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水の東京(みずのとうきょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 10:14:35  点击:  切换到繁體中文

底本: 一国の首都 他一篇
出版社: 岩波文庫、岩波書店
初版発行日: 1993(平成5)年5月17日
入力に使用: 1999(平成11)年11月8日第2刷
校正に使用: 1999(平成11)年11月8日第2刷


底本の親本: 露伴全集 第二十九巻
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1954(昭和29)年12月

 

上野の春の花の賑ひ、王子の秋の紅葉の盛り、陸の東京のおもしろさは説く人多き習ひなれば、今さらおのれは言はでもあらなん。たゞ水の東京に至つては、知るもの言はず、言ふもの知らず、江戸の往時むかしより近き頃まで何人なんびともこれを説かぬに似たれば、いで我試みにこれを語らん。さはいへ東京はその地勢河を帯にして海を枕せる都なれば、しおのさしひきするところ、船の上り下りするところ、一すじ条のことならずして極めて広大繁多なれば、詳しく記し尽さんことは一人の力一枝の筆もて一朝一夕に能くしがたし。草より出でゝ草に入るとは武蔵野の往時むかしの月をいひけん、今は八百八町に家※(二の字点、1-2-22)立ちつゞきて四里四方に門※(二の字点、1-2-22)相望めば、東京の月はまことに家の棟より出でゝ家の棟に入るともいふべけれど、また水の東京のいと大なるを思へば、水より出でゝ水に入るともいひつべし。東は三枚洲さんまいず澪標みおつくし遥に霞むかたより、満潮の潮に乗りてさし上る月の、西は芝高輪白金の森影淡きあたりに落つるを見ては、誰かは大なるかな水の東京やと叫び呼ばざらん。されば今我が草卒に筆を執つて、かくの如く大なる水の東京の、上は荒川より下は海に至るまでを記し尽さんとするに当りては、如何で脱漏錯誤のなきを必するを得ん。たゞ大南風に渡船わたしのぐらつくをも怖るゝ如き船嫌ひの人※(二の字点、1-2-22)の、更に水の東京の景色も風情も実利も知らで過ごせるものに、いささかこの大都の水上の一般を示さんとするに過ぎねば、もとより水上に詳しき人※(二の字点、1-2-22)のためにするにはあらず。るものいたづらにその備はらざるを責むるなかれ。
 東京広しといへども水の隅田川に入らずして海に入るものは、赤羽川あかばねがわと汐留堀とのほか幾許いくばくもなし。されば東京の水をかたらんには隅田川を挙げて語らんこそ実に便宜多からめ。けだし水の東京におけるの隅田川は、網におけるの綱なり、衣におけるのえりなり。先づ綱を挙ぐれば網の細目はおのづから挙がり、先づ領を挙ぐれば衣の裙裾すそはおのづから挙がるが如く、先づ隅田川を談れば東京の諸流はおのづから談りつくさるべき勢なり。よつて今先づ隅田川より説き起して、後にようやくその他の諸流に及ぼしてついに海に説き到るべし。東京の水を説かんとして先づ隅田川を説くは、例へばなほ水経すいけいの百川を説かんとして先づ黄河を説くが如し、説述の次第おのづからかくの如くならざるを得ざるのみ。さてまた隅田川を説きながら語次横にれて枝路に入ること多きは、これまた黄序こうじよに言ひけん如く、伊洛いらくを談ずるものは必ず熊外ゆうがいを連ね、漆沮しつしよを語るものは遂に荊岐けいぎに及ぶ、また自然の偶属ぐうぞくにして半離すべからざるものなればなり。
○荒川。隅田川の上流の称なり。隅田川とは隅田すだを流るゝをて呼ぶことなれば、隅田村以上千住宿あたりを流るゝをば千住川と呼び、それより以上をば荒川と呼ぶ習ひなり。水源みなもとは秋の日など隅田堤より遠く西のかたに青み渡りて見ゆる秩父郡の山※(二の字点、1-2-22)の間にて、大滝村といへるがこの川の最上流に位する人里なれば、それより奥は詳しく知れねど、おもふに甲斐境の高山幽谷より出で来るなるべし。水源地附近のありさまは予が著はしゝ『秩父紀行』、ならびに『新編武蔵風土記』等を読みて知るべし。荒川の東京に近づくは豊島のわたしあたりよりなり。
○豊島の渡は荒川の川口の方より幾屈折して流れ来りて豊島村と宮城村との間を過ぐる処にあり。豊島村の方より渡りて行く事僅少わずかにして荒川堤に出づ。堤は即ち花の盛りの眺望ながめ好き向島堤の続きにして、千住駅をてこゝに至り、なほ遠く川上の北側に連なるものなり。豊島の渡より川はかへつて西南に向つて流れて、やがて
石神川しやくしがわを収めてまた東に向つて去る。石神川は秋の日の遊びどころとして、錦繍きんしゆうの眺め、人をして車を停めてそぞろに愛せしむる滝の川村の流れなり。水上は旧石神井村三宝寺の池なれば、正しくは石神井川といふべし。この川舟楫しゆうしゆうの利便はそなへざれども、滝の川村金剛寺の下を流れて後、王子の抄紙場のために幾許かの功を為して荒川に入るなり。古昔いにしえは水の清かりしをもて人の便とするところとなりて、住むもの自ら多かりけむ、この川筋には古き器物を出すこと多し。石神井明神の神体たる石剣の如きもその一なり。
尾久おぐの渡は荒川小台村と尾久村との間を流るゝ処にあり。この辺りは荒川西より東に流れて、北の岸は卑湿ひしゆうの地なるまゝいと荒れたれば、自然の趣きありて、初夏の新蘆しんろ栄ゆる頃、晩秋の風の音に力入りて聞ゆる折などは、川面かわもの眺めいとをかしく、花紅葉のほかの好き風情あり。すずきその他の川魚を漁する人の、豊島の渡よりこゝの渡にかけて千住辺りまでの間に小舟をうかめて遊ぶも少からず。蚊さへなくば夏の夕の月あかき時なんどは、ことに川中に一杯をみて袂に余る涼風に快なる哉を叫ぶべき価ある処なりといふ。川は尾久の渡より下二十町ほどにしてまた一転折して、千住製紙所の前を東に流る。一たび製紙所に入りてただちにまた本流に合する一きよあり。製紙所前を流れて、やがて大橋に至る。
○千住の大橋は千住駅の南組中組の間にかゝれる橋にして、東京より陸羽に至る街道に当るをもて人馬の往来絶ゆることなし。大橋より川上は小蒸気船の往来なくして、たゞ川船、伝馬、荷足にたり、小舟の類の帆を張り艫櫂ろかいを使ひて上下するのみなれば、閑静の趣を愛して夏の日の暑熱あつさを川風に忘れんとするの人等は、大橋以西、製紙所の上、川の南西側にはん樹立こだちの連なれるあたりの樹蔭に船をもやひて遊ぶが多し。橋の上下すこしの間は両岸とも材木問屋多ければ、いかだの岸に繋がれぬ日もなし。およそこゝの橋より下は永代橋に至るまで小蒸気船の往来絶ゆる暇なく、石炭のけむり、機関の響、いと勇ましくもはしく、浮世の人を載せ去り載せ来るなり。橋より下の方、東に向つて川の流るゝこと少許しばしにして汽車のための鉄橋の下を過ぎ、右に
○塩入村の茅舎竹籬ぼうしやちくりを見、左に蘆葭ろかの茂れるを見ながら一折して、終に南に向つて去る。このあたりは河水東西に流れて両岸の地もまた幽寂ゆうじやく空疎なれば、三秋月を賞するのところとして最も可なり。およそ月を観て興を惹くは、山におけるより水におけるをすぐれりとす。月東山を離るといふの句は詞客しかくの套語となれりといへども、実は水に近き楼台ろうだいの先づ清輝を看るを得るの多趣なるにかず。また止水におけるは流水におけるの多趣なるに如かず。池をめぐりて夜もすがらといふの情も妙ならざるにはあらざれど、川上とこの川下や月の友といふの景のおもしろさには及ぶべからず。さてまた同じ流水にても、南北の流れにおけるは東西の流れにおけるのをかしきに如かず。南北の流れにては月の出づるところ東岸に迫られて妙ならねど、東西の流れにては月はただちに河水の水面よりさし昇るところなれば、見渡す眺めも広※(二の字点、1-2-22)として、浪に砕くる清き光の白銀を流すが如くいと長く曳きてきら/\と輝くなど、いふにいはれぬ趣きあり。ことにこの辺りは川幅もひろくかつ差し潮の力も利けば、大潮の満ち来る勢に河も膨るゝかと見ゆる折柄、潮に乗りてきしり出づる玉兎のいと大にして光り花やかなるをる、心もおのづから開くやう覚えて快し。一年の中に夕の潮は秋の潮最も大にして、一月の中に満月の夜の潮はまた最も大に、加之しかも月の上る頃はこのあたりにては潮のさし来る勢最も盛なる時なれば、東京広しといへども仲秋の月見にはこのあたりに上越したる好き地あるべくもあらず。人もしこころみに仲秋船をうかめてこのあたりに月を賞しなば、必ずや河も平生ひごろの河にあらず月も平生の月にあらざるを覚えて、今までかゝる好風景の地を知らで過ぐしゝをうらむるならん。いにしえより文人墨客の輩綾瀬以上に遡らずして、たまたまかゝる地あるを知らざりしかば、詩文に載せられて世に現るゝことなく、以て今日に至りしならん。
○塩入りの渡口は月を観るに好き地の下流に在り。墨田堤の方より川を隔てゝ塩入村を望む眺め、呉春ごしゆんなんどの画を見る如く、淡き風景の中に詩趣乏しからず。
○綾瀬川は荒川の一転折して南に向つて流るゝところにて、東より来つて会する一渠の名なり。幅は濶からねども船を通ずべく、眺めもこれといふところはなけれどもまた棄てがたき節なきにあらず。その上流は小菅より浮塚に至りて、なほ遠く荒川より出で、こゝにてまた荒川の下流の隅田川には入るなり。上流には支流ありて中川にも通ずるをもて船の往来も少からず、隅田川の方より綾瀬橋といへる千住道にかゝれる橋あたりを望めば、一水遠く東に入りて景色おのづから小幀しようとうの画を為す。
○さんざいとは綾瀬川の隅田川に合するところの南の岸を呼ぶ俗称なり。おもふに前栽せんざいの訛にして、往時むかし御前栽畑ありし地なりしを以てなるべし。

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