興世王は経基が去つて後も武蔵に居たが、経基の奏によつておのづから上の御覚えは宜(よ)くなかつたことだらう、別に推問を受けた記事も見えぬが、新(あらた)に興世王の上に一官人が下つて来た。それは百済貞連(くだらさだつら)といふもので、目下の者とさへ睦(むつ)ぶことの出来なかつた興世王だから、どうして目上の者と親しむことが成らう、忽(たちま)ち衝突してしまつた。ところが貞連は意有つてか無心でか知らぬが、まるで興世王を相手にしないで、庁に坐位をも得せしめぬほどにした。上には上があり、強い者には強いものがぶつかる。興世王もこれには憤然(ふんぜん)とせざるを得なかつたが、根が負け嫌ひの、恐ろしいところの有る人とて、それなら汝(きさま)も勝手にしろ、乃公(おれ)も勝手にするといつた調子なのだらう、官も任地も有つたものでは無い、ぶらりと武蔵を出て下総へ遊びに来て、将門の許に「居てやるんだぞぐらゐな居候(ゐさふらふ)」になつた。「王の居候」だからおもしろい。「置候(おきさふらふ)」の相馬小次郎は我武者に強いばかりの男では無い、幼少から浮世の塩はたんと嘗(な)めて居る苦労人(くらうにん)だ。田原藤太に尋ねられた時の様子でも分るが、ようございますとも、いつまででも遊んでおいでなさい位の挨拶で快(こゝろよ)く置いた。誰にでも突掛(つゝか)かりたがる興世王も、大親分然たる小次郎の太ッ腹なところは性(しやう)に合つたと見えて、其儘(そのまゝ)遊んで居た。多分二人で地酒(ぢざけ)を大酒盃(おほさかづき)かなんかで飲んで、都出(みやこで)の興世王は、どうも酒だけは西が好い、いくら馬処(うまどころ)の相馬の酒だつて、頭の中でピン/\跳(は)ねるのはあやまる、将門、お前の顔は七ツに見えるぜ、なんのかのと管(くだ)でも巻いてゐたか何様(どう)か知らないが、細くない根性の者同士、喧嘩(けんくわ)もせずに暮して居た。 大親分も好いが、縄張(なはばり)が広くなれば出入(でい)りも多くなる道理で、人に立てられゝば人の苦労も背負つてやらねばならない。こゝに常陸の国に藤原玄明(はるあき)といふ者があつた。元来が此(これ)は是(こ)れ一個の魔君で、余り性(しやう)の良い者では無かつた。図太(づぶと)くて、いらひどくて、人をあやめることを何とも思はないで、公に背(そむ)くことを心持が好い位に心得て、やゝもすれば上には反抗して強がり、下には弱みに付入つて劫(おび)やかし、租税もくすねれば、押借りも為(し)ようといふ質(たち)で、丁度幕末の悪侍(わるざむらひ)といふのだが、度胸だけは吽(うん)と堪(こた)へたところのある始末にいかぬ奴だつた。善悪無差別の悪平等(あくびやうどう)の見地に立つて居るやうな男だが、それでも人の物を奪つて吾が妻子に呉れてやり、金持の懐中(ふところ)を絞(しぼ)つて手下には潤(うるほ)ひをつけてやるところが感心な位のものだつた。で、こくめいな長官藤原維幾は、玄明が私(わたくし)した官物を弁償せしめんが為に、度の移牒(いてふ)を送つたが、斯様(かう)いふ男だから、横道(わうだう)に構(かま)へ込んで出頭などはしない。末には維幾も勘忍し兼ねて、官符を発して召捕るよりほか無いとなつて其の手配をした。召捕られては敵(かな)はないから急に妻子を連れて、維幾と余り親しくは無い将門が丁度(ちやうど)隣国に居るを幸(さいはひ)に、下総の豊田、即ち将門の拠処に逃げ込んだが、行掛(ゆきが)けの駄賃にしたのだか初対面の手土産(てみやげ)にしたのだか、常陸の行方(なめかた)郡河内(かはち)郡の両郡の不動倉の糒(ほしひ)などといふ平常は官でも手をつけてはならぬ筈のものを掻浚(かつさら)つて、常陸の国ばかりに日は照らぬと極(き)め込んだ。勿論これだけの事をしたのには、維幾との間に一ト通りで無いいきさつが有つたからだらうが、何にせよ悪辣(あくらつ)な奴だ。維幾は怒つて下総の官員にも将門にも移牒(いてふ)して、玄明を捕へて引渡せと申送つた。ところが尋常一様の吏員の手におへるやうな玄明では無い。いつも逃亡致したといふ返辞のみが維幾の所へは来た。維幾も後には業(ごふ)を煮やして、下総へ潜(ひそ)かに踏込んで、玄明と一ト合戦して取挫(とりひし)いで、叩き斫(き)るか生捕るかしてやらうと息巻いた。維幾も常陸介、子息為憲もきかぬ気の若者、官権実力共に有る男だ。斯様(かう)なつては玄明は維幾に敵することは出来無い。そこで眼も光り口も利(き)ける奴だから、将門よりほかに頼む人は無いと、将門の処(ところ)へ駈込んで、何様(どう)ぞ御助け下さいと、切(しき)りに将門を拝み倒した。元来親分気のある将門が、首を垂れ膝を折つて頼まれて見ると、余(あま)り香(かん)ばしくは無いと思ひながらも、仕方が無い、口をきいてやらう、といふことになつた。居候の興世王は面白づくに、親分、縋(すが)つて来る者を突出す訳にはいかねえぢや有りませんか位の事を云つたらう。で、玄明は気が強くなつた。将門は常陸(ひたち)は元(もと)から敵にした国ではあり、また維幾は貞盛の縁者ではあり、貞盛だつて今に維幾の裾(すそ)の蔭か袖(そで)の蔭に居るのであるから、うつかり常陸へは行かれない。興世王はじめ皆相談にあづかつたに相違ないが、好うございますは、事と品とによれば刃金(はがね)と鍔(つば)とが挨拶(あいさつ)を仕合ふばかりです、といふ者が多かつたのだらう、とう/\天慶二年十一月廿一日常陸の国へ相馬小次郎郎党(らうだう)を率(ひき)ゐて押出した。興世王ばかりではあるまい、平常むだ飯を食つて居る者が、桃太郎のお供の猿や犬のやうな顔をして出掛けたに違無い。維幾の方でも知らぬ事は無い、十分に兵を用意した。将門は、件(くだん)の玄明下総に入つたる以上は下総に住せしめ、踏込んで追捕すること無きやうにありたいと申込んだ。維幾の方にも貞盛なり国香なりの一(いち)まきが居たらう。維幾は将門の申込に対して、折角の御申状(おんまをしじやう)ではあるが承引致し申さぬ、とかう仰せらるゝならば公の力、刀の上で此方心のまゝに致すまで、と刎付(はねつ)けた。然(さ)らば、然らば、を双方で言つて終(しま)つたから、論は無い、後は斫合(きりあ)ひだ。揉合(もみあ)ひ押合つた末は、玄明の手引(てびき)があるので将門の方が利を得た。大日本史や、記に「将門撃つて三千人を殺す」とあるのは大袈裟(おほげさ)過ぎるやうだが、敵将維幾を生捕(いけど)りにし、官の印鑰(いんやく)を奪ひ、財宝を多く奪ひ、営舎を焚(や)き、凱歌(がいか)を挙(あ)げて、二十九日に豊田郡の鎌輪(かまわ)、即ち今の鎌庭に帰つた。勢(いきほひ)といふ条、こゝに至つては既に遣(や)り過ぎた。大親分も宜(よ)いけれども、奉行(ぶぎやう)や代官を相手にして談判をした末、向ふが承知せぬのを、此奴(こやつ)めといふので生捕りにして、役宅(やくたく)を焚き、分捕りをして還(かへ)つたといふのでは、余り強過ぎる。 玄明の事の起らぬ前、官符があるのであるから、将門が微力であるか維幾が猛威を有してゐるならば、将門は先づ維幾のために促(うなが)されて都へ出て、糺問(きうもん)されねばならぬ筈の身である。それが有つたからといふのも一つの事情か知らぬが、又貞盛縁類といふことも一ツの理由か知らぬが、又打つてかゝつて来たからといふのも一の所以(いはれ)か知らぬが、常陸介を生捕り国庁を荒し、掠奪焚焼(りやくだつふんせう)を敢てし、言はず語らず一国を掌握(しやうあく)したのは、相馬小次郎も図に乗つて暴(あば)れ過ぎた。裏面の情は問ふに及ばず、表面の事は乱賊の所行だ。大小は違ふが此類の事の諸国にあつたのは時代的の一現象であつたに疑無いけれど、これでは叛意が有る無いにかゝはらず、大盗の所為、又は暴挙といふべきものである。今で云へば県庁を襲撃し、県令を生擒(いけどり)し、国庫に入る可(べ)き財物を掠奪したのに当るから、心を天位に掛けぬまでも大罪に相違無い。将門は玄明、興世王なんどの遣口(やりくち)を大規模にしたのである。将門猶未(なほいま)だ僣(せん)せずといへども、既(すで)に叛したのである。純友の暴発も蓋(けだ)し此様(かう)いふ調子なのであつたらう。延喜年間に盗の為に殺された前安芸守(さきのあきのかみ)伴光行、飛騨守(ひだのかみ)藤原辰忠、上野介(かうづけのすけ)藤原厚載、武蔵守(むさしのかみ)高向利春などいふものも、蓋(けだ)し維幾が生擒(いけどり)されたやうな状態であつたらう。孔孟(こうまう)の道は尊ばれたやうでも、実は文章詩賦が流行(はや)つたのみで、仏教は尊崇されたやうでも、実は現世祈祷(きたう)のみ盛んで、事実に於て神祠巫覡(しんしふげき)の徒と妥協(だけふ)を遂げ、貴族に迎合(げいがふ)し、甚(はなはだ)しく平等の思想に欠け、人は恋愛の奴隷、虚栄の従僕となつて納まり返り、大臣からしてが賭(かけ)をして他(ひと)の妻を取るほど博奕(ばくち)思想は行はれ、官吏は唯(ただ)民に対する誅求(ちゆうきう)と上に対する阿諛(あゆ)とを事としてゐる、かゝる世の中に腕節(うでふし)の強い者の腕が鳴らずに居られよう歟(か)。此の世の中の表裏を看(み)て取つて、構ふものか、といふ腹になつて居る者は決して少くは無く、悪平等や撥無(はつむ)邪正の感情に不知不識(しらずしらず)陥(おちい)つて居た者も所在にあつたらう。将門が恰(あたか)も水滸伝(すゐこでん)中の豪傑が危い目に度逢(あ)つて終(つひ)に官に抗し威を張るやうな徑路を取つたのも、考へれば考へどころはある。特(こと)に長い間引続いた私闘の敵方荷担人(かたうど)の維幾が向ふへまはつて互に正面からぶつかつたのだから堪らない。此方が勝たなければ彼方が勝ち、彼方が負けなければ此方が負け、下手にまごつけば前の降間木につぐんだ時のやうな目に遇(あ)ふのだらう。玄明をかくまつた行懸(ゆきがゝ)りばかりでは無い、自分の頸(くび)にも縄の一端はかゝつてゐるものだから、向ふの頸にも縄の一端をかづかせて頸骨の強さくらべの頸引(くびひき)をして、そして敵をのめらせて敲(たゝ)きつけたのだ。常陸下総といへば人気はどちらも阪東気質(かたぎ)で、山城大和のやうに柔らかなところでは無い。野山に生(は)へる杉の樹や松の樹までが、常陸ッ木下総ッ木といへば、大工(だいく)さんが今も顔をしかめる位で、後年の長脇差(ながわきざし)の侠客も大抵(たいてい)利根川沿岸で血の雨を降らせあつてゐるのだ。神道(しんだう)徳次は小貝川の傍(そば)、飯岡(いひをか)の助五郎、笹川の繁蔵、銚子(てうし)の五郎蔵と、数へ立つたら、指がくたびれる程だ。元来が斯様(かう)いふ土地なので、源平時分でも徳川時分でも変りは無いから、平安朝時代でも異(こと)なつては居ないらしい。現に将門の叔父の村岡五郎の孫の上総介忠常も、武蔵押領使(あふりやうし)、日本将軍と威張り出して、長元年間には上総下総安房を切従へ、朝廷の兵を引受けて二年も戦ひ、これも叛臣伝中の人物となつてゐる。かういふ土地、かういふ時勢、かういふ思潮、かういふ内情、かういふ行懸(ゆきがゝり)り、興世王や玄明のやうなかういふ手下、とう/\火事は大きな風に煽(あふ)られて大きな燃えくさに甚(はなは)だしい焔(ほのほ)を揚(あ)げるに至つた。もういけない。将門は毒酒に酔つた。興世王は将門に対(むか)つて、一国を取るも罪は赦(ゆる)さるべくも無い、同じくば阪東を併(あは)せて取つて、世の気色を見んには如(し)かじと云ひ出すと、如何(いか)にも然様(さう)だ、と合点して終(しま)つた。興世王は実に好(い)い居候だ。親分をもり立てゝ大きくしようと心掛けたのだ。天井が高くなければ頭を聳(そび)えさせる訳には行かない。蔭で親分を悪く言ひながら、台所で偸(ぬす)み酒をするやうな居候とは少し違つて居た。併(しか)し此の居候のお蔭で将門は段罪を大きくした。興世王の言を聞くと、もとより焔硝(えんせう)は沢山(たくさん)に籠(こも)つて居た大筒(おほづゝ)だから、口火がついては容赦(ようしや)は無い。ウム、如何にも、いやしくも将門、刹帝利(さつていり)の苗裔(べうえい)三世の末葉である、事を挙(あ)ぐるもいはれ無しとはいふ可からず、いで先づ掌(たなそこ)に八箇国を握つて腰に万民を附けん、と大きく出た。かう出るだらうと思つて、そこで性に合つて居た興世王だから、イヨー親分、と喜んで働き出した。藤原の玄明や文室(ぶんや)の好立等のいきり立つたことも言ふ迄は無い。ソレッといふので下野国へと押出した。馬を駈けさせては馬場所(うまばしよ)の士(さむらひ)だ。将門が猛威を張つたのは、大小の差こそあれ大元(だいげん)が猛威を振(ふる)つたのと同じく騎隊を駆使したためで、古代に於ては汽車汽船自働車飛行機のある訳では無いから、驍勇な騎士を用ゐれば、其の速力や負担力(ふたんりよく)に於て歩兵に陪(ばいし)するから、兵力は個数に於て少くて実量に於て多いことになる。下総は延喜式で左馬寮(さまれう)御牧貢馬地(みまきこうばち)として、信濃上野甲斐武蔵の下に在るやうに見えるが、兵部省(ひやうぶしやう)諸国馬牛牧式(ぼくしき)を見ると、高津(たかつ)牧、大結牧、本島(もとじま)牧、長州牧など、沢山な牧(まき)があつて、兵部省へ貢馬(こうば)したものである。鎌倉時代足利時代から徳川時代へかけて、地勢上奥羽と同じく産馬地として鳴つて居る。特(こと)に将門は武人、此の牧場多き地に生長して居れば、十分に馬政にも注意し、騎隊の利をも用ゐるに怠らなかつたらう。 天慶の二年十一月二十一日に常陸を打従へて、すぐ其の翌月の十一日出発した。馬は竜の如く、人は雲の如く、勇威凛(りん/\)と取つてかゝつたので、下野の国司は辟易(へきえき)した。経基の奏の後、阪東諸国の守や介は新らしい人に換(か)へられたが、斯様(かう)いふ時になると新任者は勝手に不案内で、前任者は責任の解けたことであるから、いづれにしても不便不利であつて、下野の新司の藤原の公雅は抵抗し兼ねて印鑰(いんやく)を差出して降(くだ)つて終(しま)つた。前司の大中臣(おほなかとみ)全行(まさゆき)も敵対し無かつた。国司の館(やかた)も国府も悉(こと/″\)く虜掠(りよりやく)されて終ひ、公雅は涙顔天を仰ぐ能(あた)はず、すご/\と東山道を都へ逃れ去つた。同月十五日馬を進めて上野へ将門等は出た。介の藤原尚範も印鑰(いんやく)を奪はれて終つた。十九日国庁に入り、四門の陣を固めて、将門を首(はじ)め興世王、藤原玄茂等堂と居流れた。(玄茂も常陸の者である、蓋(けだ)し玄明の一族、或は玄茂即玄明であらう。)此時、此等の大変に感じて精神異常を起したものか、それとも玄明等若(も)しくは何人かの使嗾(しそう)に出でたか知らぬが、一伎あらはれ出でゝ、神がゝりの状になり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の使者と口走り、多勢の中で揚言して、八幡大菩薩、位(くらゐ)を蔭子(いんし)将門に授く、左大臣正二位菅原道真朝臣(みちざねあそん)之を奉ず、と云つた。一軍は訳も無く忻喜雀躍(きんきじやくやく)した。興世王や玄茂等は将門を勧めた。将門は遂に神旨を戴いた。四陣上下、挙(こぞ)つて将門を拝して、歓呼の声は天地を動かした。
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