您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 幸田 露伴 >> 正文

連環記(れんかんき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 10:20:05  点击:  切换到繁體中文

底本: 昭和文学全集 第4巻
出版社: 小学館
初版発行日: 1989(平成元)年4月1日
入力に使用: 1989(平成元)年4月1日初版第1刷


底本の親本: 露伴全集 第六巻
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1978(昭和53)年

 

 慶滋保胤かものやすたね賀茂忠行かものただゆきの第二子として生れた。兄の保憲やすのりは累代の家の業をいで、陰陽博士おんようはかせ天文てんもん博士となり、賀茂うじそうとして、其系図に輝いている。保胤はこれに譲ったというのでもあるまいが、自分は当時の儒家であり詞雄しゆうであった菅原文時の弟子となって文章生もんじょうせいとなり、姓の文字を改めて、慶滋とした。慶滋という姓があったのでも無く、古い書に伝えてあるように他家の養子となって慶滋となったのでも無く、兄にゆずるような意から、賀茂の賀の字に換えるに慶の字を以てし、茂の字に換えるに滋の字を以てしたのみで、異字同義、慶滋はもとより賀茂なのである。よししげの保胤などと読む者の生じたのも自然の勢ではあるが、後に保胤の弟の文章もんじょう博士保章の子の為政が善滋かもと姓の字を改めたのも同じことであって、為政は文章博士で、続本朝文粋しょくほんちょうもんずいの作者の一人である。保胤の兄保憲は十歳ばかりの童児の時、法眼ほうげん既に明らかにして鬼神を見て父に注意したと語り伝えられた其道の天才であり、又保胤の父の忠行は後の人の嘖々さくさくとして称する陰陽道のだい験者げんざ安倍晴明あべのせいめいの師であったのである。此の父兄や弟やおいを有した保胤ももとより尋常一様のものでは無かったろう。
 保胤の師の菅原文時は、これも亦一通りの人では無かった。当時の文人の源英明ひであきにせよ、源為憲にせよ、今なお其文は本朝文粋にのこり、其才は後人に艶称さるる人々も、皆文時にいて其文章詞賦の斧正ふせいを受けたということである。ある時御内宴が催されて、詞臣等をして、宮鶯囀暁光きゅうおうぎょうこうにさえずるいう題を以て詩を賦せしめられた。天皇も文雅の道にいたく御心を寄せられたこととて、

露はこまやかにして 緩く語る 園花の底、
月は落ちて 高く歌ふ 御柳ぎよりうの陰。

という句を得たまいて、ひそかに御懐ぎょかいかないたるようおぼしたまいたる時、文時もまた句を得て、

西の楼 月 落ちたり 花のあいだの曲、
中殿 ともしび えんとす 竹のうちの声。

と、つらねた。天皇聞しめして、我こそ此題は作りぬきたりと思いしに、文時が作れるも又すぐれたりと思召おぼしめして、文時を近々と召して、いずれか宜しきや、と仰せられた。文時は、御製ぎょせいいみじく、下七字は文時が詩にも優れて候、と申した。これははばかりて申すならんと、ふたたび押返し御尋ねになった。文時是非なく、まことには御製と臣が詩と同じほどにも候か、と申した。猶も憚りて申すことと思召して、まこと然らば誓言せいごんを立つべしと、深く詩を好ませたもう余りにせまって御尋ねあると、文時ここに至って誓言は申上げず、まことには文時が詩は一段と上に居り候、と申して逃げ出してしまったので、御笑いになって、うなずかせたもうたということであった。こういう文時の詩文は菅三品かんさんぽんの作として今に称揚せられて伝わっているが、保胤は実に当時の巨匠たる此人の弟子の上席であった。疫病の流行した年、或人の夢に、疫病神が文時の家には押入らず、其の前を礼拝らいはいして過ぐるのを見た、と云われたほど時人じじん尊崇そんそうされた菅三品の門に遊んで、才識日に長じて、声名世にいた保胤は、に応じて及第し、官も進んで大内記だいないきにまでなった。
 具平ともひら親王は文を好ませたまいて、時の文人学士どもを雅友として引見せらるることも多く、斉名まさな、大江ノ以言もちときなどは、いずれも常に伺候したが、中にも保胤は師として遇したもうたのであった。しかし保胤ははやくより人間の紛紜ふんうんにのみ心は傾かないで、当時の風とは言え、出世間の清寂の思にむね[#「匈/月」、922-上-15]みていたので、親王の御為に講ずべきことは講じ、おしえまいらすべきことは訓えまいらせても、其事一わたり済むと、おのれはおのれで、眼を少しねむったようにし、口の中でかすかに何か念ずるようにしていたという。おもいを仏土に致し、仏経の要文なんどを潜かに念誦ねんじゅしたことと見える。随分奇異な先生ぶりではあったろうが、何も当面を錯過するのでは無く、寸暇の遊心を聖道しょうどうに運んでいるのみであるから、とがめるべきにはならぬことだったろう。もともと狂言綺語きぎょ即ち詩歌を讃仏乗の縁として認めるとした白楽天のような思想は保胤のとしたところであったには疑無い。
 この保胤に対しては親王も他の藻絵そうかいをのみ事とする詞客しかくに対するとはおのずから別様の待遇をなされたであろうが、それでも詩文の道にかけては御尋ねの出るのは自然の事で、或時当世の文人の品評を御求めになった。そこで保胤は是非無く御答え申上げた。斉名が文は、月の冴えたる良き夜に、やや古りたる檜皮葺ひわだぶきの家の御簾みすところどころはずれたるうちに女のそうの琴弾きすましたるように聞ゆ、と申した。以言はと仰せらるれば、白沙の庭前、翠松すいしょうの陰の下に、陵王の舞楽を奏したるに似たり、と申す。大江ノ匡衡まさひらは、と御尋ねあれば、鋭士数騎、介冑かいちゅうこうむり、駿馬しゅんめむちって、粟津の浜を過ぐるにも似て、其ほこさき森然しんぜんとして当るものも無く見ゆ、と申す。親王興に入りたまいて、さらば足下そなたのは、と問わせたまうに、旧上達部ふるかんだちべ檳榔毛びろうげの車にりたるが、時に其声を聞くにも似たらん、と申した。長短高下をとかく申さで、おのずから其詩品を有りのままに申したる、まことに唐の司空図しくうとが詩品にも優りて、いみじくも美わしく御答え申したと、親王も御感ぎょかんあり、当時の人々も嘆賞したのであった。斉名、以言、匡衡、保胤等の文、皆今に存しているから、此評の当っているか、いぬかは、誰にでも検討さるることであるが、評の当否よりも、評の仕方の如何にも韵致いんちがあって、仙禽せんきんおのずから幽鳴を為せる趣があるのは、保胤其人を見るようで面白いと云いたい。
 慾を捨て道に志すに至る人というものは、多くは人生の磋躓さちにあったり、失敗窮困に陥ったりして、そして一旦開悟してこうべめぐらして今まで歩を進めた路とは反対の路へ歩むものであるが、保胤には然様そうした機縁があって、それから転向したとは見えない。自然に和易の性、慈仁の心が普通人よりけた人で、そして儒教の仁、仏道の慈ということを、素直に受入れて、人は然様あるべきだと信じ、然様ありたいと念じ、学問修証のようやく進むに連れて、愈々いよいよ日に月に其傾向を募らせ、又其傾向の愈々募らんことを祈求きぐしてまぬのをば、これ真実道、是無上道、是清浄道しょうじょうどう、是安楽道と信じていたに疑無い。それで保胤は性来慈悲心の強い上に、自ら強いてさえも慈悲心に住していたいと策励していたことであろうか、こういうことが語り伝えられている。如何なる折であったか、保胤は或時往来繁き都の大路の辻に立った。大路の事であるから、たかき人も行き、ひくき者も行き、職人も行き、物売りも行き、老人も行けば婦人も行き、小児も行けば壮夫も行く、亢々然こうこうぜんと行くものもあれば、踉蹌ろうそうとして行くものもある。何も大路であるから不思議なことは無い。たまたま又非常に重げな嵩高かさだかの荷を負うてあえぎ喘ぎ大車のくびきにつながれてよだれを垂れ脚を踏張ふんばって行く牛もあった。これもまた牛馬が用いられた世の事で何の不思議もないことであった。牛は力の限りを尽して歩いている。しかも牛使いはつとむることなお足らずとして、これをむちうっている。笞の音は起って消え、消えてまた起る。これも世の常、何の不思議も無いことである。しかし保胤は仏教の所謂いわゆる六道の辻にも似た此辻の景色を見て居る間に、揚々たる人、※(「足へん+禹」、第3水準1-92-38)くくたる人、営々汲々きゅうきゅう戚々せきせきたる人、鳴呼ああ鳴呼、世法は亦復かくの如きのみと思ったでもあったろう後に、老牛が死力を尽して猶しもとを受くるのを見ては、ああ、疲れたる牛、厳しき笞、荷は重くみちは遠くして、日はさかりに土は焦がる、飲まんとすれど滴水しずくも得ぬ其苦しさやそも如何ばかりぞや、牛目づかいと云いて人のうとむ目づかいのみに得知らぬこころを動かして何をか訴うるや、鳴呼、牛、汝何ぞつたなくも牛とは生れしぞ、汝今抑々そもそも何の罪ありて其苦を受くるや、と観ずる途端に発矢はっしと復笞の音すれば、保胤はハラハラと涙を流して、南無なむ、救わせたまえ、諸仏菩薩ぼさつ、南無仏、南無仏、と念じたというのである。こういうことが一度や二度では無く、又或は直接方便の有った場合には牛馬其他の当面の苦を救ってやったことも度々あったので、其噂は遂に今日にまで遺り伝わったのであろう。服牛乗馬は太古たいこからの事で、世法から云えば保胤の所為の如きはおろかなことであるが、是の如くに感ずるのが、いつわりでも何でもなく、又是の如くに感じ是の如くに念ずるのを以て正である善であると信じている人に対しては、世法からの智愚の判断の如きは本より何ともすることの出来ぬ、力無いものである。又仏法から云っても是の如く慈悲の念のみの亢張するのが必ずしも可なるのでは無く、場合によっては是の如きは魔境にちたものとして弾呵だんかしてある経文もあるが、保胤のは慈念や悲念がたかぶって、それによって非違にはしるに至ったのでも何でもないから、本より非難すべくも無いのである。
 ただし世法は慈仁のみでは成立たぬ、仁の向側と云っては少しおかしいが、義というものが立てられていて、義は利のなりとある。仁のみ過ぎて、利の和を失っては、不埒ふらち不都合になって、やや無茶苦茶になってしまう。で、保胤の慈仁一遍の調子では、保胤自身を累することの起るのも自然のことである。しかしそれも純情で押切る保胤の如き人に取っては、世法の如きは、灯芯とうすみの縄張同様だと云って終われればそれまでである。或時保胤は大内記の官のおもて、催されて御所へ参入しかけた。衛門府えもんふというのが御門警衛の府であって、左右ある。其の左衛門の陣あたりに、女が実に苦しげに泣いて立っていた。牛にさえ馬にさえ悲憐ひれんの涙を惜まぬ保胤である、若い女の苦しみ泣いているのを見て、よそめに過そうようは無い。つと立寄って、何事があって其様には泣き苦むぞ、と問慰めてやった。女は答えわずらったが親切に問うてくれるので、まことは主人あるじの使にて石の帯を人に借りて帰り候が、路にておろかにもを取りおとして失い、さがし求むれど似たるものもなく、いかにともすべきようなくて、土に穴あらば入りても消えんと思い候、主人の用を欠き、人さまの物を失い、生きても死にても身の立つべき瀬の有りとしも思えず、と泣きさくりつつ、たどたどしく言った。石の帯というは、黒漆のなめしがわの帯の背部の飾りを、石で造ったものをいうので、衣冠束帯の当時の朝服の帯であり、位階によりて定制があり、紀伊石帯、出雲石帯等があれば、石の形にもけたなのもあれば丸なのもある。石帯を借らせたとあれば、女の主人は無論参朝にせまって居て、朋友の融通を仰いだのであろうし、それを遺失おとしたというのでは、おろかさは云うまでも無いし、其の困惑さも亦言うまでも無いが、主人もこれには何共なんとも困るだろう、何とかして遣りたいが、差当って今何とすることもならぬ、是非が無い、自分が今帯びている石帯を貸してやるより道は無いと、自分が今催促されて参入する気忙きぜわしさに、思慮分別のいとまも無く、よしよし、さらば此の石帯を貸さんほどにく疾く主人あるじかたにもて行け、と保胤は我が着けた石帯を解きてするすると引出して女に与えた。女は仏菩薩ぼさつに会った心地して、をすり合せて礼拝し、よろこび勇んで、いそいそとたちまち走り去ってしまった。保胤は人の急を救い得たのでホッと一安心したが、ア、今度は自分が石帯無し、石帯無しでは出るところへ出られぬ。
 いかに仏心仙骨の保胤でも、我ながら、我がおぞましいことをして退けたのには今さらこうじたことであろう。さて片隅に帯もなくて隠れ居たりけるほどに、と今鏡には書かれているが、其片隅とは何処の片隅か、衛門府の片隅でも有ろうか不明である。何にしろまごまごして弱りかえって度を失っていたことは思いやられる。其の風態は想像するだにおかしくて堪えられぬ。公事くじまさにはじまらんとして、保胤が未だ出て来ないでは仕方が無いから、属僚は遅い遅いと待ち兼ねて迎え求めに出て来た。此体を見出しては、互に呆れて変な顔を仕合ったろう。でも公事にかれてはそのままには済まされぬので、保胤の面目めんぼくさ、人々の厄介千万さも、御用の進行の大切だいじに押流されて了って人々に世話を焼かれて、御くらの小舎人こどねりとかに帯を借りて、辛くも内に入り、公事は勤めおおしたということである。
 此の物語は疑わしいかどもあるが、まるで無根のことでも無かろうか。何にせよ随分突飛なはなしではある。しかし大に歪められた談にせよ、此談によって保胤という人の、俗智の乏しく世法に疎かったことは遺憾無く現わされている。これでは如何に才学が有って、善良な人であっても、世間を危気無しには渡って行かれなかったろうと思われるから、まして官界の立身出世などは、東西あいる三十里だったであろう。
 斯様かような人だったとすれば、余程俗才のある細君でも持っていない限りは家の経済などはらちも無いことだったに相違無い。そこで志山林に在り、居宅を営まず、などと云われれば、大層好いようだが、実はしょうこと無しの借家住いで、長い間の朝夕ちょうせきを上東門の人の家に暮していた。それでも段々年をとっては、せめて起臥きがをわが家でしたいのが人の通情であるから、保胤も六条の荒地のやすいのをあがなって、住居すまいをこしらえた。勿論立派な邸宅というのでは無かったに疑い無いが、流石さすがに自分が造り得たのだから、其居宅の記を作って居る、それが今存している池亭記である。記には先ず京都東西の盛衰を叙して、四条以北、乾艮けんこん二方の繁栄は到底自分等の居を営むを許さざるを述べ、六条以北、窮僻きゅうへきの地に、十有余を得たのを幸とし、隆きに就きては小山をつくり、窪きに就きては小池しょうち穿うがち、池の西には小堂を置きて弥陀みだを安んじ、池の東には小閣を開いて書籍しょじゃくを納め、池北には低屋を起して妻子をけり、と記している。阿弥陀堂を置いたところは、如何にも保胤らしい好みで、いずれささやかな堂ではあろうが、そこへ朝夕の身を運んで、焼香供華くげ礼拝らいはい誦経じゅきょう、心しずかに称名しょうみょうしたろう真面目さ、おとなしさは、何という人柄の善いことだろう。およそ屋舎十の四、池水九の三、菜園八の二、芹田きんでん七の一、とあるので全般の様子は想いやられるが、芹田七の一がおもしろい。池の中の小島の松、みぎわの柳、小さな柴橋、北戸の竹、植木屋に褒められるほどのものは何一ツ無く、又先生の眉をしわめさせるような牛にはこばせた大石なども更に見えなくても、蕭散しょうさんな庭のさまは流石に佳趣無きにあらずと思われる。予行年ようやく五旬になりなんとして適々たまたま少宅有り、其舎に安んじ、しらみ其の縫を楽む、と言っているのも、けちなようだが、其実を失わないで宜い。家主、職は柱下に在りといえども、心は山中に住むが如し。官爵は運命に任す、天の工あまねし矣。寿夭じゅよう乾坤けんこんに付す、きゅういのることや久し焉。と内力少し※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)きえんを揚げて居るのも、ウソでは無いから憎まれぬ。朝に在りて身暫く王事にしたがい、家にありては心永く仏那ぶつなに帰す、とあるのは、儒家としては感服出来ぬが、此人としては率直の言である。の漢の文皇帝を異代の主と為す、と云っているのは、腑に落ちぬ言だが、其後にただちに、倹約を好みて人民を安んずるを以てなり、とある。一体異代の主というのは変なことであるが、心裏に慕いまつる人というほどのことであろう。倹約を好んで人民を安んずる君主は、真に学ぶべき君主であると思っていたからであろうか、何も当時の君主を奢侈しゃしで人民を苦める御方おんかた見做みなす如き不臣の心を持って居たでは万々ばんばんあるまい、ただし倹約を好み人民を安んずるの六字を点出して、此故を以て漢文を崇慕するとしたに就ては、いささか意なきにあらずである。それは此記の冒頭に、二十余年以来、東西二京を歴見するに、云々うんぬんと書き出して、繁栄の地は、高家比門連堂、其価値二三畝千万銭なるに至れることを述べて居るが、保胤の師の菅原文時が天暦十一年十二月に封事三条をたてまつったのは、丁度二十余年前に当って居り、当時文化日に進みて、奢侈の風、月に長じたことは分明ぶんみょうであり、文時が奢侈を禁ぜんことを請うの条には、方今高堂連閣、貴賎共に其居をさかんにし、麗服美衣、貧富同じく其製をゆたかにすると云い、富める者は産業を傾け、貧者は家資を失う、と既に其弊のあらわるるを云って居る。物価は騰貴をつづけて、国用漸く足らず、官を売って財に換うるのことまで生ずるに至ったことは、同封事第二条に見え、し国用を憂うならばすなわち毎事必ず倹約を行え、と文時をして切言せしめている。爾後じご二十余年、世態愈々いよいよ変じて、華奢増長していたろうから、保胤のようなおとなしい者の眼からは、倹約安民の上を慕わしく思ったのであろう。次に、唐の白楽天を異代の師と為す、詩句に長じて仏法に帰するを以てなり、と記している。白氏を詩宗しそうとしたのは保胤ばかりでなく、当時の人皆然りであった。ただ保胤の白氏を尊ぶ所以ゆえんは、詩句に長じたからのみではなく、白氏の仏法に帰せるに取るあるのである。ところが白氏は台所婆なぞを定規にして詩をった人なので、気の毒に其の益をも得たろうが其弊をも受け、又白氏は唐人の習い、弥勒菩薩みろくぼさつの徒であったろうに、保胤は弥陀如来みだにょらいの徒であったのはおかしい。次に、晋朝の七賢を異代の友と為す、身は朝に在って志は隠に在るを以てなり、と記している。竹林の七賢は、いずれ洒落しゃれた者どもには相違無いが、懐中に算籌さんちゅうを入れていたような食えない男も居て、案外保胤の方が善いお父さんだったか知れない。かくの如く叙し来ったとて、文海の蜃楼しんろう、もとより虚実を問うべきではないが、保胤は日々斯様こういう人々と遇っているというのである。そして、近代人世の事、いつしたうべき無し、人の師たるものは貴を先にし富を先にして、文を以てせず、師無きにかず、人の友たる者は勢を以てし利を以てし、淡を以て交らず、友無きに如かず、予門をふさぎ戸を閉じ、独り吟じ独り詠ず、と自ら足りて居る。応和以来世人好んで豊屋峻宇ほうおくしゅんうを起し、殆ど山節※(「木+兌」、第3水準1-85-72)そうせつに至る、其費且つ巨千万、其住わずかに二三年、古人の造る者居らずと云える、誠なるかな斯言このげん、とあざけり、自分の暮歯に及んで小宅を起せるを、老蚕のまゆを成すが如しと笑い、其の住むこと幾時ぞや、と自ら笑って居る。老蚕の繭を成せる如し、とは流石に好かった。此記を為せるは、天元五年の冬、保胤四十八九歳ともおもわれる。
 保胤が日本往生極楽記を著わしたのは、此の六条の池亭に在った時であろうと思われる。今存している同書は朝散大夫著作郎慶保胤撰ちょうさんたいふちょさくろうきょうほういんせんと署名してある、それに拠れば保胤が未だ官を辞せぬ時の撰にかかると考えられるからである。其書に叙して、保胤みずから、予わかきより日に弥陀仏を念じ、行年四十以後、其志弥々いよいよはげしく、口に名号を唱え、心に相好そうごうを観じ、行住坐臥ざが、暫くも忘れず、造次顛沛てんぱいも必ず是に於てす、の堂舎塔廟とうびょう、弥陀の像有り浄土の図ある者は、礼敬らいきょうせざるなく、道俗男女、極楽に志す有り、往生を願う有る者は、結縁けちえんせざるし、と云って居るから、四十以後、道心日に募りてみ難く、しかも未だ官を辞さぬ頃、自他の信念勧進のために、往生事実の良験りょうげんを録して、本朝四十余人の伝をものしたのである。清閑の池亭のうち、仏前唱名しょうみょう間々あいあいに、筆を執って仏菩薩ぼさつ引接いんじょうけた善男善女の往迹おうじゃくを物しずかに記した保胤の旦暮あけくれは、如何に塵界じんかいを超脱した清浄三昧しょうじょうさんまいのものであったろうか。此往生極楽記は其序に見える通り、唐の弘法寺ぐほうじの僧の釈迦才しゃくかさいの浄土論中に、安楽往生者二十人を記したのにならったものであるが、保胤往生の後、大江匡房おおえのまさふさは又保胤の往生伝の先蹤せんしょうを追うて、続本朝往生伝をせんしている。そして其続伝の中には保胤も採録されているから、法縁微妙みみょう、玉環の相連なるが如しである。匡房の続往生伝の叙に、寛和年中、著作郎慶保胤、往生伝を作りて世に伝う、とあるに拠れば、保胤が往生伝を撰したのは、正しく保胤が脱白被緇ひしの前年、五十一二歳頃、彼の六条の池亭に在った時ででもあったろう。

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] 下一页  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家: 没有了
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告