生は
乃ち
周の
容刀。
生は乃ち
魯の
。
道
真なれば
器乃ち貴し、
爰ぞ
須ゐん 空言を用ゐるを。
孳々として 務めて
践形し、
負く
勿れ 七尺の身に。
敬義
以て
衣と
為し、
忠信 以て
冠と為し、
慈仁 以て
佩と為し、
廉知 以て
※[#「般/革」、UCS-97B6、374-5]と為し、
特り立つて 千古を
睨まば、
万象
昭らかにして
昏き無からむ。
此意 竟に
誰か知らん、
爾が
為に
言諄諄たり。
徒に
強聒ふと
謂ふ
勿れ、
一一
宜しく
紳に
書すべし。
孝孺後に至りて此詩を録して人に視すの時、書して曰く、前輩後学を勉めしむ、惓惓の意、特り文辞のみに在らず、望むらくは相与に之を勉めんと。臨海の林佑、葉見泰等、潜渓の詩に跋して、又各宋太史の期望に酬いんことを孝孺に求む。孝孺は果して潜渓に負かざりき。
孝孺の集は、其人天子の悪むところ、一世の諱むところとなりしを以て、当時絶滅に帰し、歿後六十年にして臨海の趙洪が梓に附せしより、復漸く世に伝わるを得たり。今遜志斎集を執って之を読むに、蜀王が所謂正学先生の精神面目奕々として儼存するを覚ゆ。其の幼儀雑箴二十首を読めば、坐、立、行、寝より、言、動、飲、食等に至る、皆道に違わざらんことを欲して、而して実践躬行底より徳を成さんとするの意、看取すべし。其雑銘を読めば、冠、帯、衣、より、※[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、376-1][#「※[#「竹かんむり/垂」、UCS-7BA0、376-1]」は底本では「※[#「竹かんむり/垂の一画目の下に横画一つ足した形」、376-1]」]、鞍、轡、車等に至る、各物一々に湯の日新の銘に則りて、語を下し文を為す、反省修養の意、看取すべし。雑誡三十八章、学箴九首、家人箴十五首、宗儀九首等を読めば、希直の学を為すや空言を排し、実践を尊み、体験心証して、而して聖賢の域に躋らんとするを看取すべし。明史に称す、孝孺は文芸を末視し、恒に王道を明らかにし太平を致すを以て己が任と為すと。(是鄭暁の方先生伝に本づく)真に然り、孝孺の志すところの遠大にして、願うところの真摯なる、人をして感奮せしむるものあり。雑誡の第四章に曰く、学術の微なるは、四蠹之を害すればなり。姦言を文り、近事をり、時勢を窺伺し、便に趨り隙に投じ、冨貴を以て、志と為す。此を利禄の蠹と謂う。耳剽し口衒し、色を詭り辞を淫にし、聖賢に非ずして、而も自立し、果敢大言して、以て人に高ぶり、而して理の是非を顧みず、是を名を務むるの蠹という。鉤して説を成し、上古に合するを務め、先儒を毀し、以謂らく我に及ぶ莫き也と、更に異議を為して、以て学者を惑わす。是を訓詁の蠹という。道徳の旨を知らず、雕飾綴緝して、以て新奇となし、歯を鉗し舌を刺して、以て簡古と為し、世に於て加益するところ無し。是を文辞の蠹という。四者交々作りて、聖人の学亡ぶ。必ずや諸を身に本づけ、諸を政教に見わし、以て物を成す可き者は、其れ惟聖人の学乎、聖道を去って而して循わず、而して惟蠹にこれ帰す。甚しい哉惑えるや、と。孝孺の此言に照せば、鄭暁の伝うるところ、実に虚しからざる也。四箴の序の中の語に曰く、天に合して人に合せず、道に同じゅうして時に同じゅうせずと。孝孺の此言に照せば、既に其の卓然として自立し、信ずるところあり安んずるところあり、潜渓先生が謂える所の、特り立って千古を睨み、万象昭して昏き無しの境に入れるを看るべし。又其の克畏の箴を読めば、あゝ皇いなる上帝、衷を人に降す、といえるより、其の方に昏きに当ってや、恬として宜しく然るべしと謂うも、中夜静かに思えば夫れ豈吾が天ならんや、廼ち奮って而して悲み、丞やかに前轍を改む、と云い、一念の微なるも、鬼神降監す、安しとする所に安んずる勿れ、嗜む所を嗜む勿れ、といい、表裏交々修めて、本末一致せんといえる如き、恰も神を奉ぜるの者の如き思想感情の漲流せるを見る。父克勤の、昼の為せるところ、夜は則ち天に白したるに合せ考うれば、孝孺が善良の父、方正の師、孔孟の正大純粋の教の徳光恵風に浸涵して、真に心胸の深処よりして道を体し徳を成すの人たらんことを願えるの人たるを看るべき也。
孝孺既に文芸を末視し、孔孟の学を為し、伊周の事に任ぜんとす。然れども其の文章亦おのずから佳、前人評して曰く、醇博朗[#「醇博朗」は底本では「醇※[#「厂+龍」、348-9]博朗」]、沛乎として余有り、勃乎として禦ぐ莫しと。又曰く、醇深雄邁と。其の一大文豪たる、世もとより定評あり、動かす可からざるなり。詩は蓋し其の心を用いるところにあらずと雖も、亦おのずから観る可し。其の王仲縉感懐の韻に次する詩の末に句あり、曰く
壮士 千載の心、
豈憂へんや 食と衣とを。
由来 海に浮ばんの志、
是れ 軒冕の姿にあらず。
人生 道を聞くを尚ぶ、
富貴 復奚為るものぞ。
賢にして有り 陋巷の楽、
聖にして有り 西山の饑。
頤を朶る 失ふところ多し、
苦節 未だ非とす可からず。
道衍は豪傑なり、孝孺は君子なり。逃虚子は歌って曰く、苦節貞くすべからずと。遜志斎は歌って曰く、苦節未だ非とす可からずと。逃虚子は吟じて曰く、伯夷量何ぞ隘きと。遜志斎は吟じて曰く、聖にして有り西山の饑と。孝孺又其の※陽[#ルビの「えいよう」は底本では「けいよう」][#「さんずい+「勞」の「力」に代えて「糸」」、UCS-7020、380-4]を過ぎるの詩の中の句に吟じて曰く、之に因って首陽を念う、西顧すれば清風生ずと。又乙丑中秋後二日兄に寄する詩の句に曰く、苦節伯夷を慕うと。人異なれば情異なり、情異なれば詩異なり。道衍は僧にして、籌又何ぞ数えんといいて、快楽主義者の如く、希直は俗にして、飲の箴に、酒の患たる、謹者をして荒み、荘者をして狂し、貴者をして賤しく、存者をして亡ばしむ、といい、酒巵の銘には、親を洽くし衆を和するも、恒に斯に於てし、禍を造り敗をおこすも、恒に斯に於てす、其悪に懲り、以て善に趨り、其儀を慎むを尚ぶ、といえり。逃虚子は仏を奉じて、而も順世外道の如く、遜志斎は儒を尊んで、而も浄行者の如し。嗚呼、何ぞ其の奇なるや。然も遜志斎も飲を解せざるにあらず。其の上巳南楼に登るの詩に曰く、
昔時 喜んで酒を飲み、
白を挙げて 深きを辞せざりき。
茲に
中歳に及んでよりこのかた、
已に
復 人の
斟むを
畏る。
後生 ゆるがせにする所多きも、
豈識らんや
老の
会臨するを。
志士は 景光を
惜む、
麓に登れば
已に
岑を知る。
毎に聞く
前世の事、
頗る見る 古人の心。
逝く者 まことに
息まず、
将来
誰か今に
嗣がむ。
百年
当に成る有るべし、
泯滅 寧ぞ
欽むに足らんや。
毎に
憐む
伯牙の
陋にして、
鍾 死して
其琴を破れるを。
自ら
得るあらば
苟に伝ふるに堪へむ、
何ぞ必ずしも
知音を求めんや。
俯しては
観る 水中の
※[#「※[#「條」の「木」に代えて「魚」、UCS-9BC8、382-9][#「條」の「木」に代えて「魚」、UCS-9BC8、382-9]」は底本では「
」]、
仰いでは
覩る
雲際の
禽。
真楽 吾 隠さず、
欣然として
煩襟を
豁うす。
前半は巵酒 歓楽、学業の荒廃を致さんことを嘆じ、後半は一転して、真楽の自得にありて外に待つ無きをいう。伯牙を陋として破琴を憐み、荘子を引きて不隠を挙ぐ。それ外より入る者は、中に主たる無し、門より入る者は家珍にあらず。白を挙げて楽となす、何ぞ是れ至楽ならん。
遜志斎の詩を逃虚子の詩に比するに、風格おのずから異にして、精神夐に殊なり。意気の俊邁なるに至っては、互に相遜らずと雖も、正学先生の詩は竟に是れ正学先生の詩にして、其の帰趣を考うるに、毎に正々堂々の大道に合せんことを欲し、絶えて欹側詭※[#「言+皮」、UCS-8A56、383-8]の言を為さず、放逸曠達の態無し。勉学の詩二十四章の如きは、蓋し壮時の作と雖も、其の本色なり。談詩五首の一に曰く、
世を挙って 皆宗とす 李杜の詩を。
知らず 李杜の 更に誰を宗とせるを。
能く 風雅 無窮の意を探らば、
始めて是れ 乾坤 絶妙の詞ならん。
第二に曰く、
道徳を 発揮して
乃ち文を成す、
枝葉 何ぞ
曾て
本根[#「本根」は底本では「木根」]を離れん。
末俗 工を競ふ
繁縟の
体、
千秋の精意
誰と
与に論ぜん。
是れ正学先生の詩に
於けるの
見なり。
華を
斥け
実を
尚び、雅を愛し
淫を
悪む。尋常一様
詩詞の人の、
綺麗自ら喜び、
藻絵自ら
衒い、
而して其の本旨正道を逸し邪路に
趨るを忘るゝが如きは、
希直の断じて取らざるところなり。希直の父
愚庵、師
潜渓の見も、
亦大略
是の如しと
雖も、希直の性の方正端厳を好むや、おのずから是の如くならざるを得ざるものあり、希直決して自ら欺かざる也。
孝孺の父は
洪武九年を以て
歿し、師は同十三年を以て歿す。洪武十五年
呉の
薦を以て太祖に
見ゆ。太祖
其の挙止端整なるを喜びて、皇孫に
謂って曰く、
此荘士、
当に
其才を老いしめて以て
汝を
輔けしめんと。
閲十年にして又
薦められて至る。太祖曰く、今孝孺を用いるの時に
非ずと。太祖が孝孺を
器重して、
而も挙用せざりしは何ぞ。後人こゝに
於て
慮を致すもの多し。
然れども
此は強いて解す
可からず。太祖が孝孺を愛重せしは、前後召見の
間に
於て、たま/\
仇家の
為に
累せられて孝孺の
闕下に
械送せられし時、太祖
其名を記し居たまいて
特に
釈されしことあるに徴しても明らかなり。孝孺の学徳
漸く高くして、太祖の第十一子
蜀王椿、孝孺を
聘して世子の
傅となし、尊ぶに
殊礼を
以てす。王の孝孺に
賜うの書に、余一日見ざれば三秋の如き有りの語あり。又王が孝孺を送るの詩に、士を
閲す
孔だ多し、我は希直を敬すの句あり。又其一章に
謙にして以て みづから牧し、
卑うして以て みづから持す。
雍容 儒雅、
鸞鳳の 儀あり。
とあり。又其の賜詩三首の一に
文章 金石を奏し、
衿佩 儀刑を覩る。
応に世々 三輔に遊ぶべし、
焉んぞ能く 一経に困せん。
の句あり。王の優遇知る可くして、孝孺の恩に答うるに道を以てせるも、亦知るべし。王孝孺の読書の廬に題して正学という。孝孺はみずから遜志斎という。人の正学先生というものは、実に蜀王の賜題に因るなり。
太祖崩じ、皇太孫立つに至って、廷臣交々孝孺を薦む。乃ち召されて翰林に入る。徳望素より隆んにして、一時の倚重するところとなり、政治より学問に及ぶまで、帝の咨詢を承くること殆ど間無く、翌二年文学博士となる。燕王兵を挙ぐるに及び、日に召されて謀議に参し、詔檄皆孝孺の手に出づ。三年より四年に至り、孝孺甚だ煎心焦慮すと雖も、身武臣にあらず、皇師数々屈して、燕兵遂に城下に到る。金川門守を失いて、帝みずから大内を焚きたもうに当り、孝孺伍雲等の為に執えられて獄に下さる。
燕王志を得て、今既に帝たり。素より孝孺の才を知り、又道衍の言を聴く。乃ち孝孺を赦して之を用いんと欲し、待つに不死を以てす。孝孺屈せず。よって之を獄に繋ぎ、孝孺の弟子廖廖銘をして、利害を以て説かしむ。二人は徳慶侯廖権の子なり。孝孺怒って曰く、汝等予に従って幾年の書を読み、還って義の何たるを知らざるやと。二人説く能わずして已む。帝猶孝孺を用いんと欲し、一日に諭を下すこと再三に及ぶ。然も終に従わず。帝即位の詔を草せんと欲す、衆臣皆孝孺を挙ぐ。乃ち召して獄より出でしむ。孝孺喪服して入り、慟哭して悲み、声殿陛に徹す。帝みずから榻を降りて労らいて曰く、先生労苦する勿れ。我周公の成王を輔けしに法らんと欲するのみと。孝孺曰く、成王いずくにか在ると。帝曰く、渠みずから焚死すと。孝孺曰く、成王即存せずんば、何ぞ成王の子を立てたまわざるやと。帝曰く、国は長君に頼る。孝孺曰く、何ぞ成王の弟を立てたまわざるや。帝曰く、これ朕が家事なり、先生はなはだ労苦する勿れと。左右をして筆札を授けしめて、おもむろに詔して曰く、天下に詔する、先生にあらずんば不可なりと。孝孺大に数字を批して、筆を地に擲って、又大哭し、且罵り且哭して曰く、死せんには即ち死せんのみ、詔は断じて草す可からずと。帝勃然として声を大にして曰く、汝いずくんぞ能く遽に死するを得んや、たとえ死するとも、独り九族を顧みざるやと。孝孺いよ/\奮って曰く、すなわち十族なるも我を奈何にせんやと、声甚だし。帝もと雄傑剛猛なり、是に於て大に怒って、刀を以て孝孺の口を抉らしめて、復之を獄に錮す。
孝孺の宋潜渓に知らるゝや、蓋し其の釈統三篇と後正統論とを以てす。四篇の文、雄大にして荘厳、其大旨、義理の正に拠って、情勢の帰を斥け、王道を尚び、覇略を卑み、天下を全有して、海内に号令する者と雖も、其道に於てせざる者は、目して、正統の君主とすべからずとするに在り。秦や隋や王※[#「くさかんむり/奔」、UCS-83BE、390-3]や、晋宋・斉梁や、則天や符堅や、此皆これをして天下を有せしむる数百年に踰ゆと雖も、正統とす可からずと為す。孝孺の言に曰く、君たるに貴ぶ所の者は、豈其の天下を有するを謂わんやと。又曰く、天下を有して而も正統に比す可からざる者三、簒臣也、賊后也、夷狄也と。孝孺篇後に書して曰く、予が此文を為りてより、未だ嘗て出して以て人に示さず。人の此言を聞く者、咸予を笑して以て狂と為し、或は陰に之を詆詬す。其の然りと謂う者は、独り予が師太史公と、金華の胡公翰とのみと、夫れ正統変統の論、もとより史の為にして発すと雖も、君たるに貴ぶ所の者は豈其の天下を有するを謂わんやと為す。是の如きの論を為せるの後二十余年にして、一朝簒奪の君に面し、其の天下に誥ぐるの詔を草せんことを逼らる。嗚呼、運命遭逢も亦奇なりというべし。孝孺又嘗て筆の銘を為る。曰く、
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