戯曲はこゝに何程でも書き出される。かつて同じ千葉県下に起つた事実で斯(か)ういふのがあつた。将門ほど強い男でも何でも無いが、可なりの田邑(でんいふ)を有してゐる片孤(へんこ)があつた。其の児の未(いま)だ成長せぬ間、親戚の或る者は其の田邑を自由にして居たが、其の児の成人したに至つて当然之を返附しなければならなくなつた。ところで其の親戚は自分の娘を其の男に娶(めと)らせて、自己は親として其の家に臨む可く計画した。娘は醜くも無く愚でもなかつたが、男は自己が拘束されるやうになることを厭ふ余りに其の娘を強く嫌つて、其の婚儀を勧めた一族達と烈しく衝突してしまつた。悲劇はそこから生じて男は放蕩者(はうたうもの)となり、家は乱脈となり、紛争は転輾(てんてん)増大して、終に可なりの旧家が村にも落着いて居られぬやうになつた。これを知つてゐる自分の眼からは、一齣(いつしやく)の曲が観えてならない。真に夢の如き想像ではあるが、国香と護とは同国の大掾であつて、二重にも三重にもの縁合となつて居り、居処も同じ地で、極めて親しかつたに違ひ無い。若し将門が護の女(むすめ)を欲したならば、国香は出来かぬる縁をも纏(まと)めようとしたことであらう。其の方が将門を我が意の下に置くに便宜ではないか。して見れば将門始末の記するが如きことは先づ起りさうもない。もし反対に、護の女を国香が口をきいて将門に娶(めと)らせようとして、そして将門が強く之を拒否した場合には、国香は源家に対しても、自己の企に於ても償(つぐな)ひ難き失敗をした訳になつて、貞盛や良兼や良正と共に非常な嫌な思ひをしたことであらうし、護や其子等は不面目を得て憤恨したであらう。将門の妻は如何なる人の女であつたか知らぬが、千葉系図や相馬系図を見れば、将門の子は良兌(よしなほ)、将国、景遠、千世丸等があり、又十二人の実子があつたなどと云ふ事も見えるから、桔梗(ききやう)の前の物語こそは、薬品の桔梗の上品が相馬から出たに本づく戯曲家の作意ではあらうが、妻妾(さいせう)共に存したことは言ふまでも無い。で、将門が源家の女を蔑視(べつし)して顧みず、他より妻を迎へたとすると、面目を重んずる此時代の事として、国香も護の子等も、殊に源家の者は黙つて居られないことになる。そこで談判論争の末は双方後へ退らぬことになり、武士の意気地上、護の子の扶、隆、繁の三人は将門を敵に取つて闘ふに至つたらうと想像しても非常な無理はあるまい。 闘(たたかひ)は何にせよ将門が京より帰つて後数年にして発したので、其の場所は下総の結城郡と常陸の真壁郡の接壌地方であり、時は承平五年の二月である。どちらから戦(いくさ)をしかけたのだか明記はないが、源の扶、隆等が住地で起つたのでも無く、将門の田園所在地から起つたのでも無い。将門の方から攻掛けたやうに、歴史が書いてゐるのは確実で無い。将門と源氏等と、どちらが其の本領まで戦場から近いかと云へば、将門の方が近いくらゐである。相馬から出たなら遠いが、本郷や鎌庭からなら近いところから考へると、将門が結城あたりへ行かうとして出た途中を要撃したものらしい。左も無くては釣合が取れない。若し将門が攻めて行つたのを禦(ふせ)いだものとしては、子飼川を渉(わた)つたり鬼怒(きぬ)川(がは)を渡つたりして居て、地理上合点が行かぬ。将門記に其の闘の時の記事中見ゆる地名は、野本、大串、取木等で、皆常陸の下妻附近であるが、野本は下総の野爪、大串は真壁の大越、取木は取不原(とりふばら)の誤か、或は本木村といふのである。攻防いづれがいづれか不明だが、記には「爰(こゝ)に将門罷(や)まんと欲すれども能はず、進まんと擬するに由無し、然して身を励まして勧拠し、刃を交へて合戦す」とあるに照らすと、何様も扶等が陣を張つて通路を截(き)つて戦を挑(いど)んだのである。此の闘は将門の勝利に帰し、扶等三人は打死した。将門は勝に乗じて猛烈に敵地を焼き立て、石田に及んだ。国香は既に老衰して居た事だらう、何故(なぜ)といへば、国香の弟の弟の第二子若くは第三子の将門が既に三十三歳なのであるから。国香は戦死したか、又焼立てられて自殺したか、後の書の記載は不詳である。双方の是非曲直は原因すら不明であるから今評論が出来ぬが、何にせよ源護の方でも鬱懐已(や)む能(あた)はずして是(こゝ)に至つたのであらうし、将門の方でも刀を抜いて見れば修羅心熾盛(しせい)になつて、遣りつけるだけは遣りつけたのだらう。然しこゝに注意しなければならぬのは、是はたゞ私闘であつて、謀反(むほん)をして国の治者たる大掾を殺したのではない事である。 貞盛は国香の子として京に在つて此事を聞いて暇(いとま)を請(こ)うて帰郷した。記に此場合の貞盛の心を書いて、「貞盛倩(つら/\)案内を検するに、およそ将門は本意の敵にあらず、これ源氏の縁坐也云。孀母(さうぼ)は堂に在り、子にあらずば誰か養はん、田地は数あり、我にあらずば誰か領せん、将門に睦(むつ)びて云、乃(すなは)ち対面せんと擬す」とある。国香死亡記事の本文は分らないが、此の文気を観ると、将門が国香を心底から殺さうとしたので無いことは、貞盛が自認してゐるので、源氏の縁坐で斯様(かやう)の事も出来たのであるから、無暗(むやみ)に将門を悪(にく)むべくも無い、一族の事であるから寧(むし)ろ和睦(わぼく)しよう、といふのである。前に云つた通り将門は自分を攻めに来た良兼を取囲んだ時もわざと逃がした人である、国香を強ひて殺さう訳は無い。貞盛の此の言を考へると、全く源氏と戦つたので、余波が国香に及んだのであらう。伯父殺しを心掛けて将門が攻寄せたものならば、貞盛に斯様(かう)いふ詞の出せる訳も無い。但し国香としては田邑(でんいふ)の事につきて将門に対して心弱いこともあつた歟(か)、さらずも居館を焼亡されて撃退することも得せぬ恥辱に堪へかねて死んだのであらうか。こゝにも戯曲的光景がいろ/\に描き出さるゝ余地がある。まして国香の郎党佗田真樹は弱い者では無い、後に至つて戦死して居る程の者であるから、将門の兵が競ひかゝつて国香を攻めたのならば、何等かの事蹟を生ずべき訳である。 良正は高望王の庶子で、妻は護の女(むすめ)であつた。護は老いて三子を尽(こと/″\)く失つたのだから悲嘆に暮れたことは推測される。そこで父の歎(なげき)、弟の恨(うらみ)、良正の妻は夫に対して報復の一ト合戦をすゝめたのも無理は無い。云はれて見れば後へは退けぬので、良正は軍兵を動かして水守(みづもり)から出立した。水守は筑波山(つくばさん)の南の北条の西である。兵は進んで下総堺の小貝川の川曲に来た。川曲は「かはわた」と訓(よ)んだのであらう、今の川又村の地で当時は川の東岸であつたらしい。一水を渡れば豊田郡で将門領である。貞盛が此時加担して居なかつたのであるのは注意すべきだ。将門の方でも、其義ならば伯父とは云へ一ト塩つけてやれと云ふので出動した。時は其年の十月廿一日であつた。将門の軍は勝を得て、良正は散に打(うち)なされて退いた。此も私闘である。将門はまだ謀反はして居らぬ、勝つて本郷へ帰つた。「負け碁(ご)は兎角あとをひく也」で、良正は独力の及ぶ可からざるを以て下総介良兼(或はいふ上総介)に助勢を頼んで将門に憂き目を見せようとした。良兼は護の縁につながつて居る者の中の長者であつた。良兼の妻も内から牝鶏(めんどり)のすゝめを試みた。雄鶏は終(つひ)に閧(とき)の声をつくつた。同六年六月二十六日、十二分に準備したる良兼は上総下総の兵を発して、上総の地で下総へ斗入(とにふ)してゐる武射(むさ)郡の径路から下総の香取郡の神崎(かうざき)へ押出した。神崎は滑川より下、佐原より上の利根川沿岸の地だ。それより大河を渡つて常陸の信太郡の江前の津へかゝつた。江前はえのさきで、今の江戸崎である。それから翌日、良正がゐる筑波の南の水守へ到着したといふ事だ。私闘は段と大きくなつた。関を打破つて通りこそせざれ、間道を通つて、苟(いやしく)も何の介(すけ)といふ者が、官司の禁遏(きんあつ)を省みず武力で争はうといふのである。良正は喜んで迎へた。貞盛も参会した。良兼は貞盛に対(むか)つて、常平太何事ぞ我等と与にせざるや、財物を掠(かす)められ、家倉を焼かれ、親類を害せられて、穏便を旨(むね)とするは何ぞや、早合力して将門を討ち候へと、叔父様顔(さんがほ)の道理らしく説いた。言はれて見れば其の通りであるから、貞盛も吾が女房の兄弟の仇、言はず語らずの父の讐(かたき)であるから、心得た、と言切つた。姉妹三人の夫たる叔父甥三人は、良兼を大将にして下野(しもつけ)を指して出発した。下野から南に下つて小次郎めを圧迫しようといふのだ。将門はこれを聞いて、御座んなれ二本棒ども、とでも思つたらう。財布の大きいものが、博奕はきつと勝つと定まつては居ないのだ。何程の事かあらん、一ト当てあてゝやれと、此方(こちら)からも下野境まで兵を出したが、如何さま敵は大軍で、地も動き草も靡(なび)くばかりの勢堂と攻めて来た。良兼の軍は馬も肥え人も勇み、鎧(よろひ)の毛もあざやかに、旗指物もいさぎよく、弓矢、刀薙刀(なぎなた)、いづれ美しく、掻楯(かいだて)ひし/\と垣の如く築(つ)き立てゝ、勢ひ猛に壮(さか)んに見えた。将門の軍は二度の戦に甲冑(かつちう)も摺(す)れ、兵具(ひやうぐ)も十二分ならず、人数も薄く寒げに見えた。譬(たと)へば敵の毛羽艶やかに峨冠(がくわん)紅に聳(そび)えたる鶏の如く、此方(こなた)は見苦しき羽抜鳥の肩そぼろに胸露(あら)はに貧しげなるが如くであつたが、戦つて見ると羽ふくよかなる地鶏は生命知らずの軍鶏(しやも)の敵では無かつた。将門の手下の勇士等は忽(たちま)ちに風の木の葉と敵を打払つた。良兼の勢は先を争つて逃げる、将門は鞭を揚げ名を呼(よば)はつて勢に乗つて吶喊(とつかん)し駆け崩した。敵はきたなくも下野の府に閉塞されてしまつた。こゝで将門が刻毒に攻立てたら、或は良兼等を酷(ひど)いめにあはせ得たかも知らぬが、将門の性質の美の窺(うかゞひ)知らるゝところはここにあつて、妻の故を以て伯父を殺したと云はるゝを欲せぬために一方をゆるして其の逃ぐるに任(まか)せた。良兼等は危い生命を助かつて、辛(から)くも遁(のが)れ去つてしまつた。そこで将門は明かな勝利を得て、府の日記へ、下総介が無道に押寄せて合戦しかけた事と、これを追退けてしまつたことをば明白に記録して置いて、悠然と自領へ引取つた。火事は大分燃広がつた、私闘は余国までの騒ぎになつたが、しかもまだ私闘である、謀反(むほん)をしたのでは無かつた。これだけの大事になつたのであるから、四方隣国も皆手出しこそせざれ、目を側(そば)だてゝ注意したに相違ない。将門が国庁の記録に事実をとゞめ、四方に実際を知らしめたのは、為し得て男らしく立派に智慮もあり威勢もあることであつた。 源護の方は事を起した最初より一度も好い目を見無かつた。痴者(ちしや)が衣服の焼け穴をいぢるやうに、猿が疵口(きずくち)を気にするやうに、段と悪いところを大きくして、散な事になつたが、いやに賢く狡滑(かうくわつ)なものは、自分の生命を抛出(なげだ)して闘ふといふことをせずに、いつも他の勢力や威力や道理らしいことやを味方にして敵を窘(くるし)めることに長(た)けたものだ。何様(どう)いふ告訴状を上(たてまつ)つたか知らぬが、多分自分が前の常陸大掾であつたことと、現常陸大掾であつた国香の死したことを利用して、将門が暴威に募り乱逆を敢(あへ)てしたことを申立てたに相違無く、そしてそれから後世の史をして将門常陸大掾国香を殺すと書かしめるに至らせたのであらう。去年十二月二十九日の符が、今年九月になつて、左近衛番長の正六位上英保純行(あぼのすみゆき)、英保氏立、宇自加支興(もちおき)等によつて齎(もた)らされ、下毛下総常陸等の諸国に朝命が示され、原告源護、被告将門、および国香の麾下(きか)の佗田真樹を召寄せらるゝ事になつた、そこで将門は其年十月十七日、急に上京して公庭に立つた。一部始終を申立てた。阪東訛(ばんどうなま)りの雑つた蛮音(ばんおん)で、三戦連勝の勢に乗じ、がん/\と遣付(やりつけ)たことであらう。もとより事実を陰蔽して白粉を傅(つ)けた談をするが如きことは敢(あへ)てし無かつたらう。箭(や)が来たから箭を酬(むく)いた、刀が加へられたから刀を加へた、弓箭(ゆみや)取る身の是非に及ばず合戦仕つて幸(さいはひ)に斬り勝ち申したでござる、と言つたに過ぎまい。勿論私(わたくし)に兵仗(へいぢやう)を動かした責罰譴誨(けんくわい)は受けたに相違あるまいが、事情が分明して見れば、重罪に問ふには足(た)ら無いことが認められたのに、かてゝ加へて皇室御慶事があつたので、何等罪せらるゝに至らず、承平七年四月七日一件落着して恩詔を拝した。検非違使(けびゐし)庁(ちやう)の推問に遇(あ)うて、そして将門の男らしいことや、勇威を振つたことは、却(かへ)つて都の評判となつて同情を得たことと見える。然し干戈(かんくわ)を動かしたことは、深く公より譴責(けんせき)されたに疑無い。で、同年五月十一日に京を辞して下総に帰つた。
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