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鵞鳥(がちょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:28:14  点击:  切换到繁體中文


「一度もあやまちは無かった!」
「さればサ。功名こうみょう手柄てがらをあらわして賞美を得た話は折々あるが、失敗した談はかつて無い。」
 自分は今天覧の場合の失敗を恐れて骨をけずはらわたしぼる思をしているのである。それに何と昔からさような場合に一度のあやまちも無かったとは。
「ムーッ。」
と若崎は深い深い考に落ちた。心は光りの飛ぶごとくにあらゆる道理の中を駈巡かけめぐったが、何をとらえることも出来無かった。ただわずかに人の真心――まことというものの一切に超越ちょうえつして霊力れいりょくあるものということを思い得て、
「一心の誠というものは、それほどまでに強いものでしょうかナア。」
と真顔になって尋ねた。中村はニヤリと笑った。
「誠はもとよりたっとい。しかし準備もまた尊いよ。」
 若崎には解釈出来なかった。
りゅうなら竜、とらなら虎の木彫をする。殿様とのさま御前ごぜんに出て、のこぎり手斧ちょうなのみ、小刀を使ってだんだんとその形をきざいだす。次第に形がおよそ分明になって来る。その間には失敗は無い。たとい有ったにしても、何とでも作意を用いて、失敗のあとを無くすことが出来る。時刻が相応に移る。いかに物好な殿にせよ長くご覧になっておらるる間には退屈たいくつする。そこでうろこなら鱗、毛なら毛を彫って、同じような刀法を繰返くりかえす頃になって、殿にご休息をなさるよう申す。殿は一度お入りになってお茶など召させらるる。準備が尊いのはここで。かねて十分に作りおいたる竜なら竜、虎なら虎をそこに置き、前の彫りかけをかくしおく。殿ふたたびお出ましの時には、小刀を取って、危気あぶなげ無きところをずるように削り、小々しょうしょう刀屑かたなくずを出し、やがて成就のよしを申し、近々ご覧に入るるのだ。何の思わぬあやまちなどが出来よう。ハハハ。すりかえの謀計ぼうけいである。君の鋳物などは最後は水桶みずおけの中で型のどろを割って像を出すのである。準備さえ水桶の中に致しておけば、容易に至難しなんの作品でも現わすことが出来る。もとより同人の同作、いつわり、贋物がんぶつを現わすということでは無い。」
と低い声で細々こまごまと教えてくれた。若崎は唖然あぜんとして驚いた。徳川期にはなるほどすべてこういう調子の事が行われたのだなとさとって、今更ながら世の清濁せいだくの上に思をせて感悟かんごした。
「有難うございました。」
ふるえた細い声で感謝した。
 その夜若崎は、「もう失敗してもいない。おれは昔の怜悧者りこうものではない。おれは明治めいじの人間だ。明治の天子様は、たとえ若崎が今度失敗しても、畢竟ひっきょうみとめて下さることを疑わない」と、安心あんしん立命りつめいの一境地に立って心中に叫んだ。

     ○

 天皇てんのうは学校に臨幸りんこうあらせられた。予定のごとく若崎の芸術をご覧あった。最後に至って若崎の鵞鳥は桶の水の中から現われた。残念にも雄の鵞鳥の頸は熔金のまわりが悪くてれていた。若崎は拝伏はいふくして泣いた。供奉ぐぶ諸官、及び学校諸員はもとより若崎のあの夜の心のさけびを知ろうようは無かった。
 しかし、天恩洪大こうだいで、かえって芸術の奥には幽眇ゆうびょう不測なものがあることをご諒知りょうち下された。正直な若崎はその後しばしば大なるご用命を蒙り、その道における名誉めいよするを得た。

(昭和十四年十二月)




 



底本:「ちくま日本文学全集 幸田露伴」筑摩書房
   1992(平成4)年3月20日第1刷発行
底本の親本:「露伴全集」岩波書店
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2002年12月5日作成
2004年7月8日修正
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