千鍾(せんしよう)の酒も少く、一句の言も多いといふことがある。受授が情を異にし啄(そつたく)が機に違(たが)へば、何も彼(か)もおもしろく無くつて、其れも是もまづいことになる。だから大抵の事は黙つてゐるに越したことは無い、大抵の文は書かぬが優(まさ)つてゐる。また大抵の事は聴かぬがよい、大抵の書は読まぬがよい。何も申(さる)の歳だからとて、視ざる聴かざる言はざるを尚(たつと)ぶわけでは無いが、嚢(なう)を括(くゝ)れば咎(とが)無しといふのは古(いにしへ)からの通り文句である。酒を飲んで酒に飲まれるといふことを何処かの小父さんに教へられたことがあるが、書を読んで書に読まれるなどは、酒に飲まれたよりも詰らない話だ。人を飲むほどの酒はイヤにアルコホルの強い奴で、人を読むほどの書も性(たち)がよろしくないのだらう。そんなものを書いて貰はなくてもよいから、そんなものを読んでやらなくてもよい理屈で、「一枚ぬげば肩がはら無い」世をあつさりと春風の中で遊んで暮らせるものを、下らない文字といふものに交渉をもつて、書いたり読んだり読ませたり、挙句(あげく)の果には読まれたりして、それが人文進歩の道程の、何のとは、はてあり難いことではあるが、どうも大抵の書は読まぬがよい、大抵の文は書かぬがよい。酒をつくらず酒飲まずなら、「下戸やすらかに睡る春の夜」で、天下太平、愚痴無智の尼入道となつて、あかつきのむく起きに南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)でも吐出した方が洒落(しやれ)てゐるらしい。何かの因果で、宿債(しゆくさい)未(いま)だ了(れう)せずとやらでもある、か毛武(まうぶ)総常(そうじやう)の水の上に度遊んだ篷底(はうてい)の夢の余りによしなしごとを書きつけはしたが、もとより人を酔はさう意(こゝろ)も無い、書かずともと思つてゐるほどだから、読まずともとも思つてゐる。たゞ宿酔(しゆくすゐ)猶(なほ)残つて眼の中がむづゝく人もあらば、羅山が詩にした大河の水ほど淡いものだから、却(かへ)つて胃熱を洗ふぐらゐのことはあらうか。飲むも飲まぬも読むも読まぬも、人の勝手で、刀根(とね)の川波いつもさらつく同様、紙に鉛筆のあたり傍題(はうだい)。 六人箱を枕の夢に、そも我こそは桓武(くわんむ)天皇の後胤(こういん)に鎮守府将軍良将(よしまさ)が子、相馬の小次郎将門(まさかど)なれ、承平天慶のむかしの恨(うら)み、利根の川水日夜に流れて滔(たう/\)汨(ゐつ/\)千古経(ふ)れども未だ一念の痕(あと)を洗はねば、(なんぢ)に欝懐の委曲を語りて、修羅(しゆら)の苦因を晴るけんとぞ思ふ、と大(おほ)ドロ/\で現はれ出た訳でも何でも無いが、一体将門は気の毒な人である。大日本史には叛臣伝に出されて、日本はじまつて以来の不埒者(ふらちもの)に扱はれてゐるが、ほんとに悪(にく)むべき窺(きゆ)の心をいだいたものであらうか。それとも勢(いきほひ)に駆られ情に激して、水は静かなれども風之を狂はせば巨浪怒つて騰(あが)つて天を拍(う)つに至つたのだらうか。先づそこから出立して考へて見ることを敢(あへ)てしないで、いきなり幸島(さじま)の偽闕(ぎけつ)、平親王呼はり、といふところから不届至極のしれ者とされゝば、一言も無いには定まつて居るが、事跡からのみ論じて心理を問は無いのは、乾燥派史家の安全な遣り方であるにせよ、情無いことであつて、今日の裁判には少し潤(うるほ)ひがあつて宜い訳だ。そこで自然と古来の史書雑籍を読んで、それに読まれてしまつた人で無い者の間には、不服を称(とな)ふる者も出て来て、現に明治年間には大審院、控訴院、宮内省等に対して申理を求めんとした人さへあつたほどである。然無(さな)くても古より今に至るまで、関東諸国の民、あすこにも此所にも将門の霊を祀(まつ)つて、隠然として其の所謂(いはゆる)天位の覬覦(きゆ)者(しや)たる不届者に同情し、之を愛敬してゐることを事実に示してゐる。此等は抑(そも/\)何に胚胎(はいたい)してゐるのであらうか、又抑(そも)何を語つてゐるのだらうか。たゞ其の驍勇(げうゆう)慓悍(へうかん)をしのぶためのみならば、然程(さほど)にはなるまいでは無いか。考へどころは十二分にある。 心理から事跡を曲解するのは不都合であるが、事跡から心理を即断するのも不都合である。まして事跡から心理を即断して、そして事実を捏造(ねつざう)し出すに至つては、愈(いよ/\)以て不都合である。日本外史はおもしろい書であるが、それに拠(よ)ると、将門が在京の日に比叡(ひえい)の山頂に藤原純友(すみとも)と共に立つて皇居を俯瞰(ふかん)して、我は王族なり、当(まさ)に天子となるべし、卿は藤原氏なり、関白となるべし、と約束したとある。これは神皇正統記やなぞに拠(よ)つたのであるが、これでは将門は飛んでも無い純粋の謀反人(むほんにん)で、其罪逃るゝよしも無い者である。然しさういふ事が有り得るものであらうか。楚(そ)の項羽(かうう)や漢の高祖が未だ事を挙げざる前、秦(しん)の始皇帝の行列を観て、項羽は取つて以て代るべしと言ひ、高祖は大丈夫応(まさ)に是の如くなるべしと言つたといふ、其の史記の記事から化けて出たやうなことだ。二人の言ですら、性格描写として看(み)れば非常に巧妙であるが、事実としては、史記に酔はぬ限は受取れない。黄石公を実在の人として受取るほどに読まれてしまへば、二人の言を受取らうし、大鏡を信仰しきつて、正統記を有難がればそれまでだが、どうも史記の香がしてならない。丁度将門乱の時の朱雀帝頃は漢文学の研究の大に行はれた時で、天慶の二年十一月、天皇様が史記を左中弁藤原在衡(ありひら)を侍読(じどく)として始めて読まれ、前帝醍醐(だいご)天皇様は三善清行(みよしきよつら)を御相手に史記を読まれた事などがある。それは兎に角大日本史も山陽同様に此事を記してゐるが、大日本史の筆法は博(ひろ)く采(と)ることはこれ有り、精(くは)しく判ずることは未だしといふ遣り方である。で、織田鷹洲(ようしう)などは頭から叡山上の談を受取らない。清宮秀堅(せいみやひでかた)も受取らない。秀堅は鷹洲(ようしう)のやうに将門に同情してゐる人では無くて、「平賊の事、言ふに足らざる也、彼や鴟梟(しけう)之性を以て、豕蛇(しい)の勢に乗じ、肆然(しぜん)として自から新皇と称し、偽都を建て、偽官を置き、狂妄(きやうまう)ほとんど桓玄司馬倫の為(ゐ)に類す、宜(うべ)なるかな踵(くびす)を回(かへ)さずして誅(ちゆう)に伏するや」と云つて居るほどである。然し下瞰京師のことに就ては、「将門はもと検非違使佐(けびゐしのすけ)たらんことを求めて得ず、憤を懐(いだ)いて郷に帰り、遂に禍を首(はじ)むるのみ、後に興世(おきよ)を得て始めて僣称(せんしよう)す。猶(なほ)源頼朝の蛭(ひる)が島(しま)に在りしや、僅(わづか)に伊豆一国の主たらんことを願ひしも、大江広元を得るに及びて始めて天下を攘(ぬす)みしが如き也、正統記大鏡等、蓋(けだ)し其跡に就いて而して之を拡張せる也、故に採(と)らず」と云つてゐる。此言は心裏(しんり)を想ひやつて意を立てゝゐるのだから、此も亦中(あた)ると中らざるとは別であるが、而も正統記等が其跡に就いて拡張したのであらうといふことは、一箭双鵬(いつせんさうてう)を貫いてゐる。宮本仲笏(ちゆうこつ)は、扶桑略記に「純友遙(はるか)に将門謀反(むほん)之由をきゝて亦乱逆を企つ」とあるのに照らして見れば、是れ将門と相約せるにあらざること明らかなりと云つてゐる。純友の南海を乱したのが同時であつたので、如何(いか)にも将門純友が合謀したことは、たとへば後の石田三成と上杉景勝とが合謀した如くに見え、そこで天子関白の分ちどりといふ談も起つたのであらう。純友は伊予掾(いよのじよう)で、承平年中に南海道に群盗の起つた時、紀淑人(きのよしひと)が伊予守で之を追捕した其の事を助けてゐたが、其中に賊の余党を誘つて自分も賊をはじめたのである。将門の事とはおのづから別途に属するので、将門の方は私闘――即ち常陸大掾(ひたちだいじよう)国香や前(さきの)常陸大掾源護(みなもとのまもる)一族と闘つたことから引つゞいて、終(つひ)に天慶二年に至つて始めて私闘から乱賊に変じたのである。其間に将門は一旦上京して上申し、私闘の罪を赦(ゆる)されたことがある位である、それは承平七年の四月七日である。さすれば純友と将門と合謀の事は無い。随(したが)つて叡山瞰京(かんきやう)の事も、演劇的には有つた方が精彩があるかも知れないが、事実的には受取りかねるのである。そこで夙(つと)に覬覦(きゆ)の心を懐(いだ)いてゐたといふことは、面白さうではあるが、正統記に返還して宜(よ)いのである。正統記の作者は皇室尊崇の忠篤の念によつて彼の著述をしたのであるから、将門如きは出来るだけ筆墨の力によつて対治して置きたい余りに、深く事実を考ふるに及ばずして書いたのであらう。山陽外史に至つては多く意を経ないで筆にしたに過ぎない。 将門が検非違使(けびゐし)の佐(すけ)たらんことを求めたといふことも、神皇正統記の記事からで、それは当時の武人としては有りさうな望である。然し検非違使でゞもあれば兎に角、検非違使の別当は参議以上であるから、無位無官の者が突然にそれを望むべくは無い。して見れば検非違使の佐か尉(じよう)かを望んだとして解すべきである。これならば釣合はぬことでは無い。其代りに将門の器量は大に小さくなることであつて、そんなケチな官を望む者が、純友と共に天子関白わけ取りを心がけるとなると、前後が余りに釣合はぬことになる。明末の李自成が落第に憤慨して流賊となつたやうなものであると、秀堅は論じてゐるが、それは少しをかしい。彼(かの)国の及第は大臣宰相にもなるの径路であるから、落第は非常の失望にもならうが、我邦で検非違使佐や尉になれたからとて、前途洋として春の如しといふ訳にはならない。随つて摂政忠平が省みなかつたために検非違使佐や尉になれ無いとて、謀反(むほん)をしようとまで憤怨する訳もない。此事は、よしやかゝる望を抱いたことが将門にあつたとしても、謀反といふこととは余りに懸離(かけはな)れて居て、提燈(ちやうちん)と釣鐘、釣合が取れ無さ過ぎる。鷹洲は此事を頭から受取らないが、鷹洲で無くても、警部長になれなかつたから謀反(むほん)をするに至つたなどといふのは、如何に関東武士の覇気(はき)勃(ぼつ/\)たるにせよ、信じ難いことである。で、正統記に読まれることは御免を蒙らう。随つて将門始末に読まれることも御免蒙らう。 将門謀反の初発心(しよほつしん)の因由に関する記事は、皆受取れないが、一体当時の世態人情といふものは何様(どん)なであつたらう。大鏡で概略は覗へるが、世の中は先づ以て平和で、藤原氏繁盛の時、公卿は栄華に誇つて、武士は漸(やうや)く実力がありながら官位低く、屈して伸び得ず、藤原氏以外の者はたまたま菅公が暫時栄進された事はあつても遂に左遷を免れないで筑紫(つくし)に薨(こう)ぜられた。丁度公の薨ぜられた其年に将門は下総に勇ましい産声(うぶごえ)をあげたのである。抑(そも/\)醍醐帝頃は後世から云へばまことに平和の聖世であるが、また平安朝の形式成就の頂点のやうにも見えるが、然し実際は何に原因するかは知らず随分騒がしい事もあり、嶮(さが)しい人心の世でもあつたと覚えるのは、史上に盗の多いので気がつく。仏法は盛んであるが、迷信的で、僧侶は貴族側のもので平民側のものでは無かつた。上(かみ)に貴冑(きちう)の私曲が多かつたためでもあらうか、下には武士の私威を張ることも多かつた。公卿や嬪媛(ひんゑん)は詩歌管絃の文明にも酔つてゐたらうが、それらの犠牲となつて人民は可なり苦んでゐたらしい。要するに平安朝文明は貴族文明形式文明風流文明で、剛堅確実の立派なものと云はうよりは、繊細優麗のもので、漸(ぜん/\)と次の時代、即ち武士の時代に政権を推移せしむる準備として、月卿雲客が美女才媛等と、美しい衣(きぬ)を纏(まと)ひ美しい詞を使ひ、面白く、貴く、長閑(のどか)に、優しく、迷信的空想的詩歌的音楽的美術的女性的夢幻的享楽的虚栄的に、イソップ物語の蟋蟀(きりぎりす)のやうに、いつまでも草は常緑で世は温暖であると信じて、恋物語や節会(せちゑ)の噂で日を送つてゐる其の一方には、粗(あら)い衣を纏(まと)ひ(あら)い詞(ことば)を使ひ、面白くなく、鄙(いや)しく、行詰つた、凄(すさま)じい、これを絵画にして象徴的に現はせば餓鬼(がき)の草子の中の生物のやうな、或は小説雑話にして空想的に現はせば、酒呑童子(しゆてんどうじ)や鬼同丸(きどうまる)のやうなものもあつたのであらう。醍醐天皇の御代と云へば、古今集だの、延喜式だのの出来た時であるが、其御代の昌泰二年には、都で放火殺人が多くて、四衛府兵をして夜を警(いまし)めしめられ、其三年には上野(かうつけ)に群盗が起り、延喜元年には阪東諸国に盗起り、其三年には前安芸守(さきのあきのかみ)伴忠行は盗の為に殺され、其前後博奕(ばくち)大に行はれて、五年には逮捕をせねばならぬやうになり、其冬十月には盗賊が飛騨守(ひだのかみ)の藤原辰忠(ときたゞ)を殺し、六年には鈴鹿山に群盗あり、十五年には上野介(かうづけのすけ)藤原厚載も盗に殺され、十七年には朝に菊宴が開かれたが、世には群盗が充ち、十九年には前(さき)の武蔵の権介(ごんのすけ)源任(みなもとのたふ)が府舎を焼き官物を掠(かす)め、現任の武蔵守高向利春を襲つたりなんどするといふ有様であつた。幸に天皇様の御聖徳の深厚なのによつて、大なることには至らなかつたが、盗といふのは皆一揆(いつき)や騒擾(さうぜう)の気味合の徒で、たゞの物取りといふのとは少し違ふのである。此様な不祥のある度に威を張るのは僧侶巫覡(ふげき)で、扶桑略記(ふさうりやくき)だの、日本紀略だの、本朝世紀などを見れば、厭(いと)はしいほど現世利益を祈る祈祷が繰返されて、何程厭(いと)はしい宗教状態であるかと思はせられる。既に将門の乱が起つた時でも、浄蔵が大威徳法で将門を詛(のろ)ひ、明達が四天王法で将門を調伏し、其他神社仏寺で祈立て責立てゝ、とう/\祈り伏せたといふ事になつてゐる。かういふ時代であるから、下では石清水八幡(いはしみづはちまん)の本宮の徒と山科(やましな)の八幡新宮の徒と大喧嘩をしたり、東西両京で陰陽の具までを刻絵(きざみゑ)した男女の神像を供養礼拝して、岐神(さいの神、今の道陸神(だうろくじん)ならん)と云つて騒いだり、下らない事をしてゐる。先祖ぼめ、故郷ぼめの心理で、今までの多くの人は平安朝文明は大層立派なもののやうに言做(いひな)してゐる者も多いことであるが、少し料簡(れうけん)のある者から睨(にら)んだら、平安朝は少くも政権を朝廷より幕府へ、公卿より武士へ推移せしむるに適した準備を、気長に根深く叮嚀に順序的に執行して居たのである。かういふ時代に将門も純友も生長したのである。純友が賊衆追捕に従事して、そして盗魁(たうくわい)となつたのも、盗賊になつた方が京官になるよりも、有理であり、真面目な生活であると思つたところより、乱暴をはじめて、後に従五位下を以て招安されたにもかゝはらず、猶(な)ほ伊予、讃岐、周防、土佐、筑前と南海、山陽、西海を狂ひまはつたのかも知れない。純友は部下の藤原恒利といふ頼み切つた奴に裏斬りをされて大敗した後ですら、余勇を鼓(こ)して一挙して太宰府(だざいふ)を陥(おとしい)れた。苟(いやしく)も太宰府と云へば西海の重鎮であるが、それですら実力はそんなものであつたのである。当時崛強(くつきやう)の男で天下の実勢を洞察するの明のあつた者は、君臣の大義、順逆の至理を気にせぬ限り、何ぞ首を俯(ふ)して生白い公卿の下(もと)に付かうやと、勝手理屈で暴れさうな情態もあつたのである。
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] 下一页 尾页
連環記(れんかんき)旅行の今昔(りょこうのこんじゃく)夜の隅田川(よるのすみだがわ)雪たたき(ゆきたたき)名工出世譚(めいこうしゅっせたん)水の東京(みずのとうきょう)水(みず)風流仏(ふうりゅうぶつ)