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太郎坊(たろうぼう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 10:01:34  点击:  切换到繁體中文

底本: ちくま日本文学全集 幸田露伴
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1992(平成4)年3月20日
入力に使用: 1992(平成4)年3月20日第1刷


底本の親本: 現代日本文学全集4
出版社: 筑摩書房

 

見るさえまばゆかった雲のみねは風にくずされて夕方の空が青みわたると、真夏とはいいながらお日様のかたむくに連れてさすがにしのぎよくなる。やがて五日ごろの月は葉桜はざくらしげみからうすく光って見える、その下を蝙蝠こうもりたり顔にひらひらとかなたこなたへ飛んでいる。
 主人あるじ甲斐甲斐かいがいしくはだし尻端折しりはしょりで庭に下り立って、せみすずめれよとばかりに打水をしている。丈夫じょうぶづくりの薄禿うすっぱげの男ではあるが、その余念よねんのない顔付はおだやかな波をひたいたたえて、今は充分じゅうぶん世故せこけた身のもはや何事にも軽々かろがろしくは動かされぬというようなありさまを見せている。
 細君は焜炉しちりんあおいだり、庖丁ほうちょうの音をさせたり、いそがしげに台所をゴトツカせている。主人が跣足はだしになって働いているというのだから細君が奥様然おくさまぜんすましてはおられぬはずで、こういう家の主人あるじというものは、俗にいうばち利生りしょうもある人であるによって、人の妻たるだけの任務は厳格に果すようにらされているのらしい。
 下女は下女でうすのような尻を振立ふりたてて縁側えんがわ雑巾ぞうきんがけしている。
 まずいやしからずとうとからずらす家の夏の夕暮れの状態としては、生き生きとして活気のある、よい家庭である。
 主人は打水をえて後満足げに庭の面を見わたしたが、やがて足を洗って下駄げたをはくかとおもうとすぐに下女をんで、手拭てぬぐい石鹸シャボン、湯銭等を取り来らしめて湯へいってしまった。返って来ればチャンと膳立ぜんだてが出来ているというのが、毎日毎日版にったようにまっている寸法と見える。
 やがて主人はまくりをしながら茹蛸ゆでだこのようになって帰って来た。縁に花蓙はなございてある、提煙草盆さげたばこぼんが出ている。ゆったりとすわって烟草たばこを二三服ふかしているうちに、黒塗くろぬりの膳は主人の前にえられた。水色の天具帖てんぐじょうで張られた籠洋燈かごランプ坐敷ざしきの中に置かれている。ほどよい位置につるされた岐阜提灯ぎふぢょうちんすずしげな光りを放っている。
 庭は一隅ひとすみ梧桐あおぎりの繁みから次第に暮れて来て、ひょろまつ檜葉ひばなどにしたた水珠みずたまは夕立の後かと見紛みまごうばかりで、その濡色ぬれいろに夕月の光の薄く映ずるのは何ともえぬすがすがしさをえている。主人は庭をわた微風そよかぜたもとを吹かせながら、おのれの労働ほねおりつくり出した快い結果を極めて満足しながら味わっている。
 ところへ細君は小形の出雲焼いずもやき燗徳利かんどくりを持って来た。主人にむかって坐って、一つしゃくをしながら微笑えみうかべて、
「さぞお疲労くたびれでしたろう。」
と云ったその言葉は極めて簡単であったが、打水の涼しげな庭の景色けしきを見て感謝の意をふくめたような口調くちぶりであった。主人はさもさもうまそうに一口すすって猪口ちょくを下に置き、
「何、疲労くたびれるというまでのことも無いのさ。かえって程好ほどよい運動になって身体からだの薬になるような気持がする。そして自分が水をったので庭の草木の勢いが善くなって生々いきいきとして来る様子を見ると、また明日あした水撒みずまきをしてやろうとおもうのさ。」
と云いおわってまた猪口を取り上げ、しずかに飲みしてさらに酌をさせた。
「その日に自分がるだけの務めをしてしまってから、適宜いいほど労働ほねおりをして、湯にはいって、それから晩酌に一盃いっぱいると、同じ酒でも味がちがうようだ。これを思うと労働ぐらい人を幸福にするものは無いかも知れないナ。ハハハハハ。」
と快げに笑った主人の面からは実に幸福があふるるように見えた。
 膳の上にあるのは有触ありふれたあじの塩焼だが、ただ穂蓼ほたでを置き合せたのに、ちょっと細君の心の味が見えていた。主人ははしくだして後、再び猪口を取り上げた。
「アア、酒も好い、下物さかなも好い、お酌はお前だし、天下泰平たいへいという訳だな。アハハハハ。だがご馳走ちそうはこれっきりかナ。」
「オホホ、いやですネエ、お戯謔ふざけなすっては。今鴫焼しぎやきこしらえてあげます。」
と細君は主人がななめならず機嫌きげんのよいので自分も同じく胸が闊々ひろびろとするのでもあろうか、極めて快活きさくに気軽に答えた。多少は主人の気風に同化されているらしく見えた。
 そこで細君は、
「ちょっとごめんなさい。」
と云って座を立って退いたが、やがて鴫焼を持って来た。主人は熱いところに一箸つけて、
豪気ごうぎ豪気。」
賞翫しょうがんした。
「もういいからお前もそこで御飯ごぜんを食べるがいい。」
と主人は陶然とうぜんとした容子ようすで細君の労を謝して勧めた。
「はい、有り難う。」
と手短に答えたが、思わず主人の顔を見て細君はうち微笑ほほえみつつ、
「どうも大層いいお色におなりなさいましたね、まあ、まるで金太郎のようで。」
しん可笑おかしそうに云った。
「そうか。湯が平生いつもに無く熱かったからナ、それで特別に利いたかも知れない。ハハハハ。」
と笑った主人は、真にはや大分とろりとしていた。が、酒呑さけのみ根性こんじょうで、今一盃と云わぬばかりに、猪口の底に少しばかり残っていた酒を一息に吸い乾してすぐとその猪口を細君の前にき出した。その手はなんとなくあやうげであった。
 細君が静かに酌をしようとしたとき、主人の手はややふるえて徳利の口へカチンと当ったが、いかなる機会はずみか、猪口は主人の手をスルリとけて縁に落ちた。はっと思うたが及ばない、見れば猪口は一つおどって下の靴脱くつぬぎの石の上に打付ぶつかって、大片おおきいのは三ツ四ツ小片ちいさいのは無数にくだけてしまった。これは日頃主人が非常に愛翫あいがんしておった菫花すみれの模様の着いた永楽えいらくの猪口で、太郎坊太郎坊と主人が呼んでいたところのものであった。アッとあきれて夫婦はしばし無言のまま顔を見合せた。
 今まで喜びに満されていたのに引換ひきかえて、大した出来ごとではないが善いことがあったようにも思われないからかして、主人は快くうていたがせっかくのよいも興もめてしまったように、いかにも残念らしく猪口の欠けを拾ってかれこれとぎ合せて見ていた。そして、
「おれがっていたものだから。」
だれむかって云うでも無く独語ひとりごとのように主人は幾度いくどくやんだ。
 細君はいいほどに主人をなぐさめながら立ち上って、更に前より立優たちまさった美しい猪口を持って来て、
「さあ、さっぱりとお心持よく此盃これあがって、そしてお結局つもりになすったがようございましょう。」
慇懃まめやかに勧めた。が、主人はそれを顧みもせずやっぱりこわれた猪口の砕片かけらをじっと見ている。
 細君は笑いながら、
「あなたにもお似合いなさらない、マアどうしたのです。そんなものは仕方がありませんから捨てておしまいなすって、サアーツ新規に召し上れな。」
という。主人は一向言葉に乗らず、
「アア、どうもまらないことをしたな。どうだろう、もう継げないだろうか。」
となお未練みれんを云うている。
「そんなにこまかく毀れてしまったのですから、もう継げますまい。どうも今更仕方はございませんから、あきらめておしまいなすったがようございましょう。」
という細君の言葉は差当って理の当然なので、主人は落胆がっかりしたという調子で、
「アア諦めるよりほか仕方が無いかナア。アアアア、物の命数には限りがあるものだナア。」
悵然ちょうぜんとしてたんじた。
 細君はいつにない主人が余りの未練さをややいぶかりながら、
「あなたはまあどうなすったのです、今日に限って男らしくも無いじゃありませんか。いつぞやおなべ伊万里いまり刺身皿さしみざらの箱を落して、十人前ちゃんとそろっていたものを、毀したり傷物にしたり一ツも満足の物の無いようにしました時、そばで見ていらしって、過失そそうだから仕方がないわ、と笑って済ましておしまいなすったではありませんか。あの皿は古びもあれば出来もい品で、価値ねうちにすればその猪口とは十倍もちがいましょうに、それすら何とも思わないでお諦めなすったあなたが、なんだってそんなに未練らしいことをおっしゃるのです。まあ一盃ひとつし上れな、すっかり御酒ごしゅめておしまいなすったようですね。」
はげまして慰めた。それでも主人はなんとなく気が進まぬらしかった。しかし妻の深切しんせつを無にすまいと思うてか、重々しげに猪口を取って更に飲み始めた。けれども以前のように浮き立たない。
「どうもやはり違った猪口だと酒もうまくない、まあ止めてめしにしようか。」
とやはり大層しずんでいる。細君は余り未練すぎるとややたしなめるような調子で、
「もういい加減にお諦らめなさい。」
ときっばり言った。
「ウム、諦めることは諦めるよ。だがの、別段未練を残すのなんのというではないが、茶人は茶碗ちゃわん大切だいじにする、飲酒家さけのみは猪口を秘蔵にするというのが、こりゃあ人情だろうじゃないか。」
「だって、今出してまいったのも同じ永楽ですよ。それに毀れた方はざっとした菫花すみれの模様で、焼も余りよくありませんが、こちらは中は金襴地きんらんじで外は青華せいかで、工手間くでまもかかっていれば出来もいいし、まあ永楽といううちにもこれ極上ごくじょうという手だ、とご自分でおっしゃった事さえあるじゃあございませんか。」
「ウム、しかしこの猪口は買ったのだ。去年の暮におれが仲通の骨董店どうぐやで見つけて来たのだが、あの猪口は金銭おあしで買ったものじゃあないのだ。」
「ではどうなさったのでございます。」
「ヤ、こりゃあ詰らないことをうっかり饒舌しゃべった。ハハハハハ。」
まぎらしかけたが、ふと目をげて妻の方を見れば妻は無言で我が面をじっとまもっていた。主人もそれを見て無言になってしばしは何か考えたが、やがて快活きさくな調子になって、
「ハハハハハハ。」

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