中 仁はあつき心念口演
身を断念てはあきらめざりしを口惜とは云わるれど、笑い顔してあきらめる者世にあるまじく、大抵は奥歯噛みしめて思い切る事ぞかし、到底遁れぬ不仕合と一概に悟られしはあまり浮世を恨みすぎた云い分、道理には合っても人情には外れた言葉が御前のその美しい唇から出るも、思えば苦しい仔細があってと察しては御前の心も大方は見えていじらしく、エヽ腹立しい三世相、何の因果を誰が作って、花に蜘蛛の巣お前に七蔵の縁じゃやらと、天燈様まで憎うてならぬ此珠運、相談の敵手にもなるまいが痒い脊中は孫の手に頼めじゃ、なよなよとした其肢体を縛ってと云うのでない注文ならば天窓を破って工夫も仕様が一体まあどうした訳か、強て聞でも無れど此儘別れては何とやら仏作って魂入れずと云う様な者、話してよき事ならば聞た上でどうなりと有丈の力喜んで尽しましょうと云れてお辰は、叔父にさえあさましき難題云い掛らるゝ世の中に赤の他人で是ほどの仁、胸に堪えてぞっとする程嬉し悲しく、咽せ返りながら、吃と思いかえして、段々の御親切有り難は御座りまするが妾身の上話しは申し上ませぬ、否や申さぬではござりませぬが申されぬつらさを御察し下され、眼上と折り合ねば懲らしめられた計の事、諄々と黒暗の耻を申てあなたの様な情知りの御方に浅墓な心入と愛想つかさるゝもおそろし、さりとて夢さら御厚意蔑にするにはあらず、やさしき御言葉は骨に鏤んで七生忘れませぬ、女子の世に生れし甲斐今日知りて此嬉しさ果敢なや終り初物、あなたは旅の御客、逢も別れも旭日があの木梢離れぬ内、せめては御荷物なりとかつぎて三戸野馬籠あたりまで御肩を休ませ申したけれどそれも叶わず、斯云う中にも叔父様帰られては面倒、どの様な事申さるゝか知れませぬ程にすげなく申すも御身の為、御迷惑かけては済ませぬ故どうか御帰りなされて下さりませ、エヽ千日も万日も止めたき願望ありながら、と跡の一句は口に洩れず、薄紅となって顔に露るゝ可愛さ、珠運の身になってどうふりすてらるべき。仮令叔父様が何と云わりょうが下世話にも云う乗りかゝった船、此儘左様ならと指をえて退くはなんぼ上方産の胆玉なしでも仕憎い事、殊更最前も云うた通りぞっこん善女と感じて居る御前の憂目を余所にするは一寸の虫にも五分の意地が承知せぬ、御前の云わぬ訳も先後を考えて大方は分って居るから兎も角も私の云事に付たがよい、悪気でするではなし、私の詞を立て呉れても女のすたるでもあるまい、斯しましょ、是からあの正直律義は口つきにも聞ゆる亀屋の亭主に御前を預けて、金も少しは入るだろうがそれも私がどうなりとして埒を明ましょう、親類でも無い他人づらが要らぬ差出た才覚と思わるゝか知らぬが、妹という者持ても見たらば斯も可愛い者であろうかと迷う程いとしゅうてならぬ御前が、眼に見えた艱難の淵に沈むを見ては居られぬ、何私が善根為たがる慾じゃと笑うて気を大きく持がよい、さあ御出と取る手、振り払わば今川流、握り占なば西洋流か、お辰はどちらにもあらざりし無学の所、無類珍重嬉しかりしと珠運後に語りけるが、それも其時は嘘なりしなるべし。
下 弱に施すに能以無畏
コレ吉兵衛、御談義流の御説諭をおれに聞かせるでもなかろう、御気の毒だが道理と命と二つならべてぶんなげの七様、昔は密男拐帯も仕てのけたが、穏当なって姪子を売るのではない養女だか妾だか知らぬが百両で縁を切で呉れろという人に遣る計の事、それをお辰が間夫でもあるか、小間癪れて先の知れぬ所へ行は否だと吼顔かいて逃でも仕そうな様子だから、買手の所へ行く間一寸縛って置たのだ、珠運とかいう二才野郎がどういう続きで何の故障。七、七、静にしろ、一体貴様が分らぬわ、貴様の姪だが貴様と違って宿中での誉者、妙齢になっても白粉一トつ付ず、盆正月にもあらゝ木の下駄一足新規に買おうでもないあのお辰、叔父なればとて常不断能も貴様の無理を忍んで居る事ぞと見る人は皆、歯切を貴様に噛んで涙をお辰に飜すは、姑に凍飯[#「飯」は底本では「飲」]食わするような冷い心の嫁も、お辰の話聞ては急に角を折ってやさしく夜長の御慰みに玉子湯でもして上ましょうかと老人の機嫌を取る気になるぞ、それを先度も上田の女衒に渡そうとした人非人め、百両の金が何で要るか知らぬがあれ程の悌順女を金に易らるゝ者と思うて居る貴様の心がさもしい、珠運という御客様の仁情が半分汲めたならそんな事云わずに有難涙に咽びそうな者。オイ、亀屋の旦那、おれとお吉と婚礼の媒妁役して呉れたを恩に着せるか知らぬが貴様々々は廃て下され、七七四十九が六十になってもあなたの御厄介になろうとは申ませぬ、お辰は私の姪、あなたの娘ではなしさ、きり/\此処へ御出なされ、七が眼尻が上らぬうち温直になされた方が御為かと存じます、それともあなたは珠運とかいう奴に頼まれて口をきく計りじゃ、おれは当人じゃ無れば取計いかねると仰ゃるならば其男に逢いましょ。オヽ其男御眼にかゝろうと珠運立出、つく/″\見れば鼻筋通りて眼つきりゝしく、腮張りて一ト癖確にある悪物、膝すり寄せて肩怒らし、珠運とか云う小二才はおのれだな生弱々しい顔をして能もお辰を拐帯した、若いには似ぬ感心な腕、併し若いの、闘鶏の前では地鶏はひるむわ、身の分限を知たなら尻尾をさげて四の五のなしにお辰を渡して降参しろ。四の五のなしとは結構な仰せ、私も手短く申しましょうならお辰様を売せたくなければ御相談。ふざけた囈語は置てくれ。コレ七、静に聞け、どうか売らずと済む工夫をと云うをも待たず。全体小癪な旅烏と振りあぐる拳。アレと走り出るお辰、吉兵衛も共に止ながら、七蔵、七蔵、さてもそなたは智慧の無い男、無理に売ずとも相談のつきそうな者を。フ相談付ぬは知れた事、百両出すなら呉れてもやろうがとお辰を捉え立上る裙を抑え、吉兵衛の云う事をまあ下に居てよく聞け、人の身を売買するというは今日の理に外れた事、娼妓にするか妾に出すか知らぬが。エヽ喧擾しいわ、老耄、何にして食おうがおれの勝手、殊更内金二十両まで取って使って仕舞った、変改はとても出来ぬ大きに御世話、御茶でもあがれとあくまで罵り小兎攫む鷲の眼ざし恐ろしく、亀屋の亭主も是までと口を噤むありさま珠運口惜く、見ればお辰はよりどころなき朝顔の嵐に逢いて露脆く、此方に向いて言葉はなく深く礼して叔父に付添立出る二タ足三足め、又後ふり向きし其あわれさ、八幡命かけて堪忍ならずと珠運七と呼留め、百両物の見事に投出して、亭主お辰の驚にも関わず、手続油断なく此悪人と善女の縁を切りてめでたし/\、まずは亀屋の養女分となしぬ。
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第六 如是縁
上 種子一粒が雨露に養わる
自分妾狂しながら息子の傾城買を責る人心、あさましき中にも道理ありて、七の所業誰憎まぬ者なければ、酒呑で居ても彼奴娘の血を吮うて居るわと蔭言され、流石の奸物も此処面白からず、荒屋一トつ遺して米塩買懸りの云訳を家主亀屋に迷惑がらせ何処ともなく去りける。珠運も思い掛なく色々の始末に七日余り逗留して、馴染につけ亭主頼もしく、お辰可愛く、囲炉裏の傍に極楽国、迦陵頻伽の笑声睦じければ客あしらいされざるも却て気楽に、鯛は無とも玉味噌の豆腐汁、心協う同志安らかに団坐して食う甘さ、或は山茶も一時の出花に、長き夜の徒然を慰めて囲い栗の、皮剥てやる一顆のなさけ、嬉気に賞翫しながら彼も剥きたるを我に呉るゝおかしさ。実に山里も人情の暖さありてこそ住ば都に劣らざれ。さりながら指折り数うれば最早幾日か過ぬ、奈良という事臆い起しては空しく遊び居るべきにあらずとある日支度整え勘定促し立出んというに亭主呆れて、是は是は、婚礼も済ぬに。ハテ誰が婚礼。知れた事お辰が。誰と。冗談は置玉え。あなたならで誰とゝ云れてカッと赤面し、乾きたる舌早く、御亭主こそ冗談は置玉え、私約束したる覚なし。イヤ怪しからぬ野暮を云るゝは都の御方にも似ぬ、今時の若者がそれではならぬ、さりとては百両投出て七蔵にグッとも云わせなかった捌き方と違っておぼこな事、それは誰しも耻かしければ其様にまぎらす者なれど、何も紛すにも及ばず[#「ず」は底本では「す」]、爺が身に覚あってチャンと心得てあなたの思わく図星の外れぬ様致せばおとなしく御待なされと何やら独呑込の様子、合点ならねば、是是御亭主、勘違い致さるゝな、お辰様をいとしいとこそ思いたれ女房に為様なぞとは一厘も思わず、忍びかねて難義を助たる計の事、旅の者に女房授けられては甚だ迷惑。ハハハヽア、何の迷惑、器量美しく学問音曲のたしなみ無とも縫針暗からず、女の道自然と弁えておとなしく、殿御を大事にする事請合のお辰を迷惑とは、両柱の御神以来図ない議論、それは表面、真を云えば御前の所行も曰くあってと察したは年の功、チョン髷を付て居ても粋じゃ、実はおれもお前のお辰に惚たも善く惚た、お辰が御前に惚たも善く惚たと当世の惚様の上手なに感心して居るから、媼とも相談して支度出来次第婚礼さする積じゃ、コレ珠運年寄の云う事と牛の鞦外れそうで外れぬ者じゃ、お辰を女房にもってから奈良へでも京へでも連立て行きゃれ、おれも昔は脇差に好をして、媼も鏡を懐中してあるいた頃、一世一代の贅沢に義仲寺をかけて六条様参り一所にしたが、旅ほど嚊が可愛うておもしろい事はないぞ、いまだに其頃を夢に見て後での話しに、此間も嫗に真夜中頃入歯を飛出さして笑ったぞ、コレ珠運、オイ是は仕たり、孫でも無かったにと罪のなき笑い顔して奇麗なる天窓つるりとなでし。
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