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雁坂越(かりさかごえ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:36:23  点击:  切换到繁體中文


   その四

 ちょうどその日はたるの代り目で、前の樽の口のとちがった品ではあるが、同じの、同じ土地で出来た、しかもものは少しい位のものであるという酒店さかや挨拶あいさつを聞いて、もしや叱責こごと種子たねにはなるまいかと鬼胎おそれいだくこと大方ならず、かつまたしお※(「遙」の「しんにゅう」が「魚」、第4水準2-93-69、76-5)とびを買って来いという命令いいつけではあったが、それが無かったのでその代りとして勧められた塩鯖しおさばを買ったについても一ト方ならぬ鬼胎おそれを抱いた源三は、びくびくもので家の敷居しきいまたいでこの経由わけを話すと、叔母の顔は見る見る恐ろしくなって、その塩鯖の※包かわづつ[#「竹かんむり+擇」、補助5092、76-8]みを手にするやいなやそれでもって散々さんざんに源三をった。
 何で打たれても打たれて佳いというものがあるはずは無いが、火を見ぬ塩魚の悪腥わるなまぐさい――まして山里の日増しものの塩鯖のくさりかかったような――やつたけのかわ[#「竹かんむり+擇」、補助5092、76-10]包みで、力任せに眼とも云わず鼻とも云わず打たれるのだからこらえられた訳のものでは無い。まず※[#「竹かんむり+擇」、補助5092、76-12]幾条いくすじにもける、それでもって打たれるのでかわ[#「竹かんむり+擇」、補助5092、76-12]の裂目のひりひりしたところがはげしくさわるから、ごくごく浅いきずではあるが松葉まつばでも散らしたように微疵かすりきずが顔へつく。そこへ塩気しおけがつく、腥気なまぐさっけがつく、魚肉にく迸裂はぜて飛んで額際ひたいぎわにへばり着いているという始末、いやはや眼も当てられない可厭いやいじめようで、叔母のする事はまるで狂気きちがいだ。もちろん源三は先妻の縁引きで、しかも主人あるじひどく気に入っていて、それがために自分がここへ養子に入れて、生活状態くらしざまの割には山林やまやなんぞの資産の多いのをゆずり受けさせようと思っている我が甥がここへ入れないのであるから、にくいにはあくまで憎いであろうが、一つはこの女の性質が残忍ざんにんなせいでもあろうか、またあるいは多くの男に接したりなんぞして自然の法則を蔑視べっしした婦人等おんなたちは、ややもすれば年老としおいて女の役の無くなるころのぞむと奇妙きみょうにも心状こころ焦躁じれたり苛酷いらひどくなったりしたがるものであるから、この女もまたそれの時に臨んでいたせいででもあろうか、いかに源三のした事が気に入らないにせよ、随分ずいぶん尋常外なみはずれた責めかたである。
 最初は仕方が無いと諦めて打たれた。二度目は情無いと思いながら打たれた。三度目四度目になれば、口惜しいと思いながら打たれた。それから先はもう死んだ気になってしまって打たれていたが、余りいつまでも打たれているうちささえることの出来ないいかり勃然ぼつぜんとして骨々ほねぼね節々ふしぶしの中から起って来たので、もうこれまでと源三は抵抗ていこうしようとしかけた時、自分の気息いきが切れたと見えて叔母は突き放ってゆるした。そこで源三は抵抗もせずに、我を忘れて退いて平伏ひれふしたが、もう死んだ気どころでは無い、ほとんど全く死んでいて、眼には涙も持たずにいた。
 その夜源三はねむりかねたが、それでも少年の罪の無さには暁天方あかつきがたになってトロリとした。さて目※まどろ[#「目へん+屯」、補助4556、78-5]む間も無く朝早く目がめると、平生いつもの通り朝食あさめしの仕度にと掛ったが、その間々ひまひまにそろりそろりと雁坂越の準備よういをはじめて、重たいほどにれた我が顔の心地しさをも苦にぜず、団飯むすびからあしごしらえの仕度まですっかりして後、叔母にも朝食をさせ、自分も十分にきっし、それからすきを見て飄然ふいと出てしまった。
 家を出て二三町歩いてから持って出た脚絆きゃはんめ、団飯むすび風呂敷包ふろしきづつみをおのが手作りの穿替はきかえの草鞋わらじと共にくびにかけて背負い、腰の周囲まわりを軽くして、一ト筋の手拭てぬぐいほおかぶり、一ト筋の手拭は左の手首にくくしつけ、内懐うちぶところにはお浪にかつてもらった木綿財布もめんざいふに、いろいろのまじぜにの一円少しを入れたのをしかと納め、両の手は全空まるあきにしておいて、さて柴刈鎌しばかりがまの小長い奴を右手に持ったり左手に持ったりしながら、だんだんと川上へ登り詰めた。
 やがてさきの日叔父のことばを聞いて引返したところへかかると、源三の歩みはまた遅くなった。しかし今度は、前の日自分が腰掛けた岩としばらく隠れたおおきな岩とをややひさしく見ていたが、そのあげくに突然と声張り上げて、ちとおかしな調子で、「我は官軍、我が敵は」とさけび出して山手へと進んだ。山鳴り谷答えて、いずくにかひそんでいる悪魔あくまでも唱い返したように、「我は官軍我敵は」という歌の声は、笛吹川の水音にもまぎれずに聞えた。
 それから源三はいよいよ分りにくい山また山の中に入って行ったが、さすがは山里で人となっただけにどうやらこうやら「勘」を付けて上って、とうとう雁坂峠の絶頂へ出て、そしてはるかに遠く武蔵一国が我が脚下あしもとに開けているのを見ながら、蓬々ほうほうと吹くそらの風が頬被ほおかぶりした手拭に当るのを味った時は、おどあがり躍り上って悦んだ。しかしまた振り返って自分等が住んでいた甲斐の国の笛吹川に添う一帯の地を望んでは、黯然あんぜんとしても心もくらくなるような気持がして、しかもそのうっすりと霞んだかすみそこから、

桑を摘め摘め、爪紅さした、花洛みやこ女郎衆じょろしゅも、桑を摘め。


と清い清い澄みとおるような声で唱い出されたのが聞えた。もとより聞えるはずが有ろう訳は無いのであるが。

(明治三十六年五月)





底本:「ちくま日本文学全集 幸田露伴」筑摩書房
   1992(平成4)年3月20日第1刷発行
底本の親本:「露伴全集」岩波書店
※底本の「小書き片仮名ト」(JIS X 0213、1-6-81)は、「ト」に置き換えました。但し「トロリ」(底本78ページ-4行)の「ト」を除きます。
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:kompass
校正:林 幸雄
2001年10月2日公開
2003年11月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
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  • [#…]は、入力者による注を表す記号です。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
  • この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。

    「竹かんむり+擇」、補助5092    76-8、76-10、76-12、76-12
    「目へん+屯」、補助4556    78-5

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