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運命(うんめい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-4 9:19:37  点击:  切换到繁體中文



 史をあんじて兵馬の事を記す、筆墨もまたみたり。燕王えんおう事を挙げてより四年、ついその志を得たり。天意か、人望か、すうか、いきおいか、将又はたまた理のまさしかるべきものあるか。鄒公すうこうきん十八人、殿前におい李景隆りけいりゅうってほとんど死せしむるに至りしも、また益無きのみ。帝、金川門きんせんもんまもりを失いしを知りて、天を仰いで長吁ちょうくし、東西に走りまどいて、自殺せんとしたもう。明史みんし恭閔恵きょうびんけい皇帝紀に記す、宮中火起り、帝終る所を知らずと。皇后馬氏ばしは火に赴いて死したもう。丙寅へいいん、諸王及び文武の臣、燕王に位にかんことを請う。燕王辞すること再三、諸王羣臣ぐんしん頓首とんしゅして固く請う。王つい奉天殿ほうてんでんいたりて、皇帝の位に即く。
 これより先建文けんぶん中、道士ありて、みちに歌っていわく、

えんなかれ、
燕を逐ふ莫れ。
燕を逐へば、日に高く飛び、
高く飛びで、帝畿ていきのぼらん。


 ここに至りて人その言の応を知りぬ。燕王今はていたり、宮人内侍ないじなじりて、建文帝の所在を問いたもうに、皆皇后の死したまえるところを指してこたう。すなわかばね※(「火+畏」、第3水準1-87-57)燼中かいじんちゅうより出して、これこくし、翰林侍読かんりんじどく王景おうけいを召して、葬礼まさに如何いかんすべき、と問いたもう。景こたえて曰く、天子の礼を以てしたもうべしと。之に従う。
 建文帝の皇考おんちち興宗孝康こうそうこうこう皇帝の廟号びょうごうを去り、もとおくりなりて、懿文いぶん皇太子と号し、建文帝の弟呉王ごおう允※いんとう[#「火+通」、UCS-71A5、339-9]くだして広沢王こうたくおうとし、衛王えいおう允※いんけん[#「火+堅」、UCS-719E、339-9]懐恩王かいおんおうとなし、除王じょおう※(「熈」の「ノ」に代えて「冫」、第3水準1-87-58)いんき敷恵王ふけいおうとなし、ついまた庶人しょじんししが、諸王のちそのを得ず。建文帝の少子しょうし中都ちゅうと広安宮こうあんきゅうに幽せられしが、のち終るところを知らず。


 魏国公ぎこくこう徐輝祖じょきそ、獄に下さるれども屈せず、諸武臣皆帰附すれども、輝祖始終しじゅう帝をいただくの意無し。帝おおいに怒れども、元勲国舅こくきゅうたるを以てちゅうするあたわず、爵を削って之を私第していに幽するのみ。輝祖は開国の大功臣たる中山王ちゅうさんおう徐達じょたつの子にして、雄毅ゆうき誠実、父たつの風骨あり。斉眉山せいびざんたたかいおおいに燕兵を破り、前後数戦、つねに良将の名をはずかしめず。その姉はすなわち燕王のにして、其弟増寿ぞうじゅ京師けいしに在りて常に燕のために国情をいたせるも、輝祖独り毅然きぜんとして正しきにる。端厳の性格、敬虔けいけんの行為、良将とのみわんや、有道の君子というべきなり。
 兵部尚書へいぶしょうしょ鉄鉉てつげんとらえられてけいに至る。廷中に背立して、帝にむかわず、正言して屈せず、遂に寸磔すんたくせらる。死に至りてなおののしるをもって、※(「金+護のつくり」、第3水準1-93-41)たいかく油熬ゆうごうせらるゝに至る。参軍断事さんぐんだんじ高巍こうぎ、かつて曰く、忠に死し孝に死するは、臣のねがいなりと。京城けいじょう破れて、駅舎に縊死いしす。礼部尚書れいぶしょうしょ陳廸ちんてき刑部けいぶ尚書暴昭ぼうしょう礼部侍郎れいぶじろう黄観こうかん蘇州そしゅう知府ちふ姚善ようぜん翰林かんりん修譚しゅうたん王叔英おうしゅくえい翰林かんりん王艮おうごん淅江せっこう按察使あんさつし王良おうりょう兵部郎中へいぶろうちゅう譚冀たんき御史ぎょし曾鳳韶そうほうしょう谷府長史こくふちょうし※(「王+景」、第3水準1-88-27)りゅうけい、其他数十百人、あるいは屈せずして殺され、或は自死じしして義を全くす。斉泰せいたい黄子澄こうしちょう、皆とらえられ、屈せずして死す。右副都御史ゆうふくとぎょし練子寧れんしねいばくされてけつに至る。語不遜ふそんなり。帝おおいに怒って、命じてその舌をらしめ、曰く、われ周公しゅうこう成王せいおうたすくるにならわんと欲するのみと。子寧しねい手をもて舌血ぜっけつを探り、地上に、成王せいおう安在いずくにあるの四字を大書たいしょす。帝ますます怒りて之を磔殺たくさつし、宗族そうぞく棄市きしせらるゝ者、一百五十一人なり。左僉都御史させんとぎょし景清けいせいいつわりて帰附し、つねに利剣を衣中に伏せて、帝に報いんとす。八月望日、清緋衣ひいして入る。これより先に霊台れいだい奏す、文曲星ぶんきょくせい帝座を犯す急にして色赤しと。ここおいて清の独り緋をるを見て之を疑う。ちょうおわる。せい奮躍してを犯さんとす。帝左右に命じて之を収めしむ。剣を得たり。せい志のぐべからざるを知り、植立しょくりつして大にののしる。衆その歯をけっす。かつ抉せられてかつ罵り、血を含んでただち御袍ぎょほう※(「口+饌のつくり」、第4水準2-4-37)く。すなわち命じてその皮をぎ、長安門ちょうあんもんつなぎ、骨肉を砕磔さいたくす。清帝の夢に入って剣を執って追いて御座をめぐる。帝めて、清の族をせききょうせきす。村里もきょとなるに至る。
 戸部侍郎こぶじろう卓敬たくけいとらえらる。帝曰く、なんじ前日諸王を裁抑さいよくす、今また我に臣たらざらんかと。敬曰く、先帝し敬が言にりたまわば、殿下あにここに至るを得たまわんやと。帝怒りて之を殺さんと欲す。しかその才をあわれみて獄につなぎ、ふうするに管仲かんちゅう魏徴ぎちょうの事をもってす。帝のこころ、敬を用いんとするなり。敬たゞ涕泣ていきゅうしてかず。帝なお殺すに忍びず。道衍どうえんもうす、とらを養うはうれいのこすのみと。帝の意ついに決す。敬刑せらるゝに臨みて、従容しょうようとして嘆じて曰く、変宗親そうしんに起り、略経画けいかく無し、敬死して余罪ありと。神色自若じじゃくたり。死して経宿けいしゅくして、おもてなお生けるがごとし。三族をちゅうし、その家を没するに、家たゞ図書数巻のみ。卓敬と道衍と、もとよりげきありしといえども、帝をして方孝孺ほうこうじゅを殺さゞらしめんとしたりし道衍にして、帝をして敬を殺さしめんとす。敬の実用の才ありて浮文ふぶんの人にあらざるをるべし。建文のはじめに当りて、燕を憂うるの諸臣、おのおの意見を立て奏疏そうそたてまつる。中について敬の言最も実に切なり。敬の言にして用いらるれば、燕王けだし志を得ざるのみ。万暦ばんれきに至りて、御史ぎょし屠叔方としゅくほう奏して敬の墓を表しを立つ。敬の著すところ、卓氏たくし遺書五十巻、予いまだ目をぐうせずといえども、管仲かんちゅう魏徴ぎちょうの事を以てふうせられしの人、其の書必ずきあらん。


 卓敬たくけいるゝあたわざりしも、方孝孺ほうこうじゅを殺すなかれといし道衍どうえん如何いかんの人ぞや。びょうたる一山僧の身をもって、燕王えんおうを勧めて簒奪さんだつあえてせしめ、定策決機ていさくけっき、皆みずから当り、しん天命を知る、なんぞ民意を問わん、というの豪懐ごうかいもって、天下を鼓動し簸盪ひとうし、億兆を鳥飛ちょうひ獣奔じゅうほんせしめてはばからず、功成って少師しょうしと呼ばれて名いわれざるに及んで、しかも蓄髪を命ぜらるれどもがえんぜず、邸第ていだいを賜い、宮人きゅうじんを賜われども、辞して皆受けず、冠帯してちょうすれども、退けばすなわ緇衣しい香烟茶味こうえんちゃみ、淡然として生を終り、栄国公えいこくこうおくられ、そうを賜わり、天子をしてずから神道碑しんどうひを製するに至らしむ。又一異人いじんというべし。魔王のごとく、道人どうじんの如く、策士の如く、詩客しかくの如く、実に※(「王+共」、第3水準1-87-92)えんこう[#「袁※(「王+共」、第3水準1-87-92)」は底本では「袁洪」]所謂いわゆる異僧なり。の詠ずるところの雑詩の一にいわく、

志士は 苦節を守る、
達人は 玄言げんげんとどこおらんや。
苦節は かたくすからず、
玄言 あにしからんや。
いづるとると もとよりさだまり有り、
語るも黙するも 縁無きにあらず。
伯夷はくい りょう なんせまき、

宣尼せんじ 智 何ぞえんなる。
所以ゆえに いにしえ の君子、
めいに安んずるを すなわち賢とす。


 苦節はかたくすからずの一句、えき爻辞こうじの節の上六しょうりくに、苦節、かたくすれば凶なり、とあるにもとづくといえども、口気おのずからこれ道衍の一家言なり。いわんや易の貞凶ていきょうの貞は、貞固ていこの貞にあらずして、貞※ていかい[#「毎+卜」、345-6]の貞とするの説無きにあらざるをや。伯夷量何ぞせまきというに至っては、古賢の言にると雖も、せいせいなる者に対して、忌憚きたん無きもまたはなはだしというべし。擬古ぎこの詩の一に曰く、

良辰りょうしん ひ難きをおもひて、
えんを開き 綺戸きこに当る。
会す 我が 同門の友、
言笑 一に何ぞあじわい[#「月+無」、UCS-81B4、346-2]ある。
素絃そげん きよきしらべおこし、
余響よきょう 樽爼そんそめぐる。
緩舞かんぶ 呉姫ごき で、
軽謳けいおう 越女えつじょ きたる。
ただねがふ かく※酔へんすい[#「てへん+弃」、346-7]せんことを、
※(「角+光」、第3水準1-91-91)さかずきのかず なんあえて数へむ。
流年 はやく[#「犬/(犬+犬)」、UCS-730B、346-9]はしるを嘆く、
力有るもたれか得てとどめむ。
人生 すべからく歓楽すべし、
とこしえに辛苦せしむるなかれ。


 擬古の詩、もとよりただち抒情じょじょうの作とすからずといえども、これくろきて香をく仏門の人の吟ならんや。北固山ほっこざんを経てせる懐古の詩というもの、今存するの詩集に見えずと雖も、僧※(「さんずい+こざとへん+力」、第4水準2-78-33)そうろく一読して、これあに釈子しゃくしの語ならんや、といしという。北固山はそう韓世忠かんせいちゅう兵を伏せて、おおいきん兀朮ごつじゅつを破るのところたり。其詩またおもう可きなり劉文りゅうぶん貞公ていこうの墓を詠ずるの詩は、ただちに自己の胸臆きょうおく※(「てへん+慮」、第4水準2-13-58)ぶ。文貞はすなわ秉忠へいちゅうにして、※(「王+共」、第3水準1-87-92)えんこう[#「袁※(「王+共」、第3水準1-87-92)」は底本では「袁洪」]の評せしが如く、道衍のえんけるは、秉忠のげんに於けるが如く、其のはじめの僧たる、其の世に立って功を成せる、皆あいたり。けだし道衍の秉忠に於けるは、岳飛がくひ関張かんちょうひとしからんとし、諸葛亮しょかつりょうが管楽に擬したるが如く、思慕してしこうして倣模ほうもせるところありしなるべし。詩に曰く、

良驥りょうき 色 ぐんに同じく、
至人 あと 俗に混ず。
知己ちき いやしくはざれば、
終世 うらうら[#「讀+言」、UCS-8B9F、348-2]まず。
偉なるかな 蔵春公ぞうしゅんこうや、
箪瓢たんぴょう 巌谷がんこくたのしむ。
一朝 風雲 会す。
君臣 おのづから心腹しんぷくなり。
大業 はかりごと すでに成りて、
勲名 簡牘かんとくに照る。
退しりぞいて すなわち長往し、
川流れて 去つてかえること無し。
住城じゅうじょう 百年ののち
鬱々うつうつたり 盧溝ろこうの北。
まつひさぎ 烟靄えんあい 青く、
翁仲いしのまもりびと ※(「くさかんむり/靡」、第4水準2-87-21)かおりぐさ 緑なり。
強梁あばれものも あえて犯さず、
何人なんぴとか 敢てきこりうまかいせん。
王侯の 墓累々るいるいたるも、
はいすること 草宿わずかのまをも待たず。
ただこう 民望みんぼうり、
天地と 傾覆けいふくを同じうす。
このひと おこからず、
再拝して またこくす。


 蔵春は秉忠へいちゅうの号なり。盧溝は燕の城南に在り。この劉文貞に傾倒することはなはだ明らかに、其の高風大業を挙げ、しこうして再拝一哭いっこくすというに至る。性情行径こうけいあいちかし、俳徊はいかい感慨、まことにあたわざるものありしならん。又別に、春日しゅんじつ劉太保りゅうたいほの墓に謁するの七律しちりつあり。まことに思慕の切なるを証すというべし。東游とうゆうせんとして郷中きょうちゅう諸友しょゆうに別るゝの長詩に、

うまれて 四方しほうの志あり、
たのしまず 郷井きょうせいうちを。
茫乎ぼうこたる 宇宙の内、
飄転ひょうてんして 秋蓬しゅうほうの如し。
たれか云ふ さしはさむ所無しと、
耿々こうこうたるもの わが胸に存す。
うお※(「さんずい+樂」、第4水準2-79-40)いけとどまるをすに忍びんや、
とりかごとらはるゝをすをがえんぜんや。
三たび登ると 九たびいたると、
古徳ことくともに同じうせんと欲す。
去年は 淮楚わいそかくたりき、
今はかんとす 浙水せっすいの東。
身をそばだてゝ 雲衢くものちまたに入る、
一錫ひとつのつえ 游龍うごけるりゅうの如し。
かさく 霏々ひひの霧、
は払ふ ※(「風にょう+叟」、第4水準2-92-38)そうそうの風。


の句あり。身をそばだてゝの句、颯爽さっそうよろこし。そのすえに、

江天こうてん 正に秋清く、
山水 またすがたを改む。
沙鳥はまじのとりは けむりきわに白く、
嶼葉しまのこのはは 霜の前にくれないなり。


といえるごとき、常套じょうとうの語なれども、また愛すし。古徳と同じゅうせんと欲するは、にして、淮楚わいそ浙東せっとうに往来せるも、修行のためなりしや游覧ゆうらんの為なりしや知る可からず。しかれども詩情もまたおおき人たりしは疑う可からず。詩においては陶淵明とうえんめいし、笠沢りゅうたく舟中しゅうちゅう陶詩とうしを読むの作あり、うちに淵明を学べる者を評して、

応物おうぶつおもむき すこぶるがっし、
子瞻しせんは 才 当るに足る。


の二士を挙げ、その模倣者もほうしゃを、

里婦りふ 西せいひそみならふ、
わらふ可し しゅういよいよ張る。


と冷笑し、又公暇こうか王維おうい孟浩然もうこうぜん韋応物いおうぶつ柳子厚りゅうしこうの詩を読みて、四を賛する詩をせる如き、其の好む所の主とするところありて泛濫へんらんならざるを示せり。当時の詩人に於ては、高啓こうけいを重んじ、交情また親しきものありしは、高季迪こうきてきにこたえたてまつる高編脩こうへんしゅうによす高啓生一レこうけいのこをうめるをがす高啓鍾山寓舎詩見一レこうけいをしょうざんぐうしゃにといしをおくらるるをかたじけなくす雪夜読高啓詩せつやこうけいのしをよむ等の詩に徴して知るべく、この老の詩眼暗からざるを見る。逃虚集とうきょしゅう十巻、続集一巻、詩精妙というにあらずといえども、時に逸気あり。今其集について交友を考うるに、※(「王+共」、第3水準1-87-92)えんこう[#「袁※(「王+共」、第3水準1-87-92)」は底本では「韋※(「王+共」、第3水準1-87-92)」]張天師ちょうてんしとは、最も親熟しんじゅくするところなるが如く、贈遺ぞういじゅうはなはすくなからず。※(「王+共」、第3水準1-87-92)こうと道衍とはもとよりたがいに知己たり。道衍又かつて道士席応真せきおうしんを師として陰陽術数いんようじゅっすうの学を受く。って道家のを知り、仙趣の微に通ず。詩集巻七まきのしちに、席道士せきどうしをべんすとあるもの、疑うらくは応真、[#ルビの「も」は底本では「もし」]しくは応真の族をいためるならん。張天師は道家の棟梁とうりょうたり、道衍の張を重んぜるもあやしむに足る無きなり。故友に於ては最も王達善おうたつぜんしたしむ。故に其の王助教達善おうじょきょうたつぜんによすの長詩の前半、自己の感慨行蔵こうぞうじょしてまず、道衍自伝としてる可し。詩に曰く、

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