昭和文学全集 第4巻 |
小学館 |
1989(平成元)年4月1日 |
1989(平成元)年4月1日初版第1刷 |
露伴全集 第六巻 |
岩波書店 |
1978(昭和53)年 |
慶滋保胤は賀茂忠行の第二子として生れた。兄の保憲は累代の家の業を嗣いで、陰陽博士、天文博士となり、賀茂氏の宗として、其系図に輝いている。保胤はこれに譲ったというのでもあるまいが、自分は当時の儒家であり詞雄であった菅原文時の弟子となって文章生となり、姓の文字を改めて、慶滋とした。慶滋という姓があったのでも無く、古い書に伝えてあるように他家の養子となって慶滋となったのでも無く、兄に遜るような意から、賀茂の賀の字に換えるに慶の字を以てし、茂の字に換えるに滋の字を以てしたのみで、異字同義、慶滋はもとより賀茂なのである。よししげの保胤などと読む者の生じたのも自然の勢ではあるが、後に保胤の弟の文章博士保章の子の為政が善滋と姓の字を改めたのも同じことであって、為政は文章博士で、続本朝文粋の作者の一人である。保胤の兄保憲は十歳許の童児の時、法眼既に明らかにして鬼神を見て父に注意したと語り伝えられた其道の天才であり、又保胤の父の忠行は後の人の嘖々として称する陰陽道の大の験者の安倍晴明の師であったのである。此の父兄や弟や姪を有した保胤ももとより尋常一様のものでは無かったろう。
保胤の師の菅原文時は、これも亦一通りの人では無かった。当時の文人の源英明にせよ、源為憲にせよ、今猶其文は本朝文粋にのこり、其才は後人に艶称さるる人々も、皆文時に請いて其文章詞賦の斧正を受けたということである。ある時御内宴が催されて、詞臣等をして、宮鶯囀二暁光一いう題を以て詩を賦せしめられた。天皇も文雅の道にいたく御心を寄せられたこととて、
露は濃やかにして 緩く語る 園花の底、
月は落ちて 高く歌ふ 御柳の陰。
という句を得たまいて、ひそかに御懐に協いたるよう思したまいたる時、文時もまた句を得て、
西の楼 月 落ちたり 花の間の曲、
中殿 灯 残えんとす 竹の裏の声。
と、つらねた。天皇聞しめして、我こそ此題は作りぬきたりと思いしに、文時が作れるも又すぐれたりと思召して、文時を近々と召して、いずれか宜しきや、と仰せられた。文時は、御製いみじく、下七字は文時が詩にも優れて候、と申した。これは憚りて申すならんと、ふたたび押返し御尋ねになった。文時是非なく、実には御製と臣が詩と同じほどにも候か、と申した。猶も憚りて申すことと思召して、まこと然らば誓言を立つべしと、深く詩を好ませたもう余りに逼って御尋ねあると、文時ここに至って誓言は申上げず、まことには文時が詩は一段と上に居り候、と申して逃げ出してしまったので、御笑いになって、うなずかせたもうたということであった。こういう文時の詩文は菅三品の作として今に称揚せられて伝わっているが、保胤は実に当時の巨匠たる此人の弟子の上席であった。疫病の流行した年、或人の夢に、疫病神が文時の家には押入らず、其の前を礼拝して過ぐるのを見た、と云われたほど時人に尊崇された菅三品の門に遊んで、才識日に長じて、声名世に布いた保胤は、試に応じて及第し、官も進んで大内記にまでなった。
具平親王は文を好ませたまいて、時の文人学士どもを雅友として引見せらるることも多く、紀ノ斉名、大江ノ以言などは、いずれも常に伺候したが、中にも保胤は師として遇したもうたのであった。しかし保胤は夙くより人間の紛紜にのみ心は傾かないで、当時の風とは言え、出世間の清寂の思に※[#「匈/月」、922-上-15]が染みていたので、親王の御為に講ずべきことは講じ、訓えまいらすべきことは訓えまいらせても、其事一トわたり済むと、おのれはおのれで、眼を少し瞑ったようにし、口の中でかすかに何か念ずるようにしていたという。想を仏土に致し、仏経の要文なんどを潜かに念誦したことと見える。随分奇異な先生ぶりではあったろうが、何も当面を錯過するのでは無く、寸暇の遊心を聖道に運んでいるのみであるから、咎めるべきにはならぬことだったろう。もともと狂言綺語即ち詩歌を讃仏乗の縁として認めるとした白楽天のような思想は保胤の是としたところであったには疑無い。
この保胤に対しては親王も他の藻絵をのみ事とする詞客に対するとはおのずから別様の待遇をなされたであろうが、それでも詩文の道にかけては御尋ねの出るのは自然の事で、或時当世の文人の品評を御求めになった。そこで保胤は是非無く御答え申上げた。斉名が文は、月の冴えたる良き夜に、やや古りたる檜皮葺の家の御簾ところどころはずれたる中に女の箏の琴弾きすましたるように聞ゆ、と申した。以言はと仰せらるれば、白沙の庭前、翠松の陰の下に、陵王の舞楽を奏したるに似たり、と申す。大江ノ匡衡は、と御尋ねあれば、鋭士数騎、介冑を被り、駿馬に鞭打って、粟津の浜を過ぐるにも似て、其鉾森然として当るものも無く見ゆ、と申す。親王興に入りたまいて、さらば足下のは、と問わせたまうに、旧上達部の檳榔毛の車に駕りたるが、時に其声を聞くにも似たらん、と申した。長短高下をとかく申さで、おのずから其詩品を有りのままに申したる、まことに唐の司空図が詩品にも優りて、いみじくも美わしく御答え申したと、親王も御感あり、当時の人々も嘆賞したのであった。斉名、以言、匡衡、保胤等の文、皆今に存しているから、此評の当っているか、いぬかは、誰にでも検討さるることであるが、評の当否よりも、評の仕方の如何にも韵致があって、仙禽おのずから幽鳴を為せる趣があるのは、保胤其人を見るようで面白いと云いたい。
慾を捨て道に志すに至る人というものは、多くは人生の磋躓にあったり、失敗窮困に陥ったりして、そして一旦開悟して頭を回らして今まで歩を進めた路とは反対の路へ歩むものであるが、保胤には然様した機縁があって、それから転向したとは見えない。自然に和易の性、慈仁の心が普通人より長けた人で、そして儒教の仁、仏道の慈ということを、素直に受入れて、人は然様あるべきだと信じ、然様ありたいと念じ、学問修証の漸く進むに連れて、愈々日に月に其傾向を募らせ、又其傾向の愈々募らんことを祈求して已まぬのをば、是真実道、是無上道、是清浄道、是安楽道と信じていたに疑無い。それで保胤は性来慈悲心の強い上に、自ら強いてさえも慈悲心に住していたいと策励していたことであろうか、こういうことが語り伝えられている。如何なる折であったか、保胤は或時往来繁き都の大路の辻に立った。大路の事であるから、貴き人も行き、賤き者も行き、職人も行き、物売りも行き、老人も行けば婦人も行き、小児も行けば壮夫も行く、亢々然と行くものもあれば、踉蹌として行くものもある。何も大路であるから不思議なことは無い。たまたま又非常に重げな嵩高の荷を負うて喘ぎ喘ぎ大車の軛につながれて涎を垂れ脚を踏張って行く牛もあった。これもまた牛馬が用いられた世の事で何の不思議もないことであった。牛は力の限りを尽して歩いている。しかも牛使いは力むること猶足らずとして、これを笞うっている。笞の音は起って消え、消えて復起る。これも世の常、何の不思議も無いことである。しかし保胤は仏教の所謂六道の辻にも似た此辻の景色を見て居る間に、揚々たる人、々たる人、営々汲々、戚々たる人、鳴呼鳴呼、世法は亦復是の如きのみと思ったでもあったろう後に、老牛が死力を尽して猶笞を受くるのを見ては、ああ、疲れたる牛、厳しき笞、荷は重く途は遠くして、日は熾りに土は焦がる、飲まんとすれど滴水も得ぬ其苦しさや抑如何ばかりぞや、牛目づかいと云いて人の疎む目づかいのみに得知らぬ意を動かして何をか訴うるや、鳴呼、牛、汝何ぞ拙くも牛とは生れしぞ、汝今抑々何の罪ありて其苦を受くるや、と観ずる途端に発矢と復笞の音すれば、保胤はハラハラと涙を流して、南無、救わせたまえ、諸仏菩薩、南無仏、南無仏、と念じたというのである。こういうことが一度や二度では無く、又或は直接方便の有った場合には牛馬其他の当面の苦を救ってやったことも度々あったので、其噂は遂に今日にまで遺り伝わったのであろう。服牛乗馬は太古からの事で、世法から云えば保胤の所為の如きはおろかなことであるが、是の如くに感ずるのが、いつわりでも何でもなく、又是の如くに感じ是の如くに念ずるのを以て正である善であると信じている人に対しては、世法からの智愚の判断の如きは本より何ともすることの出来ぬ、力無いものである。又仏法から云っても是の如く慈悲の念のみの亢張するのが必ずしも可なるのでは無く、場合によっては是の如きは魔境に墜ちたものとして弾呵してある経文もあるが、保胤のは慈念や悲念が亢ぶって、それによって非違に趨るに至ったのでも何でもないから、本より非難すべくも無いのである。
ただし世法は慈仁のみでは成立たぬ、仁の向側と云っては少しおかしいが、義というものが立てられていて、義は利の和なりとある。仁のみ過ぎて、利の和を失っては、不埒不都合になって、やや無茶苦茶になって終う。で、保胤の慈仁一遍の調子では、保胤自身を累することの起るのも自然のことである。しかしそれも純情で押切る保胤の如き人に取っては、世法の如きは、灯芯の縄張同様だと云って終われればそれまでである。或時保胤は大内記の官のおもて、催されて御所へ参入しかけた。衛門府というのが御門警衛の府であって、左右ある。其の左衛門の陣あたりに、女が実に苦しげに泣いて立っていた。牛にさえ馬にさえ悲憐の涙を惜まぬ保胤である、若い女の苦しみ泣いているのを見て、よそめに過そうようは無い。つと立寄って、何事があって其様には泣き苦むぞ、と問慰めてやった。女は答えわずらったが親切に問うてくれるので、まことは主人の使にて石の帯を人に借りて帰り候が、路にておろかにも其を取りおとして失い、さがし求むれど似たるものもなく、いかにともすべきようなくて、土に穴あらば入りても消えんと思い候、主人の用を欠き、人さまの物を失い、生きても死にても身の立つべき瀬の有りとしも思えず、と泣きさくりつつ、たどたどしく言った。石の帯というは、黒漆の革の帯の背部の飾りを、石で造ったものをいうので、衣冠束帯の当時の朝服の帯であり、位階によりて定制があり、紀伊石帯、出雲石帯等があれば、石の形にも方なのもあれば丸なのもある。石帯を借らせたとあれば、女の主人は無論参朝に逼って居て、朋友の融通を仰いだのであろうし、それを遺失したというのでは、おろかさは云うまでも無いし、其の困惑さも亦言うまでも無いが、主人もこれには何共困るだろう、何とかして遣りたいが、差当って今何とすることもならぬ、是非が無い、自分が今帯びている石帯を貸してやるより道は無いと、自分が今催促されて参入する気忙しさに、思慮分別の暇も無く、よしよし、さらば此の石帯を貸さんほどに疾く疾く主人が方にもて行け、と保胤は我が着けた石帯を解きてするすると引出して女に与えた。女は仏菩薩に会った心地して、掌をすり合せて礼拝し、悦び勇んで、いそいそと忽ち走り去ってしまった。保胤は人の急を救い得たのでホッと一ト安心したが、ア、今度は自分が石帯無し、石帯無しでは出るところへ出られぬ。
いかに仏心仙骨の保胤でも、我ながら、我がおぞましいことをして退けたのには今さら困じたことであろう。さて片隅に帯もなくて隠れ居たりけるほどに、と今鏡には書かれているが、其片隅とは何処の片隅か、衛門府の片隅でも有ろうか不明である。何にしろまごまごして弱りかえって度を失っていたことは思いやられる。其の風態は想像するだにおかしくて堪えられぬ。公事まさにはじまらんとして、保胤が未だ出て来ないでは仕方が無いから、属僚は遅い遅いと待ち兼ねて迎え求めに出て来た。此体を見出しては、互に呆れて変な顔を仕合ったろう。でも公事に急かれては其儘には済まされぬので、保胤の面目無さ、人々の厄介千万さも、御用の進行の大切に押流されて了って人々に世話を焼かれて、御くらの小舎人とかに帯を借りて、辛くも内に入り、公事は勤め果したということである。
此の物語は疑わしいかどもあるが、まるで無根のことでも無かろうか。何にせよ随分突飛な談ではある。しかし大に歪められた談にせよ、此談によって保胤という人の、俗智の乏しく世法に疎かったことは遺憾無く現わされている。これでは如何に才学が有って、善良な人であっても、世間を危気無しには渡って行かれなかったろうと思われるから、まして官界の立身出世などは、東西相距る三十里だったであろう。
斯様な人だったとすれば、余程俗才のある細君でも持っていない限りは家の経済などは埒も無いことだったに相違無い。そこで志山林に在り、居宅を営まず、などと云われれば、大層好いようだが、実は為うこと無しの借家住いで、長い間の朝夕を上東門の人の家に暮していた。それでも段々年をとっては、せめて起臥をわが家でしたいのが人の通情であるから、保胤も六条の荒地の廉いのを購って、吾が住居をこしらえた。勿論立派な邸宅というのでは無かったに疑い無いが、流石に自分が造り得たのだから、其居宅の記を作って居る、それが今存している池亭記である。記には先ず京都東西の盛衰を叙して、四条以北、乾艮二方の繁栄は到底自分等の居を営むを許さざるを述べ、六条以北、窮僻の地に、十有余畝を得たのを幸とし、隆きに就きては小山を為り、窪きに就きては小池を穿ち、池の西には小堂を置きて弥陀を安んじ、池の東には小閣を開いて書籍を納め、池北には低屋を起して妻子を著けり、と記している。阿弥陀堂を置いたところは、如何にも保胤らしい好みで、いずれささやかな堂ではあろうが、そこへ朝夕の身を運んで、焼香供華、礼拝誦経、心しずかに称名したろう真面目さ、おとなしさは、何という人柄の善いことだろう。凡そ屋舎十の四、池水九の三、菜園八の二、芹田七の一、とあるので全般の様子は想いやられるが、芹田七の一がおもしろい。池の中の小島の松、汀の柳、小さな柴橋、北戸の竹、植木屋に褒められるほどのものは何一ツ無く、又先生の眉を皺めさせるような牛に搬ばせた大石なども更に見えなくても、蕭散な庭のさまは流石に佳趣無きにあらずと思われる。予行年漸く五旬になりなんとして適々少宅有り、蝸其舎に安んじ、虱其の縫を楽む、と言っているのも、けちなようだが、其実を失わないで宜い。家主、職は柱下に在りと雖も、心は山中に住むが如し。官爵は運命に任す、天の工均し矣。寿夭は乾坤に付す、丘の祷ることや久し焉。と内力少し気を揚げて居るのも、ウソでは無いから憎まれぬ。朝に在りて身暫く王事に随い、家にありては心永く仏那に帰す、とあるのは、儒家としては感服出来ぬが、此人としては率直の言である。夫の漢の文皇帝を異代の主と為す、と云っているのは、腑に落ちぬ言だが、其後に直に、倹約を好みて人民を安んずるを以てなり、とある。一体異代の主というのは変なことであるが、心裏に慕い奉る人というほどのことであろう。倹約を好んで人民を安んずる君主は、真に学ぶべき君主であると思っていたからであろうか、何も当時の君主を奢侈で人民を苦める御方と見做す如き不臣の心を持って居たでは万々あるまい、ただし倹約を好み人民を安んずるの六字を点出して、此故を以て漢文を崇慕するとしたに就ては、聊か意なきにあらずである。それは此記の冒頭に、二十余年以来、東西二京を歴見するに、云々と書き出して、繁栄の地は、高家比門連堂、其価値二三畝千万銭なるに至れることを述べて居るが、保胤の師の菅原文時が天暦十一年十二月に封事三条を上ったのは、丁度二十余年前に当って居り、当時文化日に進みて、奢侈の風、月に長じたことは分明であり、文時が奢侈を禁ぜんことを請うの条には、方今高堂連閣、貴賎共に其居を壮にし、麗服美衣、貧富同じく其製を寛にすると云い、富める者は産業を傾け、貧者は家資を失う、と既に其弊の見わるるを云って居る。物価は騰貴をつづけて、国用漸く足らず、官を売って財に換うるのことまで生ずるに至ったことは、同封事第二条に見え、若し国用を憂うならば則ち毎事必ず倹約を行え、と文時をして切言せしめている。爾後二十余年、世態愈々変じて、華奢増長していたろうから、保胤のようなおとなしい者の眼からは、倹約安民の上を慕わしく思ったのであろう。次に、唐の白楽天を異代の師と為す、詩句に長じて仏法に帰するを以てなり、と記している。白氏を詩宗としたのは保胤ばかりでなく、当時の人皆然りであった。ただ保胤の白氏を尊ぶ所以は、詩句に長じたからのみではなく、白氏の仏法に帰せるに取るあるのである。ところが白氏は台所婆なぞを定規にして詩を裁った人なので、気の毒に其の益をも得たろうが其弊をも受け、又白氏は唐人の習い、弥勒菩薩の徒であったろうに、保胤は弥陀如来の徒であったのはおかしい。次に、晋朝の七賢を異代の友と為す、身は朝に在って志は隠に在るを以てなり、と記している。竹林の七賢は、いずれ洒落た者どもには相違無いが、懐中に算籌を入れていたような食えない男も居て、案外保胤の方が善いお父さんだったか知れない。是の如く叙し来ったとて、文海の蜃楼、もとより虚実を問うべきではないが、保胤は日々斯様いう人々と遇っているというのである。そして、近代人世の事、一も恋うべき無し、人の師たるものは貴を先にし富を先にして、文を以て次せず、師無きに如かず、人の友たる者は勢を以てし利を以てし、淡を以て交らず、友無きに如かず、予門をふさぎ戸を閉じ、独り吟じ独り詠ず、と自ら足りて居る。応和以来世人好んで豊屋峻宇を起し、殆ど山節藻に至る、其費且つ巨千万、其住纔に二三年、古人の造る者居らずと云える、誠なるかな斯言、と嘲り、自分の暮歯に及んで小宅を起せるを、老蚕の繭を成すが如しと笑い、其の住むこと幾時ぞや、と自ら笑って居る。老蚕の繭を成せる如し、とは流石に好かった。此記を為せるは、天元五年の冬、保胤四十八九歳ともおもわれる。
保胤が日本往生極楽記を著わしたのは、此の六条の池亭に在った時であろうと思われる。今存している同書は朝散大夫著作郎慶保胤撰と署名してある、それに拠れば保胤が未だ官を辞せぬ時の撰にかかると考えられるからである。其書に叙して、保胤みずから、予少きより日に弥陀仏を念じ、行年四十以後、其志弥々劇しく、口に名号を唱え、心に相好を観じ、行住坐臥、暫くも忘れず、造次顛沛も必ず是に於てす、夫の堂舎塔廟、弥陀の像有り浄土の図ある者は、礼敬せざるなく、道俗男女、極楽に志す有り、往生を願う有る者は、結縁せざる莫し、と云って居るから、四十以後、道心日に募りて已み難く、しかも未だ官を辞さぬ頃、自他の信念勧進のために、往生事実の良験を録して、本朝四十余人の伝をものしたのである。清閑の池亭の中、仏前唱名の間々に、筆を執って仏菩薩の引接を承けた善男善女の往迹を物しずかに記した保胤の旦暮は、如何に塵界を超脱した清浄三昧のものであったろうか。此往生極楽記は其序に見える通り、唐の弘法寺の僧の釈迦才の浄土論中に、安楽往生者二十人を記したのに傚ったものであるが、保胤往生の後、大江匡房は又保胤の往生伝の先蹤を追うて、続本朝往生伝を撰している。そして其続伝の中には保胤も採録されているから、法縁微妙、玉環の相連なるが如しである。匡房の続往生伝の叙に、寛和年中、著作郎慶保胤、往生伝を作りて世に伝う、とあるに拠れば、保胤が往生伝を撰したのは、正しく保胤が脱白被緇の前年、五十一二歳頃、彼の六条の池亭に在った時ででもあったろう。
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