その四
ちょうどその日は樽の代り目で、前の樽の口のと異った品ではあるが、同じ価の、同じ土地で出来た、しかも質は少し佳い位のものであるという酒店の挨拶を聞いて、もしや叱責の種子にはなるまいかと鬼胎を抱くこと大方ならず、かつまた塩文を買って来いという命令ではあったが、それが無かったのでその代りとして勧められた塩鯖を買ったについても一ト方ならぬ鬼胎を抱いた源三は、びくびくもので家の敷居を跨いでこの経由を話すと、叔母の顔は見る見る恐ろしくなって、その塩鯖の※包[#「竹かんむり+擇」、補助5092、76-8]みを手にするや否やそれでもって散々に源三を打った。
何で打たれても打たれて佳いというものがあるはずは無いが、火を見ぬ塩魚の悪腥い――まして山里の日増しものの塩鯖の腐りかかったような――奴の※[#「竹かんむり+擇」、補助5092、76-10]包みで、力任せに眼とも云わず鼻とも云わず打たれるのだから堪えられた訳のものでは無い。まず※[#「竹かんむり+擇」、補助5092、76-12]は幾条にも割れ裂ける、それでもって打たれるので※[#「竹かんむり+擇」、補助5092、76-12]の裂目のひりひりしたところが烈しく触るから、ごくごく浅い疵ではあるが松葉でも散らしたように微疵が顔へつく。そこへ塩気がつく、腥気がつく、魚肉が迸裂て飛んで額際にへばり着いているという始末、いやはや眼も当てられない可厭な窘めようで、叔母のする事はまるで狂気だ。もちろん源三は先妻の縁引きで、しかも主人に甚く気に入っていて、それがために自分がここへ養子に入れて、生活状態の割には山林やなんぞの資産の多いのを譲り受けさせようと思っている我が甥がここへ入れないのであるから、憎いにはあくまで憎いであろうが、一つはこの女の性質が残忍なせいでもあろうか、またあるいは多くの男に接したりなんぞして自然の法則を蔑視した婦人等は、ややもすれば年老いて女の役の無くなる頃に臨むと奇妙にも心状が焦躁たり苛酷くなったりしたがるものであるから、この女もまたそれ等の時に臨んでいたせいででもあろうか、いかに源三のした事が気に入らないにせよ、随分尋常外れた責めかたである。
最初は仕方が無いと諦めて打たれた。二度目は情無いと思いながら打たれた。三度目四度目になれば、口惜しいと思いながら打たれた。それから先はもう死んだ気になってしまって打たれていたが、余りいつまでも打たれている中に障えることの出来ない怒が勃然として骨々節々の中から起って来たので、もうこれまでと源三は抵抗しようとしかけた時、自分の気息が切れたと見えて叔母は突き放って免した。そこで源三は抵抗もせずに、我を忘れて退いて平伏したが、もう死んだ気どころでは無い、ほとんど全く死んでいて、眼には涙も持たずにいた。
その夜源三は眠りかねたが、それでも少年の罪の無さには暁天方になってトロリとした。さて目※[#「目へん+屯」、補助4556、78-5]む間も無く朝早く目が覚めると、平生の通り朝食の仕度にと掛ったが、その間々にそろりそろりと雁坂越の準備をはじめて、重たいほどに腫れた我が顔の心地悪しさをも苦にぜず、団飯から脚ごしらえの仕度まですっかりして後、叔母にも朝食をさせ、自分も十分に喫し、それから隙を見て飄然と出てしまった。
家を出て二三町歩いてから持って出た脚絆を締め、団飯の風呂敷包みをおのが手作りの穿替えの草鞋と共に頸にかけて背負い、腰の周囲を軽くして、一ト筋の手拭は頬かぶり、一ト筋の手拭は左の手首に縛しつけ、内懐にはお浪にかつてもらった木綿財布に、いろいろの交り銭の一円少し余を入れたのを確と納め、両の手は全空にしておいて、さて柴刈鎌の柄の小長い奴を右手に持ったり左手に持ったりしながら、だんだんと川上へ登り詰めた。
やがて前の日叔父の言を聞いて引返したところへかかると、源三の歩みはまた遅くなった。しかし今度は、前の日自分が腰掛けた岩としばらく隠れた大な岩とをやや久しく見ていたが、そのあげくに突然と声張り上げて、ちとおかしな調子で、「我は官軍、我が敵は」と叫び出して山手へと進んだ。山鳴り谷答えて、いずくにか潜んでいる悪魔でも唱い返したように、「我は官軍我敵は」という歌の声は、笛吹川の水音にも紛れずに聞えた。
それから源三はいよいよ分り難い山また山の中に入って行ったが、さすがは山里で人となっただけにどうやらこうやら「勘」を付けて上って、とうとう雁坂峠の絶頂へ出て、そして遥に遠く武蔵一国が我が脚下に開けているのを見ながら、蓬々と吹く天の風が頬被りした手拭に当るのを味った時は、躍り上り躍り上って悦んだ。しかしまた振り返って自分等が住んでいた甲斐の国の笛吹川に添う一帯の地を望んでは、黯然としても心も昧くなるような気持がして、しかもその薄すりと霞んだ霞の底から、
桑を摘め摘め、爪紅さした、花洛女郎衆も、桑を摘め。
と清い清い澄み徹るような声で唱い出されたのが聞えた。もとより聞えるはずが有ろう訳は無いのであるが。
(明治三十六年五月)
●表記について
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「竹かんむり+擇」、補助5092 |
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76-8、76-10、76-12、76-12 |
「目へん+屯」、補助4556 |
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78-5 |
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