年は新になりて建文二年となりぬ。燕は洪武三十三年と称す。燕王は正月の酷寒に乗じて、蔚州を下し、大同を攻む。景隆師を出して之を救わんとすれば、燕王は速く居庸関より入りて北平に還り、景隆の軍、寒苦に悩み、奔命に疲れて、戦わずして自ら敗る。二月、韃靼の兵来りて燕を助く。蓋し春暖に至れば景隆の来り戦わんことを慮りて、燕王の請えるなり。春闌にして、南軍勢を生じぬ。四月朔、景隆兵を徳州に会す、郭英、呉傑は真定に進みぬ。帝は巍国公徐輝祖をして、京軍三万を帥いて疾馳して軍に会せしむ。景隆、郭英、呉傑等、軍六十万を合し、百万と号して白溝河に次す。南軍の将平安驍勇にして、嘗て燕王に従いて塞北に戦い、王の兵を用いるの虚実を識る。先鋒となりて燕に当り、矛を揮いて前む。瞿能父子も亦踴躍して戦う。二将の向う所、燕兵披靡す。夜、燕王、張玉を中軍に、朱能を左軍に、陳亨を右軍に、丘福を騎兵に将とし、馬歩十余万、黎明に畢く河を渡る。南軍の瞿能父子、平安等、房寛の陣を擣いて之を破る。張玉等之を見て懼色あり。王曰く、勝負は常事のみ、日中を過ぎずして必ず諸君の為に敵を破らんと。既ち精鋭数千を麾いて敵の左翼に突入す。王の子高煦、張玉等の軍を率いて斉しく進む。両軍相争い、一進一退す、喊声天に震い 飛矢雨の如し。王の馬、三たび創を被り、三たび之を易う。王善く射る。射るところの箭、三箙皆尽く。乃ち剣を提げて、衆に先だちて敵に入り、左右奮撃す。剣鋒折れ欠けて、撃つに堪えざるに至る。瞿能と相遇う。幾んど能の為に及ばる。王急に走りてに登り、佯って鞭を麾いで、後継者を招くが如くして纔に免れ、而して復衆を率いて馳せて入る。平安善く鎗刀を用い、向う所敵無し。燕将陳亨、安の為に斬られ、徐忠亦創を被る。高煦急を見、精騎数千を帥い、前んで王と合せんとす。瞿能また猛襲し、大呼して曰く、燕を滅せんと。たま/\旋風突発して、南軍の大将の大旗を折る。南軍の将卒相視て驚き動く。王これに乗じ、勁騎を以て繞って其後に出で、突入馳撃し、高煦の騎兵と合し、瞿能父子を乱軍の裏に殺す。平安は朱能と戦って亦敗る。南将兪通淵、勝聚等皆死す。燕兵勢に乗じて営に逼り火を縦つ。急風火を扇る。是に於て南軍大に潰え、郭英等は西に奔り、景隆は南に奔る。器械輜重、皆燕の獲るところとなり、南兵の横尸百余里に及ぶ。所在の南師、聞く者皆解体す。此戦、軍を全くして退く者、徐輝祖あるのみ。瞿能、平安等、驍将無きにあらずと雖も、景隆凡器にして将材にあらず。燕王父子、天縦の豪雄に加うるに、張玉、朱能、丘福等の勇烈を以てす。北軍の克ち、南軍の潰ゆる、まことに所以ある也。
山東参政鉄鉉は儒生より身を起し、嘗て疑獄を断じて太祖の知を受け、鼎石という字を賜わりたる者なり。北征の師の出づるや、餉を督して景隆の軍に赴かんとしけるに、景隆の師潰えて、諸州の城堡皆風を望みて燕に下るに会い、臨邑に次りたるに、参軍高巍の南帰するに遇いたり。偕に是れ文臣なりと雖も、今武事の日に当り、目前に官軍の大に敗れて、賊威の熾んに張るを見る、感憤何ぞ極まらん。巍は燕王に書を上りしも効無かりしを歎ずれば、鉉は忠臣の節に死する少きを憤る。慨世の哭、憂国の涙、二人相持して、然として泣きしが、乃ち酒を酌みて同に盟い、死を以て自ら誓い、済南に趨りてこれを守りぬ。景隆は奔りて済南に依りぬ。燕王は勝に乗じて諸将を進ましめぬ。燕兵の済南に至るに及びて、景隆尚十余万の兵を有せしが、一戦に復敗られて、単騎走り去りぬ。燕師の勢愈旺んにして城を屠らんとす。鉄鉉、左都督盛庸、右都督陳暉等と力を尽して捍ぎ、志を堅うして守り、日を経れど屈せず。事聞えて、鉉を山東布政司使と為し、盛庸を大将軍と為し、陳暉を副将軍に陞す。景隆は召還されしが、黄子澄、練子寧は之を誅せずんば何を以て宗社に謝し将士を励まさんと云いしも、帝卒に問いたまわず。燕王は済南を囲むこと三月に至り、遂に下すこと能わず。乃ち城外の諸渓の水を堰きて灌ぎ、一城の士を魚とせんとす。城中是に於て大に安んぜず。鉉曰く、懼るゝ勿れ、吾に計ありと。千人を遣りて詐りて降らしめ、燕王を迎えて城に入らしめ、予て壮士を城上に伏せて、王の入るを侯いて大鉄板を墜して之を撃ち、又別に伏を設けて橋を断たしめんとす。燕王計に陥り、馬に乗じ蓋を張り、橋を渡り城に入る。大鉄板驟に下る。たゞ少しく早きに失して、王の馬首を傷つく。王驚きて馬を易えて馳せて出づ。橋を断たんとす。橋甚だ堅し。未だ断つに及ばずして、王竟に逸し去る。燕王幾んど死して幸に逃る。天助あるものゝ如し。王大に怒り、巨※[#「石+駁」、UCS-791F、316-5]を以て城を撃たしむ 城壁破れんとす。鉉愈屈せず、太祖高皇帝の神牌を書して城上に懸けしむ。燕王敢て撃たしむる能わず。鉉又数々不意に出でゝ壮士をして燕兵を脅かさしむ。燕王憤ること甚しけれども、計の出づるところ無し。道衍書を馳せて曰く、師老いたり、請う暫らく北平に還りて後挙を図りたまえと。王囲を撤して還る。鉉と盛庸等と勢に乗じて之を追い、遂に徳州を回復し、官軍大に振う。鉉是に於て擢でられて兵部尚書となり、盛庸は歴城侯となりたり。
盛庸は初め耿炳文に従い、次で李景隆に従いしが、洪武中より武官たりしを以て、兵馬の事に習う。済南の防禦、徳州の回復に、其の材を認められて、平燕将軍となり、陳暉、平安、馬溥、徐真等の上に立ち、呉傑、徐凱等と与に燕を伐つの任に当りぬ。庸乃ち呉傑、平安をして西の方定州を守らしめ、徐凱をして東の方滄州に屯せしめ、自ら徳州に駐まり、猗角の勢を為して漸く燕を蹙めんとす。燕王、徳州の城の、修築已に完く、防備も亦厳にして破り難く、滄州の城の潰え※[#「土へん+己」、UCS-572E、317-6]るゝ[#「※[#「土へん+己」、UCS-572E、317-6]るゝ」は底本では「※[#「土へん+已」、317-6]るゝ」]こと久しくして破り易きを思い、之を下して庸の勢を殺がんと欲す。乃ち陽に遼東を征するを令して、徐凱をして備えざらしめ、天津より直沽に至り、俄に河に沿いて南下するを令す。軍士猶知らず、其の東を征せんとして而して南するを疑う。王厳命して疾行すること三百里、途に偵騎に遇えば、尽く之を殺し、一昼夜にして暁に比びて滄州に至る。凱の燕師の到れるを覚りし時には、北卒四面より急攻す。滄州の衆皆驚きて防ぐ能わず。張玉の肉薄して登るに及び、城遂に抜かれ、凱と程暹、兪、趙滸等皆獲らる。これ実に此年十月なり。
十二月、燕王河に循いて南す。盛庸兵を出して後を襲いしが及ばざりき。王遂に臨清に至り、館陶に屯し、次で大名府を掠め、転じて上に至り、済寧を掠めぬ。盛庸と鉄鉉とは兵を率いて其後を躡み、東昌に営したり。此時北軍却って南に在り南軍却って北に在り。北軍南軍相戦わざるを得ざるの勢成りて東昌の激戦は遂に開かれぬ。初は官軍の先鋒孫霖、燕将朱栄、劉江の為に敗れて走りしが、両軍持重して、主力動かざること十日を越ゆ。燕師いよ/\東昌に至るに及んで、盛庸、鉄鉉牛を宰して将士を犒い、義を唱え衆を励まし、東昌の府城を背にして陣し、密に火器毒弩を列ねて、粛として敵を待ったり。燕兵もと勇にして毎戦毎勝す。庸の軍を見るや鼓譟して薄る。火器電の如くに発し、毒弩雨の如く注げば、虎狼鴟梟、皆傷ついて倒る。又平安の兵の至るに会う。庸是に於て兵を麾いて大に戦う。燕王精騎を率いて左翼を衝く。左翼動かずして入る能わず。転じて中堅を衝く。庸陣を開いて王の入るに縦せ、急に閉じて厚く之を囲む。燕王衝撃甚だ力むれども出づることを得ず、殆んど其の獲るところとならんとす。朱能、周長等、王の急を見、韃靼騎兵を縦って庸の軍の東北角を撃つ。庸之を禦がしめ、囲やゝ緩む。能衝いて入って死戦して王を翼けて出づ。張玉も亦王を救わんとし、王の已に出でたるを知らず、庸の陣に突入し、縦横奮撃し、遂に悪闘して死す。官軍勝に乗じ、残獲万余人、燕軍大に敗れて奔る。庸兵を縦って之を追い、殺傷甚だ多し。此役や、燕王数々危し、諸将帝の詔を奉ずるを以て、刃を加えず。燕王も亦之を知る。王騎射尤も精し、追う者王を斬るを敢てせずして、王の射て殺すところとなる多し。適々高煦、華衆等を率いて至り、追兵を撃退して去る。
燕王張玉の死を聞きて痛哭し、諸将と語るごとに、東昌の事に及べば、曰く、張玉を失うより、吾今に至って寝食安からずと。涕下りて已まず。諸将も皆泣く。後功臣を賞するに及びて、張玉を第一とし、河間王を追封す。
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