「いやでござる。」
ここに至って客の老人は徐ろに頭を擡げた。艶やかに兀げた前頭からは光りが走った。其の澄んだ眼はチラリと主人を射た。が、又忽ちに頭を少し下げて、低い調子の沈着な声で、
「おろかしい獣は愈々かなわぬ時は刃物をも咬みまする、あわれに愚かしいことでござります。人が困じきりますれば碌でないことをも致しまする、あわれなことでござりまする。臙脂屋は無智のものでござりまする、微力なものでござりまする。しかし碌でないことなど致しまする心は毛頭持ちませぬが、何とか人を困じきらせぬように、何とか御燐み下されまするのも、正しくて強い御方に、在って宜い御余裕かと存じまするが……」
と、飽まで下からは出て居るが、底の心は測り難い、中々根強い言廻しに、却って激したか主人は、声の調子さえ高くなって、
「何と。求めて得られぬものは、奪うという法がある、偸むという法もある、手だれの者を頼んでそれがしを斬殺して了うという法もある、公辺の手を仮りて、怪しき奴と引括らせる法もある。無智どころでは無い、器量人で。微力どころではない、痩牢人には余りある敵だ。ハハハハ、おもしろい。然様出て来ぬにも限らぬとは最初から想っていた。火が来れば水、水が来れば土。いつでも御相手の支度はござる。」
と罵るように云うと、客は慌てず両手を挙げて、制止するようにし、
「飛んでも無い。ハハハ。申しようが悪うござりました。私、何でおろかしい獣になり申そう。ただ立チ[#「チ」は小書き]端が無いまで困じきって、御余裕のある御挨拶を得たさの余りに申しました。今一応あらためて真実心を以て御願い致しまする。如何様の事にても、仮令臙脂屋を灰と致しましても苦しゅうござりませぬ、何卒彼品御かえし下されまするよう折入って願い上げまする。真実、斯の通り……」
と誠実こめて低頭するを、
「いやでござる。」
と膠も無く云放つ。
「かほどに御願い申しましても。」
「くどい。いやと申したら、いやでござる。」
客は復び涙の眼になった。
「余りと申せば御情無い。其品を御持になったればとて其方様には何の利得のあるでも無く、此方には人の生命にもかかわるものを……。相済みませぬが御恨めしゅう存じまする。」
「恨まれい、勝手に恨まれい。」
「我等の仇でもない筈にあらせらるるに、それでは、我等を強いて御仇になさるると申すもの。」
「仇になりたくばならるるまで。」
「それでは何様あっても。」
「いやでござる。もはや互に言うことはござらぬ。御引取なされい。」
「ハアッ」
と流石の老人も男泣に泣倒れんとする、此時足音いと荒く、
「無作法御免。」
と云うと同時に、入側様になりたる方より、がらりと障子を手ひどく引開けて突入し来たる一個の若者、芋虫のような太い前差、くくり袴に革足袋のものものしき出立、真黒な髪、火の如き赤き顔、輝く眼、年はまだ二十三四、主人の傍にむんずと坐って、臙脂屋の方へは会釈も仕忘れ、傍に其人有りともせぬ風で、屹として主人の面を見守り、逼るが如くに其眼を見た。主人は眼をしばたたいて、物言うなと制止したが、それを悟ってか悟らいでか、今度はくるり臙脂屋の方へ向って、初めて其面をまともに見、傲然として軽く会釈し、
「臙脂屋御主人と見受け申す。それがしは牢人丹下右膳。」
と名乗った。主人は有らずもがなに思ったらしいが、にッたりと無言。臙脂屋は涙を収めて福々爺に還り、叮寧に頭を下げて、
「堺、臙脂屋隠居にござりまする。故管領様御内、御同姓備前守様御身寄にござりますか、但しは南河内の……」
と皆まで云わせず、
「備前守弟であるわ。」
と誇らしげに云って、ハッと兀頭が復び下げられたのに、年若者だけ淡い満足を感じたか機嫌が好く、
「臙脂屋。」
と、今度ははや呼びすてである。然し厭味は無くて親しみはあった。
「ハ」
と、老人は若者の目を見た。若い者は無邪気だった。
「其方は何か知らぬが余程の宝物を木沢殿に所望致し居って、其願が聴かれぬので悩み居るのじゃナ。」
「ハ」
「一体何じゃ其宝物は。」
「…………」
「霊験ある仏体かなんぞか。」
「……ではござりませぬ。」
「宝剣か、玉か、唐渡りのものか。」
「でもござりませぬ。」
「我邦彼邦の古筆、名画の類でもあるか。」
「イエ、然様のものでもござりませぬ。」
「ハテ分らぬ、然らば何物じゃ。」
「…………」
主人は横合より口を入れた。
「丹下氏、おきになされ。貴殿にかかわったことではござらぬ。」
「ハハハ。一体それがしは宝物などいうものは大嫌い、鼻汁かんだら鼻が黒もうばかりの古臭い書画や、二本指で捻り潰せるような持遊び物を宝物呼ばわりをして、立派な侍の知行何年振りの価をつけ居る、苦々しい阿房の沙汰じゃ。木沢殿の宝物は何か知らぬが、涙こぼして欲しがるほどの此老人に呉れて遣って下されては如何でござる。喃、老人、臙脂屋、其方に取っては余程欲しいものと見えるナ。」
「然様でござりまする。上も無く欲しいものにござりまする。」
「ム、然様か。臙脂屋身代を差出しても宜いように申したと聞いたが、聢と然様か。」
「全く以て然様で。如何様の事でも致しまする。御渡しを願えますれば此上の悦びはござりませぬ。」
「聢と然様じゃナ。」
「御当家木沢左京様、又丹下備前守様御弟御さまほどの方々に対して、臙脂屋虚言詐りは申しませぬ。物の取引に申出を後へ退くようなことは、商人の決して為ぬことでござりまする。臙脂屋は口広うはござりまするが、商人でござりまする。日本国は泉州堺の商人でござる。高麗大明、安南天竺、南蛮諸国まで相手に致しての商人でござる。御武家には人質を取るとか申して、約束変改を防ぐ道があると承わり居りまするが、其様なことを致すようでは、商人の道は一日も立たぬのでござりまする。御念には及びませぬ、臙脂屋は商人でござる。世界諸国に立対い居る日本国の商人でござりまする。」
と暗に武家をさえ罵って、自家の気を吐き、まだ雛である右膳を激動せしめた。右膳は真赤な顔を弥が上に赤くした。
「ウ、ほざいたナ臙脂屋。小気味のよいことをぬかし居る。其儀ならば丹下右膳、汝の所望を遂げさせて遣わそう。」
「ヤ、これは何ともはや、有難いこと。御助け下さる神様と仰ぎ奉りまする。」
と真心見せて臙脂屋は平伏したが、ややあって少し頭を上げ、憂わし気に又悲しげに右膳を見て、
「トは仰あって下さりましても。」
と、恨めし気に主人の方を一寸見て、又急に丹下の前に頭を下げ、
「ヤ、ナニ。何分御骨折、宜しく願いまする。事叶わずとも、……重々御恩には被ますでござります。」
と萎れて云った。
雛は頸の毛を立てんばかりの勢になった。にッたりはにッたりで無くなった。
「木沢殿」と呼ぶ若い張りのある声と
「丹下氏」と呼ぶ緩い錆びた声とは、同時に双方の口から発してかち合った。
二人が眼々相看た視線の箭は其鏃と鏃とが正に空中に突当った。が、丹下の箭は落ちた。木沢は圧し被せるように、
「おきになされい、丹下氏。貴殿にかかわった事ではござらぬ。左京一分だけのずんと些細なことでござる。」
と冷やかに且つ静かに云った。軽く若者を払い去って了おうとしたのであった。然し丹下の第二箭は力強く放たれた。
「イヤ、木沢殿。御言葉を返すは失礼ながら、此の老人の先刻よりの申状、何事なりとも御意のまにまに致しまするとの誓言立、御耳に入らぬことはござるまい。臙脂屋と申せば商人ながら、堺の町の何人衆とか云われ居る指折、物も持ち居れば力も持ち居る者。ことに只今の広言、流石は大家の、中々の男にござる。貴殿御所持の宝物、如何ようのものかは存ぜぬが、此男に呉れつかわされて、誓言通り此男に課状を負わさば、我等が企も」
と言いかくるを、主人左京は遽ただしく眼と手とに一時に制止して、
「卒爾にものを言わるる勿。もう宜い。何と仰せられてもそれがしはそれがし。互に言募れば止まりどころを失う。それがしは御相手になり申せぬ。」
と苦りきったる真面目顔、言葉の流れを截って断たんとするを、右膳は
「ワッハハ」
と大河の決するが如く笑って、木沢が膝と我が膝と接せんばかりに詰寄って逼りながら、
「人の耳に入ってまこと悪くば、聴いた其奴を捻りつぶそうまで。臙脂屋、其方が耳を持ったが気の毒、今此の俺に捻り殺されるか知れぬぞ。ワッハハハ」
と狂気笑いする。臙脂屋は聞けども聞かざるが如く、此勢に木沢は少しにじり退りつつ、益々毅然として愈々苦りきり、
「丹下氏、おしずかに物を仰せられい。」
と云えども丹下は鎮まらばこそ、今は眼を剥いて左京を一ト[#「ト」は小書き]睨みし、右膝に置ける大の拳に自然と入りたる力さえ見せて、
「我等が企と申したが御気に障ったそうナが、関わぬ、もはや関わぬ、此の機を失って何の斟酌。明日といい、明後日といい、又明日といい明後日と云い、何の手筈がまだ調わぬ、彼の用意がまだ成らぬと、企を起してより延び延びの月日、人々の智慧才覚は然もあろうが、丹下右膳は倦じ果て申した。臙脂屋のじじい、それ、おのれの首が飛ぶぞ、用心せい、そもそも我等の企と申すのはナ」
と云いかけて、主人の面をグッと睨む。主人も今は如何ともし難しと諦めてか、但しは此一場の始末を何とせんかと、※底[#「匈/月」、1006-中-18]深く考え居りてか、差当りて何と為ん様子も無きに、右膳は愈々勝に乗り、
「故管領殿河内の御陣にて、表裏異心のともがらの奸計に陥入り、俄に寄する数万の敵、味方は総州征伐のためのみの出先の小勢、ほかに援兵無ければ、先ず公方をば筒井へ落しまいらせ、十三歳の若君尚慶殿ともあるものを、卑しき桂の遊女の風情に粧いて、平の三郎御供申し、大和の奥郡へ落し申したる心外さ、口惜さ。四月九日の夜に至って、人々最後の御盃、御腹召されんとて藤四郎の刀を以て、三度まで引給えど曾て切れざりしとよ、ヤイ、合点が行くか、藤四郎ほどの名作が、切れぬ筈も無く、我が君の怯れたまいたるわけも無けれど、皆是れ御最期までも吾が君の、世を思い、家を思い、臣下を思いたまいて、孔子が魯の国を去りかね玉いたる優しき御心ぞ。敵愈々逼りたれば吾が兄備前守」
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