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蒲生氏郷(がもううじさと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:29:12  点击:  切换到繁體中文


 氏郷の出陣には民百姓ばかりで無い、町野左近将監も聊(いささ)か危ぶんで、願わくは今しばらく土地にも慣れ、四囲の事情も明らかになってから、戦途に上って欲しいと思った。会津から佐沼への路は、第一日程は大野原を経て日橋川を渡り、猪苗代湖を右手(めて)に見て、其湖の北方なる猪苗代城に止(とど)まるのが、急いでも急がいでも行軍上至当の頃合であった。で、氏郷の軍は猪苗代城に宿営した。猪苗代城の奉行は、かつて松坂城の奉行であった町野左近将監で、これは氏郷の乳母を妻にしていて、主人とは特(こと)に親しみ深い者であった。そこで老人の危険を忌む思慮も加わってであろうが、氏郷を吾(わ)が館(やかた)に入れまいらせてから、密(ひそか)に諫言(かんげん)を上(たてまつ)って、今此の寒天に此処より遥に北の奥なるあたりに発向したまうとも、人馬も労(つか)れて働きも思うようにはなるまじく、不案内の山、川、森、沼、御勝利を得たまうにしても中々容易なるまじく思われまする、ここは一応こらえたまいて、来年の春を以て御出なされては如何でござる、と頻(しき)りに止めたのである。町野繁仍の言も道理では有るが、それはもう魂の火炎が衰えている年寄武者の意見である。氏郷此時は三十五歳で有ったから、氏郷の乳母は少くとも五十以上、其夫の繁仍は六十近くでもあったろう。老人と老馬は安全を得るということに就ては賢いものであるから、大抵の場合に於て老人には従い、老馬には騎(の)るのが危険は少い。けれども其は無事の日の事である。戦機の駈引には安全第一は寧(むし)ろ避く可きであり、時少く路長き折は老馬は取るべからずである。今起った一揆(いっき)は少しでも早く対治して終(しま)って其の根を張り枝を茂らせぬ間に芟除(かりのぞ)き抜棄てるのを機宜(きぎ)の処置とする。且又信雄が明智乱の時のような態度を取って居た日には、武道も立たぬし、秀吉の眼も瞋(いか)ろうし、木村父子を子とも旗下とも思えと、秀吉に前以て打って置かれた釘がヒシヒシと吾(わが)胸に立つ訳である。で、氏郷は町野に対して、汝の諫言を破るでは無いが、何様(どう)も然様(そう)は成りかねる、仮令(たとい)運拙(つたな)く時利あらずして吾が上はともなれかくもなれ、子とも見よ、親とも仰げと殿下の云われた木村父子を見継がぬならば、我が武道は此後全く廃(すた)る、と云切った。町野も合点の悪い男ではなかった。老眼に涙を浮べて、御尤(ごもっとも)の御仰と承わりました、然らば某(それがし)も一期(いちご)の御奉公、いさぎよく御ン先を駈け申そう、と皺腕(しわうで)をとりしぼって部署に就く事に決した。斯様(こう)いう思慮を抱き、斯様いう決着を敢てしたのは必ず町野のみでは無かったろう、一族譜代の武士達には、よくよく沸(たぎ)り切った魂の持主と、分別の遠く届く者を除いては、随分数多いことで有ったろうし、そして皆氏郷の立場を諒解するに及んで、奮然として各自の武士魂に紫色や白色の火※(「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64)(かえん)を燃やし立てたことであろう。それで無くては四方八方難儀の多い上に、横ッ腹に伊達政宗という「くせ者」が凄い眼をギロツカせて刀の柄(つか)に手を掛けて居る恐ろしい境界(きょうがい)に、毅然(きぜん)たる立派な態度を何様して保ち得られたろう! であるから氏郷の佐沼の後詰は辺土の小戦のようであるが、他の多くの有りふれた戦には優(まさ)った遣りにくい戦で、そして味わって見ると中々濃(こま)やかな味のある戦であり、鎗(やり)、刀、血みどろ、大童(おおわらわ)という大味な戦では無いのである。
 ここに不明の一怪物がある。それは云う迄もなく、殊勝な念仏行者の満海という者の生れ代りだと言われている伊達の藤次郎政宗である。生れ代りの説は和漢共に随分俗間に行われたもので、恐れ多いことだが何某(なにがし)天皇は或修行者の生れ代りにわたらせられて、其前世の髑髏(どくろ)に生いたる柳が風に揺られる度毎に頭痛を悩ませたもうたなどとさえ出鱈目(でたらめ)を申して居たこともある。武田信玄が曾我五郎の生り代りなどとは余り作意が奇抜で寧(むし)ろ滑稽(こっけい)だが、宋の蘇東坡(そとうば)は戒禅師の生れ代り、明の王陽明は入定僧(にゅうじょうそう)の生れ代り、陽明先生の如きは御丁寧にも其入定僧の屍骸(しがい)に直(じき)に対面をされたとさえ伝えられている。二生(にしょう)の人というのは転生を信じた印度に行われた古い信仰で、大抵二生の人は宿智即ち前生修行の力によって聡明(そうめい)であり、宿福即ち前世善根の徳によって幸福であり、果報広大、甚だ貴(たっと)ぶべき者とされて居る。政宗の生るる前、米沢の城下に行いすまして居た念仏行者が有って満海と云った。満海が死んで、政宗が生れた。政宗は左の掌(たなごころ)に満海の二字を握って誕生した。だから政宗は満海の生れ代りであろうと想われ、そして梵天丸という幼名はこれに因りて与えられた。梵天は此世の統治者で、二生の人たる嬰児(えいじ)の将来は、其の前生の唱名不退の大功徳によって梵天の如くにあるべしという意からの事だ。満海の生れ代りということを保証するのは御免蒙(こうむ)りたいが、梵天丸という幼名だったことは虚誕では無く、又其名が梵天帝釈(たいしゃく)に擬した祝福の意であったろう事も想察される。思うに伊達家の先人には陸奥介行宗(むつのすけゆきむね)の諡(おくりな)が念海、大膳太夫持宗が天海などと海の字の付く人が多かったから、満海の談(はなし)も何か夫等(それら)から出た語り歪めではあるまいか。都(す)べての奇異な談は大概浅人妄人無学者好奇者が何か一寸した事を語り歪めるから起るもので、語り歪めの大好物な人は現在そこらに沢山転がっている至ってお廉(やす)いしろ物であるから、奇異な談は出来傍題(ほうだい)だ。何はあれ梵天丸で育ち、梵天丸で育てられ、片倉小十郎の如き傑物に属望されて人となった政宗は立派な一大怪物だ。人取る魔の淵は音を立てぬ、案外おとなしく秀吉の前では澄ましかえったが、其の底知れぬ深さの蒼い色を湛(たた)えた静かな淵には、馬も呑めば羽をも沈めようという※(「さんずい+回」、第3水準1-86-65)(まき)を為して居るのである。不気味千万な一怪物である。
 此の政宗は確に一怪物である。然し一怪物であるからとて其の政宗を恐れるような氏郷では無い。※(「さんずい+回」、第3水準1-86-65)の水の巻く力は凄(すさま)じいものだが、水の力には陰もある陽(おもて)もある、吸込みもすれば湧上りもする。能(よ)く水を知る者は水を制することを会(え)して水に制せらるることを為さぬ。魔の淵で有ろうとも竜宮へ続く渦で有ろうとも、怖るることは無い。況(いわ)んや会津へ来た初より其政宗に近づくべく運命を賦与されて居るのであり、今は正(まさ)に其男に手を差出して触れるべき機会に立ったのである。先方の出す手が棘々満面(とげとげだらけ)の手だろうが粘滑油膩(ぬらぬらあぶら)の手だろうが鱗(うろこ)の生えた手だろうが蹼(みずかき)の有る手だろうが、何様(どん)な手だろうが構わぬ、ウンと其手を捉えて引ずり出して淵のヌシの正体を見届けねばならぬのである。秀吉は氏郷政宗に命令して置いた。新規平定の奥羽の事、一揆(いっき)騒乱など起ったる場合は、政宗は土地案内の者、政宗を先に立て案内者として共に切鎮(きりしず)めよ、という命令を下して置いた。で、氏郷は其命の通り、サア案内に立て、と政宗に掛らねばならぬのであった。其の案内人が甚だ怪しい物騒千万なもので、此方から差出す手を向うから引捉(ひっつか)んで竜宮の一町日あたりへ引込もうとするか何様かは知れたもので無いのである。此の処活動写真の、次の映画幕は何(ど)の様な光景を展開するか、タカタカ、タンタン、タカタカタンというところだが、賢い奴は猿面冠者の藤吉郎で、二十何万石という観覧料を払った代り一等席に淀君(よどぎみ)と御神酒徳利(おみきどくり)かなんかで納まりかえって見物して居るのであった。しかも洗って見れば其の観覧料も映画中の一方の役者たる藤次郎政宗さんから実は巻上げたものであった。
 木村伊勢領内一揆蜂起(ほうき)の事は、氏郷から一面秀吉ならびに関東押えの徳川家康に通報し、一面は政宗へ、土地案内者たる御辺は殿下の予(かね)ての教令により出陣征伐あるべし、と通牒(つうちょう)して置て、氏郷が出陣したことは前に述べた通りであった。五日は出発、猪苗代泊り、六日は二本松に着陣した。伊達政宗は米沢から板谷の山脈を越えてヌッと出て来た。其の兵数は一万だったとも一万五千だったとも云われて居る。氏郷勢よりは多かったので、兵が少くては何をするにも不都合だからであることは言うまでも無い。板谷山脈を越えれば直(すぐ)に飯坂だ。今は温泉場として知られて居るが、当時は城が有ったものと見える。政宗は本軍を飯坂に据えて、東の方(かた)南北に通って居る街道を俯視(ふし)しつつ氏郷勢を待った。氏郷の先鋒(せんぽう)は二本松から杉ノ目、鎌田と進んだ。杉ノ目は今の福島で、鎌田は其北に在る。政宗勢も其先鋒は其辺まで押出して居たから、両勢は近々と接近した。蒲生勢も伊達勢の様子を見れば、伊達勢も蒲生勢の様子を見たことだろう。然るに伊達勢が本気になって案内者の任を果し、先に立って一揆(いっき)対治に努力しようと進む意の無いことは、氏郷勢の場数を踏んだ老功の者の眼には明々白々に看えた。すべて他の軍の有して居る真の意向を看破することは戦に取って何より大切の事であるから、当時の武人は皆これを鍛錬して、些細(ささい)の事、機微の間にも洞察することを力(つと)めたものである。関ヶ原の戦に金吾中納言の裏切を大谷刑部(ぎょうぶ)が必ず然様(そう)と悟ったのも其の為である。氏郷の前軍の蒲生源左衛門、町野左近将監等は政宗勢の不誠実なところを看破したから大(おおい)に驚いた。一揆討伐に誠意の無いことは一揆方に意を通わせて居て、そして味方に対して害意を有(も)っているので無くて何で有ろう。それが大軍であり、地理案内者である。そこで前隊から急に蒲生四郎兵衛、玉井数馬助二人を本隊へ馳(は)せさせて政宗の異心謀叛(むほん)、疑無しと見え申す、其処に二三日も御逗留(とうりゅう)ありて猶(なお)其体をも御覧有るべし、と告げた。すると氏郷は警告を賞して之に従うかと思いのほか、大に怒って瞋眼(しんがん)から光を放った。ここは流石(さすが)に氏郷だ。二人を睨(にら)み据えて言葉も荒々しく、政宗謀叛とは初めより覚悟してこそ若松を出でたれ、何方(いずく)にもあれ支えたらば踏潰(ふみつぶ)そうまでじゃ、明日(あす)は早天に打立とうず、と罵(ののし)った。総軍はこれを聞いてウンと腹の中に堪(こた)えが出来た。
 政宗勢の方にも戦場往来の功を経た者は勿論有るし、他の軍勢の様子を見て取ろうとする眼は光って居たに違無い。見ると蒲生勢は凜(りん)としている、其頃の言葉に云う「戦(たたかい)を持っている」のである。戦を持っているというのは、何時でも火蓋(ひぶた)を切って遣りつけて呉れよう、というのである。コレハと思ったに違いない。
 氏郷は翌日早朝に天気の不利を冒して二本松を立った。今の街道よりは西の方なる、今の福島近くの大森の城に着いた。政宗遅滞するならば案内の任を有っている者より先へも進むべき勢を氏郷が示したので、政宗も役目上仕方が無いから先へ立って進んだ。氏郷は其後から油断無く陣を押した。何の事は無い政宗は厭々(いやいや)ながら逐立(おいた)てられた形だ。政宗は忌々(いまいま)しかったろうが理詰めに押されて居るので仕方が無い、何様(どう)しようも無い。氏郷は理に乗って押して居るのである。グングンと押した。大森辺から北は大崎領まで政宗領である。北へ北へと道順に云えば伊達郡、苅田(かった)郡、柴田郡、名取郡、宮城郡、黒川郡であって、黒川郡から先が一揆叛乱地(はんらんち)になって居るのである。其間随分と長い路程であるが、政宗は理に押されてシブシブながら先へ立たぬ訳にゆかず、氏郷は理に乗ってジリジリと後から押した。政宗が若(も)しも途中で下手(へた)に何事か起した日には、吾(わ)が領分では有るし、勝手は知ったり、大軍では有り、無論政宗に取って有利の歩合は多いが、吾が領内で云わば関白の代官同様な氏郷に力沙汰に及んだ日には、免(まぬか)るるところ無く明白に天下に対して弓を挽(ひ)いた者となって終(しま)って、自ら救う道は絶対に無いのである。そこを知らぬ政宗では無いから、振捩(ふりもぎ)ろうにも蹴たぐろうにも為(せ)ん術(すべ)無くて押されている。又そこを知り切っている氏郷だから、業を為るなら仕て見よ、と十分に腰を落して油断無くグイグイ押す。氏郷の方が現われたところでは勢を得ている。でも押す方にも押される方にも、力士と力士との双方に云うに云われぬ気味合が有るから、寒気も甚(ひど)かったし天気も悪かったろうが、福島近傍の大森から、政宗領のはずれ、叛乱地の境近くに至るまでに十日もかかって居る。
 此間(かん)政宗は面白く無い思をしたであろうが、其代り氏郷も酷(ひど)い目にあっている。それは此十日の間に通った地方は政宗の家の恩威が早くから行われて居た地で、政宗の九代前の政家、十代前の宗遠あたりが切従えたのだから、中頃之を失ったことが有るにせよ、今又政宗に属しているので、土豪民庶皆伊達家贔屓(びいき)であるからであった。本来なら氏郷政宗は友軍であるから、氏郷軍の便宜をば政宗領の者も提供すべき筋合であるが、前に挙げた如く人民は蒲生勢を酷遇した。寒天風雪の時に当って宿を仮さなかったり敷物を仮さなかったり、薪や諸道具を供することを拒んだ。朧月夜(おぼろづきよ)にしくものぞ無き、という歌なんどは宜いが、雪まじり雨の降る夜の露営つづきは如何に強い武人であり優しい歌人であり侘(わび)の味知りの茶人である氏郷でも、木(こ)の下風(したかぜ)は寒くして頬に知らるる雪ぞ降りけるなどは感心し無かったろう。桑折(こおり)、苅田、岩沼、丸森などの処々、斯様(こう)いう目を見たのであるから、蒲生家の士の正望の書いたものに「憎しということ限り無し」と政宗領の町人百姓の事を罵(ののし)っているのも道理である。
 押されつ押しつして、十一月の十七日になった。仲冬の寒い奥州の長途も尽きて漸(ようや)く目ざす叛乱地に近づいた。政宗は吾が領の殆んど尽頭(はずれ)の黒川の前野に陣取った。前野とあるのは多分富谷から吉岡へ至る路の東に当って、今は舞野というところで即ち吉岡の舞野であろう。其処で其日政宗から氏郷へ使者が来た。使者の口上は、明日路ははや敵の領分にて候、当地のそれがしが柴の庵(いおり)、何の風情も無く侘しうは候が、何彼(なにか)と万端御意を得度く候間、明朝御馬を寄せられ候わば本望たる可く、粗茶進上仕度(つかまりたく)候、という慇懃(いんぎん)なものであった。日頃懇意の友情こまやかなる中ならば、干戈(かんか)弓鉄砲の地へ踏込む前に当って、床の間の花、釜の沸音(にえおと)、物静かなる草堂の中で風流にくつろぎ語るのは、趣も深く味も遠く、何という楽しくも亦嬉しいことであろう。然し相手が相手である、伊達政宗である。異(おつ)な手を出して来たぞ、あやしいぞ、とは氏郷の家来達の誰しも思ったことだろう。皆氏郷の返辞を何と有ろうと注意したことであろう。ところが氏郷は平然として答えた。誠に御懇志かたじけのうこそ候え、明朝参りて御礼を申そうず、というのであった。
 イヤ驚いたのは家来達であった。政宗謀叛(むほん)とは初めより覚悟してこそ若松を出たれ、と云った主人が、政宗に招かれて躪(にじ)り上りから其茶室へ這入(はい)ろうというのである。若(も)し彼方に於てあらかじめ大力手利(てきき)の打手を用意し、押取籠(おっとりこ)めて打ってかからんには誰か防ぎ得よう。主人若し打たれては残卒全からず、何十里の敵地、其処(そこ)の川、何処の峡(はざま)で待設けられては人種(ひとだね)も尽きるであろう。こは是れ一期(いちご)の大事到来と、千丈の絶壁に足を爪立て、万仞(ばんじん)の深き淵に臨んだ思がしたろう。飛んでも無い返辞をして呉れたものだと、怨みもし呆れもし悲みもした事であろう。然し忠三郎氏郷は忠三郎氏郷だ。しおらしくも茶を習うたる田舎大名が、茶に招くというに我が行かぬ法は無い、往(ゆ)いて危いことは有るとも、招くに往かずば臆したに当る、機に臨みて身を扱おうに、何程の事が有ろうぞ、朝の茶とあるに手間暇はいらぬ、立寄って政宗が言語(ものいい)面色(つらつき)をも見て呉りょう、というのであったろう。政宗の方には何様いう企図が有ったか分らぬ。蒲生方では政宗が氏郷を茶讌(ちゃえん)に招いたのは、正(まさ)に氏郷を数寄屋(すきや)の中で討取ろう為であったと明記して居る。然しそれは実際然様(そう)だったかも知れぬが、何も政宗の方で手を出して居る事実が無いから、蒲生方で然様思ったという証拠にはなるが、政宗方で然様いう企を仕たという証拠にはならぬ。又万一然様いう企をしたとすれば、鶺鴒(せきれい)の印の眼球(めだま)で申開きをするほどの政宗が、直接自分の臣下などに手を下させて、後に至って何様(どう)ともすることの出来ぬような不利の証拠を遺そうようはない。前野と敵地大崎領とは目睫(もくしょう)の間であるから、或は一揆方(いっきがた)の剛の者を手引して氏郷の油断に乗じて殺させ、そして政宗方の者が起って其者共を其場で切殺して口を滅して終(しま)おう、という企をしたというのならば、其の企も聊(いささ)かは有り得もす可きことになる。然(さ)も無くば政宗にしては些(ちと)智慧が足らないで手ばかり荒いように思える。但し蒲生方の言も全く想像にせよ中(あた)って居るところが有るのでは無いかと思われる所以(ゆえん)は幾箇条もあり、又ずっと後に至って政宗が氏郷に対して取った挙動で一寸窺(うかが)えるような気のすることがある。それは後に至って言おう。此処では政宗に悪意が有った証は無いというのを公平とする。が、何にせよ此時蒲生方に取って主人氏郷が茶讌(ちゃえん)に赴くことを非常に危ぶんだことは事実で、そして其の疑懼(ぎく)の念を懐(いだ)いたのも無理ならぬことであった。氏郷が其の請を拒まないで、何程の事やあらんと懼(おそ)れ気(げ)も無しに、水深うして底を知らざる魔の淵の竜窟鮫室(こうしつ)の中に平然として入ろうとするのは、縮むことを知らない胆ッ玉だ。織田信長は稲葉一鉄を茶室に殺そうとしたし、黒田孝高(よしたか)は城井谷鎮房(しずふさ)を酒席で遣りつけて居る世の中であるに。
 夜は明けた、十八日の朝となった。氏郷は約に従って政宗を訪(と)うた。氏郷は無論馬上で出かけたろうが、服装は何様であったか記されたものが無い。如何にこれから戦に赴く途中であるとしても、皆具(かいぐ)取鎧(とりよろ)うて草摺長(くさずりなが)にザックと着なした大鎧(おおよろい)で茶室へも通れまいし、又如何に茶に招かれたにしても直(ただち)に其場より修羅の衢(ちまた)に踏込もうというのに袴(はかま)肩衣(かたぎぬ)で、其肩衣の鯨も抜いたような形(なり)も変である。利久高足と云われた氏郷だから、必ずや武略では無い茶略を然るべく見せて、工合の宜い形で参会したろうが、一寸想像が出来ない。是は茶道鍛錬の人への問題に提供して置く。氏郷の家来達は勿論甲冑(かっちゅう)で、鎗(やり)や薙刀(なぎなた)、弓、鉄砲、昨日に変ること無く犇々(ひしひし)と身を固めて主人に前駆後衛した事であろう。やがて前野に着く。政宗方は迎える。氏郷は数寄屋の路地へ潜門(くぐり)を入ると、伊達の家来はハタと扉を立てんとした。これを見ると氏郷に随(したが)って来た蒲生源左衛門、蒲生忠左衛門、蒲生四郎兵衛、町野左近将監、新参ではあるが名うての荒武者佐久間玄蕃が弟と聞えた佐久間久右衛門、同苗(どうみょう)舎弟(しゃてい)源六、綿利(わたり)八右衛門など一人当千の勇士の面々、火の中にもあれ水の中にもあれ、死出三途(さんず)主従一緒と思詰めたる者共が堪(たま)り兼ねてツツと躍り出た。伊達の家来は此(こ)は狼籍(ろうぜき)に近き振舞と支え立てせんとした。制して制さるる男共であればこそ、右と左へ伊達の家来を押退け押飛ばして、楯(たて)に取る門の扉をもメリメリと押破った。氏郷の相伴つかまつって苦しい者ではござらぬ、蒲生源左衛門罷(まか)り通る、蒲生忠右衛門罷り通る、町野左近将監罷り通る、罷り通る、罷り通る、と陣鐘(じんがね)のような声もあれば陣太鼓のような声も有る、陣法螺(じんぼら)吹立てるような声も有って、間(あわい)隔たったる味方の軍勢の耳にも響けかしに勢い猛(たけ)く挨拶して押通った。茶の道に押掛の客というも有るが、これが真個(ほんと)の押掛けで、もとより大鎧罩手(こて)臑当(すねあて)の出で立ちの、射向けの袖(そで)に風を切って、長やかなる陣刀の鐺(こじり)あたり散らして、寄付(よりつき)の席に居流れたのは、鴻門(こうもん)の会に樊※(「口+會」、第3水準1-15-25)(はんかい)が駈込んで、怒眼を円(つぶら)に張って項王を睨(にら)んだにも勝ったろう。外面(そとも)は又外面で、士卒各々兜(かぶと)の緒を緊(し)め、鉄砲の火縄に火をささぬばかりにし、太刀(たち)を取りしぼって、座の中に心を通わせ、イザと云えばオッと応えようと振い立っていた。これでは仮令(たとい)政宗に何の企が有っても手は出せぬ形勢であった。
 茶の湯に主と家来とは一緒に招く場合も有るべき訳で、主従といえば離れぬ中である。然し主人と臣下とを如何に茶なればとて同列にすることは其の主に対しては失礼であり、其の臣下に対しては※上(せんじょう)[#「にんべん+(先+先)/日」、1038-下-25]に堪うる能(あた)わざらしむるものであるから、織田有楽(うらく)の工夫であったか何様であったか、客席に上段下段を設けて、膝突合わすほど狭い室ではあるが主を上段に家来を下段に坐せしむるようにした席も有ったと記(おぼ)えている。主従関係の確立して居た当時、もとより主従は一列にさるべきものでは無い。多分政宗方では物柔らかに其他意無きを示して、書院で饗応(きょうおう)でも仕たろうが、鎧武者(よろいむしゃ)を七人も八人も数寄屋に請ずることは出来もせぬことであり、主従の礼を無視するにも当るから、御免蒙(こうむ)ったろう。扨(さて)政宗出坐して氏郷を請じ入れ、時勢であるから茶談軍談取交(とりま)ぜて、寧(むし)ろ軍事談の方を多く会話したろうが、此時氏郷が、佐沼への道の程に一揆(いっき)の城は何程候、と前路の模様を問うたに対し、政宗は、佐沼へは是より田舎町(六町程歟(か))百四十里ばかりにて候、其間に一揆の籠(こも)りたる高清水と申すが佐沼より三十里此方(こなた)に候、其の外には一つも候わず、と謀(はか)るところ有る為に偽りを云ったと蒲生方では記している。殊更に虚言を云ったのか、精(くわ)しく情報を得て居なかったのか分らぬ。次いで起る事情の展開に照らして考えるほかは無い。然(さ)候わば今日道通りの民家を焼払わしめ、明日は高清水を踏潰(ふみつぶ)し候わん、と氏郷は云ったが、目論見(もくろみ)の齟齬(そご)した政宗は無念さの余りに第二の一手を出して、毒を仕込み置いたる茶を立てて氏郷に飲ませた、と云われている。毒薬には劇毒で飲むと直(じき)に死ぬのも有ろうし、程経て利くのも有ろうが、かかる場合に飲んで直に血反吐(ちへど)を出すような毒を飼おうようは無いから、仕込んだなら緩毒、少くとも二三日後になって其効をあらわす毒を仕込んだであろう。氏郷も怪しいと思わぬことは無かった。然し茶に招かれて席に参した以上は亭主が自ら点じて薦(すす)める茶を飲まぬという其様(そん)な大きな無礼無作法は有るものでないから、一団の和気を面に湛(たた)えて怡然(いぜん)として之を受け、茶味以外の味を細心に味いながら、然も御服合(おふくあい)結構の挨拶の常套(じょうとう)の讃辞まで呈して飲んで終った。そして茶事が終ったから謝意を叮嚀(ていねい)に致して、其席を辞した。氏郷の家来達も随(したが)って去った。客も主人も今日これから戦地へ赴かねばならぬのである。
 氏郷は外へ出た。政宗方の眼の外へ出たところで、蒲生源左衛門以下は主人の顔を見る、氏郷も家来達の面を見たことであろう。主従は互に見交わす眼と眼に思い入れ宜しくあって、ム、ハハ、ハハ、ハハハと芝居ならば政宗方の計画の無功に帰したを笑うところであった。けれど細心の町野左近将監のような者は、殿、政宗が進じたる茶、別儀もなく御味わいこれありしか、まった飲ませられずに御ン済ましありしか、飲ませられしか、如何に、如何に、と口々に問わぬことは無かったろう。そして皆々の面は曇ったことだろう。氏郷は、ハハハ、飲まねば卑怯(ひきょう)、余瀝(よれき)も余さず飲んだわやい、と答える。家来達はギェーッと今更ながら驚き危ぶむ。誰(た)そあれ、水を持て、と氏郷が命ずる。小ばしこい者が急に駛(はし)って馬柄杓(ばびしゃく)に水を汲んで来る。其間に氏郷は印籠(いんろう)から「西大寺」(宝心丹をいう)を取出して、其水で服用し、彼に計謀(はかりごと)あれば我にも防備(そなえ)あり、案ずるな、者共、ハハハハハハ、と大きく笑って後を向くと、西大寺の功験早く忽(たちま)ちにカッと飲んだ茶を吐いて終った。
 以上は蒲生方の記するところに拠って述べたので、伊達方には勿論毒を飼うたなどという記事の有ろうようは無い。毒を用いて即座に又は陰密に人を除いて終うことは恐ろしい世には何様しても起り、且つ行われることであるから、かかる事も有り得べきではある。毒がいは毒飼で、毒害は却(かえ)ってアテ字である、其毒飼という言葉が時代の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)(にお)いを表現している通り、此時代には毒飼は頻々として行われた。けれども毒飼は最もケチビンタな、蝨(しらみ)ッたかりの、クスブリ魂の、きたない奸人(かんじん)小人妬婦(とふ)悪婦の為すことで、人間の考え出したことの中で最も醜悪卑劣の事である。自死に毒を用いるのは耻辱(ちじょく)を受けざる為で、クレオパトラの場合などはまだしも恕(じょ)すべきだが、自分の利益の為に他を犠牲にして毒を飼う如きは何という卑しいことだろう。それでも当時は随分行われたことであるから、これに対する用心も随(したが)って存したことで、治世になっても身分のある武士が印籠(いんろう)の根付にウニコールを用いたり、緒締(おじめ)に珊瑚珠(さんごじゅ)を用いた如きも、珊瑚は毒に触るれば割れて警告を与え、ウニコールは解毒の神効が有るとされた信仰に本づく名残りであった。宝心丹は西大寺から出た除毒催吐の効あるものとして、其頃用いられたものと見える。扨(さて)此の毒飼の事が実に存したこととすれば、氏郷は宜いが政宗は甚(いた)く器量が下がる。但し果して事実であったか何様(どう)かは疑わしい。

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