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蒲生氏郷(がもううじさと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:29:12  点击:  切换到繁體中文


 氏郷は何様どんな男であったろう。田原藤太十世の孫の俊賢としかたが初めて江州蒲生郡を領したので蒲生と呼ばれた家の賢秀かたひでというものの子である。此の蒲生郡を慶長六年即ち関ヶ原の戦の済んだ其翌年三月に至って家康は政宗に賜わって居る。仲の悪かった氏郷の家の地を貰ったから、大きな地で無くても政宗には一寸好い心地であったろうが、既に早く病死して居た氏郷に取っては泉下にいやな心持のしたことで有ろう。家康も亦一寸変なことをする人である。氏郷の父の賢秀というのは、当時の日野節の小歌に、陣とだに云えば下風げふおこる、具足を脱ぎやれ法衣ころも召せ、と歌われたと云われもしている。下風という言葉は余り聞かぬ言葉で、医語かとも思うが、医家で風というのは其義が甚だ多くて、頭風といえば頭痛、驚風といえば神経疾患、中風といえば脳溢血のういっけつ其他からの不仁の病、痛風はリウマチス、猶馬痺風ばひふうだの何だのと云うのもあって、病とか邪気とかいうのと同じ位の広い意味を有して居て、又一般にただ風といえば気狂きちがいという意で、風僧といえば即ち気狂坊主である。中風の中は上中下の中では無いと思われるから下風とは関せぬ。これは仏経中の翻訳語で、甚だ拙な言葉である。風は矢張りただの風で、下風は身体からだから風をらすことである。いやしい語にセツナ何とかいうのが有る、即ちそれである。其人が心弱くて、戦争とさえ云えば下風おこる、とても武士にはなりきらぬ故に甲冑かっちゅうを脱ぎ捨てて法衣をよ、というのが一首の歌の意である。これが果して賢秀の上をあざけったとならば、賢秀は仕方の無い人だが、又其子に忠三郎氏郷が出たものとすれば、氏郷は愈々いよいよ偉いものだ。然し蒲生家の者は、其歌は賢秀の上を云ったのでは無く、賢秀の小舅こじゅうとの後藤末子に宗禅院という山法師があって、山法師の事だから兵仗へいじょうにもたずさわった、其人の事だ、というのである。成程然様そうでなければ、法衣めせの一句が唐突過ぎるし、又領主の事を然様ひどく嘲りもすまいし、且又賢秀は信長に「義の侍」と云われたということから考えても、賢秀の上を歌ったものではないらしい。但し賢秀がよわくてもつよくても、親父の善悪はせがれの善悪には響くことでは無い、親父は忰の手細工では無い。賢秀は佐々木の徒党であったが、佐々木義賢が凡物で信長に逐落おいおとされたので、一旦は信長に対し死を決して敵となったが、縁者の神戸蔵人かんべくらんどの言に従って信長に附いた。神戸蔵人は信長の子の三七信孝の養父である。そこで子の鶴千代丸即ち後年の氏郷は十三歳で信長のところへ遣られた。云わば賢秀に異心無き証拠の人質にされたのである。
 信長は鶴千代丸を見ると中々の者だった。十三歳といえば尋常中学へ入るか入らぬかのとしだが、たぎり立っている世の中の児童だ、三太郎甚六等の御機嫌取りの少年雑誌や、アメリカの牛飼馬飼めらの下らない喧嘩けんかの活動写真を看ながら、アメチョコをめて育つお坊ちゃんとは訳が違う。其の物ごし物言いにも、段々と自分を鍛い上げて行こうという立派な心のひらめきが見えたことであろう、信長は賢秀にむかって、鶴千代丸が目つき凡ならず、ただ者では有るべからず、信長が婿にせん、と云ったのである。これは賢秀の心をる為に云ったのでは無く、其翌年鶴千代丸に元服をさせて、信長の弾正だんじょうちゅうの忠の字にちなみ、忠三郎秀賦ひでますと名乗らせて、真に其言葉通り婿にしたのである。目つきは成程其人を語るが、信長が人相の術を知って居た訳では無い、十三歳の子供の目つきだけでは婿に取るとまではれないだろうが、別に斯様こういうことが伝えられている。それは鶴千代丸は人質の事ゆえ町野左近という者が附人として信長居城の岐阜へ置かれた。或時稲葉一鉄が来て信長と軍議に及んだ。一鉄は美濃三人衆の第一で、信長が浅井朝倉を取って押えるに付けては大功を立てて居る、大剛にして武略も有った一将だ。然し信長に取っては外様とざまなので、後に至って信長が其将材をはばかって殺そうとした位だ。ところが茶室に懸って居た韓退之の詩の句をもとめられるままに読み且つ講じたので、物陰でそれを聞いた信長が感じて殺さずにしまったのである。詩の句は劇的伝説を以て名高い雲横雪擁の一れんで有ったと伝えられて居るが、坊主かえりの士とは云え、戦乱の世に於て之を説くことが出来たと云えば修養の程も思う可き立派な文武の達人だ。此の一鉄と信長とが、四方の経略、天下の仕置を談論していた。夜は次第に更けたが、談論は尽きぬ。もとより機密のはなしだから雑輩は席に居らぬ。しょくり扇をふるって論ずる物静かに奥深き室の夜は愈々更けて沈々となった。一鉄がフト気がついて見ると、信長の坐を稍々やや遠く離れて蒲生の小伜が端然と坐っていた。坐睡いねむりをせぬまでも、十三歳やそこらの小童こわっぱだから、眼の皮をたるませて退屈しきって居るべき筈だのに、耳を傾け魂を入れて聞いて居た様子は、少くとも信長や自分の談論が解って、そして其上に興味をっているのだ。流石さすがに武勇のみでない一鉄だから人を鑑識する道も知っている。ヤ、こりゃ偉い物だぞ、今の年歯で斯様では、と感歎かんたんして、おそるべし、畏るべし、此児の行末は百万にも将たるに至ろう、と云ったという。随分怜悧りこう芸妓げいしゃでも、い加減に年を取った髯面ひげづら野郎でも、相手にせずに其処へ坐らせて置いて少し上品な談話でも仕て居ると、大抵の者は自分は自分だけの胸の中で下らぬ事を考えて居るか坐睡いねむ[#ルビの「いねむ」は底本では「いねむり」]したりするものである。鶴千代丸の此事のあったのは、ただ者で無いことを語っている。一鉄の眼に入ったほどのものが、信長の胸に映らぬことは無い。おまけに信長は人を試みるのが嫌いでは無い男で、森蘭丸の正直か不正直かを試みた位であるから、何ぞに附けて鶴千代丸をしかと見定めるところがあって、そしてが婿にとれ込んだのであろう。
 鶴千代丸は信長一鉄の鑑識にそむかなかった。十四歳の八月の事である。信長が伊勢の国司の北畠と戦った時、鶴千代丸は初陣をした。蒲生家の覚えの勇士の結解けっかい十郎兵衛、種村伝左衛門という二人にも先んじて好い敵の首を取ったので、鶴千代丸に付置かれた二人は面目無いやら嬉しいやらで舌を巻いた。信長も大感悦で手ずから打鮑うちあわびを取って賜わったが、そこで愈々いよいよ其歳の冬十二になる女子を与えて岐阜で式を行い、其女子に乳人めのと加藤次兵衛を添えて、十四と十二の夫婦を日野の城へと遣った。もはや人質では無く、京畿に威を振った信長の縁者、小さくは有るが江州日野の城主の若君として世に立ったのである。
 これよりして忠三郎は信長に従って各処の征戦に従事して功を立てて居り、信長が光秀にしいされた時は、光秀から近江おうみ半国の利をくらわせて誘ったけれども節を守って屈せず、明智方を引受けて城にって戦わんとするに至った。それから後は秀吉の旗の下に就いて段々と武功を積んだが、ことに九州攻めには、堀秀政の攻めあぐんだ巌石がんじゃくの城に熊井越中守を攻め伏せて勇名をとどろかした。今ここに氏郷の功績を注記したい意も無いから省略するが、かくて十余年の間に次第に大身になり、羽柴の姓を賜わって飛騨守ひだのかみ氏郷といえば味方は頼もしく思い、敵は恐ろしく思う一方の雄将となってしまった。秀賦の名は秀吉と相犯すを忌んで、改めて氏郷としたのであって、先祖田原藤太秀郷の郷の字を取ったのである。天正の十六年、秀吉が聚楽じゅらくだいを造った其年、氏郷は伊勢の四五百森よいおのもりへ城を築いて、これを松坂と呼んだ。前の居城松ヶ島の松の字を目出度しとして用いたのである。当時正四位下左近衛少将に任官し、十八万石を領するに至った。
 小田原陣の時、無論氏郷は兵を率いて出陣して居て、割合に他の大名よりは戦に遇って居り、戦功をあらわして居る。それから関白が武威を奥羽に示すのに従属して、宇都宮から会津と附いて来たのであるが、今しも秀吉の鑑識を以て会津の城主、奥州出羽の押えということに定められたのである。
 氏郷は法を執ること厳峻げんしゅんな人で、極端に自分の命令の徹底的ならんことを然る可き事とした人である。勿論乱れ立った世に在っては、一軍の主将として下知げぢの通りに物事のはこぶのを期するのは至当の訳で、くても軍隊の中に於ては下々の心任せなどが有ってはならぬものであるが、それでも自らに寛厳の異があり程度がある。郭子儀かくしぎ李光弼りこうひつはいずれも唐の名将であるが、陣営の中のさまはおおいに違っていたことが伝えられている。氏郷は恐ろしく厳しい方で、小田原北条攻の為に松坂を立った二月七日の事だ、一人の侍に蒲生重代の銀のなまずかぶとを持たせて置いたところ、氏郷自身先陣より後陣まで見廻ったとき、此処に居よというところに其侍が居なかった。そこで氏郷が、屹度きっと此処に居よ、と注意を与えて置いて、それから組々を見廻り終えてかえった、よくよく取締めた所存の無かった侍と見えて、またもや此処に居よと云付けたところに居なかった。すると氏郷は物も言わずに馬の上で太刀たちを抜くが否や、そっ首ちょうと打落して、兜を別の男に持たせたので、士卒等これを見て舌を振って驚き、一軍粛然としたということである。巌石の城を攻落した時に、上坂左文、横山喜内、本多三弥の三人が軍奉行いくさぶぎょうでありながら令を犯して進んで戦ったので厳しく之をとがめたところ、上坂横山の二人は自分の高名こうみょうの為ではなく、火を城に放とうと思うたのであると苦しい答弁をしたのでゆるされたが、本多は云分立たずであったので勘当されてしまった。三弥は徳川家の譜代侍の本多佐渡正信の弟で、隠れ無い勇士であったが其の如くで、其他旗本から抜け出でて進み戦った岡左内、西村左馬允さまのすけ、岡田大介、岡半七等、いずれも崛強くっきょうの者共で、其戦に功が有ったのだったが、皆令を犯したかどいとまを出されて浪人するのむを得ざるに至った。
 氏郷はかくの如く厳しい男だったが、他の一面には又人を遇するにズバリとした気持の好いところも有った人だった。必らずしも重箱の中へ羊羹ようかんをギチリと詰めるような、形式好き融通利かずの偏屈者では無かった。前に挙げた関白其他に敵対行為を取って世の余され者になった強者共つわものどもを召抱えた如きは其著しい例で、別に斯様こういう妙味のあるはなしさえ伝わっている。それは氏郷が関白に従って征戦を上方かみがたやなんぞで励んで居た頃、即ち小田原陣前の事であろうが、或時松倉権助という士が蒲生家に仕官を望んだ。権助は筒井順慶に仕えて居たが何様どういう訳であったか臆病者と云われた。そこで筒井家を去ったのであるが、蒲生家へ扶持ふちを望むに就いて斯様いうことを云った。拙者は臆病者と云われた者でござる、但し臆病者も良将の下に用いらるる道がござらば御扶持をこうむりとうござる、と云ったのである。筒井家は順慶流だのほらとうげだのという言葉を今に遺している位で、余り武辺のかんばしい家ではない。其家で臆病者と云われたのは虚実は兎に角に、是も芳ばしいことでは無い。ところが氏郷は其男を呼出して対面した上、召抱えた。自分から臆病者と名乗って出た正直なところを買ったのだろう、正直者には勇士が多い。臆病者が知遇に感じて強くなったか、多分は以前から臆病者なぞでは無かったのだろう、権助は合戦ある毎に好い働きをする。で氏郷はたちま物頭ものがしらにして二千石を与えたというのである。後に此男が打死したところ氏郷が自ら責めて、おれが悪かった、も少しユックリ取立てて遣ったらば強いて打死もせずに段々武功を積んだろうに、と云ったということだ。此話をみしめて見ると松倉権助もおもしろければ氏郷も面白い。
 氏郷は法令厳峻げんしゅんである代りには自ら処することも一毫いちごうの緩怠も無い、徹底して武人の面目を保ち、徹底して武人の精神をふるっている。所謂いわゆる「たぎり切った人」である、ナマヌルな奴では無い。蒲生家に仕官を望んで新規に召抱えられる侍があると、氏郷は斯様云って教えたということである。当家の奉公はさして面倒な事は無い、ただ戦場という時に、銀の鯰の兜をかぶって油断なく働く武士があるが、其武士にじぬように心掛けて働きさえすればそれでよい、と云ったという。勿論これは未だ小身であった時の事で有ろうが、訓諭も糸瓜へちまも入ったものではない、人を使うのはこれで無ければ嘘だ。ろくな店も工場も持って居ぬ奴が小やかましい説教沙汰ばかりを店員や職工に下して、おのれは坐蒲団ざぶとんの上で煙草をふかしながら好い事を仕たがる如きしらみッたかりとは丸で段が違う。言うまでも無く銀の鯰の兜を被って働く者は氏郷なのである。斯様いう人だったから四位の少将、十八万石の大名となってからも、小田原陣の時は驚くべき危険に身を暴露して手厳しい戦をして居る。それは氏郷の方から好んで為出したことではないが、他の大将ならば或は遁逃とんとう的態度に出て、そして敵をして其企図を多少なりとも成就するの利を得、味方をして損害をこうむるの勢を成さしめたであろうに、氏郷が勇敢に職責を厳守したので、敵は何の功をも立てることが出来なかった。これは五月三日の夜の事で、城中に居縮いすくんでばかり居ては軍気は日々に衰えるばかりなゆえに、北条方にさる者有りと聞えた北条氏房が広沢重信をして夜討を掛けさせた時と、七月二日に氏房がまた春日左衛門尉さえもんのじょうをして夜討を掛けさせた時とである。五月三日の夜のは小田原勢がまだ勢の有った時なので中々猛烈であったが、蒲生勢の奮戦によって勿論逐払おいはらった。然し其時の闘は如何にも突嗟とっさに急激に敵が斫入きりいったので、氏郷自身までやりを取って戦うに至ったが、事済んで営に帰ってから身内をばあらためて見ると、よろい胸板むないた掛算けさん太刀疵たちきず鎗疵やりきずが四ヶ処、例の銀のなまずかぶとに矢のあとが二ツ、鎗の柄には刀痕とうこんが五ヶ処あったという。以て氏郷が危険を物の数ともせずして、自分の身を自分が置くべきとする処に置いた以上は一歩も半歩も退かぬ剛勇の人であることがうかがい知られる。つまり氏郷は他を律することも厳峻げんしゅんな代りに自ら律することも厳峻な人だったのである。
 かくの如き人は主人としてはおそろしくもあれば頼もしくもある人で、敵としては所謂いわゆる手強てごわい敵、味方としては堅城鉄壁のようなものである。然し是の如きの人には、ややもすれば我執の強い、古い言葉で云えば「カタムクロ」の人が多いものだが、流石さすがに氏郷は器量が小さくない、サラリとした爽朗そうろう快活なところもあった人だ。かつて九州陣巌石の城攻の時に軍令に背いて勘当された臣下の者共が、氏郷と交情の好かった細川越中守忠興を頼んで詫言わびごとをして貰って、またあらたに召抱えられることになった。其中に西村左馬允という者があって、大の男の大力の上に相撲は特更ことさら上手の者であった。其男が勘当をゆるされて新に召還めしかえされたばかりの次の日出仕すると、左馬允、汝は大力相撲上手よナ、さあ一番来い、おれに勝てるか、といって氏郷が相撲をいどんだ。氏郷ももとより非力の相撲弱では無かったのであろう。左馬允は弱った。勘気を赦されて帰り新参になったばかりなので、主人を叩きつけて主人が好い心持のする筈は無いから、当惑するのに無理は無い。然し主命である、挑まれて相手にならぬ訳には行かぬから、心得ましたと引組んで捻合ねじあった。勝てば怒られる、わざと負けるのは軽薄でもあり心外でもある、と惑わぬことは無かったろうが、そこは人の魂のたぎり立って居る代である、左馬允は思い切って大力を出してとうとう氏郷を捻倒した。そこで、ヤア左馬允、汝は強い、と主人に笑って貰えれば上首尾なのだが、然様そうは行かなかった。忠三郎氏郷ウンと緊張した顔つきになって、無念である、サアもう一度来い、と力足を踏んで眼ざし鋭く再闘を挑んだ。観て居る者は気の毒でたまらない、オヤオヤ左馬允め、負ければ無事だろうが、勝った段にはもともと勘気をこうむった奴である、手討になるか何か知れた者では無いと危ぶんだ。左馬允も斯様こうなっては是非が無い、ここで負けては仮令たとい過まって負けたにしても軽薄者表裏者になると思ったから、油断なく一生懸命に捻合った。双方死力を出して争った末、とうとう左馬允は氏郷を遣付けた。其時はじめて氏郷は莞爾かんじと笑って、好い奴だ、汝は此の乃公おれう勝ったぞ、と褒美して、其の翌日知行米加増を出したという。此はなしの最初一度負けたところで、褒詞を左馬允に与えて済ます位のところなら、少し腹の大きい者には出来ることだが、二度目の取ッ組合をしたところが一寸面白い。氏郷のはらひろいばかりでなく、奥深いところがあった。
 斯様いう性格で、手厳しくもあり、打開けたところもあり、そして其能は勇武もあり、機略もあった人だが、其上に氏郷は文雅を喜び、趣味の発達した人であった。矢叫やたけときこえの世の中でも放火殺人専門の野蛮な者では無かった。机に※(「馮/几」、第4水準2-3-20)りて静坐して書籍に親んだ人であった。足利以来の乱世でも三好実休や太田道灌や細川幽斎は云うに及ばず、明智光秀も豊臣秀吉も武田信玄も上杉謙信も、前に挙げた稲葉一鉄も伊達政宗も、皆文学に志を寄せたもので、要するに文武両道に達するものが良将名将の資格とされて居た時代の信仰にも因ったろうが、そればかりでも無く、人間の本然ほんねんを欺きおおう可からざるところから、優等資質を有して居る者が文雅を好尚するのは自からなることでも有ったろう。今川や大内などのように文に傾き過ぎて弱くなったのもあるが、大将たる程の者は大抵文道に心を寄せていて、相応の造詣ぞうけいを有して居た。我儘わがまま太閤たいこう殿下は「奥山に紅葉もみじ踏み分け鳴く蛍」などという句を詠じて、細川幽斎に、「しかとは見えぬ森のともし火」と苦しみながらうなり出させたという笑話を遺して居るが、それでも聚楽第じゅらくだいに行幸を仰いだ時など、代作か知らぬが真面目くさって月並調の和歌を詠じている。政宗の「さゝずとも誰かは越えん逢坂あふさかの関の戸うず夜半よは白雪しらゆき」などは関路雪という題詠の歌では有ろうか知らぬが、何様どうして中々素人では無い。「四十年前少壮時、功名聊カラカニ、老来不識干戈事、只把春風桃李サカヅキ」なぞと太平の世の好いお爺さんになってニコニコしながら、それで居て支倉はせくら六右衛門、松本忠作等を南蛮から羅馬ローマかけて遣って居るところなどは、味なところのある好い男ぶりだ。その政宗監視の役に当った氏郷は、文事に掛けても政宗に負けては居なかった。後に至って政宗方との領分争いに、安達ヶ原は蒲生領でも川向うの黒塚というところは伊達領だと云うことであった時、平兼盛の「陸奥みちのくの安達か原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか」という歌があるから安達が原に附属した黒塚であると云った氏郷の言に理が有ると認められて、蒲生方が勝になったというはなしは面白い公事くじとして名高い談である。其の逸話はいて、氏郷が天正二十年即ち文禄元年朝鮮陣の起った時、会津から京まで上って行った折の紀行をものしたものは今に遺っている。文段歌章、当時の武将のものとしては其才学を称すべきものである。辞世の歌の「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」の一章は誰しも感歎かんたんするが実に幽婉ゆうえん雅麗で、時やたすけず、天われうしなう、英雄志を抱いて黄泉に入る悲涼ひりょう愴凄そうせいの威を如何にもうるわしく詠じ出したもので、三百年後の人をしてなお涙珠るいじゅを弾ぜしむるに足るものだ。そればかりでは無い、政宗も底倉幽居を命ぜられた折に、心配の最中でありながら千利休を師として茶事さじを学んで、秀吉をして「辺鄙ひなの都人」だと嘆賞させたが、氏郷は早くより茶道を愛して、しかも利休門下の高足であった。氏郷と仲の好かった細川忠興は、茶庭の路次の植込にまきの樹などは面白いが、まだ立派すぎる、と云ったという程にわびの趣味に徹した人だが、氏郷も幽閑清寂の茶旨には十分に徹した人であった。利休がこころひそかに自ら可なりとして居た茶入を氏郷も目が高いのでしきりに賞美して之を懇望し、遂に利休をして其を与うるを余儀無くせしめたという談も伝えられている。又氏郷が或時に古い古い油を運ぶ竹筒を見て、其の器を面白いと感じ、それを花生はないけにして水仙の花を生け、これも当時風雅を以て鳴って居た古田織部に与えたという談が伝わっている。織部は今に織部流の茶道をも花道をも織部好みの建築や器物の意匠をも遺して居る人で、利休に雁行すべき侘道の大宗匠であり、利休より一段簡略な、侘に徹した人である。氏郷の其の花生の形は普通に「舟」という竹の釣花生に似たものであるが、舟とは少し異ったところがあるので、今に其形を模した花生を舟とは云わずに、「油さし」とも「油筒」とも云うのは最初の因縁から起って来て居るのである。古い油筒を花生にするなんというのは、もう風流に於て普通を超えて宗匠分になって居なくては出来ぬ作略さりゃくで、宗匠の指図や道具屋の入れ智慧を受取って居る分際の茶人の事では無い。彼の山科やましな丿貫べちかんという大の侘茶人がのりを入れた竹器に朝顔の花を生けて紹鴎じょうおうの賞美を受け、「糊つぼ」という一器の形を遺したと共に、作略無礙むげ境界きょうがいに入っている風雅の骨髄を語っているものである。天下指折りの大名で居ながら古油筒のおもしろみを見付けるところは嬉しい。山県含雪公は、茶の湯は道具沙汰にとらわれるというので半途から余り好まれぬようになったと聞いたが、時に利休も無く織部も無かった為でも有ろうけれど、氏郷がわびの趣味を解して油筒を花器に使うまで踏込ふんごんで居たのは利休の教を受けた故ばかりではあるまい、たしか料簡りょうけんの据え処を合点して何にも徹底することの出来る人だったからであろう。しかも油筒如き微物を取上げるほどの細かい人かと思えば、細川越中守が不覚に氏郷所有の佐々木のあぶみを所望した時には、それが蒲生重代の重器で有ったにかかわらず、又家臣のわたり利八右衛門という者が、御許諾なされた上は致方なけれども御当家重代の物ゆえに、ただ模品うつしをこしらえて御遣わしなされまし、と云ったほどにも拘らず、天下に一ツの鐙故他に知る者は有るまいけれど、模品を遣わすなどとはが心がはずかしい、と云って真物を与えた。そこで忠興も後に吾が所望したことが不覚そぞろであったことを悟って、返そうとしたところが、氏郷は、一旦差上げたものなれば御遠慮には及ばぬ、と受取らなかった。忠興も好い人だから、氏郷の死後に其子秀行へとうとう返戻したというはなしがある。竹の油筒を掘り出して賞美するかと思えば、ケチでは無い人だ、家重代の者をも惜気無く親友の所望には任せる。中々面白い心の行きかたをった人だった。

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