第八 如是力
上 楞厳呪文の功も見えぬ愛慾
古風作者の書そうな話し、味噌越提げて買物あるきせしあのお辰が雲の上人岩沼子爵様の愛娘と聞て吉兵衛仰天し、扨こそ神も仏も御座る世じゃ、因果覿面地ならしのよい所に蘿蔔は太りて、身持のよい者に運の実がなる程理に叶た幸福と無上に有難がり嬉しがり、一も二もなく田原の云事承知して、おのが勧めて婚姻さし懸たは忘れたように何とも云わず物思わしげなる珠運の腹聞ずとも知れてると万端埒明け、貧女を令嬢といわるゝように取計いたる後、先日の百両突戻して、吾当世の道理は知ねど此様な気に入らぬ金受取る事大嫌なり、珠運様への百両は慥に返したれど其人に礼もせぬ子爵から此親爺が大枚の礼貰は煎豆をまばらの歯で喰えと云わるゝより有難迷惑、御返し申ますと率直に云えば、否それは悪い合点、一酷にそう云われずと子爵からの御志、是非御取置下され、珠運様には別に御礼を申ますが姿の見えぬは御立なされたか、ナニ奥の坐敷に。左様なら一寸と革嚢さげて行かゝれば亭主案内するを堅く無用と止めながら御免なされと唐襖開きて初対面の挨拶了りお辰素性のあらまし岩沼子爵の昔今を語り、先頃よりの礼厚く演て子爵より礼の餽り物数々、金子二百円、代筆ならぬ謝状、お辰が手紙を置列べてひたすら低頭平身すれば珠運少しむっとなり、文丈ケ受取りて其他には手も付ず、先日の百両まで其処に投出し顔しかめて。御持帰り下さい、面白からぬ御所置、珠運の為た事を利を取ろう為の商法と思われてか片腹痛し、些許の尽力したるも岩沼令嬢の為にはあらず、お辰いとしと思うてばかりの事、夫より段々馴染につけ、縁あればこそ力にもなりなられて互に嬉敷心底打明け荷物の多きさえ厭う旅路の空に婚礼までして女房に持とうという間際になりて突然に引攫い人の恋を夢にして貘に食せよという様な情なきなされ方、是はまあどうした訳と二三日は気抜する程恨めしくは存じたれど、只今承れば御親子の間柄、大切の娘御を私風情の賎き者に嫁入してはと御家従のあなたが御心配なすッて連て行れたも御道理、決して私めが僣上に岩沼子爵の御令嬢をどうのこうのとは申ませぬから、金円品物は吃度御持帰り下され、併しまざ/\と夫婦約束までしたあの花漬売は、心さえ変らねばどうしても女房に持つ覚悟、十二月に御嶽の雪は消ゆる事もあれ此念は消じ、アヽ否なのは岩沼令嬢、恋しいは花漬売と果は取乱して男の述懐。爰ぞ肝要、御主人の仰せ受て来た所なり。よしや此恋諏訪の湖の氷より堅くとも春風のぼや/\と説きやわらげ、凝りたる思を水に流さし、後々の故障なき様にせではと田原は笑顔あやしく作り上唇屡甞ながら、それは一々至極の御道理、さりとて人間を二つにする事も出来ず、お辰様が再度花漬売にならるゝ瀬も無るべければ、詰りあなたの無理な御望と云者、あなたも否なのは岩沼令嬢と仰せられて見ると、まさか推して子爵の婿になろうとの思召でも御座るまいが、夫婦約束までなさったとて婚礼の済たるでもなし、お辰様も今の所ではあなたを恋しがって居らるゝ様子なれど、思想の発達せぬ生若い者の感情、追付変って来るには相違ないと殿様の仰せ、行末は似つかわしい御縁を求めて何れかの貴族の若公を納らるゝ御積り、是も人の親の心になって御考なされて見たら無理では無いと利発のあなたにはよく御了解で御座りましょう、箇様申せばあなたとお辰様の情交を割く様にも聞えましょうが、花漬売としてこそあなたも約束をなされたれ、詰る所成就覚束なき因縁、男らしゅう思い切られたが双方の御為かと存じます、併しお辰様には大恩あるあなたを子爵も何でおろそかに思われましょう、されば是等の餽物親御からなさるゝは至当の事、受取らぬと仰ったとて此儘にはならず、どうか条理の立様御分別なされて、枉ても枉ても、御受納と舌小賢しく云迯に東京へ帰ったやら、其後音沙汰なし。さても浮世や、猛き虎も樹の上の猿には侮られて位置の懸隔を恨むらん、吾肩書に官爵あらば、あの田原の額に畳の跡深々と付さし、恐惶謹言させて子爵には一目置た挨拶させ差詰聟殿と大切がられべきを、四民同等の今日とて地下と雲上の等差口惜し、珠運を易く見積って何百円にもあれ何万円にもあれ札で唇にかすがい膏打ような処置、遺恨千万、さりながら正四位何の某とあって仏師彫刻師を聟には為たがらぬも無理ならぬ人情、是非もなけれど抑々仏師は光孝天皇是忠の親王等の系に出て定朝初めて綱位を受け、中々賎まるべき者にあらず、西洋にては声なき詩の色あるを絵と云い、景なき絵の魂凝しを彫像と云う程尊む技を為す吾、ミチエルアンジロにもやはか劣るべき、仮令令嬢の夫たるとも何の不都合あるべきとは云え、蝸牛の角立て何の益なし、残念や無念やと癇癪の牙は噛めども食付所なければ、尚一段の憤悶を増して、果は腑甲斐なき此身惜からずエヽ木曾川の逆巻水に命を洗ってお辰見ざりし前に生れかわりたしと血相変る夜半もありし。
下 化城諭品の諫も聴ぬ執着
痩たりや/\、病気揚句を恋に責られ、悲に絞られて、此身細々と心引立ず、浮藻足をからむ泥沼の深水にはまり、又は露多き苔道をあゆむに山蛭ひいやりと襟に落るなど怪しき夢計見て覚際胸あしく、日の光さえ此頃は薄うなったかと疑うまで天地を我につれなき者の様恨む珠運、旅路にかりそめの長居、最早三月近くなるにも心付ねば、まして奈良[#「良」は底本では「見」]へと日課十里の行脚どころか家内をあるく勇気さえなく、昼は転寝勝に時々怪しからぬ囈語しながら、人の顔見ては戯談一トつ云わず、にやりともせず、世は漸く春めきて青空を渡る風長閑に、樹々の梢雪の衣脱ぎ捨て、家々の垂氷いつの間にか失せ、軒伝う雫絶間なく白い者班に消えて、南向の藁屋根は去年の顔を今年初めて露せば、霞む眼の老も、やれ懐かしかったと喜び、水は温み下草は萌えた、鷹はまだ出ぬか、雉子はどうだと、終に若鮎の噂にまで先走りて若い者は駒と共に元気付て来る中に、さりとてはあるまじき鬱ぎ様。此跡ががらりと早変りして、さても/\和御寮は踊る振が見たいか、踊る振が見たくば、木曾路に御座れのなど狂乱の大陽気にでも成れまい者でもなしと亀屋の爺心配し、泣くな泣きゃるな浮世は車、大八の片輪田の中に踏込んだ様にじっとして、くよ/\して居るよりは外をあるいて見たら又どんな女に廻り合かもしれぬ、目印の柳の下で平常魚は釣れぬ代り、思いよらぬ蛤の吸物から真珠を拾い出すと云う諺があるわ、腹を広く持て、コレ若いの、恋は他にもある者を、と詞おかしく、兀頭の脳漿から天保度の浮気論主意書という所を引抽き、黴の生た駄洒落を熨斗に添て度々進呈すれど少しも取り容れず、随分面白く異見を饒舌っても、却って珠運が溜息の合の手の如くなり、是では行かぬと本調子整々堂々、真面目に理屈しんなり諄々と説諭すれば、不思議やさしも温順き人、何にじれてか大薩摩ばりばりと語気烈しく、要らざる御心配無用なりうるさしと一トまくりにやりつけられ敗走せしが、関わず置ば当世時花らぬ恋の病になるは必定、如何にかして助けてやりたいが、ハテ難物じゃ、それとも寧、経帷子で吾家を出立するようにならぬ内追払おうか、さりとては忍び難し、なまじお辰と婚姻を勧めなかったら兎も角も、我口から事仕出した上は我分別で結局を付ねば吉兵衛も男ならずと工夫したるはめでたき気象ぞかし。年は老るべきもの流石古兵の斥候虚実の見所誤らず畢竟手に仕業なければこそ余計な心が働きて苦む者なるべしと考えつき、或日珠運に向って、此日本一果報男め、聞玉え我昨夜の夢に、金襖立派なる御殿の中、眼もあやなる美しき衣裳着たる御姫様床の間に向って何やらせらるゝ其鬢付襟足のしおらしさ、後からかぶりついてやりたき程、もう二十年若くば唯は置ぬ品物めと腰は曲っても色に忍び足、そろ/\と伺いより椽側に片手つきてそっと横顔拝めば、驚たりお辰、花漬売に百倍の奇麗をなして、殊更憂を含む工合凄味あるに総毛立ながら尚能くそこら見廻せば、床に掛られたる一軸誰あろうおまえの姿絵故少し妬くなって一念の無明萌す途端、椽の下から顕れ出たる八百八狐付添て己[#「己」は底本では「已」]《おれ》の踵を覗うから、此奴たまらぬと迯出す後から諏訪法性の冑だか、粟八升も入る紙袋だかをスポリと被せられ、方角さらに分らねば頻と眼玉を溌々したらば、夜具の袖に首を突込んで居たりけりさ、今の世の勝頼さま、チト御驕りなされ、アハヽヽと笑い転げて其儘坐敷をすべり出しが、跡は却て弥寂しく、今の話にいとゞ恋しさまさりて、其事彼事寂然と柱にれながら思ううち、瞼自然とふさぐ時あり/\とお辰の姿、やれまてと手を伸して裙捉えんとするを、果敢なや、幻の空に消えて遺るは恨許り、爰にせめては其面影現に止めんと思いたち、亀屋の亭主に心添られたるとは知らで自善事考え出せし様に吉兵衛に相談すれば、さて無理ならぬ望み、閑静なる一間欲しとならばお辰住居たる家尚能らん、畳さえ敷けば細工部屋にして精々一ト月位住うには不足なかるべし、ナニ話に来るは謝絶と云わるゝか、それも承知しました、それならば食事を賄うより外に人を通わせぬよう致しますか、然し余り牢住居の様ではないか、ムヽ勝手とならば仕方がない、新聞丈けは節々上ましょう、ハテ要らぬとは悪い合点、気の尽た折は是非世間の面白可笑いありさまを見るがよいと、万事親切に世話して、珠運が笑し気に恋人の住し跡に移るを満足せしが、困りしは立像刻む程の大きなる良木なく百方索したれど見当らねば厚き檜の大きなる古板を与えぬ。
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