり、又其の儒を棄て仏(ぶつ)に入って今の身になってはいるものの、陰陽道の如何なるものかの大凡(おおよそ)は知っているのである。陰陽道は歴緯に法(のっと)り神鬼を駆ると称して、世俗の為に吉を致し凶を禳(はら)うものである。儒より云えば巫覡(ふげき)の道、仏より云えば旃陀羅(せんだら)の術である。それが今、かりにも法体(ほったい)して菩提(ぼだい)の大道(たいどう)に入り、人天の導師ともならんと心掛けたと見ゆる者が、紙の冠などして、えせわざするを見ては、堪え得らるればこそ、其時は寂心馬に打乗り威儀かいつくろいて路を打たせていたが、忽(たちま)ち滾(こぼ)るように馬から下(くだ)り、あわてて走り寄って、なにわざし給う御房ぞ、と詰(なじ)り咎(とが)めた。御房とは僧に対する称呼である。御房ぞと咎めたのは流石に寂心で、実に宜かった。しかし紙の冠して其様(そん)な事をするほどの者であったから、却(かえ)ってけげんな顔をしたことであろう。祓(はらえ)を仕候也、と答えた。何しに紙の冠をばしたるぞ、と問えば、祓戸の神たちは法師をば忌みたまえば、祓をするほど少時(しばし)は仕て侍(はべ)るという。寂心今は堪えかねて、声をあげて大に泣きて、陰陽師につかみかかれば、陰陽師は心得かねて只呆れに呆れ、祓をしさして、これは如何に、と云えば、頼みて祓をさせたる主人(あるじ)も驚き呆れた。寂心は猶も独り感じ泣きて、彼(か)の紙の冠を攫(つか)み取りて、引破りて地に抛(なげう)ち、漣々(れんれん)たる涙を止(とど)めもあえず、何たる御房ぞや、尊くも仏弟子となりたまいながら、祓戸の神の忌みたまうとて如来の忌みたまうことを忘れて、世俗に反り、冠などして、無間地獄(むげんじごく)に陥る業を造りたまうぞ、誠に悲しき違乱のことなり、強いて然(さ)ることせんとならば、ただここにある寂心を殺したまえ、と云いて泣くことおびただしいので、陰陽師は何としようも無く当惑したが、飽(あく)まで俗物だから、俗にくだけて打明け話に出た。仰せは一々御もっともでござる、しかし浮世の過しがたさに、是(かく)の如くに仕る、然らずば何わざをしてかは妻子をばやしない、吾(わ)が生命(いのち)をも続(つな)ぐことのなりましょうや、道業(どうごう)猶(なお)つたなければ上人とも仰がれず、法師の形には候えど俗人の如くなれば、後世(ごせ)のことはいかがと哀しくはあれど、差当りての世のならいに、かくは仕る、と語った。何時の世にも斯様(こう)いう俗物は多いもので、そして又然様(そう)いう俗物の言うところは、俗世界には如何にも正しい情理であると首肯されるものである。しかし折角殊勝の世界に眼を着け、一旦それに対(むか)って突進しようと心ざした者共が、此の一関(いっかん)に塞止(せきと)められて已(や)むを得ずに、躊躇(ちゅうちょ)し、俳徊(はいかい)し、遂に後退するに至るものが、何程(どれほど)多いことであろうか。額を破り※(むね)[#「匈/月」、930-上-5]を傷つけるのを憚(はば)からずに敢て突進するの勇気を欠くものは、皆此の関所前で歩を横にしてぶらぶらして終(しま)うのである。芸術の世界でも、宗教の世界でも、学問の世界でも、人生戦闘の世界でも、百人が九十九人、千人が九百九十九人、皆此処で後(あと)へ退(さが)って終うのであるから、多数の人の取るところの道が正しい当然の道であるとするならば、疑も無く此の紙の冠を被(かぶ)った世渡り人(びと)の所為は正しいのである、情理至当のことなのである。寂心は飾り気の無い此の御房の打明話には、ハタと行詰らされて、優しい自分の性質から、将又(はたまた)智略を以て事に処することを卑しみ、覇気を消尽するのを以て可なりとしているような日頃の修行の心掛から、却(かえ)ってタジタジとなって押返されたことだったろう。ヤ、それは、と一句あとへ退った言葉を出さぬ訳にはゆかなかった。が、しかし信仰は信仰であった。さもあればあれ、と一ト休め息を休めて、いかで三世如来の御姿を学ぶ御首(みぐし)の上に、勿体無くも俗の冠を被(き)玉(たま)うや、不幸に堪えずして斯様(かよう)の事を仕給うとならば、寂心が堂塔造らん料にとて勧進し集めたる物どもを御房にまいらすべし、一人を菩薩(ぼさつ)に勧むれば、堂寺造るに勝りたる功徳である、と云って、弟子共をつかわして、材木とらんとて勧進し集めたる物共を皆運び寄せて、此の陰陽師の真似をした僧に与えやり、さて自分は為すべしと思えることも得為さず、身の影ひとつ、京へ上り帰ったということである。紙の冠被った僧は其後何様(どう)なったか知らぬが、これでは寂心という人は事業などは出来ぬ人である。道理で寂心が建立したという堂寺などの有ることは聞かぬ。後の高尾の文覚(もんがく)だの、黄蘗(おうばく)の鉄眼(てつげん)だのは、仕事師であるが、寂心は寂心であった。これでも別に悪いことは無い。
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