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平将門(たいらのまさかど)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:59:54  点击:  切换到繁體中文


 とは記に載つてゐるところだが、これは疑はしい。こゝに事実の前後錯誤と年月の間違があるらしい。将門は幾度も符を以て召喚されたが、最初一度は上洛し、後は上洛せずに、英保純行に委曲ゐきよくを告げたのである。将門はそれでいが、良兼等は其儘そのまゝ指をくはへて終ふ訳には、これも阪東武者の腹の虫が承知しない。おひの小僧つ子に塩をつけられて、国香亡き後は一族の長者たる良兼ともある者が屈してしまふことは出来ない。護も貞盛も女達も瞋恚しんいの火をもやさない訳は無い。将門が都から帰つて来て流石さすがに謹慎して居るさまを見るに及んで、怨を晴らし恥辱をそゝぐは此時と、良兼等は亦復また/\押寄せた。其年八月六日に下総境の例の小貝川の渡に良兼の軍は来た。今度は良兼もをかしな智慧ちゑを出して、将門の父良将祖父高望王の像を陣頭に持出して、さあが放せるなら放して見よ、鉾先ほこさきが向けらるゝなら向けて見よと、取つてかゝつた。籠城でもした末に百計尽き力乏しくなつてならばいざ知らず、随分いやな事をしたものだが、如何いかに将門勇猛なりとも此には閉口した。「親の位牌ゐはいで頭こつつり」といふ演劇には、大概な暴れ者も恐れ入る格で、根が無茶苦茶な男では無い将門は神妙におとなしくして居た。おとなしくした方が何程腹の中は強いか知れないのだが、差当つて手が出せぬのを見ると、良兼の方は勝誇つた。豊田郡の栗栖院くるすゐん常羽御厩いくはのみうまやや将門領地の民家などを焼払つて、其翌日さつと引揚げた。
 芝居で云へば性根場しやうねばといふところになつた。将門は一塩つけられて怒気胸にふさがつたが、如何ともかたは無かつた。で、其月十七日になつて兵を集めて、大方郷おほかたがう堀越の渡に陣を構へ、敵をふせがうとした。大方郷は豊田郡大房村の地で、堀越は今水路が変つて渡頭ととうでは無いが堀籠村といふところである。しかし将門は前度とは異つて、手痛くは働か無かつた。記には、脚気を病んで居て、毎事※(二の字点、1-2-22)もうもうとしてゐたといふが、そればかりが原因か、或は都での訓諭に恐懼きようくして、仮りにも尊族に対してわたくしに兵具を動かすことは悪いと思つた、しほらしい勇士の一面の優美の感情から、うんと忍耐したのかも知れない。弱くない者にはかへつて此様かういふ調子はあるものである。で、はか/″\しい抵抗も何等あへてしなかつたから、良兼の軍は思ふが儘に乱暴した。前の恨をらすは此時と、郡中を攻掠こうりやく焚焼ふんせうして、随分ひどい損害を与へた。将門は※(「けものへん+爰」、第3水準1-87-78)ぐんの葦津江、今の蘆谷といふところに蟄伏ちつぷくしたが、猶危険が身にせまるので、妻子を船に乗せて広河ひろかはの江にうかべ、おのれは要害のよい陸閉といふところに籠つた。広河の江といふのは飯沼いひぬまの事で、飯沼は今ははなはだしく小さくなつてゐるが、それは徳川氏の時になつて、伊達弥だてや惣兵衛そうべゑ為永ためながといふものが、享保年間に飯沼の水が利根川より高いこと一丈九尺、鬼怒川より高いこと横根口で六尺九寸、内守谷川辰口たつぐちで一丈といふことを知つて、大工事を起して、水を落し、数千町歩の新田を造つたからである。陸閉といふ地は不明だが、けだ降間ふるまの誤写で、後の岡田郡降間木ふるまぎ村の地だらうといふことである。降間木ももと降間木沼とかいふ沼があつたところである。さあ物語は一大関節にさしかゝつた。将門が斯様におとなしくして居て、むしろ敵を避け身を屈して居るやうになつたところで、良兼方の一分は立つたのだから、其儘に良兼方が凱歌を奏して退いてしまつたれば、或は和解の助言なども他から入つて、宜い程のところに双方折合をりあふといふことも成立つたか知れないのである。ところが転石の山よりくだるや其のいきほひ必ず加はる道理で、つひに良兼将門は両立す可からざる運命に到着した。それは将門が安穏を得させようとして跡を埋め身を隠させた其の愛妻を敵が発見したことであつた。どうも良兼方の憎悪は此の妻にかゝつて居たらしい。それめたといふのであつたらう、忽ちに手対てむかふ者を討殺うちころし、七八さうの船に積載した財貨三千余端を掠奪し、かよわい妻子を無漸むざんにも斬殺きりころしてしまつたのが、同月十九日の事であつた。元来火薬が無かつた訳では無いから、如何に一旦は神妙にしてゐても、此処こゝに至つて爆発せずには居ない。後の世の頼朝が伊豆にひそんで居た時も、たゞおとなしく世を終つたかも知れないが、伊東入道に意中の女は引離され児は松川に投入れらるゝに及んで、ぶる/\と其のおほきい頭を振つてきばんで怒り、せめては伊豆一国の主になつて此恨を晴らさうと奮ひ立つたとある。人間以上に心を置けば、恩愛にかれて動転するのは弱くも浅くも甲斐かひ無くもあるが、人間としては恩愛の情のがたいのは無理も無いことである。如何いかに相馬小次郎が勇士でも心臓が筑波御影つくばみかげで出来てゐる訳でもあるまいから、落さうと思つた妻子を殺されては、涙をこぼして口惜くやしがり、拳を握りつめて怒つたことであらう。これはまた暴れ出さずには居られない訳だ。しかしまだ私闘である、私闘の心が刻毒になつて来たのみである、謀反むほんをしようとは思つて居ないのである。
 記の此処こゝの文が妙にねぢれて居るので、清宮秀堅は、将門の妻は殺されたのでは無くて上総かづさとらはれたので、九月十日になつて弟のはかりごとによつて逃帰つたといふ事に読んでゐる。然し文に「妻子同共討取」とあるから、何様どうも妻子は殺されたらしく、逃還にげかへつたのは一緒にた妾であるらしい。が、「爰将門妻去夫留、忿怨不少」「件妻背同気之中、迯帰於夫家」とあるところを見ると、妻が拘はれたやうでもある。「妾恒存真婦之心」「妾之舎弟等成謀」とあるところを見ると、妾のやうでもある。妻妾二字、形相近いから何共まぎらはしいが、妻子同共討取の六字があるので、妻子は殺されたものと読んで居る人もある。どちらにしても強くは言張り難いが、「然而将門尚与伯父宿世之讐」といふ句によつて、何にせよ此事が深い怨恨ゑんこんになつた事と見て差支さしつかへは無い。しばらく妻子は殺されて、とらはれた妾は逃帰つた事と見て置く。
 此事あつてより将門は遺恨ゐこんがたくなつたであらう、今までは何時いつも敵に寄せられてから戦つたのであるが、今度は我から軍をひきゐて、良兼が常陸ひたちの真壁郡の服織はつとり、即ち今の筑波山の羽鳥に居たのを攻め立つた。良兼は筑波山につたから羽鳥を焼払ひ、戦書をおくつて是非の一戦をげようとしたが、良兼は陣を堅くして戦は無かつたので、将門は復讐的に※(二の字点、1-2-22)さん/″\敵地を荒して帰つた。斯様かうなればたがひ怨恨ゑんこんかさなるのみであるが、良兼の方は何様どうしても官職を帯びて居るので、官符はくだつて、将門を追捕すべき事になつた。良兼、護、今は父の後を襲ふた常陸大掾ひたちのだいじよう貞盛、良兼の子の公雅、公連、それから秦清文はたきよぶみ、此等が皆職を帯びて、武蔵、安房あは、上総、下総、常陸、下野諸国の武士を駆催かりもよほして将門を取つて押へようとする。将門は将門で後へは引け無くなつたから勢威を張り味方をつのつて対抗する。諸国のすけかみじようやは、騒乱を鎮める為に戮力りくりよくせねばならぬのであるが、元来が私闘で、其の情実を考へれば、あながち将門を片手落に対治すべき理があるやうにも思へぬから、官符があつても誰も好んで矢の飛び剣の舞ふ中へ出て来て危い目に逢はうとはしない。将門は一人で、官職といへば別に大したものを有してゐるのでも無い、たゞ伊勢太神宮の御屯倉みやけを預かつて相馬御厨みくりやつかさであるに過ぎぬのであるに、父の余威をるとは言へ、多勢の敵に対抗して居られるといふものは、勇悍ゆうかんである故のみでは無い、けだし人の同情を得てゐたからであつたらう。然無さなくば四方から圧逼あつぱくせられずには済まぬ訳である。
 良兼は何様どうかして勝を得ようとしても、尋常じんじやうの勝負では勝を取ることが難かつた。そこで便宜べんぎうかゞひ巧計を以て事をさうと考へた。おこたり無く偵察ていさつしてゐると、丁度将門の雑人ざふにん支部はせつかべ子春丸といふものがあつて、常陸の石田の民家に恋中こひなかの女をもつて居るので、時※(二の字点、1-2-22)其許へ通ふことを聞出した。そこで子春丸をつかまへて、絹を与へたり賞与を約束したりして、将門の営の勝手を案内させることにした。将門は此頃石井に居た。石井は「いはゐ」と読むので、今の岩井がすなはちそれだ。子春丸は恋と慾とに心を取られ、良兼の意に従つて、主人の営所の勝手をこと/″\く良兼の士に教へた。良兼はほくそんで、手腕のある者八十余騎をえらんで、ひそ/\と不意打をかける支度をさせた。十二月の十四日の夕に良兼の手の者は発して、首尾よく敵地に突入し、風の如くに進んで石井の営に斫入きりいつた。将門の士は十人にも足らなかつたが、敵が襲ふのを注進した者があつて、急に起つて防ぎ戦つた。将門も奮闘ふんとうした。良兼の上兵多治良利たぢのよしとしは一挙に敵をほふらんと努力したが、運つたな射殺いころされたので、寄手はかへつて散※(二の字点、1-2-22)になつて、命を落す者四十余人、可なり手痛き戦はしたが、敵地に踏込むほどの強い武者共が随分巧みに、うま/\近づいたにもかゝはらず、此の突騎襲撃も成功しなかつた。双方が精鋭驍勇げうゆう、死物狂ひをきはめ尽した活動写真的の此の華※(二の字点、1-2-22)しい騎馬戦も、将門方の一騎士が結城寺の前で敵が不意打に来たなと悟つて、良兼方の騎士の後から尾行びかうして居て、鴨橋かもはし(今の結城ゆふき新宿しんじゆく村のかま橋)から急に駈抜かけぬけて注進したため、危くも将門は勝を得てしまつた。良兼は此の失敗に多く勇士を失ひ、気屈して、いきほひ衰へ、※(二の字点、1-2-22)あう/\として楽まず、其後は何も仕出しいだし得ず、翌年天慶二年の六月上旬病死してしまつた。子春丸は事あらはれて、不意討の日から幾程も無く捕へられて殺されてしまつた。
 突騎襲撃の不成功に終つた翌年の春、良兼は手を出すことも出来無くなつてゐるし、貞盛も為すこと無く居ねばならぬので、かくては果てじと、貞盛は京のぼりを企てた。都へ行つて将門の横暴を訴へ、天威をりてこれをほろぼさうといふのである。将門はこれをさとつて、貞盛に兎角とかく云ひこしらへさせては面倒であると、急に百余騎をひきゐて追駈けた。二月の二十九日、山道を心がけた貞盛に、信濃しなの小県ちひさがた国分寺こくぶじの辺で追ひついて戦つた。貞盛も思ひ設けぬでは無かつたから防ぎを射つた。貞盛方の佗田真樹は戦死し、将門方の文屋好立ぶんやのよしたつは負傷したが助かつた。貞盛はからくものがれて、つひに京にいたり、将門暴威を振ふの始終を申立てた。此歳五月改元、天慶元年となつて、其の六月、朝廷より将門を召すの符を得て常陸に帰り、常陸介藤原維幾これちかの手から将門に渡した。将門は符を得ても命を奉じ無かつた。維幾は貞盛の叔母婿をばむこであつた。
 貞盛が京上りをした翌天慶二年の事である。武蔵の国にも紛擾ふんぜうが生じた。これも当時の地方に於て綱紀のやうやゆるんだことを証拠立てるものであるが、それは武蔵権守興世王と、武蔵介経基と、足立郡司判官武芝とが葛藤かつとうを結んで解けぬことであつた。武芝は武蔵国造むさしのくにのみやつこの後で、足立あだち埼玉さいたま二郡は国中で早く開けたところであり、それから漸く人烟じんえん多くなつて、奥羽への官道の多摩たま郡中の今の府中のあるところに庁が出来たのであるが、武芝は旧家であつて、累代の恩威を積んでゐたから、当時中※(二の字点、1-2-22)勢力のあつたものであらう、そこへあらた権守ごんのかみになつた興世王と新にすけになつた経基とが来た。経基は清和源氏の祖で六孫王其人である。興世王とは如何なる人であるか、古より誰も余り言はぬが、既に王といはれて居り、又経基との地位の関係から考へて見ても、帝系に出でゝ二代目位か三代目位の人であらう。高望王が上総介、六孫王が武蔵介、およそかゝる身分の人※(二の字点、1-2-22)がかゝる官に任ぜられたのは当時のならひであるから、興世王もけだ然様さういふ人と考へて失当しつたうでもあるまい。其頃桓武天皇様の御子万多まんた親王の御子の正躬まさみ王の御後には、住世すみよ基世もとよ、助世、尚世ひさよ、などいふ方※(二の字点、1-2-22)があり、又正躬王御弟には保世やすよ継世つぐよ、家世など皆世の字のついた方が沢山たくさんあり、又桓武天皇様の御子仲野親王の御子にも茂世、輔世すけよ季世すゑよなど世のついた方※(二の字点、1-2-22)が沢山に御在おいでであるところからして考へると、興世王は或は前掲二親王の中のいづれかの後であつたかとも思へるが、系譜で見出さぬ以上は妄測まうそくは力が無い。たゞ時代が丁度相応するので或はと思ふのである。日本外史や日本史で見ると、いきなり「兇険にして乱を好む」とあつて、何となく熊坂長範ちやうはんか何ぞのやうに思へるが、何様どういふものであらうか。さて此の興世王と経基とは、共にの強いいきほひさかしい人であつたと見え、前例では正任未だいたらざるの間は部に入る事を得ざるのであるのに、して部に入つて検視しようとした。武芝は年来公務に恪勤かくきんして上下しやうかの噂も好いものであつたが、前例を申して之をこばんだ。ところが、郡司の分際ぶんざいで無礼千万であると、兵力づくでひて入部し、国内を凋弊てうへいし、人民を損耗そんかうせしめんとした。武芝は敵せないから逃げかくれると、武芝の私物しぶつまで検封してしまつた。で、武芝は返還をせまると、かへつて干戈かんくわそなへをしてぐわんとして聴かず、暴を以て傲つた。是によつて国書生等は不治悔過ふぢくわいくわの一巻を作つて庁前にのこし、興世王等をそしり、国郡に其非違を分明にしたから、武蔵一国は大に不穏を呈した。そして経基と興世王ともまた必らずしもむつまじくは無く、様※(二の字点、1-2-22)なことが隣国下総に聴えた。将門は国の守でも何でも無いが、今は勢威おのづから生じて、大親分のやうな調子で世に立つて居た。武蔵の騒がしいことを聞くと、武芝は近親では無いが、一つ扱つてやらう、といふ好意で郎等らうどうしたがへて武蔵へおもむいた。武芝は喜んで本末を語り、将門と共に府に向つた。興世王と経基とはあたかも狭服山に在つたが、興世王だけはすでに府にるに会ひ、将門は興世王と武芝とを和解せしめ、府衙ふがで各※(二の字点、1-2-22)数杯を傾けて居つたが、経基は未だ山北に在つた。其中武芝の従兵等は丁度経基の営所を囲んだやうになつた。経基は仲悪くして敵の如き思ひをなしてゐる武芝の従兵等が自分の営所を囲んだのを見て、たゞちにのがれ去つてしまつて、将門の言によりて武芝興世王等が和して自分一人を殺さうとするのであると合点した。そこで将門興世王をおほいに恨んで、京に馳せ上つて、将門興世王謀反のくはだてを致し居る由を太政官に訴へた。六孫王の言であるから忽ち信ぜられた。将門が兵を動かして威を奮つてゐることは、既に源護、平良兼、平貞盛等のうつたへによりて、かねて知れて居るところへ、経基が此言によつて、今までのさま/″\の事は濃い陰影をなして、新らしい非常事態をクッキリと浮みあらはした。
 将門の方は和解の事画餅ぐわへいに属して、おもしろくも無く石井に帰つたが、三月九日の経基の讒奏ざんそうは、自分に取つて一方ひとかたならぬ運命の転換をもたらして居るとも知るよし無くて居た。都ではかねてより阪東が騒がしかつた上に※(二の字点、1-2-22)いよ/\謀反といふことであるから、容易ならぬ事と公卿くぎやう諸司の詮議に上つたことであらう。同月二十五日、太政大臣忠平から、中宮少ちゆうぐうせう進多治しんたぢ真人まびと助真すけざねに事の実否を挙ぐべき由の教書を寄せ、将門を責めた。将門も謀反とあつては驚いたことであらうが、たとひ驕倣けうがうにせよ実際まだ謀反をしたのでは無いから、常陸下総下毛武蔵上毛五箇国の解文げもんを取つて、謀反の事の無実の由を、五月二日を以て申出た。余国は知らず、常陸から此の解文は出しさうも無いことであつた。少くとも常陸では、将門謀反の由の言を幸ひとして、虚妄きよまうにせよ将門をひておとしいれさうなところである。貞盛の姑夫をばむこたる藤原維幾が、将門に好感情を有してゐる筈は無いが、まさかいまかつて謀反もして居らぬ者に謀反の大罪を与へることは出来兼ねて解文を出したか、それとも短兵急に将門から攻められることを恐れて、責めせまらるゝまゝに已むを得ず出したか、一寸ちよつと奇異に思はれる。然し五箇国の解文が出て見れば、経基の言はあつても、差当り将門を責むべくも無く、実際また経基の言は未然を察してあたつてゐるとは云へ、興世王武芝等の間の和解をすゝめに来た者を、目前の形勢を自分が誤解して、盃中はいちゆうの蛇影に驚き、恨みを二人に含んで、ひるに謀反を以てしたのではあるから、「虚言を心中に巧みにし」と将門記の文にある通りで、将門の罪せらるき理拠は無い。又し実際将門が謀反をあへてしようとして居たならば、不軌ふきはかるほどの者が、打解けて語らつたことも無い興世王や経基の処へわざ/\出掛けて、半日片時へんしの間に経基に見破らるべき間抜さをあらはすはずも無いから、此時は未だ叛をはかつたとは云へない。むしろ種※(二の字点、1-2-22)の事情が分つて見れば、東国に於ける将門の勢威を致した其の材幹力量は多とすべきであるから、かくの如き才を草莱さうらいに埋めて置かないで、下総守になり鎮守府ちんじゆふ将軍になりして其父の後をがせ、朝廷の為に用を為させた方が、才に任じ能を挙ぐる所以ゆゑんの道である、それで或は将門をすゝむる者もあり、或は将門の為に功果ある可きの由が廷に議せられたことも有つたか知れない、記に「諸国の告状に依り、将門の為に功果有るべきの由宮中に議せらるゝ」と記されて居るのも、虚妄きよまうで無くて、有り得べきことである。傭前介びぜんのすけ藤原子高たねたかを殺し播磨介はりまのすけ島田惟幹これもとを殺した後にさへ、純友は従五位を授けられんとしてゐる、其は天慶二年の事である。何にせよかれあしかれ将門は経基の訴の後、おほいなる問題、注意人物のゆうとして京師の人※(二の字点、1-2-22)に認められたに疑無いから、経基の言は将門の運命に取つては一転換の機を為してゐるのである。
 良兼は今はもう将門の敵たるに堪へ無くなつて、此年六月上旬病死して居るのであるが、死前には病牀にしながら鬚髪しゆはつを除いて入道したといふから、これまた一可憐の好老爺だつたらうと思はれる。貞盛は良兼には死なれ、孤影蕭然こえいせうぜん、たゞ叔母婿をばむこの維幾を頼みにして、将門の眼を忍び、常陸の彼方此方かなたこなたき月日を送つて居た。良兼が死んでは、下総一国は全く将門の旗下はたしたになつた。

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