さて話は前へ戻る。是の如き忠三郎氏郷は秀吉に見立てられて会津の主人となった。当時氏郷は何万石取って居たか分明でないが、松坂に居た天正十六年は十六万石若くは十八万石であったというから、其後は大戦も無く大功も立つ訳が無いから、大抵十八万石か少し其以上ぐらいで有ったろう。然るに小田原陣の手柄が有って後に会津に籠めらるるに就ては、大沼、河沼、稲川、耶摩、猪苗代、南の山以上六郡、越後の内で小川の庄、仙道には白河、石川、岩瀬、安積、安達、二本松以上六郡、都合十二郡一庄で、四十二万石に封ぜられたのだ。十八万石程から一足飛に四十二万石の大封を賜わったのだから、たとい大役を引受けさせられたとは云え、奥州出羽の押えという名誉を背負い、目覚ましい加禄を得たので、家臣連の悦んだろうことは察するに余りある。これは八月十七日の事と云われている。
丁度仲秋の十六夜の後一日である。秋は早い奥州の会津の城内、氏郷は独り書院の柱に倚って物を思って居た。天は高く晴れ渡って碧落に雲無く、露けき庭の面の樹も草もしっとりとして、おもむきの有る夜の静かさに虫の声々すずしく、水にも石にも月の光りが清く流れて白く、風流に心あるものの幽懐も動く可き折柄の光景だった。北越の猛将上杉謙信が「数行ノ過雁月三更」と能登の国を切従えた時吟じたのも、霜は陣営に満ちて秋気清き丁度斯様いう夜であった。三国の代の英雄の曹孟徳が、百万の大軍を率いて呉の国を呑滅しようとしつつ、「月明らかに星稀にして、烏鵲南に飛ぶ」と槊を馬上に横たえて詩を賦したのも丁度斯様いう夜であった。江州日野五千石ばかりから取上って、今は日本無双の大国たる出羽奥州、藤原の秀衡や清原武衡の故地に踏みしかって、四十二万石の大禄を領するに至った氏郷がただ凝然と黙々として居る。侍座して居たのは山崎家勝というものだった。如何に深沈な人とは云え、かかる芽出度き折に当って何か考えに沈んで居る主人の様子を、訝しく思って窃に注意した。すると是は又何事であろう、やがて氏郷の眼からはハラハラと涙がこぼれた。家勝は直ちに看て取って怪んだ。が、忽ちにして思った、是は感喜の涙であろうと。蟹は甲に似せて穴を掘る。仕方の無いもので、九尺梯子は九尺しか届かぬ、自分の料簡が其辺だから家勝には其辺だけしか考えられなかった。然しそれにしては何様も様子が腑に落ち兼ねたから、恐る恐る進んで、恐れながら我が君には御落涙遊ばされたと見受け奉ってござるが、殿下の取分けての御懇命、会津四十二万石の大禄を被けられたまいし御感の御涙にばし御座すか、と聞いて見た。自分が氏郷であれば無論嬉し涙をこぼしたことであろうからである。すると氏郷は一寸嘆息して、ア、其様なことに思われたか、我羞かしい、と云ったが、一段と声を落して殆んど独語のように、然様では無い山崎、我たとい微禄小身なりとも都近くにあらば、何ぞの折には如何ようなる働きをも為し得て、旗を天下に吹靡かすことも成ろうに、大禄を今受けたりとは申せ、山川遥に隔たりて、王城を霞の日に出でても秋の風に袂を吹かるる、白川の関の奥なる奥州出羽の辺鄙に在りては、日頃の本望も遂げむことは難く、我が鎗も太刀も草叢に埋もるるばかり、それが無念さの不覚の涙じゃ哩、今日より後は奥羽の押え、贈太政大臣信長の婿たる此の忠三郎がよし無き田舎武士の我武者共をも、事と品によりては相手にせねばならぬ、おもしろからぬ運命に立至ったが忌々しい、と胸中の欝をしめやかに洩らした。無論家勝もこれを聞いて解った。成程我が主人は信長公の婿だ、今遽に関白に楯突こうようはあるまいが、云わば秀吉は家来筋だ、秀吉に何事か有らば吾が主人が手を天下に掛けようとしたとて不思議は無い、男たる者の当り前だ、と悟るに付けて斯様な草深い田舎に身柄と云い器量と云い天晴立派な主人が埋められかかったのを思うと、凄然惻然として家勝も悲壮の感に打たれない訳には行かなかったろう。主人の感慨、家臣の感慨、粛として秋の気は坐前坐後に満ちたが、月は何知らず冷やかに照って居た。
氏郷が会津四十二万石を受けて悦ばずに落涙したというのは何という味のある話だろう。鼻糞ほどのボーナスを貰ってカフェーへ駈込んだり、高等官になったとて嚊殿に誇るような極楽蜻蛉、菜畠蝶々に比べては、罪が深い、無邪気で無いには違い無いが、氏郷の感慨の涙も流石に氏郷の涙だと云いたい。それだけに生れついて居るものは生れついているだけの情懐が有る。韓信が絳灌樊の輩と伍を為すを羞じたのは韓信に取っては何様することも出来ないことなのだ。樊だって立派な将軍だが、「生きて乃ち等と伍を為す」と仕方が無しの苦笑をした韓信の笑には涙が催される。氏郷の書院柱に靠りかかって月に泣いた此の涙には片頬の笑が催されるではないか。流石に好い男ぶりだ。蜻蛉蝶々やきりぎりすの手合の、免職されたア、失恋したアなどという眼から出る酸ッぱい青臭い涙じゃ無い。忠三郎の米の飯は四十二万石、後には百万石も有り、女房は信長の女で好い器量で、氏郷死後に秀吉に挑まれたが位牌に操を立てて尼になって終った程、忠三郎さんを大事にして居たのだった。
天下の見懲らしに北条を遣りつけてから、其の勢の刷毛ついでに武威を奥州に示して一ト撫でに撫でた上に氏郷という強い者を押えにして、秀吉は京へ帰った。奥州出羽は裏面ではモヤモヤムクムクして居ても先ず治まった。ところがおさまらぬのは伊達政宗だ。折角啣えた大きな鴨をこれからおうとして涎まで出したところを取上げられて終った犬のような位置に立たせられたのである。関白はじめ諸大将等が帰って終って見ると何とかしたい。何とかする段には仕方はいくらでもある。仕方が無ければ手も引込めて居るのだが、仕方が有るから手が出したくなる。然し氏郷という重石は可なり重そうである。氏郷は白河をば関右兵衛尉、須賀川をば田丸中務少輔、阿子が嶋をば蒲生源左衛門、大槻を蒲生忠右衛門、猪苗代を蒲生四郎兵衛、南山を小倉孫作、伊南を蒲生左文、塩川を蒲生喜内、津川を北川平左衛門に与えて、武威も強く政治も届く様子だから、政宗も迂闊に手を掛ける訳にはゆかぬ。斯様なると暴風雨は弱い塀に崇る道理で、魔の手は蒲生へ向うよりは葛西大崎の新領主となった木村伊勢守父子の方へ向って伸ばされ出した。木村父子は武辺も然程では無く、小勢でもある。伊勢父子がドジを踏んでマゴマゴすれば蒲生は之を捨てて置く訳にはゆかぬ、伊勢父子の居る地方と蒲生の会津とは其間遥に距って居るけれども必ず見継ぐだろう。蒲生が会津を離れて動き出せば長途の出陣、不知案内の土地、臨機応変の仕方は何程も有ろう、木村蒲生に味噌を附けさせれば好運は自然に此方へ転げ込んで来る理合だ、という様な料簡は自も存したことであろう。政宗方の史伝に何も此様いう計画をしたという事が遺って居るのでは無いが、前後の事情を考えると、邪推かは知らぬが斯様思える節が有るのである。又木村父子は実際小身で無能で有ったから、今度葛西大崎を賜わったに就ては人手が足らぬから急に浪人共を召抱えたに違い無く、浪人共を召抱えても法度厳正に之を取締れば差支無いが、元来地盤が固く無い処へ安普請をしたように、規模が立たんで家風家法が確立して居ないところへ、世に余され者の浪人共を無鑑識に抱え込んだのでは、いずれおとなしく無いところが有るから浪人するにも至った者共が、ナニ此の奥州の田舎者めと侮って不道理を働くことも有勝なことで、然様なれば然無きだに他国者の天降り武士を憎んで居る地侍の怒り出すのも亦有り内の情状であるから、そこで一揆も起るべき可能性が多かったのである。戦乱の世というものは何時も其下と其上と和睦し難いような事情が起ると、第三者が窃かに其下に助力して其主権者を逐落し、そして其土地の主人となって終うのである。或は特に利を啗わせて其下をして其上に負かせて我に意を寄せしめ置いて、そして表面は他の口実を以て襲って之を取るのであるし、下たるものも亦是の如くにして自己の地位や所得を盛上げて行くのである。窃かに心を寄せるのが「内通」であり、利を啗わせて事を発させるのが「嘱賂を飼う」のであり、まだ表面には何の事も無くても他領他国へ対して計略を廻らすのが「陰謀」である。たとえば伊達政宗が会津を取った時、一旦は降参した横田氏勝の如きは、降参して見ると所領を余り削減されたので政宗を恨んだ。そこで政宗から会津を取返したくて使を石田三成へ遣わしたりなんぞしている。然様いう理屈だから、秀吉の方へ政宗が小田原へ出渋った腹の底でも何でも知れて終うのである。是の如きことは甲にも乙にも上にも下にも互に有ることで、戦乱の世の月並で稀らしい事では無い。小田原は松田尾張、大道寺駿河等の逆心から関白方に亡ぼされたのであり、会津は蘆名の四天王と云われた平田松本佐瀬富田等が心変りしたから政宗に取られたのである。政宗は前に云った通り、まだ秀吉に帰服せぬ前に、木村父子が今度拝領した大崎を取ろうと思って、大崎の臣下たる湯山隆信を吾に内通させて氏家吉継と与に大崎を図らせて居たのである。然様いう訳なのであるから、大崎の一揆の中に其の湯山隆信等が居たか何様だかは分らぬが、少くとも大崎領に政宗の電話が開通して居たことは疑無い。サア木村父子が新来無恩の天降り武士で多少の秕政が有ったのだろうから、土着の武士達が一揆を起すに至って、其一揆は中々手広く又手強かった。木村伊勢守が成合平左衛門を入れて置いた佐沼城を一揆は取囲んだ。佐沼は仙台よりはまだずっと奥で、今の青森線の新田駅或はせみね駅あたりから東へ入ったところであり、海岸へ出て気仙の方へ行く路にあたる。伊勢守父子は成合を救わずには居られないから、伊勢守吉清は葛西の豊間城、即ち今の登米郡の登米という北上川沿岸の地から出張し、子の弥一右衛門清久は大崎の古河城、今の小牛田駅より西北の地から出張して、佐沼の城の後詰を議したところ、一揆の方は予め作戦計画を立てて居たものと見えて、不在になった豊間と古河の両城をソレ乗取れというので忽ち攻陥して終った。佐沼は豊間よりは西北、古河よりは東に当るが、豊間と古河との距離は直接にすれば然のみ距って居らぬとは云え、然程に近い訳でも無いのに、是の如く手際能く木村父子が樹に離れた猿か水を失った鮒のように本拠を奪われたところを見ると、一揆の方には十分の準備が有り統一が保てて居て、思う壼へ陥れたものと見える。ナマヌル魂の木村父子は旅の卦の文に所謂鳥其巣を焚かれた旅烏、バカアバカアと自ら鳴くよりほか無くて、何共せん方ないから、自分が援助するつもりで来た成合平左衛門に却て援けられる形となって、佐沼の城へ父子共立籠ることになった。
西を向いても東を向いても親類縁者が有るでも無い新領地での苦境に陥っては、二人は予ての秀吉の言葉に依って、会津の蒲生氏郷とは随分の遠距離だが其の来援を乞うよりほか無かった。一体余り器量も無い小身の木村父子を急に引立てて、葛西、大崎、胆沢を与えたのは些過分であった。何様も秀吉の料簡が分らない。木村父子の材能が見抜けぬ秀吉でも無く、新領主と地侍とが何様なイキサツを生じ易いものだということを合点せぬ秀吉でも無い。一旦自分に対して深刻の敵意を挟んだ狼戻豪黠の佐々成政を熊本に封じたのは、成政が無異で有り得れば九州の土豪等に対して成政は我が藩屏となるので有り、又成政がドジを踏めば成政を自滅させて終うに足りるというので、竟に成政は其の馬鹿暴い性格の欠陥により一揆の蜂起を致して大ドジを演じたから、立花、黒田等諸将に命じて一揆をも討滅すれば成政をも罪に問うて終った。木村父子は何も越中立山から日本アルプスを越えて徳川家康と秀吉を挟撃する相談をした内蔵介成政ほどの鼬花火のような物狂わしい火炎魂を有った男でも無いし、それを飛離れた奥地に置いた訳は一寸解しかねる。事によると是は羊を以て狼を誘うの謀で、斯の様な弱武者の木村父子を活餌にして隣の政宗を誘い、政宗が食いついたらば此畜生めと殺して終おうし、又何処までも殊勝気に狼が法衣を着とおすならば物のわかる狼だから其儘にして置いて宜い、というので、何の事は無い木村父子は狼の窟の傍に遊ばせて置かれる羊の役目を云い付かったのかも知れない。筋書が若し然様ならば木村父子は余り好い役では無いのだった。
又氏郷に対して木村父子を子とも家来とも思えと云い、木村父子に対して氏郷を親とも主とも思えと秀吉の呉々も訓諭したのは、善意に解すれば氏郷を羊の番人にしたのに過ぎないが、人を悪く考えれば、羊が狼に食い殺された場合は番人には切腹させ、番人と狼と格闘して狼が死ねば珍重珍重、番人が死んだ場合には大概草臥れた狼を撲ちのめすだけの事、狼と番人とが四ツに組んで捻合って居たら危気無しに背面から狼を胴斬りにして終う分の事、という四本の鬮の何れが出ても差支無しという涼しい料簡で、それで木村父子と氏郷とを鎖で縛って膠で貼けたようにしたのかも知れない。して見れば秀吉は宜いけれど、氏郷は巨額の年俸を与えられたとは云え極々短期の間に其年俸を受取れるか何様か分らぬ危険に遭遇すべき地に置かれたのだ。番人に対しての関白の愛は厚いか薄いか、マア薄いらしい。会津拝領は八月中旬の事で、もう其歳の十月の二十三日には羊の木村父子は安穏に草をんでは居られ無くなって、跳ねたり鳴いたり大苦みを仕始めたのであった。
一体氏郷は父の賢秀の義に固いところを受けたのでもあろうか、利を見て義を忘れるようなことは毫も敢てして居らぬ、此の時代に於ては律義な人である。又佐々成政のような偏倚性格を有った男でも無かった。だから成政を忌むように秀吉から忌まれるべきでも無かった。が、氏郷を会津に置いて葛西大崎の木村父子と結び付けたのは、氏郷に対して若し温かい情が有ったとすれば、秀吉の仕方は聊か無理だった。葛西大崎と会津との距離は余り懸隔して居る、其間に今一人ぐらい誰かを置いて連絡を取らせても宜い筈と思われる。温かでは無くて、冷たいものであったとすれば、あの通りで丁度宜いであろう。氏郷が秀吉に心窃かに冷やかに思われたとすれば、それは氏郷が秀吉の主人信長の婿で有ったことと、最初は小身であったが次第次第に武功を積んで、人品骨柄の中々立派であることが世に認めらるるに至ったためとで、他にこれということも見当らぬ。然し小田原征伐出陣の時に、氏郷が画師に命じて、白綾の小袖に、左の手には扇、右の手には楊枝を持ったる有りの儘の姿を写させ、打死せば忘れ形見にも成るべし、と云い、奉行町野左近将監繁仍の妻で、もと鶴千代丸の時の乳母だった者に、此絵は誰に似たるぞ、と笑って示したので、左近が妻は、忌々しきことをせさせ玉う君かな、御年も若うおわしながら何の為にかかる事を、と泣いたと云う談が伝わっている。戦の度毎に戦死と覚悟してかかるのが覚悟有る武士というものでは有るが、一寸おかしい、氏郷の心中奥深きところに何か有ったのではないかと思われぬでもないが、又然程に深く解釈せずとも済む。秀吉が姿絵を氏郷の造らせたということを聞いて感涙を墜したというのも、何だか一寸考えどころの有るようだが、全くの感涙とも思われる。すべてに於て想察の纏まるような材料は無い。秀吉が憎んだ佐々成政の三蓋笠の馬幟を氏郷が請うて、熊の棒という棒鞘に熊の皮を巻付けたものに替えたのは、熊の棒が見だてが無かったからと、且は驍勇の名を轟かした成政の用いたものを誰も憚って用いなかったからとで有ったろうが、秀吉に取って面白い感じを与えたか何様か、有らずもがなの事だった。然し勿論そんな些事を歯牙に掛ける秀吉では無い。秀吉が氏郷を遇するに別に何も有った訳では無い、ただ特に之を愛するというまでに至って居らずに聊か冷やかであったというまでである。細川忠興が会津の鎮守を辞退したというのは信じ難い談だが、忠興が別に咎立もされず此の難い役を辞したとすれば、忠興は中々手際の好い利口者である。
氏郷が政宗の後の会津を引受けさせられたと同じ様に、織田信雄は小田原陣の済んだ時に秀吉から徳川家康の後の駿遠参に封ぜられた。ところが信雄は此の国替を悦ばなくて、強いて秀吉の意に忤った。そこで秀吉は腹を立てて、貴様は元来国を治め民を牧う器量が有る訳では無いが、故信長公の後なればこそ封地を贈ったのに、我儘に任せて吾が言を用いぬとは己を知らぬにも程がある、というので那賀二万石にして終った。信雄は元来立派な父の子でありながら器量が乏しく、自分の為に秀吉家康の小牧山の合戦をも起させるに至ったに関わらず、秀吉に致されて直に和睦して終ったり、又父の本能寺の変を鬼頭内蔵介から聞かされても嘘だろう位に聞いた程のナマヌル魂で、彼の無学文盲の佐々成政にさえ見限られたくらいの者ゆえ、秀吉に逐われたのも不思議は無い。前田利家は余り人の悪口を云うような人では無いが、其の世上の「うつけ者」の二人として挙げた中の一人は、確と名は指して無いが信雄ではないかと思われる。氏郷の父賢秀が光秀に従わぬ為に攻められかかった時援兵を乞うたのにも、怯儒で遷延して、人質を取ってから援兵を出すことにし、それも捗々しいことを得せず、相応の兵力を有しながら父を殺した光秀征伐の戦の間にも合わなかった腑甲斐無しであるから、高位高官名門大封の身でありながら那賀へ逐われ、次で出羽の秋田へ蟄せしめられたも仕方は無い。然し秀吉が之を清須百万石から那賀へ貶したのも余り酷かった。馬鹿でも不覚者でも氏郷に取っては縁の兄弟である、信雄信孝合戦の時は氏郷は柴田に馴染が深かったが、信孝方に付かず信雄方に附いたのである。其信雄が是の如くにされたのは氏郷に取って好い心持はせず、秀吉の心の冷たさを感じたことであろう。然し天下の仕置は人情の温い冷たいなどを云っては居られぬのである、道理の当不当で為すべきであるから致方は無い。致方は無いけれども些酷過ぎた。秀吉の此の酷いところ冷たいところを味わせられきっていて、そして天下の仕置は何様すべきものだということを会しきっている氏郷である。木村父子の厄介な事件が起ったとて、予ても想い得切って居ることであり、又如何にすべきかも考え得抜いて居ることである、今更何の遅疑すべきでもない。
木村父子は佐沼から氏郷へ援を請うた。遠くても、寒気が烈しくても棄てては置けぬ。十一月五日には氏郷はもう会津を立っている。新領地の事であるから、留守にも十分に心を配らねばならぬ、木村父子の覆轍を踏んではならぬ。会津城の留守居には蒲生左文郷可、小倉豊前守、上坂兵庫助、関入道万鉄、いずれも頼みきったる者共だ。それから関東口白河城には関右兵衛尉、須賀川城には田丸中務少輔を籠めて置くことにした。政宗の方の片倉備中守が三春の城に居るから、油断のならぬ奴への押えである。中山道口の南山城には小倉作左衛門、越後口の津川城には北川平左衛門尉、奥街道口の塩川城には蒲生喜内、それぞれ相当の人物を置いて、扨自分は一番先手に蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、二番手に蒲生四郎兵衛、町野左近将監、三番に五手組、梅原弥左衛門、森民部丞、門屋助右衛門、寺村半左衛門、新国上総介、四番には六手組、細野九郎右衛門、玉井数馬助、岩田市右衛門、神田清右衛門、外池孫左衛門、河井公左衛門、五番には七手与、蒲生将監、蒲生主計助、蒲生忠兵衛、高木助六、中村仁右衛門、外池甚左衛門、町野主水佑、六番には寄合与、佐久間久右衛門、同じく源六、上山弥七郎、水野三左衛門、七番には弓鉄砲頭、鳥井四郎左衛門、上坂源之丞、布施次郎右衛門、建部令史、永原孫右衛門、松田金七、坂崎五左衛門、速水勝左衛門、八番には手廻小姓与、九番には馬廻、十番には後備関勝蔵、都合其勢六千余騎、人数多しというのでは無いが、本国江州以来、伊勢松坂以来の一族縁類、切っても切れぬ同姓や眷族、多年恩顧の頼み頼まれた武士、又は新規召抱ではあるが、家来は主の義勇を慕い知遇を感じ、主は家来の器量骨柄を愛でいつくしめる者共、皆各々言わねど奥州出羽初めての合戦に、我等が刃金の味、胆魂の程を地侍共に見せ付けて呉れんという意気を含んだ者を従えて真黒になって押出した。其日は北方奥地の寒威早く催して、会津山颪肌に凄じく、白雪紛々と降りかかったが、人の用い憚かりし荒気大将佐々成政の菅笠三蓋の馬幟を立て、是は近き頃下野の住人、一家惣領の末であった小山小四郎が田原藤太相伝のを奉りしより其れに改めた三ツ頭左靹絵の紋の旗を吹靡かせ、凜々たる意気、堂々たる威風、膚撓まず、目まじろがず、佐沼の城を心当に進み行く、と修羅場読みが一ト汗かかねばならぬ場合になった。が、実際は額に汗をかくどころでは無い、鶏肌立つくらい寒かったので、諸士軍卒も聊か怯んだろう。そこを流石は忠三郎氏郷だ、戦の門出に全軍の気が萎えているようでは宜しく無いから、諸手の士卒を緊張させて其の意気を振い立たせる為に、自分は直膚に鎧ばかりを着したということが伝えられている。鎧を着るには、鎧下と云って、錦や練絹などで出来ているものを被る。袴短く、裾や袖は括緒があって之を括る。身分の低い者のは錦などでは無いが、先ずは直垂であるから、鎧直垂とも云う。漢語の所謂戦袍で、斎藤実盛の涙ぐましい談を遺したのも其の鎧直垂に就いてである。氏郷が風雪出陣の日に直膚に鎧を着たというのも、ふざけ者が土用干の時の戯れのように犢鼻褌一ツで大鎧を着たというのでは無く、鎧直垂を着けないだけであったろうが、それにしても寒いのには相違無かったろう。しかし斯様いう大将で有って見れば、士卒も萎けかえって顫えて居るわけには行かぬ、力肱を張り力足を踏んだことだろう。斯様いう長官が居無くて太平の世の官員は石炭ばかり気にして焚べて仕合せな事である。
冗談は扨置き、新らしい領主の氏郷が出陣すると、これを見て会津の町人百姓は氏郷を気の毒がって涙をこぼしたという。それは噂によれば木村伊勢守父子も根城を奪われた位では、奥州侍は皆敵になったのであるし、御領主の御領内も在来の者共の蜂起は思われる、剛気の大将ではあらせられても御味方は少く、土地の者は多い、敵わせられることでは無かろう、痛わしい御事である、定めし畢竟は如何なる処にてか果てさせたまうであろう、と云うのであった、奥州に生立って奥州武士よりほかのものを見ぬものは、一ツは国自慢で、奥州武士という者は日本一のように強い者に思って居たせいもあろうが、其の半面には文雅で学問が有って民を撫する道を知っていたろう氏郷の施為が、木村父子や佐々成政などと違って武威の恐ろしさのみを以て民に臨まなかったため、僅々の日数であったに関らず、今度の領主は何様いう人で有ろうと怖畏憂虞の眼を張って窺って居た人民に、安堵と随って親愛の念を懐かせた故であったろう。
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