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蒲生氏郷(がもううじさと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:29:12  点击:  切换到繁體中文


 金七の復命は政宗及び其老臣等によって注意を以て聴取られた。勿論小田原攻め視察の命を果して帰ったものは金七のみでは無かったであろうが、其他の者の姓名は伝わらない。金七がかえっての報告によると、猿面冠者の北条攻めの有様は尋常一様、武勇一点張りのものでは無い、其大軍といい、一般方針といい、それから又千軍万馬往来の諸雄将の勇威と云い、大剛の士、覚えの兵等の猛勇で功者な事と云い、北条方にも勇士猛卒十八万余を蓄わえて居るとは云え、到底関白を敵として勝味は無い。ことに秀吉の軍略に先手先手と斬捲きりまくられて、小田原の孤城に退嬰たいえいするを余儀なくされてしまって居る上は、籠中ろうちゅうの禽、釜中ふちゅうの魚となって居るので、遅かれ速かれどころでは無い、瞬く間に踏潰ふみつぶされて終うか、くとも城中疑懼ぎくの心の堪え無くなった頃を潮合として、扱いを入れられて北条は開城をさせられるに至るであろう、ということであった。金七の言うところは明白で精確と認められた。ここに至って政宗も今更ながら、流石に秀吉というものの大きな人物であるということを感じない訳には行かなかった。沈黙は少時しばし一座をおおうたことであろう。金七を退かせてから政宗は老臣等を見渡した。小田原が遣付けらるれば其次は自分である。北条も此方に対しては北条陸奥守むつのかみ氏輝が後藤基信によしみを通じて以来仲を好くしている、猿面冠者を敵にして立上るなら北条の亡ぼされぬ前に一日も早く上州野州武州と切って出て北条に勢援すべきだが、仙道諸将とはかねてよりの深仇しんきゅう宿敵であり、北条の手足を※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぐ為に出て居る秀吉方諸将の手並の程も詳しく承知しては居ぬ。さればと云って今更帰伏して小田原攻参会も時おくれとなっている、忌々いまいましくもある。切り合って闘いたいが自分の方の石の足らぬ碁だ、巧く保ちたいが少し手数後てかずおくれになって居る碁で、幾許いくばくかの損は犠牲にせねばならなくなっている。そして決着はいずれにしても急がねばならないところだ。胸算の顔は眼玉がパッチパチ、という柳風の句があるが、流石の政宗だから見苦しい眼パチパチも仕無かったろうけれど、左思右考したには違い無い。しかし何様しても天下を敵に廻し、朝命にたてをついて、安倍の頼時や、平泉の泰衡やすひらの二の舞を仕て見たところが、骰子さいの目が三度も四度も我が思う通りに出ぬものである以上は勝てようの無いことは分明だ。そこで、残念だが仕方が無い、小田原がつぶされて終ってからでは後手ごての上の後手になる、もう何をいても秀吉の陣屋の前に馬をつながねばならぬ、と考えた。そこで、何様である、徳川殿の勧めに就こうかと思うが、といいながら老臣等を見渡すと、ムックリとこうべもたげたのが伊達藤五郎成実しげざねだ。
 藤五郎成実は立派な奥州侍の典型だ。天正の十三年、即ち政宗の父輝宗が殺された其年の十一月、佐竹、岩城以下七将の三万余騎と伊達勢との観音堂の戦に、成実の軍は味方と切離されて、敵を前後に受けて恐ろしい苦戦に陥った。其時成実の隊の下郡山内記したこおりやまないきというものが、此処で打死しても仕方が無い、一旦は引退かれるが宜くはないか、と云った折に、ギリギリと歯をくいしばって、ナンノ、藤五郎成実、魂魄たましいばかりに成り申したら帰りも致そう、生身で一あしでも後へさがろうか、とののしって悪戦苦闘の有る限りを尽した。それで其戦も結局勝利になったため、今度このたびの合戦、全く其方一手の為に全軍の勝となった、という感状を政宗から受けた程の勇者である。戦場には老功、謀略も無きにあらぬ中々の人物で、これも早くから信長秀吉の眼の近くに居たら一ヶ国や二ヶ国の大名にはなったろう。政宗元服の式の時には此の藤五郎成実が太刀たちを奉じ、片倉小十郎景綱が小刀しょうとうを奉じたのである。二人は真に政宗が頼み切った老臣で、小十郎も剛勇だが智略分別が勝り、藤五郎も智略分別にたくましいが勇武がそれよりも勝って居たらしい。
 其藤五郎成実が主人の上を思う熱心から、今や頭を擡げ眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、藤五郎存ずる旨を申上げとうござる、秀吉関東征伐は今始まったことではござらぬ、既に去年冬よりして其事定まり、朝命に従い北条攻めの軍に従えとは昨年よりの催促、今に至って小田原へ参向するとも時はおくれ居り、遅々緩怠の罪は免るるところはござらぬ、たとえ厳しくとがめられずとも所領を召上げられ、多年弓箭ゆみやにかけて攻取ったる国郡をムザムザ手離さねばならぬは必定の事、我が君今年正月七日の連歌れんがの発句に、ななくさを一手によせて摘む菜かなと遊ばされしは、仙道七郡を去年の合戦に得たまいしよりのこと、それを今更秀吉の指図に就かりょうとは口惜しい限り、とてもの事に城を掻きとりでを構え、天下を向うに廻して争おうには、勝敗は戦の常、小勢が勝たぬには定まらず、あわよくば此方が切勝って、旗を天下につるに及ぼうも知れず、思召おぼしめしかえさせられて然るべしと存ずる、と勇気凜々りんりん四辺あたりを払って扇を膝に戦場叱咤しった猛者声もさごえで述べ立てた。其言の当否は兎に角、斯様こういう場合斯様いう人の斯様いう言葉は少くも味方の勇気を振興する功はあるもので、たとえ無用にせよ所謂いわゆる無用の用である。ヘタヘタと誰も彼も降参気分になってしまったのでは其後がいけない、其家の士気というものが萎靡いびして終う。藤五郎も其処をおもんぱかって斯様いうことを言ったものかも知れぬ、又或は真に秀吉の意に従うのが忌々いまいましくて斯様云ったのかも知れぬ。政宗も藤五郎の勇気ある言を嬉しく聞いたろう。然し何等の答は発せぬ。片倉小十郎は黙然として居る。すると原田左馬介宗時という一老臣、これも伊達家の宗徒むねとの士だが成実の言に反対した。伊達騒動の講釈や芝居で、むやみにひどい悪者にされて居る原田甲斐は、其の実兇悪きょうあくな者では無い、どちらかと云えばカッとするような直情の男だったろうと思われるが、其の甲斐は即ち此の宗時の末だ。宗時も十分に勇武の士で、思慮もあれば身分もあった者だが、藤五郎の言を聞くと、イヤイヤ、其御言葉は一応御尤ごもっともには存ずるが、関白も中々世の常ならぬ人、匹夫ひっぷ下郎げろうより起って天下の旗頭となり、徳川殿の弓箭ゆみやけたるだに、これに従い居らるるというものは、畢竟ひっきょう朝威を負うて事を執らるるが故でござる、今しこれに従わずば、勝敗利害はしばらくき、かみは朝庭に背くことになりて朝敵の汚命をこうむり、従って北条の如くに、あらゆる諸大名の箭の的となり鉄砲の的となるべく、行末の安泰覚束無おぼつかなきことにござる、と説いた。片倉小十郎も此時宗時の言に同じて、朝命に従わぬという名を負わされることの容易ならぬことを説いた、という説も有るが、また小十郎は其場に於ては一言も発せずに居たという説もある。其説に拠ると小十郎は何等の言をも発せずに終ったので、政宗は其夜ひそかに小十郎の家をうた。小十郎は主人の成りをよろこび迎えた。政宗は小十郎の意見をただすと、小十郎は、天下の兵はたとえばはえのようなもので、これをってうても、散じてはまたあつまってまいりまする、と丁度手にして居た団扇うちわふるって蠅を撲つまねをした。そこで政宗もおおいに感悟して天下を敵に取らぬことにしたというのである。いずれにしても原田宗時や片倉小十郎の言を用いたのである。
 そこで政宗は小田原へおもむくべく出発した。時が既に機を失したから兵を率いてでは無く、云わば帰服を表示して不参の罪を謝するためという形である。藤五郎成実は留守の役、片倉小十郎、高野壱岐いき、白石駿河するが以下百騎余り、兵卒若干を従えて出た。上野を通ろうとしたが上野が北条領で新関が処々に設けられていたから、会津から米沢の方へ出て、越後路から信州甲州を大廻りして小田原へ着いた。北条攻は今其最中であるが、関白は悠然たるもので、急に攻めて兵を損ずるようなことはせず、ゆるゆると心長閑のどかに大兵で取巻いて、城中の兵気の弛緩しかんして其変の起るのを待っている。何の事は無い勝利に定まっている碁だから煙草をふかして笑っているという有様だ。茶の湯の先生の千利休せんのりきゅうなどを相手にして悠々と秀吉は遊んでいるのであった。政宗参候の事が通ぜられると、あの卒直な秀吉も流石さすがすぐには対面をゆるさなかった。箱根の底倉に居て、追って何分の沙汰を待て、という命令だ。今更政宗は仕方が無い、底倉の温泉のけむりのもやもやした中に欝陶うっとうしい身を埋めて居るよりほか無かった。日は少し立った。直に引見されぬのは勿論上首尾で無い証拠だ。従って来た者の中で譜代で無い者は主人に見限りを付け出した。情無いものだ、のみしらみは自分がたかって居た其人の寿命が怪しくなると逃げ出すのを常とする。蚤は逃げた、蝨は逃げた。貧乏すれば新らしい女は逃腰になると聞いたが、政宗に従っていた新らしい武士は逃げて退いた。其中でも矢田野伊豆やだのいずなどいう奴は逃出して故郷の大里城にって伊達家に対して反旗を翻えした位だ。そこで政宗の従士は百騎あったものが三十人ばかりになって終った。
 ところへ潮加減を量って法印玄以、施薬院全宗、宮部善祥坊、福原直高、浅野長政諸人が関白の命を含んで糾問きゅうもんに遣って来た。浅野弥兵衛が頭分で、いずれも口利であり、外交駈引接衝応対の小手こての利いた者共である。然し弥兵衛等も政宗に会って見て驚いたろう、先ず第一に年は僅に二十四五だ、短い髪を水引即ち水捻みずよりにした紙線こよりで巻き立て、むずかしい眼を一筋縄でも二筋縄でも縛りきれぬ面魂つらだましいに光らせて居たのだから、異相という言葉で昔から形容しているが、全く異相に見えたに相違無い。弥兵衛等もただ者で無いとは見て取ったろうが、関白の威光を背中に背負って居るのであるから、先ず第一に朝命をかろんじて早く北条攻に出陣しなかったこと、それから蘆名義広を逐払おいはらって私に会津を奪ったこと、二本松を攻略し、須賀川をほふり、勝手に四隣を蚕食した廉々かどかどを詰問した。勿論これは裏面に於て政宗の敵たる佐竹義宣が石田三成に此等の事情を宜いように告げて、そして大有力者の手を仮りて政宗を取押えようと謀った為であると云われている。政宗が陳弁は此等諸方面との取合いの起った事情を明白に述べて、武門の意気地、弓箭の手前、むに已まれず干戈かんかを執ったことを云立てて屈しなかった。又朝命を軽んじたという点は、四隣皆敵で遠方の様子を存じ得申さなかったからというので言開きをした。翌日また弥兵衛等は来って種々の点を責めたが、結局は要するに、会津や仙道諸城、即ち政宗が攻略蚕食した地を納め奉るが宜かろう、と好意的に諭したのである。そこで政宗は仕方が無い、もとより我慾によって国郡を奪ったのではござらぬ、という潔い言葉にが身をよろおって、会津も仙道諸郡も命のままに差上げることにした。
 らちは明いた。秀吉は政宗を笠懸山かさがけやまの芝の上に於て引見した。秀吉は政宗に侵掠しんりゃくの地を上納することを命じ、米沢三十万石をもとの如く与うることにし、それで不服なら国へ帰って何とでもせよ、と優しくもあしらい、強くもあしらった。歯のあらい、通りのよい、手丈夫な立派な好い大きなくしだ。天下の整理はかくの如くにして捗取はかどるのだ。惺々せいせいは惺々を愛し、好漢は好漢を知るというのは小説の常套じょうとう文句だが、秀吉も一瞥いちべつの中の政宗を、くせ者ではあるが好い男だ、と思ったに疑無い。政宗も秀吉を、いやなところも無いでは無いが素晴らしい男だ、と思ったに疑無い。人をるは一面に在り、酒を品するは只三杯だ。打たずんば交りをなさずと云って、瞋拳しんけん毒手の殴り合までやってから真の朋友ほうゆうになるのもあるが、一見してまじわりを結んで肝胆相照らすのもある。政宗と秀吉とは何様どうだったろう。双方共に立派な男だ、ケチビンタな神経衰弱野郎、蜆貝しじみがいのような小さな腹で、少し大きい者に出会うとちっとも容れることの出来ないソンナ手合では無い。かかあや餓鬼を愛することが出来るに至って人間並の男で、好漢を愛し得るに至ってはじめて是れ好漢、仇敵きゅうてきを愛し得るに至ってホントの出来た男なのだ。猿面冠者も独眼竜も立派な好漢だ、ケチビンタな蜆ッ貝野郎ではない。貴様がねて聞いた伊達藤次郎か、おぬしが予ねて聞いた木下藤吉か、と互に面を見合せて重瞳ちょうどうと隻眼と相射った時、ウム、面白そうな奴、話せそうな奴、と相愛したことは疑無い。だが、お互に愛しきったか何様だか、イヤお互に底の底までは愛しきれなかったに違無い。政宗は秀吉の男ぶりに感じて之を愛したには相違ないが、帰ってから人に語って、其の底の底までは愛しきらぬところをもらしたことは、尭雄僧都話ぎょうゆうそうずばなしに見えて居るとされている。秀吉も政宗の押えに手強てごわな蒲生氏郷を置いたところは、愛してばかりは居なかった証拠だ。藤さんと藤さんとお互に六分は愛し、四分は余白をとどめて居たのである。戦乱の世の事だ、いずれにも無理は無いと為すべきだ。
 関白が政宗に佩刀はいとうを預けて山へ上って小田原攻の手配りを見せたはなしなどは今しばらく。さて政宗は米沢三十万石に削られて帰国した。七十万石であったという説もあるが、然様そういうことは考証家の方へ預ける。秀吉が政宗の帰国を許したに就ては、秀吉の左右に、折角山を出て来た虎をふたたび深山に放つようなものである、と云った者があるということだ。そんなことを云った者は多分石田左吉の輩ででもあろう。其時秀吉は笑って、おれは弓箭沙汰きゅうせんざたを用いないで奥羽を平定してしまうのだ、汝等の知るところでは無い、と云ったというが、実に其辺は秀吉の好いところだ。政宗だとて何で一旦関白面前に出た上で、また今更にきばをむき出し毛を逆立てて咆哮ほうこうしようやである。
 小田原は果して手強い手向いもせず、らちも無く軍気が沮喪そそうして自ら保てなくなり、ついに開城するの已むを得ざるに至った。秀吉は何をするのも軽々と手早い大将だ、小田原が済むとすぐに諸将を従えて奥州へと出掛けた。威を示して出羽奥州一撫でに治めて終おうというのである。政宗が服したのであるから刃向おうという者は無い。秀吉が宇都宮に宿営した時に政宗は片倉小十郎を従えて迎接した。小十郎は大谷吉隆に就いて主家を悪く秀吉に思取られぬよう行届いた処置をした。吉隆も人物だ。小十郎が会津蘆名の旧領地の図牒ずちょうの入って居るはこを開いて示した時には黙って開かせながら、米沢の伊達旧領の図牒の入っている筐を小十郎が開いて示そうとした時には、イヤそれには及び申さぬ、と挨拶したという。大谷吉隆に片倉景綱、これも好い取組だ。互に抜目の無い挙動応対だったろう。秀吉の前に景綱も引見された時、吉隆が、会津の城御引渡しに相成るには幾日を以てせらるる御積りか、と問うたら、小十郎は、ただ留守居の居るばかりでござる、何時にても差支はござらぬ、と云ったというが、好い挨拶だ。平生行届いていて、事に当って埒の明く人であることが伺われる。これで其上に剛勇で正実なのだから、秀吉が政宗の手から取って仕舞いたい位に思ったろう、大名に取立てようとした。が、小十郎は恩を謝するだけで固辞して、飽迄伊達家の臣として身を置くを甘んじた。これも亦感ずべきことで、何という立派な其人柄だろう。浅野六右衛門正勝、木村弥一右衛門清久は会津城を受取った。七月に小田原をつぶして、八月には秀吉はもう政宗の居城だった会津に居た。土地の歴史上から云えば会津は蘆名に戻さるべきだが、蘆名は一度もう落去したのである、自己の地位を自己で保つ能力の欠乏して居ることを現わして居るものである。此の枢要すうようの地を材略武勇の足らぬものにたくして置くことは出来ぬ。まして伊達政宗が連年血を流し汗をしたたらして切取った上に拠ったところの地で、いやいやながら差出したところであり、人情としてよだれを垂らしあごれて居るところである、又なくとも崛強くっきょうなる奥州の地武士が何を仕出さぬとも限らぬところである、また然様いう心配が無くとも広闊こうかつな出羽奥州に信任すべき一雄将をも置かずして、新付しんぷの奥羽の大名等の誰にもせよに任かせて置くことは出来ぬところである。ここに於て誰か知ら然る可き人物を会津の主将に据えて、奥州出羽の押えの大任、わけては伊達政宗をのさばり出さぬように、表はじっとりと扱って事端を発させぬように、内々はごっつりと手強くアテテ屏息へいそくさせるような、シッカリした者を必要とするのである。
 此のむずかしい場処の、むずかしい場合の、むずかしい役目を引受けさせられたのが鎮守府将軍田原藤太秀郷とうだひでさと末孫ばっそんと云われ、江州ごうしゅう日野の城主から起って、今は勢州松坂に一方の将軍星として光を放って居た蒲生忠三郎氏郷であった。
 氏郷が会津の守護、奥州出羽の押えに任ぜられたに就ては面白い話が伝えられている。その話の一ツは最初に秀吉が細川越中守忠興ただおきを会津守護にしようとしたところが、越中守忠興が固く辞退した、そこで飯鉢おはちは氏郷へ廻った、ということである。細川忠興も立派な一将であるが、歌人を以て聞えた幽斎の後で、人物の誠実温厚は余り有るけれど、不知案内の土地へ移って、気心の知り兼ねる政宗を向うへ廻して取組もうというには如何であった。し其説が真実であるとすれば、忠興が固辞したということは、忠興の智慮が中々深くて、く己を知り彼を知って居たということをおおいに揚げるべきで、忠興の人物を一段と立派にはするが、秀吉に取っては第一には其の眼力が心細く思われるのであり、第二に辞退されて、ああ然様そうか、と済ませたことが下らなく思われるのである。で、この話は事実で有ったか知らぬが面白く無く思われる。
 又今一つの話は、秀吉が会津を誰にたくそうかというので、徳川家康と差向いで、互に二人ずつ候補者を紙札に書いて置いてから、そして出して見た。ところが秀吉の札では一番には堀久太郎秀治ひではる、二番には蒲生忠三郎、家康の札では一番に蒲生忠三郎、二番に堀久太郎であった。そこで秀吉は、奥州は国侍の風が中々手強てごわい、久太郎で無くては、と云うと、家康は、堀久太郎と奥州者とでは茶碗と茶碗でござる、忠三郎で無くては、と云ったというのである。茶碗と茶碗とは、固いものと固いものとが衝突すれば双方砕けるばかりという意味であろう。で、秀吉が悟って家康の言を用いたのであるというのだ。此はなしは余程おもしろいが、此談が真実ならば、かにでは無いが家康は眼が高くて、秀吉は猿のように鼻が低くなる訳だ。堀久太郎は強いことは強いが、後に至って慶長の三年、越後の上杉景勝の国替のあとへ四十五万石(或は七十万石)の大封たいほうを受けて入ったが、上杉に陰で糸をかれて起った一揆いっきの為に大に手古摺てこずらされて困った不成績を示した男である。又氏郷は相縁あいえん奇縁というものであろう、秀吉に取っては主人筋である信長の婿でありながら秀吉には甚だ忠誠であり、縁者として前田又左衛門利家との大の仲好しであったが、家康とは余り交情の親しいことも無かったのであり、政宗はかえって家康と馬が合ったようであるから、此談もちと受取りかねるのである。
 今一ツの伝説は、秀吉が会津守護の人を選ぶに就いて諸将に入札をさせた。ところが札を開けて見ると、細川越中守というのが最も多かった。すると秀吉は笑って、おれが天下を取る筈だわ、ここは蒲生忠三郎で無くてはならぬところだ、と云って氏郷を任命したというのだ。おれが天下を取る筈だわ、という意は人々の識力眼力より遥に自分がまさって居るという例の自慢である。此話に拠ると、会津に蒲生氏郷を置こうというのは最初から秀吉の肚裏とりに定まって居たことで、入札はただ諸将の眼力を秀吉が試みたということになるので、そこがちといぶかしい。往復ハガキで下らない質問の回答を種々の形の瓢箪ひょうたん先生がたに求める雑誌屋の先祖のようなものに、千成瓢箪殿下が成下るところがいささ憫然びんぜんだ。いろいろの談の孰れが真実だか知らないが、要するに会津守護は当時の諸将の間の一問題で好談柄で有ったろうから、したがって種々の臆測談や私製任命や議論やの話が転伝して残ったのかも知れないと思わざるを得ぬ。
 何はあれ氏郷は会津守護を命ぜられた。ところが氏郷も一応は辞した。それでも是非頼むという訳だったろう、そこで氏郷は条件を付けることにした。今の人なら何か自分に有利な条件を提出して要求するところだが、此時分の人だから自己利益を本として釣鉤つりばり※(「金+幾」、第4水準2-91-39)かかりのようなイヤなものを出しはしなかった。ただ与えられた任務を立派に遂行し得るために其便宜を与えられることを許されるように、ということであった。それは奥州鎮護の大任を全うするに付けては剛勇の武士を手下に備えなければならぬ、就ては秀吉に対してかつて敵対行為を取って其忌諱きいに触れたために今にの大名にも召抱えられること無くて居る浪人共をも宥免ゆうめんあって、自分の旗の下に置くことを許容されたい、というのであった。まことに此の時代の事であるから、一能あるものでもかつて秀吉に鎗先やりさきを向けた者の浪人したのは、たとい召抱えたく思う者があっても関白への遠慮で召抱えかねたのであった。氏郷の申出は立派なものであった。秀吉たる者之を容れぬことの有ろう筈は無い。敵対又は勘当の者なりとも召抱扶持ふち等随意たるべきことという許しは与えられた。小田原の城中に居た佐久間久右衛門尉きゅうえもんのじょうは柴田勝家の甥であった。同じく其弟の源六は佐々さっさ成政の養子で、二人いづれも秀吉を撃取うちとりにかかった猛将佐久間玄蕃げんばの弟であったから、重々秀吉のにくしみは掛っていたのだ。此等の士は秀吉の敵たる者に扶持されぬ以上は、秀吉が威権を有して居る間は仮令たとい器量が有っても世の埋木うもれぎにならねばならぬ運命を負うて居たのだ。まだ其他にも斯様こういう者は沢山有ったのである。徳川家康に悪まれた水野三右衛門の如きも其一例だ。当時自己の臣下で自分に背いた不埒ふらちな奴に対して、何々という奴は当家に於て差赦さしゆるし難き者でござると言明すると、の家でも其者を召抱えない。し召抱える大名が有れば其大名と前の主人とは弓箭沙汰きゅうせんざたになるのである。これは不義背徳の者に対する一種の制裁の律法であったのである。そこで斯様いう埋木に終るべき者を取入れて召抱える権利を此機に乗じて秀吉から得たのは実に賢いことで、氏郷に取っては其大を成す所以ゆえんである。前に挙げた水野三右衛門の如きも徳川家から赦されて氏郷に属するに至り、佐久間久右衛門尉兄弟も氏郷に召抱えられ、其他同様の境界きょうがい沈淪ちんりんして居た者共は、自然関東へ流れ来て、秀吉に敵対行為を取った小田原方に居たから、小田原没落を機として氏郷の招いだのに応じて、所謂いわゆる戦場往来のおぼえの武士つわものが吸寄せられたのであった。
 氏郷が会津に封ぜられると同時に木村伊勢守の子の弥一右衛門は奥州の葛西大崎に封ぜられた。葛西大崎は今の仙台よりもなお奥の方であるが、政宗の手は既に其辺にまで伸びて居て、前年十一月に大崎の臣の湯山隆信という者を引込んで、内々大崎氏を図らしめて居たのである。秀吉が出て来さえしなければ、無論大崎氏葛西氏は政宗の麾下きかに立つを余儀なくされるに至ったのであろう。此の木村父子は小身でもあり、武勇も然程さほどでは無い者であったから、秀吉は氏郷に対して、木村をば子とも家来とも思って加護かばって遣れ、木村は氏郷を親ともしゅとも思って仰ぎ頼め、と命令し訓諭した。これは氏郷に取っては旅行に足弱をかずけられたようなもので、何事も無ければまだしも、何事か有った時には随分厄介な事で迷惑千万である。が、致方は無い、領承するよりほかは無かったが、果して此の木村父子から事起って氏郷は大変な目に会うに至って居るのである。

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