第九 如是果
上 既に仏体を作りて未得安心
勇猛精進潔斎怠らず、南無帰命頂礼と真心を凝し肝胆を砕きて三拝一鑿九拝一刀、刻み出せし木像あり難や三十二相円満の当体即仏、御利益疑なしと腥き和尚様語られしが、さりとは浅い詮索、優鈿大王とか饂飩大王とやらに頼まれての仕事、仏師もやり損じては大変と額に汗流れ、眼中に木片の飛込も構わず、恐れ惶みてこそ作りたれ、恭敬三昧の嬉き者ならぬは、御本尊様の前の朝暮の看経には草臥を喞たれながら、大黒の傍に下らぬ雑談には夜の更るをも厭い玉わざるにても知るべしと、評せしは両親を寺参りさせおき、鬼の留守に洗濯する命じゃ、石鹸玉泡沫夢幻の世に楽を為では損と帳場の金を攫み出して御歯涅溝の水と流す息子なりしとかや。珠運は段々と平面板に彫浮べるお辰の像、元より誰に頼まれしにもあらねば細工料取らんとにもあらず、唯恋しさに余りての業、一刀削ては暫く茫然と眼を瞑げば花漬めせと矯音を洩す口元の愛らしき工合、オヽそれ/\と影を促えて再一ト刀、一ト鑿突いては跡ずさりして眺めながら、幾日の恩愛扶けられたり扶けたり、熱に汗蒸れ垢臭き身体を嫌な様子なく柔しき手して介抱し呉たる嬉しさ今は風前の雲と消えて、思は徒に都の空に馳する事悲しく、なまじ最初お辰の難を助けて此家を出し其折、留められたる袖思い切て振払いしならばかくまでの切なる苦とはなるまじき者をと、恋しを恨む恋の愚痴、吾から吾を弁え難く、恍惚とする所へ著るゝお辰の姿、眉付媚かしく生々として睛、何の情を含みてか吾与えし櫛にジッと見とれ居る美しさ、アヽ此処なりと幻像を写して再一鑿、漸く二十日を越えて最初の意匠誤らず、花漬売の時の襤褸をも著せねば子爵令嬢の錦をも着せず、梅桃桜菊色々の花綴衣麗しく引纏せたる全身像惚た眼からは観音の化身かとも見れば誰に遠慮なく後光輪まで付て、天女の如く見事に出来上り、吾ながら満足して眷々とながめ暮せしが、其夜の夢に逢瀬平常より嬉しく、胸あり丈ケの口説濃に、恋知ざりし珠運を煩悩の深水へ導きし笑窪憎しと云えば、可愛がられて喜ぶは浅し、方様に口惜しい程憎まれてこそ誓文移り気ならぬ真実を命打込んで御見せ申たけれ。扨は迷惑、一生可愛がって居様と思う男に。アレ嘘、後先揃わぬ御言葉、どうでも殿御は口上手と、締りなく睨んで打つ真似にちょいとあぐる、繊麗な手首緊りと捉て柔に握りながら。打るゝ程憎まれてこそ誓文命掛て移り気ならぬ真実をと早速の鸚鵡返し、流石は可笑しくお辰笑いかけて、身を縮め声低く、此手を。離さぬが悪いか。ハイ。これは/\く大きに失礼と其儘離してひぞる真面目顔を、心配相に横から覗き込めば見られてすまし難く其眼を邪見に蓋せんとする平手、それを握りて、離さぬが悪いかと男詞、後は協音の笑計り残る睦じき中に、娘々と子爵の声。目覚れば昨宵明放した窓を掠めて飛ぶ烏、憎や彼奴が鳴いたのかと腹立しさに振向く途端、彫像のお辰夢中の人には遙劣りて身を掩う数々の花うるさく、何処の唐草の精霊かと嫌になったる心には悪口も浮み来るに、今は何を着すべしとも思い出せず工夫錬り練り刀を礪ぎぬ。
下 堅く妄想を捏して自覚妙諦
腕を隠せし花一輪削り二輪削り、自己が意匠の飾を捨て人の天真の美を露わさんと勤めたる甲斐ありて、なまじ着せたる花衣脱するだけ面白し。終に肩のあたり頸筋のあたり、梅も桜も此君の肉付の美しきを蔽いて誇るべき程の美しさあるべきやと截ち落し切り落し、むっちりとして愛らしき乳首、是を隠す菊の花、香も無き癖に小癪なりきと刀急しく是も取って払い、可笑や珠運自ら為たる業をお辰の仇が為たる事の様に憎み今刻み出す裸体も想像の一塊なるを実在の様に思えば、愈々昨日は愚なり玉の上に泥絵具彩りしと何が何やら独り後悔慚愧して、聖書の中へ山水天狗楽書したる児童が日曜の朝字消護謨に気をあせる如く、周章狼狽一生懸命刀は手を離れず、手は刀を離さず、必死と成て夢我夢中、きらめく刃は金剛石の燈下に転ぶ光きら/\截切る音は空駈る矢羽の風を剪る如く、一足退って配合を見糺す時は琴の糸断えて余韵のある如く、意糾々気昂々、抑も幾年の学びたる力一杯鍛いたる腕一杯の経験修錬、渦まき起って沸々と、今拳頭に迸り、倦も疲も忘れ果て、心は冴に冴渡る不乱不動の精進波羅密、骨をも休めず筋をも緩めず、湧くや額に玉の汗、去りも敢ざる不退転、耳に世界の音も無、腹に饑をも補わず自然と不惜身命の大勇猛には無礙無所畏、切屑払う熱き息、吹き掛け吹込む一念の誠を注ぐ眼の光り、凄まじきまで凝り詰むれば、爰に仮相の花衣、幻翳空華解脱して深入無際成就一切、荘厳端麗あり難き実相美妙の風流仏仰ぎて珠運はよろ/\と幾足うしろへ後退り、ドッカと坐して飛散りし花を捻りつ微笑せるを、寸善尺魔の三界は猶如火宅や。珠運さま珠運さまと呼声戸口にせわし。
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第十 如是本末究竟等
上 迷迷迷、迷は唯識所変ゆえ凡
下碑が是非御来臨なされというに盗まれべき者なき破屋の気楽さ、其儘亀屋へ行けば吉兵衛待兼顔に挨拶して奥の一間へ導き、扨珠運様、あなたの逗留も既に長い事、あれ程有し雪も大抵は消て仕舞ました、此頃の天気の快さ、旅路もさのみ苦しゅうはなし其道勉強の為に諸国行脚なさるゝ身で、今の時候にくすぶりて計り居らるるは損という者、それもこれも承知せぬでは無ろうが若い人の癖とてあのお辰に心を奪れ、然も取残された恨はなく、その木像まで刻むと云は恋に親切で世間に疎い唐土の天子様が反魂香焼れた様な白痴と悪口を叩くはおまえの為を思うから、実はお辰めに逢わぬ昔と諦らめて奈良へ修業に行て、天晴名人となられ、仮初ながら知合となった爺の耳へもあなたの良評判を聞せて貰い度い、然し何もあなたを追立る訳ではないが、昨日もチラリト窓から覗けば像も見事に出来た様子、此上長く此地に居れても詰りあなたの徳にもならずと、お辰憎くなるに付てお前可愛く、真から底から正直におまえ、ドッコイあなたの行末にも良様昨夕聢と考えて見たが、何でも詰らぬ恋を商買道具の一刀に斬て捨、横道入らずに奈良へでも西洋へでも行れた方が良い、婚礼なぞ勧めたは爺が一生の誤り、外に悪い事仕た覚はないが、是が罪になって地獄の鉄札にでも書れはせぬかと、今朝も仏様に朝茶上る時懺悔しましたから、爺が勧めて爺が廃せというは黐竿握らせて殺生を禁ずる様な者で真に云憎き意見なれど、此を我慢して謝罪がてら正直にお辰めを思い切れと云う事、今度こそはまちがった理屈ではないが、人間は活物杓子定規の理屈で平押には行ず、人情とか何とか中々むずかしい者があって、遠くも無い寺参して御先祖様の墓に樒一束手向る易さより孫娘に友禅を買て着る苦しい方が却て仕易いから不思議だ、損徳を算盤ではじき出したら、珠運が一身二一添作の五も六もなく出立が徳と極るであろうが、人情の秤目に懸ては、魂の分銅次第、三五が十八にもなりて揚屋酒一猪口が弗箱より重く、色には目なし無二無三、身代の釣合滅茶苦茶にする男も世に多いわ、おまえの、イヤ、あなたの迷も矢張人情、そこであなたの合点の行様、年の功という眼鏡をかけてよく/\曲者の恋の正体を見届た所を話しまして、お辰めを思い切せましょう。先第一に何を可愛がって誰を慕うのやら、調べて見ると余程おかしな者、爺の考では恐らく女に溺れる男も男に眩[#「眩」は底本では「呟」]む女もなし、皆々手製の影法師に惚るらしい、普通の人の恋の初幕、梅花の匂ぷんとしたに振向ば柳のとりなり玉の顔、さても美人と感心した所では西行も凡夫も変はなけれど、白痴は其女の影を自分の睛の底に仕舞込で忘れず、それから因縁あれば両三度も落合い挨拶の一つも云わるゝより影法師殿段々堅くなって、愛敬詞を執着の耳の奥で繰り返し玉い、尚因縁深ければ戯談のやりとり親切の受授男は一寸行にも新著百種の一冊も土産にやれば女は、夏の夕陽の憎や烈しくて御暑う御座りましたろと、岐阜団扇に風を送り氷水に手拭を絞り呉れるまでになってはあり難さ嬉しさ御馳走の瓜と共に甘い事胃の腑に染渡り、さあ堪らぬ影法師殿むく/\と魂入り、働き出し玉う御容貌は百三十二相も揃い御声は鶯に美音錠飲ましたよりまだ清く、御心もじ広大無暗に拙者を可愛がって下さる結構尽め故堪忍ならずと、車を横に押し親父を勘当しても女房に持つ覚悟極めて目出度婚礼して見ると自分の妄像ほど真物は面白からず、領脚が坊主で、乳の下に焼芋の焦た様の痣あらわれ、然も紙屑屋とさもしき議論致されては意気な声も聞たくなく、印付の花合せ負ても平気なるには寛容なる御心却って迷惑、どうして此様な雌を配偶にしたかと後悔するが天下半分の大切、真実を云ば一尺の尺度が二尺の影となって映る通り、自分の心という燈から、さほどにもなき女の影を天人じゃと思いなして、恋も恨もあるもの、お辰めとても其如く、おまえの心から製えた影法師におまえが惚れて居る計り、お辰の像に後光まで付た所では、天晴女菩薩とも信仰して居らるゝか知らねど、影法師じゃ/\、お辰めはそんな気高く優美な女ならずと、此爺も今日悟って憎くなった迷うな/\、爰にある新聞を読め、と初は手丁寧後は粗放の詞づかい、散々にこなされて。おのれ爺め、えせ物知の恋の講釈、いとし女房をお辰めお辰めと呼捨片腹痛しと睨みながら、其事の返辞はせず、昨日頼み置し胡粉出来て居るかと刷毛諸共に引ように受取り、新聞懐中して止むるをきかず突と立て畳ざわりあらく、馴し破屋に駈戻りぬるが、優然として長閑に立る風流仏見るより怒も収り、何はさておき色合程よく仮に塗上て、柱にもたれ安坐して暫く眺めたるこそ愚なれ。吉兵衛の詞気になりて開く新聞、岩沼令嬢と業平侯爵と題せる所をふと読下せば、深山の美玉都門に入てより三千のに顔色なからしめたる評判嘖々たりし当代の佳人岩沼令嬢には幾多の公子豪商熱血を頭脳に潮して其一顰一笑を得んと欲せしが預て今業平と世評ある某侯爵は終に子爵の許諾を経て近々結婚せらるゝよし侯爵は英敏閑雅今業平の称空しからざる好男子なるは人の知所なれば令嬢の艶福多い哉侯爵の艶福も亦多い哉艶福万歳羨望の到に勝ず、と見る/\面色赤くなり青くなり新聞紙引裂捨て何処ともなく打付たり。
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