氏郷は何様な男であったろう。田原藤太十世の孫の俊賢が初めて江州蒲生郡を領したので蒲生と呼ばれた家の賢秀というものの子である。此の蒲生郡を慶長六年即ち関ヶ原の戦の済んだ其翌年三月に至って家康は政宗に賜わって居る。仲の悪かった氏郷の家の地を貰ったから、大きな地で無くても政宗には一寸好い心地であったろうが、既に早く病死して居た氏郷に取っては泉下に厭な心持のしたことで有ろう。家康も亦一寸変なことをする人である。氏郷の父の賢秀というのは、当時の日野節の小歌に、陣とだに云えば下風おこる、具足を脱ぎやれ法衣召せ、と歌われたと云われもしている。下風という言葉は余り聞かぬ言葉で、医語かとも思うが、医家で風というのは其義が甚だ多くて、頭風といえば頭痛、驚風といえば神経疾患、中風といえば脳溢血其他からの不仁の病、痛風はリウマチス、猶馬痺風だの何だのと云うのもあって、病とか邪気とかいうのと同じ位の広い意味を有して居て、又一般にただ風といえば気狂という意で、風僧といえば即ち気狂坊主である。中風の中は上中下の中では無いと思われるから下風とは関せぬ。これは仏経中の翻訳語で、甚だ拙な言葉である。風は矢張りただの風で、下風は身体から風を泄らすことである。鄙しい語にセツナ何とかいうのが有る、即ちそれである。其人が心弱くて、戦争とさえ云えば下風おこる、とても武士にはなりきらぬ故に甲冑を脱ぎ捨てて法衣を被よ、というのが一首の歌の意である。これが果して賢秀の上を嘲ったとならば、賢秀は仕方の無い人だが、又其子に忠三郎氏郷が出たものとすれば、氏郷は愈々偉いものだ。然し蒲生家の者は、其歌は賢秀の上を云ったのでは無く、賢秀の小舅の後藤末子に宗禅院という山法師があって、山法師の事だから兵仗にもたずさわった、其人の事だ、というのである。成程然様でなければ、法衣めせの一句が唐突過ぎるし、又領主の事を然様酷く嘲りもすまいし、且又賢秀は信長に「義の侍」と云われたということから考えても、賢秀の上を歌ったものではないらしい。但し賢秀が怯くても剛くても、親父の善悪は忰の善悪には響くことでは無い、親父は忰の手細工では無い。賢秀は佐々木の徒党であったが、佐々木義賢が凡物で信長に逐落されたので、一旦は信長に対し死を決して敵となったが、縁者の神戸蔵人の言に従って信長に附いた。神戸蔵人は信長の子の三七信孝の養父である。そこで子の鶴千代丸即ち後年の氏郷は十三歳で信長のところへ遣られた。云わば賢秀に異心無き証拠の人質にされたのである。
信長は鶴千代丸を見ると中々の者だった。十三歳といえば尋常中学へ入るか入らぬかの齢だが、沸り立っている世の中の児童だ、三太郎甚六等の御機嫌取りの少年雑誌や、アメリカの牛飼馬飼めらの下らない喧嘩の活動写真を看ながら、アメチョコを嘗めて育つお坊ちゃんとは訳が違う。其の物ごし物言いにも、段々と自分を鍛い上げて行こうという立派な心の閃きが見えたことであろう、信長は賢秀に対って、鶴千代丸が目つき凡ならず、ただ者では有るべからず、信長が婿にせん、と云ったのである。これは賢秀の心を攬る為に云ったのでは無く、其翌年鶴千代丸に元服をさせて、信長の弾正ノ忠の忠の字に因み、忠三郎秀賦と名乗らせて、真に其言葉通り婿にしたのである。目つきは成程其人を語るが、信長が人相の術を知って居た訳では無い、十三歳の子供の目つきだけでは婿に取るとまでは惚れないだろうが、別に斯様いうことが伝えられている。それは鶴千代丸は人質の事ゆえ町野左近という者が附人として信長居城の岐阜へ置かれた。或時稲葉一鉄が来て信長と軍議に及んだ。一鉄は美濃三人衆の第一で、信長が浅井朝倉を取って押えるに付けては大功を立てて居る、大剛にして武略も有った一将だ。然し信長に取っては外様なので、後に至って信長が其将材を憚って殺そうとした位だ。ところが茶室に懸って居た韓退之の詩の句を需められるままに読み且つ講じたので、物陰でそれを聞いた信長が感じて殺さずに終ったのである。詩の句は劇的伝説を以て名高い雲横雪擁の一聯で有ったと伝えられて居るが、坊主かえりの士とは云え、戦乱の世に於て之を説くことが出来たと云えば修養の程も思う可き立派な文武の達人だ。此の一鉄と信長とが、四方の経略、天下の仕置を談論していた。夜は次第に更けたが、談論は尽きぬ。もとより機密の談だから雑輩は席に居らぬ。燭を剪り扇を揮って論ずる物静かに奥深き室の夜は愈々更けて沈々となった。一鉄がフト気がついて見ると、信長の坐を稍々遠く離れて蒲生の小伜が端然と坐っていた。坐睡をせぬまでも、十三歳やそこらの小童だから、眼の皮をたるませて退屈しきって居るべき筈だのに、耳を傾け魂を入れて聞いて居た様子は、少くとも信長や自分の談論が解って、そして其上に興味を有っているのだ。流石に武勇のみでない一鉄だから人を鑑識する道も知っている。ヤ、こりゃ偉い物だぞ、今の年歯で斯様では、と感歎して、畏るべし、畏るべし、此児の行末は百万にも将たるに至ろう、と云ったという。随分怜悧な芸妓でも、可い加減に年を取った髯面野郎でも、相手にせずに其処へ坐らせて置いて少し上品な談話でも仕て居ると、大抵の者は自分は自分だけの胸の中で下らぬ事を考えて居るか坐睡り[#ルビの「いねむ」は底本では「いねむり」]したりするものである。鶴千代丸の此事のあったのは、ただ者で無いことを語っている。一鉄の眼に入ったほどのものが、信長の胸に映らぬことは無い。おまけに信長は人を試みるのが嫌いでは無い男で、森蘭丸の正直か不正直かを試みた位であるから、何ぞに附けて鶴千代丸を確と見定めるところがあって、そして吾が婿にと惚れ込んだのであろう。
鶴千代丸は信長一鉄の鑑識に負かなかった。十四歳の八月の事である。信長が伊勢の国司の北畠と戦った時、鶴千代丸は初陣をした。蒲生家の覚えの勇士の結解十郎兵衛、種村伝左衛門という二人にも先んじて好い敵の首を取ったので、鶴千代丸に付置かれた二人は面目無いやら嬉しいやらで舌を巻いた。信長も大感悦で手ずから打鮑を取って賜わったが、そこで愈々其歳の冬十二になる女子を与えて岐阜で式を行い、其女子に乳人加藤次兵衛を添えて、十四と十二の夫婦を日野の城へと遣った。もはや人質では無く、京畿に威を振った信長の縁者、小さくは有るが江州日野の城主の若君として世に立ったのである。
これよりして忠三郎は信長に従って各処の征戦に従事して功を立てて居り、信長が光秀に弑された時は、光秀から近江半国の利を啗わせて誘ったけれども節を守って屈せず、明智方を引受けて城に拠って戦わんとするに至った。それから後は秀吉の旗の下に就いて段々と武功を積んだが、特に九州攻めには、堀秀政の攻めあぐんだ巌石の城に熊井越中守を攻め伏せて勇名を轟かした。今ここに氏郷の功績を注記したい意も無いから省略するが、かくて十余年の間に次第に大身になり、羽柴の姓を賜わって飛騨守氏郷といえば味方は頼もしく思い、敵は恐ろしく思う一方の雄将となって終った。秀賦の名は秀吉と相犯すを忌んで、改めて氏郷としたのであって、先祖田原藤太秀郷の郷の字を取ったのである。天正の十六年、秀吉が聚楽の第を造った其年、氏郷は伊勢の四五百森へ城を築いて、これを松坂と呼んだ。前の居城松ヶ島の松の字を目出度しとして用いたのである。当時正四位下左近衛少将に任官し、十八万石を領するに至った。
小田原陣の時、無論氏郷は兵を率いて出陣して居て、割合に他の大名よりは戦に遇って居り、戦功をあらわして居る。それから関白が武威を奥羽に示すのに従属して、宇都宮から会津と附いて来たのであるが、今しも秀吉の鑑識を以て会津の城主、奥州出羽の押えということに定められたのである。
氏郷は法を執ること厳峻な人で、極端に自分の命令の徹底的ならんことを然る可き事とした人である。勿論乱れ立った世に在っては、一軍の主将として下知の通りに物事の捗ぶのを期するのは至当の訳で、然無くても軍隊の中に於ては下々の心任せなどが有ってはならぬものであるが、それでも自らに寛厳の異があり程度がある。郭子儀、李光弼はいずれも唐の名将であるが、陣営の中のさまは大に違っていたことが伝えられている。氏郷は恐ろしく厳しい方で、小田原北条攻の為に松坂を立った二月七日の事だ、一人の侍に蒲生重代の銀の鯰の兜を持たせて置いたところ、氏郷自身先陣より後陣まで見廻ったとき、此処に居よというところに其侍が居なかった。そこで氏郷が、屹度此処に居よ、と注意を与えて置いて、それから組々を見廻り終えて還った、よくよく取締めた所存の無かった侍と見えて、復もや此処に居よと云付けたところに居なかった。すると氏郷は物も言わずに馬の上で太刀を抜くが否や、そっ首丁と打落して、兜を別の男に持たせたので、士卒等これを見て舌を振って驚き、一軍粛然としたということである。巌石の城を攻落した時に、上坂左文、横山喜内、本多三弥の三人が軍奉行でありながら令を犯して進んで戦ったので厳しく之を咎めたところ、上坂横山の二人は自分の高名の為ではなく、火を城に放とうと思うたのであると苦しい答弁をしたので免されたが、本多は云分立たずであったので勘当されて終った。三弥は徳川家の譜代侍の本多佐渡正信の弟で、隠れ無い勇士であったが其の如くで、其他旗本から抜け出でて進み戦った岡左内、西村左馬允、岡田大介、岡半七等、いずれも崛強の者共で、其戦に功が有ったのだったが、皆令を犯した廉で暇を出されて浪人するの已むを得ざるに至った。
氏郷は是の如く厳しい男だったが、他の一面には又人を遇するにズバリとした気持の好いところも有った人だった。必らずしも重箱の中へ羊羹をギチリと詰めるような、形式好き融通利かずの偏屈者では無かった。前に挙げた関白其他に敵対行為を取って世の余され者になった強者共を召抱えた如きは其著しい例で、別に斯様いう妙味のある談さえ伝わっている。それは氏郷が関白に従って征戦を上方やなんぞで励んで居た頃、即ち小田原陣前の事であろうが、或時松倉権助という士が蒲生家に仕官を望んだ。権助は筒井順慶に仕えて居たが何様いう訳であったか臆病者と云われた。そこで筒井家を去ったのであるが、蒲生家へ扶持を望むに就いて斯様いうことを云った。拙者は臆病者と云われた者でござる、但し臆病者も良将の下に用いらるる道がござらば御扶持を蒙りとうござる、と云ったのである。筒井家は順慶流だの洞ヶ峠だのという言葉を今に遺している位で、余り武辺の芳ばしい家ではない。其家で臆病者と云われたのは虚実は兎に角に、是も芳ばしいことでは無い。ところが氏郷は其男を呼出して対面した上、召抱えた。自分から臆病者と名乗って出た正直なところを買ったのだろう、正直者には勇士が多い。臆病者が知遇に感じて強くなったか、多分は以前から臆病者なぞでは無かったのだろう、権助は合戦ある毎に好い働きをする。で氏郷は忽ち物頭にして二千石を与えたというのである。後に此男が打死したところ氏郷が自ら責めて、おれが悪かった、も少しユックリ取立てて遣ったらば強いて打死もせずに段々武功を積んだろうに、と云ったということだ。此話を咬みしめて見ると松倉権助もおもしろければ氏郷も面白い。
氏郷は法令厳峻である代りには自ら処することも一毫の緩怠も無い、徹底して武人の面目を保ち、徹底して武人の精神を揮っている。所謂「たぎり切った人」である、ナマヌルな奴では無い。蒲生家に仕官を望んで新規に召抱えられる侍があると、氏郷は斯様云って教えたということである。当家の奉公はさして面倒な事は無い、ただ戦場という時に、銀の鯰の兜を被って油断なく働く武士があるが、其武士に愧じぬように心掛けて働きさえすればそれでよい、と云ったという。勿論これは未だ小身であった時の事で有ろうが、訓諭も糸瓜も入ったものではない、人を使うのはこれで無ければ嘘だ。碌な店も工場も持って居ぬ奴が小やかましい説教沙汰ばかりを店員や職工に下して、おのれは坐蒲団の上で煙草をふかしながら好い事を仕たがる如き蝨ッたかりとは丸で段が違う。言うまでも無く銀の鯰の兜を被って働く者は氏郷なのである。斯様いう人だったから四位の少将、十八万石の大名となってからも、小田原陣の時は驚くべき危険に身を暴露して手厳しい戦をして居る。それは氏郷の方から好んで為出したことではないが、他の大将ならば或は遁逃的態度に出て、そして敵をして其企図を多少なりとも成就するの利を得、味方をして損害を被るの勢を成さしめたであろうに、氏郷が勇敢に職責を厳守したので、敵は何の功をも立てることが出来なかった。これは五月三日の夜の事で、城中に居縮んでばかり居ては軍気は日々に衰えるばかりなゆえに、北条方にさる者有りと聞えた北条氏房が広沢重信をして夜討を掛けさせた時と、七月二日に氏房が復春日左衛門尉をして夜討を掛けさせた時とである。五月三日の夜のは小田原勢がまだ勢の有った時なので中々猛烈であったが、蒲生勢の奮戦によって勿論逐払った。然し其時の闘は如何にも突嗟に急激に敵が斫入ったので、氏郷自身まで鎗を取って戦うに至ったが、事済んで営に帰ってから身内をばあらためて見ると、鎧の胸板掛算に太刀疵鎗疵が四ヶ処、例の銀の鯰の兜に矢の痕が二ツ、鎗の柄には刀痕が五ヶ処あったという。以て氏郷が危険を物の数ともせずして、自分の身を自分が置くべきとする処に置いた以上は一歩も半歩も退かぬ剛勇の人であることが窺い知られる。つまり氏郷は他を律することも厳峻な代りに自ら律することも厳峻な人だったのである。
是の如き人は主人としては畏ろしくもあれば頼もしくもある人で、敵としては所謂手強い敵、味方としては堅城鉄壁のようなものである。然し是の如きの人には、ややもすれば我執の強い、古い言葉で云えば「カタムクロ」の人が多いものだが、流石に氏郷は器量が小さくない、サラリとした爽朗快活なところもあった人だ。嘗て九州陣巌石の城攻の時に軍令に背いて勘当された臣下の者共が、氏郷と交情の好かった細川越中守忠興を頼んで詫言をして貰って、復新に召抱えられることになった。其中に西村左馬允という者があって、大の男の大力の上に相撲は特更上手の者であった。其男が勘当を赦されて新に召還されたばかりの次の日出仕すると、左馬允、汝は大力相撲上手よナ、さあ一番来い、おれに勝てるか、といって氏郷が相撲を挑んだ。氏郷ももとより非力の相撲弱では無かったのであろう。左馬允は弱った。勘気を赦されて帰り新参になったばかりなので、主人を叩きつけて主人が好い心持のする筈は無いから、当惑するのに無理は無い。然し主命である、挑まれて相手にならぬ訳には行かぬから、心得ましたと引組んで捻合った。勝てば怒られる、わざと負けるのは軽薄でもあり心外でもある、と惑わぬことは無かったろうが、そこは人の魂の沸り立って居る代である、左馬允は思い切って大力を出してとうとう氏郷を捻倒した。そこで、ヤア左馬允、汝は強い、と主人に笑って貰えれば上首尾なのだが、然様は行かなかった。忠三郎氏郷ウンと緊張した顔つきになって、無念である、サアもう一度来い、と力足を踏んで眼ざし鋭く再闘を挑んだ。観て居る者は気の毒で堪らない、オヤオヤ左馬允め、負ければ無事だろうが、勝った段にはもともと勘気を蒙った奴である、手討になるか何か知れた者では無いと危ぶんだ。左馬允も斯様なっては是非が無い、ここで負けては仮令過まって負けたにしても軽薄者表裏者になると思ったから、油断なく一生懸命に捻合った。双方死力を出して争った末、とうとう左馬允は氏郷を遣付けた。其時はじめて氏郷は莞爾と笑って、好い奴だ、汝は此の乃公に能う勝ったぞ、と褒美して、其の翌日知行米加増を出したという。此談の最初一度負けたところで、褒詞を左馬允に与えて済ます位のところなら、少し腹の大きい者には出来ることだが、二度目の取ッ組合をしたところが一寸面白い。氏郷の肚は闊いばかりでなく、奥深いところがあった。
斯様いう性格で、手厳しくもあり、打開けたところもあり、そして其能は勇武もあり、機略もあった人だが、其上に氏郷は文雅を喜び、趣味の発達した人であった。矢叫び鬨の声の世の中でも放火殺人専門の野蛮な者では無かった。机にりて静坐して書籍に親んだ人であった。足利以来の乱世でも三好実休や太田道灌や細川幽斎は云うに及ばず、明智光秀も豊臣秀吉も武田信玄も上杉謙信も、前に挙げた稲葉一鉄も伊達政宗も、皆文学に志を寄せたもので、要するに文武両道に達するものが良将名将の資格とされて居た時代の信仰にも因ったろうが、そればかりでも無く、人間の本然を欺き掩う可からざるところから、優等資質を有して居る者が文雅を好尚するのは自からなることでも有ったろう。今川や大内などのように文に傾き過ぎて弱くなったのもあるが、大将たる程の者は大抵文道に心を寄せていて、相応の造詣を有して居た。我儘な太閤殿下は「奥山に紅葉踏み分け鳴く蛍」などという句を詠じて、細川幽斎に、「しかとは見えぬ森のともし火」と苦しみながら唸り出させたという笑話を遺して居るが、それでも聚楽第に行幸を仰いだ時など、代作か知らぬが真面目くさって月並調の和歌を詠じている。政宗の「さゝずとも誰かは越えん逢坂の関の戸埋む夜半の白雪」などは関路ノ雪という題詠の歌では有ろうか知らぬが、何様して中々素人では無い。「四十年前少壮ノ時、功名聊カ復タ自カラ私カニ期ス、老来不レ識干戈ノ事、只把ル春風桃李ノ巵」なぞと太平の世の好いお爺さんになってニコニコしながら、それで居て支倉六右衛門、松本忠作等を南蛮から羅馬かけて遣って居るところなどは、味なところのある好い男ぶりだ。その政宗監視の役に当った氏郷は、文事に掛けても政宗に負けては居なかった。後に至って政宗方との領分争いに、安達ヶ原は蒲生領でも川向うの黒塚というところは伊達領だと云うことであった時、平兼盛の「陸奥の安達か原の黒塚に鬼籠れりといふはまことか」という歌があるから安達が原に附属した黒塚であると云った氏郷の言に理が有ると認められて、蒲生方が勝になったという談は面白い公事として名高い談である。其の逸話は措いて、氏郷が天正二十年即ち文禄元年朝鮮陣の起った時、会津から京まで上って行った折の紀行をものしたものは今に遺っている。文段歌章、当時の武将のものとしては其才学を称すべきものである。辞世の歌の「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」の一章は誰しも感歎するが実に幽婉雅麗で、時や祐けず、天吾を亡う、英雄志を抱いて黄泉に入る悲涼愴凄の威を如何にも美わしく詠じ出したもので、三百年後の人をして猶涙珠を弾ぜしむるに足るものだ。そればかりでは無い、政宗も底倉幽居を命ぜられた折に、心配の最中でありながら千ノ利休を師として茶事を学んで、秀吉をして「辺鄙の都人」だと嘆賞させたが、氏郷は早くより茶道を愛して、しかも利休門下の高足であった。氏郷と仲の好かった細川忠興は、茶庭の路次の植込に槙の樹などは面白いが、まだ立派すぎる、と云ったという程に侘の趣味に徹した人だが、氏郷も幽閑清寂の茶旨には十分に徹した人であった。利休が心窃かに自ら可なりとして居た茶入を氏郷も目が高いので切りに賞美して之を懇望し、遂に利休をして其を与うるを余儀無くせしめたという談も伝えられている。又氏郷が或時に古い古い油を運ぶ竹筒を見て、其の器を面白いと感じ、それを花生にして水仙の花を生け、これも当時風雅を以て鳴って居た古田織部に与えたという談が伝わっている。織部は今に織部流の茶道をも花道をも織部好みの建築や器物の意匠をも遺して居る人で、利休に雁行すべき侘道の大宗匠であり、利休より一段簡略な、侘に徹した人である。氏郷の其の花生の形は普通に「舟」という竹の釣花生に似たものであるが、舟とは少し異ったところがあるので、今に其形を模した花生を舟とは云わずに、「油さし」とも「油筒」とも云うのは最初の因縁から起って来て居るのである。古い油筒を花生にするなんというのは、もう風流に於て普通を超えて宗匠分になって居なくては出来ぬ作略で、宗匠の指図や道具屋の入れ智慧を受取って居る分際の茶人の事では無い。彼の山科の丿貫という大の侘茶人が糊を入れた竹器に朝顔の花を生けて紹鴎の賞美を受け、「糊つぼ」という一器の形を遺したと共に、作略無礙の境界に入っている風雅の骨髄を語っているものである。天下指折りの大名で居ながら古油筒のおもしろみを見付けるところは嬉しい。山県含雪公は、茶の湯は道具沙汰に囚われるというので半途から余り好まれぬようになったと聞いたが、時に利休も無く織部も無かった為でも有ろうけれど、氏郷がわびの趣味を解して油筒を花器に使うまで踏込んで居たのは利休の教を受けた故ばかりではあるまい、慥に料簡の据え処を合点して何にも徹底することの出来る人だったからであろう。しかも油筒如き微物を取上げるほどの細かい人かと思えば、細川越中守が不覚に氏郷所有の佐々木の鐙を所望した時には、それが蒲生重代の重器で有ったに拘らず、又家臣の亘利八右衛門という者が、御許諾なされた上は致方なけれども御当家重代の物ゆえに、ただ模品をこしらえて御遣わしなされまし、と云ったほどにも拘らず、天下に一ツの鐙故他に知る者は有るまいけれど、模品を遣わすなどとは吾が心が耻かしい、と云って真物を与えた。そこで忠興も後に吾が所望したことが不覚であったことを悟って、返そうとしたところが、氏郷は、一旦差上げたものなれば御遠慮には及ばぬ、と受取らなかった。忠興も好い人だから、氏郷の死後に其子秀行へとうとう返戻したという談がある。竹の油筒を掘り出して賞美するかと思えば、ケチでは無い人だ、家重代の者をも惜気無く親友の所望には任せる。中々面白い心の行きかたを有った人だった。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] 下一页 尾页