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貧乏(びんぼう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 10:05:56  点击:  切换到繁體中文


 女も手酌てじゃくで、きゅうとって、その後徳利を膳に置く。男は愉快気ゆかいげに重ねて、
「ああ、いい酒だ、サルチルサンであめびんづめとは訳が違う。
「ほめてでももらわなくちゃあうまらないヨ、五十五銭というんだもの。
「何でも高くなりやあがる、ありがてえ世界せけえだ、月に百両じゃあ食えねえようになるんでなくッちゃあ面白くねえ。
「そりゃあどういう理屈りくつだネ。
一揆いっきがはじまりゃあめたもんだ。
「下らないことをお言いで無い、そうすりゃあおまえはどうするというんだエ。
「構うことあ無えやナ、岩崎いわさきでも三井みついでもたたこわして酒の下物さかなにしてくれらあ。
いもしない中からひどいくだだねエ、バアジンへ押込んで煙草三本拾う方じゃあ無いかエ、ホホホホ。
「馬鹿あかせ、三銭のうらみ執念しゅうねんをひく亡者もうじゃ女房かかあじゃあてめえだってちと役不足だろうじゃあえか、ハハハハ。
「そうさネエ、まあ朝酒は呑ましてやられないネ。
「ハハハ、いいことを云やあがる、そう云わずとも恩にはらあナ。
「何をエ。
「今飲んでる酒をヨ。
「なぜサ。
「なぜでもいいわい、ただ美味うめえということよ。
「オヤ、おハムキかエ、馬鹿らしい。
「そうじゃあえが忘れねえと云うんだい、こうせんじつめた揚句あげくてめえの身の皮を飲んでるのだもの。
「弱いことをお云いだねエ、がらに無いヨ。
「だってこうなってからというものア運とは云いながらることも為ることもどじをんで、うめえ酒一つ飲ませようじゃあ無し面白い目一つ見せようじゃあ無し、おまけに先月あらいざらい何もかも無くしてしまってからあ、寒蛬こおろぎの悪くきやあがるのに、よじりもじりのその絞衣しぼり一つにしたッぱなしで、小遣銭こづけえぜにも置いて行かずに昨夜ゆうべまで六日むいか七日なのか帰りゃあせず、売るものが留守るすろうはずは無し、どうしているか知らねえが、それでも帰るに若干銭なにがしつかんでうちえるならまだしもというところを、銭に縁のあるものア欠片かけらも持たず空腹すきっぱらアかかえて、オイ飯を食わしてくれろッてえんで帰っての今朝けさ自暴やけ一杯いっぺえ引掛ひっかけようと云やあ、大方男児おとこは外へも出るに風帯ふうてえが無くっちゃあと云うところからのことでもあろうが、プッツリとばかりも文句無しで自己おのが締めた帯をはずして来ての正宗まさむねにゃあ、さすがのおれもえぐられたア。今ちょいと外面おもててめえが立って出て行った背影うしろかげをふと見りゃあ、あばれた生活くらしをしているたアが眼にも見えてた繻子しゅすの帯、燧寸マッチの箱のようなこんな家に居るにゃあ似合わねえが過日こねえだまでぜいをやってた名残なごりを見せて、今の今まで締めてたのが無くなっているうしろつきのさみしさが、いやあに眼にみて、馬鹿馬鹿しいがホロリッとなったア。世帯しょたいもこれで幾度いくたびか持ってはこわし持っては毀し、女房かかあ七度ななたび持って七度出したが、こんな酒はまだ呑まなかった。
「何だネエおまえは、朝ッぱらから老実じみッくさいことをお言いだネ。
「ハハハ、そうよ、おつ後生気ごしょうぎになったもんだ。寿命じゅみょうきる前にゃあ気が弱くなるというが、おらアひょっとすると死際しにぎわが近くなったかしらん。これで死んだ日にゃあいい意気地無いくじなしだ。
縁起えんぎの悪いことお云いでないよ、面白くもない。そんなことを云っているより勢いよくサッと飲んで、そしていい考案かんがえでも出してくれなくちゃあ困るよ。
「いいサ、飲むことはこの通りお達者だ、案じなさんな。児をてる日になりゃア金の茶釜ちゃがまも出て来るてえのが天運だ、大丈夫だいじょうぶ、銭が無くって滅入めいってしまうような伯父おじさんじゃあねえわ。
「じゃあなんかいい見込みこみでも立ってるのかエ。
「ナアニ、ちっとも立ってねえのヨ。
「どうしたらそういい気になっていられるだろうネ。仕様が無いネエ、どうかしておくれで無くっちゃあわたしももうしようもようも有りゃあしないヨ。
「ナアニ、いよいよ仕様が無けりゃあ、またちょいと書く法もあらア。
「どうおしなのだエ。
強盗ごうとうと出かけるんだ。
智慧ちえが無いねエ、ホホホホ。詰らない洒落しゃればかり云わずと真実ほんとにサ。
真実ほんと遣付やっつけようかと思ってるんだ。オイ、三年のこいめるかナッ、ハハハ。
冗談じょうだんを云わずと真誠ほんとに、これからさきをどうするんだかはなして安心さしておくれなネエ。茶かされるナア腹が立つよ、ひとが心配しているのに。
「心配はしゃアナ。心配てえものは智慧袋ちえぶくろちぢみ目のしわだとヨ、何にもなりゃあしねえわ。
「だって女の気じゃあいくらわたしが気さくもんでも、食べるもん無し売るもんなしとなるのが眼に見えてちゃあ心配せずにゃあいられないやネ。
「ご道理もっとも千万せんばんちげえねえ、これから売るものアてめえ身体からだより他にゃあえんだ。おれの身体でも売れるといいんだが、野郎と来ちゃあ政府おかみへでも売りつけるより仕様がねえ、ところでおれ様と来ちゃあ政府おかみでも買い切れめえじゃあねえか。川岸かし女郎じょろうになる気で台湾たいわんへ行くのアいいけれど、前借ぜんしゃく若干銭なにがしか取れるというような洒落た訳にゃあ行かずヨ、どうも我ながら愛想あいその尽きる仕義だ。
「そんな事をいってどうするんだエ。
「どうするッてどうもなりゃあしねえ、裸体はだかになって寝ているばかりヨ。塵挨ほこりたかる時分にゃあ掘出しのある半可通はんかつうが、時代のついてるところが有りがてえなんてえんで買って行くか知れねえ、ハハハ。白丁はくちょう軽くなったナ。
「ほんとに人を馬鹿にしてるね。わたしを何だとおもっておいでのだエ、こっちは馬鹿なら馬鹿なりに気をんでるのに、何もかも茶にしてましているたああんまり人をそでにするというものじゃあ無いかエ。
と少しつんとして、じれったそうにグイと飲む。酒の廻りしためおもて紅色くれないさしたるが、一体みにくからぬ上年齢としばえ葉桜はざくらにおい無くなりしというまでならねば、女振り十段も先刻さきより上りて婀娜あだッぽいいい年増としまなり。
「そう悪く取っちゃあいけねエ。そんならほんの事を云おうか、じつはナ。
「アアどうするッてエの。
「実はナ。ほんとうの事を云やあ、ナ。
「アアどうするッてエのだッていうのにサ。
「エエくそッ、忌々いめえましいが云ってしまおう。実は過日こねえだうちを出てから、もうとても今じゃあ真当ほんとの事アやってるがねえからてめえに算段させたんで、合百ごうひゃくも遣りゃあ天骰子てんさいもやる、花も引きゃあ樗蒲一ちょぼいちもやる、抜目ぬけめなくチーハも買う富籤とみも買う。遣らねえものは燧木マッチ賭博かけ椋鳥むくどりを引っかける事ばかり。そのうちにゃあ勝ちもした負けもした、いい時ゃ三百四百もにぎったが半日たあ続かねえでトドのつまりが、残ったものア空財布からさいふの中に富籤とみふだ一枚いちめえだ。こいつあ明日あしたになりゃあ勝負がつくのだ、どうせ無益むだにゃあきまってるが明日あした行って見ねえ中は楽みがある、これよりほかにあては無えんだ。オイ軽蔑さげすむめえぜ、馬鹿なものを買ったのもせんじつめりゃあ、相場をするのとちげえはねえのだ、当らねえにはまらねえわサ。もうこうなっちゃあ智慧も何も、有ったところで役に立たねえ、有体ありていに白状すりゃこんなもんだ。
 女房にょうぼまゆしわめながら、
「それもそうだろうがおまいそうして当らない時はどうするつもりだエ。
「ハハハ、どうもならねえそう聞かれちゃあ。生きてる中はどうかこうか食わずにゃあいねえものだ、構うものかイ。だから裸で寝ていようというんだ。愛想あいそが尽きたか、可愛想かわいそうな。厭気いやきがさしたらこの野郎に早く見切をつけやあナ、惜いもんだが別れてやらあ。てめえ未来このさきに持っている果報の邪魔じゃまはおれはしねえ、つらいと汝てめえがおもうなら辛いつきあいはさせたくねえから。
とさすが快活きさくな男も少し鼻声になりながらなおよいまぎらしていきおいよく云う。味わえば情も薄からぬ言葉なり。女は物も云わず、修行しゅぎょうを積んだものか泣きもせず、ジロリと男を見たるばかり、怒った様子にもあらず、ただ真面目まじめになりたるのみ。
 男なお語をつづけて、
「それともこう云っちゃあ少しウヌだが、ひんすりゃどんになったように自分でせえおもうこのおれを捨ててくれねえけりゃア、ほんこったあ、明日の富に当らねえが最期さいごおらあ強盗になろうとももうこれからア栄華えいがをさせらあ。チイッと覚悟かくごをし直してこれからの世をわたって行きゃあ、二度とてめえに銭金の苦労はさせねえ。まだこの世界せけえ金銭かねが落ちてる、大層くさくどこへ行っても金金とぬかしゃあがってピリついてるが、おれの眼で見りゃあいんくそより金はたくさんにころがってらア。ただいんの屎を拾う気になって手を出しゃあ攫取つかみどりだ、ほんこったあ、馬鹿な世界だ。
「訳がわからないよおまえの云うことア、やっぱり強盗におなりだというのかエ。
「馬鹿ア云え、強盗になりゃアどうなるとおもう。
「赤い衣服きものを着る結局おちおまえのトドの望なのかエ、お茶人過ぎるじゃあ無いか。
「赤い衣服きもの善人ぜんにんだからせられるんだ。そんなケチなのとアちと違うんだが、おれが強盗になりゃてめえはどうする。
「厭だよ、そんな下らないことを云っては、お隣家となりだって聞いてるヨ。
「隣家で聞いたって巡査じゅんさが聞いたって、談話はなしだイ、構うもんか、オイどうする。
「おふざけで無いよ馬鹿馬鹿しい。
と今は一切受付けぬ語気。男はこの様子を見て四方あたりをきっと見廻みまわしながら、火鉢越に女の顔近く我顔を出して、極めて低き声ひそひそと、
「そんならてめえ、おれが一昨日おととい盗賊ぬすみをして来たんならどうするつもりだ。
四隣あたりへ気を兼ねながら耳語ささやき告ぐ。さすがの女ギョッとして身を退きしが、四隣を見まわしてさて男の面をジッと見、その様子をつくづく見る眼になみだをにじませて、恐る恐る顔を男の顔へ近々と付けて、いよいよ小声に、
きんさんおまい情無い、わたしにそんなことを聞かなくちゃアならない事をしておくれかエ。エ、エ、エ。
「ム、ム、マアいいやナ、してもしねえでも。ただてめえの返辞が聞きてえのだ。
「どうしてもおまい聞きたいのかエ。
 女のくちびるかたく結ばれ、その眼は重々しく静かにすわり、その姿勢なりはきっと正され、その面は深く沈める必死の勇気にみたされたり。男はしおれきったる様子になりて、
「マア、聞きてえとおもってもらおう。おらあおめえの運は汝にまかせてえ、おらが横車を云おう気は持たねえ、正直にかくさず云ってくれ。
 女はグイとまた仰飲あおって、冷然として云い放った。
「何が何でもわたしゃアいいよ、首になってもならぼうわね。
 面は火のように、眼は耀かがやくように見えながら涙はぽろりとひざに落ちたり。男はひじのばしてそのくびにかけ、我を忘れたるごとくいだめつ、
「ムム、ありがてえ、アッハハハハ、ナニ、冗談じょうだんだあナ。べらぼうめえ、貧乏したってだれが馬鹿なことをしてなるものか。ああ明日の富籤とみに当りてえナ、千両取れりゃあ気息いきがつけらあ。エエ酒がえか、さあ今度アこれを売って来い。構うもんかイ、構うもんかイ、当らあ当らあきっと当らあ。
とヒラリと素裸すはだかになって、寝衣ねまきに着かえてしまって、

  やぼならこうした うきめはせまじ、

無間むげんかねのめりやすを、どこで聞きかじってか中音にうなり出す。

(明治三十年十月)



 



底本:「ちくま日本文学全集 幸田露伴」筑摩書房
   1992(平成4)年3月20日第1刷発行
底本の親本:「現代日本文学全集4」筑摩書房
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
※底本の次の個所(頁-行)の「小書き片仮名ト」(JIS X 0213、1-6-81)は「ト」に置き換えました。コウト(27-5) 一ト眼(31-9)
※閉じ括弧は無しはすべて、底本通り。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2002年12月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。

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