幻談・観画談 他三篇 |
岩波文庫、岩波書店 |
1990(平成2)年11月16日 |
露伴全集 第六巻 |
岩波書店 |
1953(昭和28)年12月刊 |
こう暑くなっては皆さん方(がた)があるいは高い山に行かれたり、あるいは涼(すず)しい海辺(うみべ)に行かれたりしまして、そうしてこの悩ましい日を充実した生活の一部分として送ろうとなさるのも御尤(ごもっと)もです。が、もう老い朽(く)ちてしまえば山へも行かれず、海へも出られないでいますが、その代り小庭(こにわ)の朝露(あさつゆ)、縁側(えんがわ)の夕風ぐらいに満足して、無難に平和な日を過して行けるというもので、まあ年寄(としより)はそこいらで落着いて行かなければならないのが自然なのです。山へ登るのも極(ご)くいいことであります。深山(しんざん)に入り、高山、嶮山(けんざん)なんぞへ登るということになると、一種の神秘的な興味も多いことです。その代りまた危険も生じます訳(わけ)で、怖(おそろ)しい話が伝えられております。海もまた同じことです。今お話し致そうというのは海の話ですが、先に山の話を一度申して置きます。
それは西暦千八百六十五年の七月の十三日の午前五時半にツェルマットという処(ところ)から出発して、名高いアルプスのマッターホルンを世界始まって以来最初に征服致しましょうと心ざし、その翌十四日の夜明前(よあけまえ)から骨を折って、そうして午後一時四十分に頂上へ着きましたのが、あの名高いアルプス登攀記(とうはんき)の著者のウィンパー一行でありました。その一行八人がアルプスのマッターホルンを初めて征服したので、それから段々とアルプスも開(ひら)けたような訳です。
それは皆様がマッターホルンの征服の紀行によって御承知の通りでありますから、今私(わたくし)が申さなくても夙(つと)に御合点(ごがてん)のことですが、さてその時に、その前から他の一行即(すなわ)ち伊太利(イタリー)のカレルという人の一群がやはりそこを征服しようとして、両者は自然と競争の形になっていたのであります。しかしカレルの方は不幸にして道の取り方が違っていたために、ウィンパーの一行には負けてしまったのであります。ウィンパーの一行は登る時には、クロス、それから次に年を取った方のペーテル、それからその悴(せがれ)が二人、それからフランシス・ダグラス卿(きょう)というこれは身分のある人です。それからハドウ、それからハドス、それからウィンパーというのが一番終(しま)いで、つまり八人がその順序で登りました。
十四日の一時四十分にとうとうさしもの恐(おそろ)しいマッターホルンの頂上、天にもとどくような頂上へ登り得て大(おおい)に喜んで、それから下山にかかりました。下山にかかる時には、一番先へクロス、その次がハドウ、その次がハドス、それからフランシス・ダグラス卿、それから年を取ったところのペーテル、一番終いがウィンパー、それで段々降りて来たのでありますが、それだけの前古(ぜんこ)未曾有(みぞう)の大成功を収め得た八人は、上(のぼ)りにくらべてはなお一倍おそろしい氷雪の危険の路を用心深く辿(たど)りましたのです。ところが、第二番目のハドウ、それは少し山の経験が足りなかったせいもありましょうし、また疲労したせいもありましたろうし、イヤ、むしろ運命のせいと申したいことで、誤って滑って、一番先にいたクロスへぶつかりました。そうすると、雪や氷の蔽(おお)っている足がかりもないような険峻(けんしゅん)の処で、そういうことが起ったので、忽(たちま)ちクロスは身をさらわれ、二人は一つになって落ちて行きました訳(わけ)。あらかじめロープをもって銘々(めいめい)の身をつないで、一人が落ちても他が踏(ふみ)止(とど)まり、そして個々の危険を救うようにしてあったのでありますけれども、何せ絶壁の処で落ちかかったのですから堪(たま)りません、二人に負けて第三番目も落ちて行く。それからフランシス・ダグラス卿は四番目にいたのですが、三人の下へ落ちて行く勢(いきおい)で、この人も下へ連れて行かれました。ダグラス卿とあとの四人との間でロープはピンと張られました。四人はウンと踏(ふみ)堪(こら)えました。落ちる四人と堪(こら)える四人との間で、ロープは力足らずしてプツリと切れて終(しま)いました。丁度(ちょうど)午後三時のことでありましたが、前の四人は四千尺ばかりの氷雪の処を逆(さか)おとしに落下したのです。後(あと)の人は其処(そこ)へ残ったけれども、見る見る自分たちの一行の半分は逆落しになって深い深い谷底へ落ちて行くのを目にしたその心持はどんなでしたろう。それで上に残った者は狂人の如く興奮し、死人の如く絶望し、手足も動かせぬようになったけれども、さてあるべきではありませぬから、自分たちも今度は滑って死ぬばかりか、不測の運命に臨んでいる身と思いながら段々下(お)りてまいりまして、そうして漸(ようや)く午後の六時頃に幾何(いくら)か危険の少いところまで下りて来ました。
下りては来ましたが、つい先刻(さっき)まで一緒にいた人々がもう訳も分らぬ山の魔の手にさらわれて終(しま)ったと思うと、不思議な心理状態になっていたに相違ありません。で、我々はそういう場合へ行ったことがなくて、ただ話のみを聞いただけでは、それらの人の心の中(うち)がどんなものであったろうかということは、先ず殆(ほとん)ど想像出来ぬのでありまするが、そのウィンパーの記したものによりますると、その時夕方六時頃です、ペーテル一族の者は山登りに馴れている人ですが、その一人がふと見るというと、リスカンという方に、ぼうっとしたアーチのようなものが見えましたので、はてナと目を留(と)めておりますると、外(ほか)の者もその見ている方を見ました。するとやがてそのアーチの処へ西洋諸国の人にとっては東洋の我々が思うのとは違った感情を持つところの十字架の形が、それも小さいのではない、大きな十字架の形が二つ、ありあり空中に見えました。それで皆もなにかこの世の感じでない感じを以(もっ)てそれを見ました、と記してありまする。それが一人見たのではありませぬ、残っていた人にみな見えたと申すのです。十字架は我々の五輪(ごりん)の塔(とう)同様なものです。それは時に山の気象で以(もっ)て何かの形が見えることもあるものでありますが、とにかく今のさきまで生きておった一行の者が亡くなって、そうしてその後(あと)へ持って来て四人が皆そういう十字架を見た、それも一人(ひとり)二人(ふたり)に見えたのでなく、四人に見えたのでした。山にはよく自分の身体(からだ)の影が光線の投げられる状態によって、向う側へ現われることがありまする。四人の中(うち)にはそういう幻影かと思った者もあったでしょう、そこで自分たちが手を動かしたり身体(からだ)を動かして見たところが、それには何らの関係がなかったと申します。
これでこの話はお終(しま)いに致します。古い経文(きょうもん)の言葉に、心は巧(たく)みなる画師(えし)の如し、とございます。何となく思浮(おもいうか)めらるる言葉ではござりませぬか。
さてお話し致しますのは、自分が魚釣(うおつり)を楽(たのし)んでおりました頃、或(ある)先輩から承(うけたまわ)りました御話(おはなし)です。徳川期もまだひどく末にならない時分の事でございます。江戸は本所(ほんじょ)の方に住んでおられました人で――本所という処は余り位置の高くない武士どもが多くいた処で、よく本所の小(こ)ッ旗本(ぱたもと)などと江戸の諺(ことわざ)で申した位で、千石(ごく)とまではならないような何百石というような小さな身分の人たちが住んでおりました。これもやはりそういう身分の人で、物事がよく出来るので以(もっ)て、一時は役(やく)づいておりました。役づいておりますれば、つまり出世の道も開けて、宜(よろ)しい訳でしたが、どうも世の中というものはむずかしいもので、その人が良いから出世するという風には決(きま)っていないもので、かえって外(ほか)の者の嫉(そね)みや憎みをも受けまして、そうして役を取上げられまする、そうすると大概小普請(こぶしん)というのに入る。出る杙(くい)が打たれて済んで御(お)小普請、などと申しまして、小普請入りというのは、つまり非役(ひやく)になったというほどの意味になります。この人も良い人であったけれども小普請入(いり)になって、小普請になってみれば閑(ひま)なものですから、御用は殆どないので、釣(つり)を楽みにしておりました。別に活計(くらし)に困る訳じゃなし、奢(おご)りも致さず、偏屈でもなく、ものはよく分る、男も好(よ)し、誰が目にも良い人。そういう人でしたから、他の人に面倒な関係なんかを及ぼさない釣を楽んでいたのは極く結構な御話でした。
そこでこの人、暇具合(ひまぐあい)さえ良ければ釣に出ておりました。神田川(かんだがわ)の方に船宿(ふなやど)があって、日取(ひど)り即ち約束の日には船頭が本所側の方に舟を持って来ているから、其処(そこ)からその舟に乗って、そうして釣に出て行く。帰る時も舟から直(じき)に本所側に上(あが)って、自分の屋敷へ行く、まことに都合好くなっておりました。そして潮の好い時には毎日のようにケイズを釣っておりました。ケイズと申しますと、私が江戸訛(なま)りを言うものとお思いになる方もありましょうが、今は皆様カイズカイズとおっしゃいますが、カイズは訛りで、ケイズが本当です。系図を言えば鯛(たい)の中(うち)、というので、系図鯛(けいずだい)を略してケイズという黒い鯛で、あの恵比寿(えびす)様が抱いていらっしゃるものです。イヤ、斯様(かよう)に申しますと、えびす様の抱いていらっしゃるのは赤い鯛ではないか、変なことばかり言う人だと、また叱られますか知れませんが、これは野必大(やひつだい)と申す博物の先生が申されたことです。第一えびす様が持っていられるようなああいう竿(さお)では赤い鯛は釣りませぬものです。黒鯛(くろだい)ならああいう竿で丁度釣れますのです。釣竿の談(だん)になりますので、よけいなことですがちょっと申し添えます。
或(ある)日のこと、この人が例の如く舟に乗って出ました。船頭の吉(きち)というのはもう五十過ぎて、船頭の年寄なぞというものは客が喜ばないもんでありますが、この人は何もそう焦(あせ)って魚をむやみに獲(と)ろうというのではなし、吉というのは年は取っているけれども、まだそれでもそんなにぼけているほど年を取っているのじゃなし、ものはいろいろよく知っているし、この人は吉を好い船頭として始終使っていたのです。釣船頭というものは魚釣の指南番(しなんばん)か案内人のように思う方もあるかも知れませぬけれども、元来そういうものじゃないので、ただ魚釣をして遊ぶ人の相手になるまでで、つまり客を扱うものなんですから、長く船頭をしていた者なんぞというものはよく人を呑込(のみこ)み、そうして人が愉快と思うこと、不愉快と思うことを呑込んで、愉快と思うように時間を送らせることが出来れば、それが好い船頭です。網船頭(あみせんどう)なぞというものはなおのことそうです。網は御客自身打つ人もあるけれども先ずは網打(あみうち)が打って魚を獲るのです。といって魚を獲って活計(くらし)を立てる漁師とは異(ちが)う。客に魚を与えることを多くするより、客に網漁(あみりょう)に出たという興味を与えるのが主(しゅ)です。ですから網打だの釣船頭だのというものは、洒落(しゃれ)が分らないような者じゃそれになっていない。遊客も芸者の顔を見れば三弦(しゃみ)を弾(ひ)き歌を唄わせ、お酌(しゃく)には扇子(せんす)を取って立って舞わせる、むやみに多く歌舞(かぶ)を提供させるのが好いと思っているような人は、まだまるで遊びを知らないのと同じく、魚にばかりこだわっているのは、いわゆる二才客(にさいきゃく)です。といって釣に出て釣らなくても可(よ)いという理屈はありませんが、アコギに船頭を使って無理にでも魚を獲ろうというようなところは通り越している人ですから、老船頭の吉でも、かえってそれを好いとしているのでした。
ケイズ釣というのは釣の中でもまた他の釣と様子が違う。なぜかと言いますと、他の、例えばキス釣なんぞというのは立込(たちこ)みといって水の中へ入っていたり、あるいは脚榻釣(きゃたつつり)といって高い脚榻を海の中へ立て、その上に上(あが)って釣るので、魚のお通りを待っているのですから、これを悪く言う者は乞食釣(こじきづり)なんぞと言う位で、魚が通ってくれなければ仕様がない、みじめな態(ざま)だからです。それからまたボラ釣なんぞというものは、ボラという魚が余り上等の魚でない、群れ魚ですから獲れる時は重たくて仕方がない、担(にな)わなくては持てないほど獲れたりなんぞする上に、これを釣る時には舟の艫(とも)の方へ出まして、そうして大きな長い板子(いたご)や楫(かじ)なんぞを舟の小縁(こべり)から小縁へ渡して、それに腰を掛けて、風の吹きさらしにヤタ一(いち)の客よりわるいかっこうをして釣るのでありまするから、もう遊びではありません。本職の漁師みたいな姿になってしまって、まことに哀(あわ)れなものであります。が、それはまたそれで丁度そういう調子合(ちょうしあい)のことの好きな磊落(らいらく)な人が、ボラ釣は豪爽(ごうそう)で好いなどと賞美する釣であります。が、話中の人はそんな釣はしませぬ。ケイズ釣りというのはそういうのと違いまして、その時分、江戸の前の魚はずっと大川(おおかわ)へ奥深く入りましたものでありまして、永代橋(えいたいばし)新大橋(しんおおはし)より上流(かみ)の方でも釣ったものです。それですから善女(ぜんにょ)が功徳(くどく)のために地蔵尊(じぞうそん)の御影(ごえい)を刷った小紙片(しょうしへん)を両国橋(りょうごくばし)の上からハラハラと流す、それがケイズの眼球(めだま)へかぶさるなどという今からは想像も出来ないような穿(うが)ちさえありました位です。
で、川のケイズ釣は川の深い処で釣る場合は手釣(てづり)を引いたもので、竿などを振廻(ふりまわ)して使わずとも済むような訳でした。長い釣綸(つりいと)を※輪(わっか)から出して、そうして二本指で中(あた)りを考えて釣る。疲れた時には舟の小縁へ持って行って錐(きり)を立てて、その錐の上に鯨(くじら)の鬚(ひげ)を据えて、その鬚に持たせた岐(また)に綸(いと)をくいこませて休む。これを「いとかけ」と申しました。後(のち)には進歩して、その鯨の鬚の上へ鈴なんぞを附けるようになり、脈鈴(みゃくすず)と申すようになりました。脈鈴は今も用いられています。しかし今では川の様子が全く異(ちが)いまして、大川の釣は全部なくなり、ケイズの脈釣(みゃくづり)なんぞというものは何方(どなた)も御承知ないようになりました。ただしその時分でも脈釣じゃそう釣れない。そうして毎日出て本所から直ぐ鼻の先の大川の永代(えいたい)の上(かみ)あたりで以(もっ)て釣っていては興も尽きるわけですから、話中の人は、川の脈釣でなく海の竿釣をたのしみました。竿釣にも色々ありまして、明治の末頃はハタキなんぞという釣もありました。これは舟の上に立っていて、御台場(おだいば)に打付ける浪(なみ)の荒れ狂うような処へ鉤(はり)を抛(ほう)って入れて釣るのです。強い南風(みなみ)に吹かれながら、乱石(らんせき)にあたる浪(なみ)の白泡立(しらあわだ)つ中へ竿を振って餌(えさ)を打込むのですから、釣れることは釣れても随分労働的の釣であります。そんな釣はその時分にはなかった、御台場もなかったのである。それからまた今は導流柵(どうりゅうさく)なんぞで流して釣る流し釣もありますが、これもなかなか草臥(くたび)れる釣であります。釣はどうも魚を獲ろうとする三昧(さんまい)になりますと、上品でもなく、遊びも苦しくなるようでございます。
そんな釣は古い時分にはなくて、澪(みよ)の中(うち)だとか澪がらみで釣るのを澪釣(みよづり)と申しました。これは海の中に自(おのず)から水の流れる筋(すじ)がありますから、その筋をたよって舟を潮(しお)なりにちゃんと止(と)めまして、お客は将監(しょうげん)――つまり舟の頭(かしら)の方からの第一の室(ま)――に向うを向いてしゃんと坐って、そうして釣竿を右と左と八(はち)の字のように振込(ふりこ)んで、舟首(みよし)近く、甲板(かっぱ)のさきの方に亙(わた)っている簪(かんこ)の右の方へ右の竿、左の方へ左の竿をもたせ、その竿尻(さおじり)をちょっと何とかした銘々(めいめい)の随意の趣向でちょいと軽く止めて置くのであります。そうして客は端然として竿先を見ているのです。船頭は客よりも後ろの次の間(ま)にいまして、丁度お供のような形に、先ずは少し右舷(うげん)によって扣(ひか)えております。日がさす、雨がふる、いずれにも無論のこと苫(とま)というものを葺(ふ)きます。それはおもての舟梁(ふなばり)とその次の舟梁とにあいている孔(あな)に、「たてじ」を立て、二のたてじに棟(むね)を渡し、肘木(ひじき)を左右にはね出させて、肘木と肘木とを木竿で連(つら)ねて苫を受けさせます。苫一枚というのは凡(およ)そ畳(たたみ)一枚より少し大きいもの、贅沢(ぜいたく)にしますと尺長(しゃくなが)の苫は畳一枚のよりよほど長いのです。それを四枚、舟の表(おもて)の間(ま)の屋根のように葺くのでありますから、まことに具合好く、長四畳(ながよじょう)の室(へや)の天井のように引いてしまえば、苫は十分に日も雨も防ぎますから、ちゃんと座敷のようになるので、それでその苫の下即(すなわ)ち表の間――釣舟(つりぶね)は多く網舟(あみぶね)と違って表の間が深いのでありますから、まことに調子が宜(よろ)しい。そこへ茣蓙(ござ)なんぞ敷きまして、その上に敷物(しきもの)を置き、胡坐(あぐら)なんぞ掻(か)かないで正しく坐っているのが式(しき)です。故人成田屋(なりたや)が今の幸四郎(こうしろう)、当時の染五郎(そめごろう)を連れて釣に出た時、芸道舞台上では指図を仰いでも、勝手にしなせいと突放(つっぱな)して教えてくれなかったくせに、舟では染五郎の座りようを咎(とが)めて、そんな馬鹿な坐りようがあるかと激しく叱ったということを、幸四郎さんから直接に聞きましたが、メナダ釣、ケイズ釣、すずき釣、下品でない釣はすべてそんなものです。
それで魚が来ましても、また、鯛の類というものは、まことにそういう釣をする人々に具合の好く出来ているもので、鯛の二段引きと申しまして、偶(たま)には一度にガブッと食べて釣竿を持って行くというようなこともありますけれども、それはむしろ稀有(けう)の例で、ケイズは大抵は一度釣竿の先へあたりを見せて、それからちょっとして本当に食うものでありまするから、竿先の動いた時に、来たナと心づきましたら、ゆっくりと手を竿尻にかけて、次のあたりを待っている。次に魚がぎゅっと締める時に、右の竿なら右の手であわせて竿を起し、自分の直(すぐ)と後ろの方へそのまま持って行くので、そうすると後ろに船頭がいますから、これが※網(たま)をしゃんと持っていまして掬(すく)い取ります。大きくない魚を釣っても、そこが遊びですから竿をぐっと上げて廻して、後ろの船頭の方に遣(や)る。船頭は魚を掬って、鉤(はり)を外(はず)して、舟の丁度真中(まんなか)の処に活間(いけま)がありますから魚を其処(そこ)へ入れる。それから船頭がまた餌(えさ)をつける。「旦那、つきました」と言うと、竿をまた元へ戻して狙ったところへ振込むという訳であります。ですから、客は上布(じょうふ)の着物を着ていても釣ることが出来ます訳で、まことに綺麗事(きれいごと)に殿様らしく遣(や)っていられる釣です。そこで茶の好きな人は玉露(ぎょくろ)など入れて、茶盆(ちゃぼん)を傍(そば)に置いて茶を飲んでいても、相手が二段引きの鯛ですから、慣れてくればしずかに茶碗を下に置いて、そうして釣っていられる。酒の好きな人は潮間(しおま)などは酒を飲みながらも釣る。多く夏の釣でありますから、泡盛(あわもり)だとか、柳蔭(やなぎかげ)などというものが喜ばれたもので、置水屋(おきみずや)ほど大きいものではありませんが上下箱(じょうげばこ)というのに茶器酒器、食器も具(そな)えられ、ちょっとした下物(さかな)、そんなものも仕込まれてあるような訳です。万事がそういう調子なのですから、真に遊びになります。しかも舟は上(じょう)だな檜(ひのき)で洗い立ててありますれば、清潔この上なしです。しかも涼しい風のすいすい流れる海上に、片苫(かたとま)を切った舟なんぞ、遠くから見ると余所目(よそめ)から見ても如何(いか)にも涼しいものです。青い空の中へ浮上(うきあが)ったように広々(ひろびろ)と潮が張っているその上に、風のつき抜ける日蔭のある一葉(いちよう)の舟が、天から落ちた大鳥(おおとり)の一枚の羽のようにふわりとしているのですから。
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