とは記に載つてゐるところだが、これは疑はしい。こゝに事実の前後錯誤と年月の間違があるらしい。将門は幾度も符を以て召喚されたが、最初一度は上洛し、後は上洛せずに、英保純行に委曲(ゐきよく)を告げたのである。将門はそれで宜(よ)いが、良兼等は其儘(そのまゝ)指を啣(くは)へて終ふ訳には、これも阪東武者の腹の虫が承知しない。甥(おひ)の小僧つ子に塩をつけられて、国香亡き後は一族の長者たる良兼ともある者が屈してしまふことは出来ない。護も貞盛も女達も瞋恚(しんい)の火を燃(もや)さない訳は無い。将門が都から帰つて来て流石(さすが)に謹慎して居る状(さま)を見るに及んで、怨を晴らし恥辱を雪(そゝ)ぐは此時と、良兼等は亦復(また/\)押寄せた。其年八月六日に下総境の例の小貝川の渡に良兼の軍は来た。今度は良兼もをかしな智慧(ちゑ)を出して、将門の父良将祖父高望王の像を陣頭に持出して、さあ箭(や)が放せるなら放して見よ、鉾先(ほこさき)が向けらるゝなら向けて見よと、取つて蒐(かゝ)つた。籠城でもした末に百計尽き力乏しくなつてならばいざ知らず、随分いやな事をしたものだが、如何(いか)に将門勇猛なりとも此には閉口した。「親の位牌(ゐはい)で頭こつつり」といふ演劇には、大概な暴れ者も恐れ入る格で、根が無茶苦茶な男では無い将門は神妙におとなしくして居た。おとなしくした方が何程腹の中は強いか知れないのだが、差当つて手が出せぬのを見ると、良兼の方は勝誇つた。豊田郡の栗栖院(くるすゐん)、常羽御厩(いくはのみうまや)や将門領地の民家などを焼払つて、其翌日さつと引揚げた。 芝居で云へば性根場(しやうねば)といふところになつた。将門は一ト塩つけられて怒気胸に充(み)ち塞(ふさ)がつたが、如何とも為(せ)ん方(かた)は無かつた。で、其月十七日になつて兵を集めて、大方郷(おほかたがう)堀越の渡に陣を構へ、敵を禦(ふせ)がうとした。大方郷は豊田郡大房村の地で、堀越は今水路が変つて渡頭(ととう)では無いが堀籠村といふところである。併(しか)し将門は前度とは異つて、手痛くは働か無かつた。記には、脚気を病んで居て、毎事朦(もうもう)としてゐたといふが、そればかりが原因か、或は都での訓諭に恐懼(きようく)して、仮りにも尊族に対して私(わたくし)に兵具を動かすことは悪いと思つた、しほらしい勇士の一面の優美の感情から、吽(うん)と忍耐したのかも知れない。弱くない者には却(かへ)つて此様(かう)いふ調子はあるものである。で、はか/″\しい抵抗も何等敢(あへ)てしなかつたから、良兼の軍は思ふが儘に乱暴した。前の恨を霽(は)らすは此時と、郡中を攻掠(こうりやく)し焚焼(ふんせう)して、随分甚(ひど)い損害を与へた。将門は島郡(ぐん)の葦津江、今の蘆谷といふところに蟄伏(ちつぷく)したが、猶危険が身に逼(せま)るので、妻子を船に乗せて広河(ひろかは)の江に泛(うか)べ、おのれは要害のよい陸閉といふところに籠つた。広河の江といふのは飯沼(いひぬま)の事で、飯沼は今は甚(はなはだ)しく小さくなつてゐるが、それは徳川氏の時になつて、伊達弥(だてや)惣兵衛(そうべゑ)為永(ためなが)といふものが、享保年間に飯沼の水が利根川より高いこと一丈九尺、鬼怒川より高いこと横根口で六尺九寸、内守谷川辰口(たつぐち)で一丈といふことを知つて、大工事を起して、水を落し、数千町歩の新田を造つたからである。陸閉といふ地は不明だが、蓋(けだ)し降間(ふるま)の誤写で、後の岡田郡降間木(ふるまぎ)村の地だらうといふことである。降間木ももと降間木沼とかいふ沼があつたところである。さあ物語は一大関節にさしかゝつた。将門が斯様におとなしくして居て、むしろ敵を避け身を屈して居るやうになつたところで、良兼方の一分は立つたのだから、其儘に良兼方が凱歌を奏して退(ひ)いて終(しま)つたれば、或は和解の助言なども他から入つて、宜い程のところに双方折合(をりあ)ふといふことも成立つたか知れないのである。ところが転石の山より下(くだ)るや其の勢(いきほひ)必ず加はる道理で、終(つひ)に良兼将門は両立す可からざる運命に到着した。それは将門が安穏を得させようとして跡を埋め身を隠させた其の愛妻を敵が発見したことであつた。どうも良兼方の憎悪は此の妻にかゝつて居たらしい。それ占(し)めたといふのであつたらう、忽ちに手対(てむか)ふ者を討殺(うちころ)し、七八艘(さう)の船に積載した財貨三千余端を掠奪し、かよわい妻子を無漸(むざん)にも斬殺(きりころ)してしまつたのが、同月十九日の事であつた。元来火薬が無かつた訳では無いから、如何に一旦は神妙にしてゐても、此処(こゝ)に至つて爆発せずには居ない。後の世の頼朝が伊豆に潜(ひそ)んで居た時も、たゞおとなしく世を終つたかも知れないが、伊東入道に意中の女は引離され児は松川に投入れらるゝに及んで、ぶる/\と其の巨(おほ)きい頭を振つて牙(きば)を咬(か)んで怒り、せめては伊豆一国の主になつて此恨を晴らさうと奮ひ立つたとある。人間以上に心を置けば、恩愛に惹(ひ)かれて動転するのは弱くも浅くも甲斐(かひ)無くもあるが、人間としては恩愛の情の已(や)み難(がた)いのは無理も無いことである。如何(いか)に相馬小次郎が勇士でも心臓が筑波御影(つくばみかげ)で出来てゐる訳でもあるまいから、落さうと思つた妻子を殺されては、涙をこぼして口惜(くやし)がり、拳を握りつめて怒つたことであらう。これはまた暴れ出さずには居られない訳だ。しかしまだ私闘である、私闘の心が刻毒になつて来たのみである、謀反(むほん)をしようとは思つて居ないのである。 記の此処(こゝ)の文が妙に拗(ねぢ)れて居るので、清宮秀堅は、将門の妻は殺されたのでは無くて上総(かづさ)に拘(とら)はれたので、九月十日になつて弟の謀(はかりごと)によつて逃帰つたといふ事に読んでゐる。然し文に「妻子同共討取」とあるから、何様(どう)も妻子は殺されたらしく、逃還(にげかへ)つたのは一緒に居(い)た妾であるらしい。が、「爰将門妻去夫留、忿怨不レ少」「件妻背二同気之中一、迯二帰於夫家一」とあるところを見ると、妻が拘はれたやうでもある。「妾恒存二真婦之心一」「妾之舎弟等成レ謀」とあるところを見ると、妾のやうでもある。妻妾二字、形相近いから何共紛(まぎ)らはしいが、妻子同共討取の六字があるので、妻子は殺されたものと読んで居る人もある。どちらにしても強くは言張り難いが、「然而将門尚与二伯父一為二宿世之讐一」といふ句によつて、何にせよ此事が深い怨恨(ゑんこん)になつた事と見て差支(さしつかへ)は無い。しばらく妻子は殺されて、拘(とら)はれた妾は逃帰つた事と見て置く。 此事あつてより将門は遺恨(ゐこん)已(や)み難(がた)くなつたであらう、今までは何時(いつ)も敵に寄せられてから戦つたのであるが、今度は我から軍を率(ひき)ゐて、良兼が常陸(ひたち)の真壁郡の服織(はつとり)、即ち今の筑波山の羽鳥に居たのを攻め立つた。良兼は筑波山に拠(よ)つたから羽鳥を焼払ひ、戦書を贈(おく)つて是非の一戦を遂(と)げようとしたが、良兼は陣を堅くして戦は無かつたので、将門は復讐的に散(さん/″\)敵地を荒して帰つた。斯様(かう)なれば互(たがひ)に怨恨(ゑんこん)は重(かさ)なるのみであるが、良兼の方は何様(どう)しても官職を帯びて居るので、官符は下(くだ)つて、将門を追捕すべき事になつた。良兼、護、今は父の後を襲ふた常陸大掾(ひたちのだいじよう)貞盛、良兼の子の公雅、公連、それから秦清文(はたきよぶみ)、此等が皆職を帯びて、武蔵、安房(あは)、上総、下総、常陸、下野諸国の武士を駆催(かりもよほ)して将門を取つて押へようとする。将門は将門で後へは引け無くなつたから勢威を張り味方を募(つの)つて対抗する。諸国の介(すけ)や守(かみ)や掾(じよう)やは、騒乱を鎮める為に戮力(りくりよく)せねばならぬのであるが、元来が私闘で、其の情実を考へれば、強(あなが)ち将門を片手落に対治すべき理があるやうにも思へぬから、官符があつても誰も好んで矢の飛び剣の舞ふ中へ出て来て危い目に逢はうとはしない。将門は一人で、官職といへば別に大したものを有してゐるのでも無い、たゞ伊勢太神宮の御屯倉(みやけ)を預かつて相馬御厨(みくりや)の司(つかさ)であるに過ぎぬのであるに、父の余威を仮(か)るとは言へ、多勢の敵に対抗して居られるといふものは、勇悍(ゆうかん)である故のみでは無い、蓋(けだ)し人の同情を得てゐたからであつたらう。然無(さな)くば四方から圧逼(あつぱく)せられずには済まぬ訳である。 良兼は何様(どう)かして勝を得ようとしても、尋常(じんじやう)の勝負では勝を取ることが難かつた。そこで便宜(べんぎ)を伺(うかゞ)ひ巧計を以て事を済(な)さうと考へた。怠(おこた)り無く偵察(ていさつ)してゐると、丁度将門の雑人(ざふにん)に支部(はせつかべ)子春丸といふものがあつて、常陸の石田の民家に恋中(こひなか)の女をもつて居るので、時其許へ通ふことを聞出した。そこで子春丸をつかまへて、絹を与へたり賞与を約束したりして、将門の営の勝手を案内させることにした。将門は此頃石井に居た。石井は「いはゐ」と読むので、今の岩井が即(すなは)ちそれだ。子春丸は恋と慾とに心を取られ、良兼の意に従つて、主人の営所の勝手を悉(こと/″\)く良兼の士に教へた。良兼はほくそ笑(ゑ)んで、手腕のある者八十余騎を択(えら)んで、ひそ/\と不意打をかける支度をさせた。十二月の十四日の夕に良兼の手の者は発して、首尾よく敵地に突入し、風の如くに進んで石井の営に斫入(きりい)つた。将門の士は十人にも足らなかつたが、敵が襲ふのを注進した者があつて、急に起つて防ぎ戦つた。将門も奮闘(ふんとう)した。良兼の上兵多治良利(たぢのよしとし)は一挙に敵を屠(ほふ)らんと努力したが、運拙(つたな)く射殺(いころ)されたので、寄手は却(かへ)つて散になつて、命を落す者四十余人、可なり手痛き戦はしたが、敵地に踏込むほどの強い武者共が随分巧みに、うま/\近づいたにもかゝはらず、此の突騎襲撃も成功しなかつた。双方が精鋭驍勇(げうゆう)、死物狂ひを極(きは)め尽した活動写真的の此の華しい騎馬戦も、将門方の一騎士が結城寺の前で敵が不意打に来たなと悟つて、良兼方の騎士の後から尾行(びかう)して居て、鴨橋(かもはし)(今の結城(ゆふき)郡新宿(しんじゆく)村のかま橋)から急に駈抜(かけぬ)けて注進したため、危くも将門は勝を得てしまつた。良兼は此の失敗に多く勇士を失ひ、気屈して、勢(いきほひ)衰へ、怏(あう/\)として楽まず、其後は何も仕出(しいだ)し得ず、翌年天慶二年の六月上旬病死して終(しま)つた。子春丸は事あらはれて、不意討の日から幾程も無く捕へられて殺されてしまつた。 突騎襲撃の不成功に終つた翌年の春、良兼は手を出すことも出来無くなつてゐるし、貞盛も為すこと無く居ねばならぬので、かくては果てじと、貞盛は京上(のぼ)りを企てた。都へ行つて将門の横暴を訴へ、天威を藉(か)りてこれを亡(ほろ)ぼさうといふのである。将門はこれを覚(さと)つて、貞盛に兎角(とかく)云ひこしらへさせては面倒であると、急に百余騎を率(ひき)ゐて追駈けた。二月の二十九日、山道を心がけた貞盛に、信濃(しなの)の小県(ちひさがた)の国分寺(こくぶじ)の辺で追ひついて戦つた。貞盛も思ひ設けぬでは無かつたから防ぎ箭(や)を射つた。貞盛方の佗田真樹は戦死し、将門方の文屋好立(ぶんやのよしたつ)は負傷したが助かつた。貞盛は辛(から)くも逃(のが)れて、遂(つひ)に京に到(いた)り、将門暴威を振ふの始終を申立てた。此歳五月改元、天慶元年となつて、其の六月、朝廷より将門を召すの符を得て常陸に帰り、常陸介藤原維幾(これちか)の手から将門に渡した。将門は符を得ても命を奉じ無かつた。維幾は貞盛の叔母婿(をばむこ)であつた。 貞盛が京上りをした翌天慶二年の事である。武蔵の国にも紛擾(ふんぜう)が生じた。これも当時の地方に於て綱紀の漸(やうや)く弛(ゆる)んだことを証拠立てるものであるが、それは武蔵権守興世王と、武蔵介経基と、足立郡司判官武芝とが葛藤(かつとう)を結んで解けぬことであつた。武芝は武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の後で、足立(あだち)埼玉(さいたま)二郡は国中で早く開けたところであり、それから漸く人烟(じんえん)多くなつて、奥羽への官道の多摩(たま)郡中の今の府中のあるところに庁が出来たのであるが、武芝は旧家であつて、累代の恩威を積んでゐたから、当時中勢力のあつたものであらう、そこへ新(あらた)に権守(ごんのかみ)になつた興世王と新に介(すけ)になつた経基とが来た。経基は清和源氏の祖で六孫王其人である。興世王とは如何なる人であるか、古より誰も余り言はぬが、既に王といはれて居り、又経基との地位の関係から考へて見ても、帝系に出でゝ二代目位か三代目位の人であらう。高望王が上総介、六孫王が武蔵介、およそかゝる身分の人がかゝる官に任ぜられたのは当時の習(ならひ)であるから、興世王も蓋(けだ)し然様(さう)いふ人と考へて失当(しつたう)でもあるまい。其頃桓武天皇様の御子万多(まんた)親王の御子の正躬(まさみ)王の御後には、住世(すみよ)、基世(もとよ)、助世、尚世(ひさよ)、などいふ方があり、又正躬王御弟には保世(やすよ)、継世(つぐよ)、家世など皆世の字のついた方が沢山(たくさん)あり、又桓武天皇様の御子仲野親王の御子にも茂世、輔世(すけよ)、季世(すゑよ)など世のついた方が沢山に御在(おいで)であるところから推(お)して考へると、興世王は或は前掲二親王の中のいづれかの後であつたかとも思へるが、系譜で見出さぬ以上は妄測(まうそく)は力が無い。たゞ時代が丁度相応するので或はと思ふのである。日本外史や日本史で見ると、いきなり「兇険にして乱を好む」とあつて、何となく熊坂長範(ちやうはん)か何ぞのやうに思へるが、何様(どう)いふものであらうか。扨(さて)此の興世王と経基とは、共に我(が)の強い勢(いきほひ)の猛(さか)しい人であつたと見え、前例では正任未だ到(いた)らざるの間は部に入る事を得ざるのであるのに、推(お)して部に入つて検視しようとした。武芝は年来公務に恪勤(かくきん)して上下(しやうか)の噂も好いものであつたが、前例を申して之を拒(こば)んだ。ところが、郡司の分際(ぶんざい)で無礼千万であると、兵力づくで強(し)ひて入部し、国内を凋弊(てうへい)し、人民を損耗(そんかう)せしめんとした。武芝は敵せないから逃げ匿(かく)れると、武芝の私物(しぶつ)まで検封してしまつた。で、武芝は返還を逼(せま)ると、却(かへ)つて干戈(かんくわ)の備(そなへ)をして頑(ぐわん)として聴かず、暴を以て傲つた。是によつて国書生等は不治悔過(ふぢくわいくわ)の一巻を作つて庁前に遺(のこ)し、興世王等を謗(そし)り、国郡に其非違を分明にしたから、武蔵一国は大に不穏を呈した。そして経基と興世王ともまた必らずしも睦(むつ)まじくは無く、様なことが隣国下総に聴えた。将門は国の守でも何でも無いが、今は勢威おのづから生じて、大親分のやうな調子で世に立つて居た。武蔵の騒がしいことを聞くと、武芝は近親では無いが、一つ扱つてやらう、といふ好意で郎等(らうどう)を率(したが)へて武蔵へ赴(おもむ)いた。武芝は喜んで本末を語り、将門と共に府に向つた。興世王と経基とは恰(あたか)も狭服山に在つたが、興世王だけは既(すで)に府に在(あ)るに会ひ、将門は興世王と武芝とを和解せしめ、府衙(ふが)で各数杯を傾けて居つたが、経基は未だ山北に在つた。其中武芝の従兵等は丁度経基の営所を囲んだやうになつた。経基は仲悪くして敵の如き思ひをなしてゐる武芝の従兵等が自分の営所を囲んだのを見て、たゞちに逃(のが)れ去つてしまつて、将門の言によりて武芝興世王等が和して自分一人を殺さうとするのであると合点した。そこで将門興世王を大(おほい)に恨んで、京に馳せ上つて、将門興世王謀反の企(くはだて)を致し居る由を太政官に訴へた。六孫王の言であるから忽ち信ぜられた。将門が兵を動かして威を奮つてゐることは、既に源護、平良兼、平貞盛等の訴(うつたへ)によりて、かねて知れて居るところへ、経基が此言によつて、今までのさま/″\の事は濃い陰影をなして、新らしい非常事態をクッキリと浮みあらはした。 将門の方は和解の事画餅(ぐわへい)に属して、おもしろくも無く石井に帰つたが、三月九日の経基の讒奏(ざんそう)は、自分に取つて一方(ひとかた)ならぬ運命の転換を齎(もた)らして居るとも知る由(よし)無くて居た。都ではかねてより阪東が騒がしかつた上に愈(いよ/\)謀反といふことであるから、容易ならぬ事と公卿(くぎやう)諸司の詮議に上つたことであらう。同月二十五日、太政大臣忠平から、中宮少(ちゆうぐうせう)進多治(しんたぢ)真人(まびと)助真(すけざね)に事の実否を挙ぐべき由の教書を寄せ、将門を責めた。将門も謀反とあつては驚いたことであらうが、たとひ驕倣(けうがう)にせよ実際まだ謀反をしたのでは無いから、常陸下総下毛武蔵上毛五箇国の解文(げもん)を取つて、謀反の事の無実の由を、五月二日を以て申出た。余国は知らず、常陸から此の解文は出しさうも無いことであつた。少くとも常陸では、将門謀反の由の言を幸ひとして、虚妄(きよまう)にせよ将門を誣(し)ひて陥(おとしい)れさうなところである。貞盛の姑夫(をばむこ)たる藤原維幾が、将門に好感情を有してゐる筈は無いが、まさか未(いま)だ嘗(かつ)て謀反もして居らぬ者に謀反の大罪を与へることは出来兼ねて解文を出したか、それとも短兵急に将門から攻められることを恐れて、責め逼(せま)らるゝまゝに已むを得ず出したか、一寸(ちよつと)奇異に思はれる。然し五箇国の解文が出て見れば、経基の言はあつても、差当り将門を責むべくも無く、実際また経基の言は未然を察して中(あた)つてゐるとは云へ、興世王武芝等の間の和解を勧(すゝ)めに来た者を、目前の形勢を自分が誤解して、盃中(はいちゆう)の蛇影に驚き、恨みを二人に含んで、誣(し)ひるに謀反を以てしたのではあるから、「虚言を心中に巧みにし」と将門記の文にある通りで、将門の罪せらる可(べ)き理拠は無い。又若(も)し実際将門が謀反を敢(あへ)てしようとして居たならば、不軌(ふき)を図(はか)るほどの者が、打解けて語らつたことも無い興世王や経基の処へわざ/\出掛けて、半日片時(へんし)の間に経基に見破らるべき間抜さをあらはす筈(はず)も無いから、此時は未だ叛を図(はか)つたとは云へない。むしろ種の事情が分つて見れば、東国に於ける将門の勢威を致した其の材幹力量は多とすべきであるから、是(かく)の如き才を草莱(さうらい)に埋めて置かないで、下総守になり鎮守府(ちんじゆふ)将軍になりして其父の後を襲(つ)がせ、朝廷の為に用を為させた方が、才に任じ能を挙ぐる所以(ゆゑん)の道である、それで或は将門を薦(すゝ)むる者もあり、或は将門の為に功果ある可きの由が廷に議せられたことも有つたか知れない、記に「諸国の告状に依り、将門の為に功果有るべきの由宮中に議せらるゝ」と記されて居るのも、虚妄(きよまう)で無くて、有り得べきことである。傭前介(びぜんのすけ)藤原子高(たねたか)を殺し播磨介(はりまのすけ)島田惟幹(これもと)を殺した後にさへ、純友は従五位を授けられんとしてゐる、其は天慶二年の事である。何にせよ善(よ)かれ悪(あし)かれ将門は経基の訴の後、大(おほい)なる問題、注意人物の雄(ゆう)として京師の人に認められたに疑無いから、経基の言は将門の運命に取つては一転換の機を為してゐるのである。 良兼は今はもう将門の敵たるに堪へ無くなつて、此年六月上旬病死して居るのであるが、死前には病牀に臥(ふ)しながら鬚髪(しゆはつ)を除いて入道したといふから、是(これ)も亦(また)一可憐の好老爺だつたらうと思はれる。貞盛は良兼には死なれ、孤影蕭然(こえいせうぜん)、たゞ叔母婿(をばむこ)の維幾を頼みにして、将門の眼を忍び、常陸の彼方此方(かなたこなた)に憂(う)き月日を送つて居た。良兼が死んでは、下総一国は全く将門の旗下(はたした)になつた。
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